「え、お隣、の……?」
すらっと背が高くてちょっと猫背。メタルフレームの丸眼鏡。そして天パなのか髪は割ともしゃもしゃしている。どこにでも溢れていそうな見た目で、個性的な特徴はないけれど、私は目の前の人に見覚えがある。それは朝家を出た瞬間だったり、帰りのエレベーターの中だったり、あるいはゴミの日のゴミ捨て場だったり。何より一人暮らしを始めた時にお隣さんに挨拶に行ったからこの人を私は知っている。確か名前は――。
「すみません。こんにちは、とかこんばんはじゃなくてちゃんと会話するのはお引っ越しされてきた時に挨拶して下さって以来ですね。隣人の山田です」人参さん、もとい山田さんは気まずそうに頬を掻いている。
「え? なんで? え?」完全に私はパニック状態に陥っていた。
「順を追ってちゃんと説明するので公園に向かいましょうか。あ、荷物持ちますね」そう言って私が持つトートバッグを横からさらうようにして持ってくれる。結構な重量になってしまったのでずっと持っていると手が痛かったのだが、途端に軽くなって驚いた。
山田さんと肩を並べて歩いているこの状況が不思議で、だけど人参さんが山田さんなのだとしたら嫌な気持ちは全然ないからこれまた不思議だ。頭の中を疑問符だらけにした私と平然としていそうに見える山田さんは目的地まで一言も口を開くことなくもくもくと歩いた。
公園でレジャーシートを広げ、ふかふかの芝生の感触を確かめながら座ると、水筒に入れてきたお茶を私へと渡してくれたのを疑うことなく口にしようとすると、山田さんは「泉さん、無武備過ぎませんか」と困ったように眉を下げた。
「へ?」
「得体の知れない男から渡された飲み物を素直に飲もうとするなんて危険ですよ」
「人参さんは得体の知れない男性なんかじゃありません!」
「今、人参呼びはちょっと照れます」
「ご自分でつけたんじゃないですか」
「それはそうなんですけど」難しい顔をしたかと思ったら、恥ずかしくなったのか照れたように両手で顔を覆って下を向き始めた。やっぱり山田さんが人参さんなんだ。
「いつからですか?」私は疑問を口にした。「いつから私がマッチングアプリの『泉』だって気付いてたんですか?」つい責めるような口調になってしまった。
それにやっぱり怒られていると勘違いした山田さんはまたしゅんと下を向いてしまった。
「あ、ごめんなさい。怒っている訳じゃないんです。ただ、本当にびっくりしてて。こんな偶然あるのかな? って」
「僕もひっくり返るかと思うくらい驚きました。気付いたのは先月の終わりの不燃ゴミの日です。あの日、泉さんスマホ持ったままゴミ捨て場に来ましたよね。夜で暗かったのでスマホ画面が反射して見えてしまったんです。その、僕の水割りの投稿。で、泉って名前でぴんときて、もしかしてこれはって思いました。で、直接確かめるしかないと思って今日のお誘いをしました」
確かに私は前回の不燃ゴミの日スマホ片手にゴミ出しをしたし、その時マッチングアプリを開いて過去の人参さんの投稿が面白くて見返していた。それに、その時山田さんとすれ違って挨拶をした。偶然と偶然が重なり合うととんでもない真実になることもある。
「そう、だったんですね」驚き過ぎて尻すぼみな返事になってしまう。
「あの、僕が嫌とか気持ち悪いとか思われたなら、僕あのアプリ退会するし、引っ越しはすぐには出来ないけどなるべく泉さんと接触しないように気を付けるんで」何を思ったのか山田さんは突飛なことを言い出した。
「なんでそうなるんですか」
「え、僕のこと引いてるんじゃなですか?」
「引いてません。むしろ惹かれてるんです! 私は人参さんに好感を持っているんです!」勢いに任せて告白まがいのことをしてしまった。きっと私の顔は真っ赤だ。だけど、私の言葉を聞いてみるみるうちに茹で蛸のようになった山田さんよりはマシだろう。
「あの、お弁当食べませんか? 私早起きして頑張ったんです」
「ありがとうございます。いただきます。それと、僕も好感しかないですよ」
暖かな春風が私達を包むように吹いた。何かが始まる予感がした。
* * *
お腹を蹴る動きで意識が戻ってきた。「あ、今お腹蹴った」そう口に出すと、「え? 僕も触っていい?」と顔をぱあっと輝かせて夫になった人参さん、もとい、山田さん、もとい朔は問うてくる。
「うん」そう笑顔で返せばそっと手のひらを子供を宿した私のお腹へと当ててくる。
「元気で産まれてくるんだよ」もうすぐ父になる朔は既に子煩悩なのか優しい笑みを絶やさない。出会ってからずっと穏やかだ。
「子供の名前、朔に考えてもらうの不安になってきた」
「なんで?」心底疑問だ、という顔と声で聞き返してくるので「だって朔、ハンドルネームに『人参』なんてつける宇宙人だし」と言えば、「泉だってまんま『泉』だったよね。僕のこと言えないよ」
「それもそうか」
そう言って顔を見合わせて二人で幸せを噛みしめていた。
(了)
すらっと背が高くてちょっと猫背。メタルフレームの丸眼鏡。そして天パなのか髪は割ともしゃもしゃしている。どこにでも溢れていそうな見た目で、個性的な特徴はないけれど、私は目の前の人に見覚えがある。それは朝家を出た瞬間だったり、帰りのエレベーターの中だったり、あるいはゴミの日のゴミ捨て場だったり。何より一人暮らしを始めた時にお隣さんに挨拶に行ったからこの人を私は知っている。確か名前は――。
「すみません。こんにちは、とかこんばんはじゃなくてちゃんと会話するのはお引っ越しされてきた時に挨拶して下さって以来ですね。隣人の山田です」人参さん、もとい山田さんは気まずそうに頬を掻いている。
「え? なんで? え?」完全に私はパニック状態に陥っていた。
「順を追ってちゃんと説明するので公園に向かいましょうか。あ、荷物持ちますね」そう言って私が持つトートバッグを横からさらうようにして持ってくれる。結構な重量になってしまったのでずっと持っていると手が痛かったのだが、途端に軽くなって驚いた。
山田さんと肩を並べて歩いているこの状況が不思議で、だけど人参さんが山田さんなのだとしたら嫌な気持ちは全然ないからこれまた不思議だ。頭の中を疑問符だらけにした私と平然としていそうに見える山田さんは目的地まで一言も口を開くことなくもくもくと歩いた。
公園でレジャーシートを広げ、ふかふかの芝生の感触を確かめながら座ると、水筒に入れてきたお茶を私へと渡してくれたのを疑うことなく口にしようとすると、山田さんは「泉さん、無武備過ぎませんか」と困ったように眉を下げた。
「へ?」
「得体の知れない男から渡された飲み物を素直に飲もうとするなんて危険ですよ」
「人参さんは得体の知れない男性なんかじゃありません!」
「今、人参呼びはちょっと照れます」
「ご自分でつけたんじゃないですか」
「それはそうなんですけど」難しい顔をしたかと思ったら、恥ずかしくなったのか照れたように両手で顔を覆って下を向き始めた。やっぱり山田さんが人参さんなんだ。
「いつからですか?」私は疑問を口にした。「いつから私がマッチングアプリの『泉』だって気付いてたんですか?」つい責めるような口調になってしまった。
それにやっぱり怒られていると勘違いした山田さんはまたしゅんと下を向いてしまった。
「あ、ごめんなさい。怒っている訳じゃないんです。ただ、本当にびっくりしてて。こんな偶然あるのかな? って」
「僕もひっくり返るかと思うくらい驚きました。気付いたのは先月の終わりの不燃ゴミの日です。あの日、泉さんスマホ持ったままゴミ捨て場に来ましたよね。夜で暗かったのでスマホ画面が反射して見えてしまったんです。その、僕の水割りの投稿。で、泉って名前でぴんときて、もしかしてこれはって思いました。で、直接確かめるしかないと思って今日のお誘いをしました」
確かに私は前回の不燃ゴミの日スマホ片手にゴミ出しをしたし、その時マッチングアプリを開いて過去の人参さんの投稿が面白くて見返していた。それに、その時山田さんとすれ違って挨拶をした。偶然と偶然が重なり合うととんでもない真実になることもある。
「そう、だったんですね」驚き過ぎて尻すぼみな返事になってしまう。
「あの、僕が嫌とか気持ち悪いとか思われたなら、僕あのアプリ退会するし、引っ越しはすぐには出来ないけどなるべく泉さんと接触しないように気を付けるんで」何を思ったのか山田さんは突飛なことを言い出した。
「なんでそうなるんですか」
「え、僕のこと引いてるんじゃなですか?」
「引いてません。むしろ惹かれてるんです! 私は人参さんに好感を持っているんです!」勢いに任せて告白まがいのことをしてしまった。きっと私の顔は真っ赤だ。だけど、私の言葉を聞いてみるみるうちに茹で蛸のようになった山田さんよりはマシだろう。
「あの、お弁当食べませんか? 私早起きして頑張ったんです」
「ありがとうございます。いただきます。それと、僕も好感しかないですよ」
暖かな春風が私達を包むように吹いた。何かが始まる予感がした。
* * *
お腹を蹴る動きで意識が戻ってきた。「あ、今お腹蹴った」そう口に出すと、「え? 僕も触っていい?」と顔をぱあっと輝かせて夫になった人参さん、もとい、山田さん、もとい朔は問うてくる。
「うん」そう笑顔で返せばそっと手のひらを子供を宿した私のお腹へと当ててくる。
「元気で産まれてくるんだよ」もうすぐ父になる朔は既に子煩悩なのか優しい笑みを絶やさない。出会ってからずっと穏やかだ。
「子供の名前、朔に考えてもらうの不安になってきた」
「なんで?」心底疑問だ、という顔と声で聞き返してくるので「だって朔、ハンドルネームに『人参』なんてつける宇宙人だし」と言えば、「泉だってまんま『泉』だったよね。僕のこと言えないよ」
「それもそうか」
そう言って顔を見合わせて二人で幸せを噛みしめていた。
(了)


