何それ?
情報をよく読み込んでいくと、そのアプリはSNSとマッチングアプリを混ぜ合わせたようなもので、さっき見かけた独身証明書が必要だったり細かな嗜好や希望を入力して登録するものとは違うみたいだ。「これなら始められるかな?」自然とそう思えた。緩く始めてみて合わなかったら簡単に退会出来るみたいだし。登録ボタンを押す時、何故だか不思議と体全体に力が入ったけれど、えいっと勇気を出して私は人見知り限定マッチングアプリに登録してみた。ハンドルネームは何となく本名のまま「泉」。女性で登録したので女の子がアイコンになっている。SNSのようで色んな人が投稿していて、それに反応したり、気になった投稿をした人のアイコンをタップすればその人と個別でやり取りが出来る仕組みになっているようだ。思っていたより簡単に交流が出来そうな雰囲気にほっと胸をなで下ろし、投稿を眺めていく。人見知りを自称する人が集まるだけあって、アプリ全体的に和やかな会話が行われているようだ。スクロールを続けていくと、モーセの十戒として有名な海を割り陸を作る画像を貼り付けてその下に「水割り」と書いて投稿している男の子のアイコン、つまり男性を見つけた。水割り? 遅れてくすくすと笑いが込み上げてきて、この意味不明なくだらなさが何だかツボでどんな人が投稿したのか気になった。投稿主は「人参」。え、人参? なんで? 当然ハンドルネームだろうけど、人参が特別大好きなのかな。色々な疑問と興味が人参さんに湧いてきて、「この人と話してみたら楽しいかもしれない」と思い、私は導かれるように人参さんにメッセージを送っていた。
『こんにちは、水割り面白いですね』素っ気ないメッセージだったかな? と送信してから少し後悔したけれど、一分も待たないうちにスマホが震えた。人参さんからの返信だった。
『こんにちは。ありがとうございます! そう言って頂けて嬉しいです。初めて面白いって言ってもらえました』疑問文で返ってこなかったことで返事をどうしようか少し迷ったけれど、人参さんも人見知りだから仕方ないと思えた。疑問文で返ってこない時は私が質問を送る形にしようと自分なりに決めた。
* * *
決めたことを実践していたら、意外と会話が続いて人参さんのことを色々知ることが出来た。年齢は私の二歳上で三十歳。エンジニアのお仕事をしている。中高と男子校に通い、大学も理系の学部で女の子と接する機会はほとんどなかったそうだ。そして人参は、食べるのはそこまでだけれど育てることが好きらしい。人参を育てている、と最初に聞いた時は農業でもされているのかと思ったけれど、違った。家庭菜園で楽しんでいるようだ。人参さんが少し変わっているのは間違いないだろうけれどそこがまたツボだし、私も人参さんも割とマメな性格だからかお互い苦痛にならない程度でだけれど結構な頻度でメッセージをやり取りするようになっていた。朝起きておはよう、今日も仕事頑張ろう。お昼休みに、午後からもう一踏ん張りだね。仕事が終わって家に帰ったらお疲れ様。毎日似たようなやり取りだけど、何気ない日常を共有出来る穏やかさが人参さんの文面からはにじみ出ていた。
『こんばんは、泉さんがオススメして下さった本僕も買ってみました。読むの楽しみです』
『お! ネタバレしましょうか?』
『絶対やめて下さい! 楽しみだって言ってるでしょう?』
こういった軽口や冗談もやり取りの中だと出来るようになっていた。文字だけで人を好きになれるものかなって疑問はあるけれど、私が人参さんに好感を持っているのは間違いないと思う。
* * *
ある日、私は仕事でミスをしてひどく落ち込んでいた。私がもっとしっかりしていたら未然に防げたものだったと思う。家に帰ってからもどんよりとした気持ちを引き摺ったままで、もう一歩も動きたくない。一歩も動く気力が湧かない、とスーツのままベッドの隅で小さく三角座りをしていた。夕食の時間はとっくに過ぎていたけれど、ちっともお腹が空かなくて、一食くらい抜いても構わないかな、と更に体を縮こませていた。そんな時、スマホにピコンと通知音が鳴った。人参さんからのメッセージだ。
『泉さん、こんばんは。今日は今年初のたけのこを食べました。泉さんは晩ご飯何でしたか?』たけのこいいなぁ、人参さんは前好き嫌いがないって言っていたから、たけのこも美味しく食べたんだろうな。人参さんのことを考えると不思議と気持ちが落ち着いた。そして、私は人参さんの前では嘘はつきたくなかった。顔が見えないアプリで出会ったからこそ、誠実に、そして正直でありたかったのだ。
『今日は食欲がなくて、まだ食べられていません。ちょっと仕事でミスをしてしまって』苦笑いの顔のスタンプを付けて送信した。するとすぐに既読がついて返信がきた。
『泉さん。桜のソメイヨシノは全ての木が同じ遺伝子を持つクローンだってご存じですか?』夕食の話をしていたはうなのに、何故桜? と思ったけれど、人参さんが突拍子のないことを言っても何だか人参さんの個性に思えてしまうから不思議だ。そして、ちょうど今見頃の桜が全部クローンだなんて話は初めて聞いたので単純に話題にも興味を持った。
『え! 初めて知りました。日本全国で咲く桜が同じ遺伝子を持っているなんて面白いですね』今度は笑顔のスタンプを付けた。
『桜には自家不和合性という性質があって自分自身の花粉とは受精出来ないんです』
『へぇ。じゃあ、どうやってソメイヨシノはあんなに増えたんですかね?』
『さっき言ったようにソメイヨシノは同じ遺伝子を持つクローンなのでソメイヨシノ同士の自然交配では子孫を残せません。自力では増えることがないんです。人間の手を借りないと増えることはないんですよ。手間が掛かると思いますか? けどこんなに綺麗に咲き誇る桜を見られるなら、いくらだって手を貸したいと思ってしまいそうですよね』そうして人参さんから満開の桜の画像が送られてきた。綺麗。人間の手を借りないと増えない桜。それは、もう少し周りの手を借りても良いんじゃないですか? という彼からの遠回しなメッセージが込められている気がした。そう思いたいという私の願望が強いかもしれないけれどきっと違う。だって人参さんだもの。ずっとぴんと張っていた気が緩むと同時にお腹がぐうと鳴った。嗚呼、私、人参さんが好きだな。
* * *
『泉さん、僕と直接会うのが嫌じゃなかったら、お互い好きな本を持ち寄ってピクニックしませんか?』
そんな控えめな文面が人参さんから届いたのはゴールデンウィーク目前の四月末のことだった。ピクニック? とは思ったけれど、人参さんも私もあまりお酒が得意ではないことを今までのやり取りでお互い知っていたし、かしこまったディナーも初対面だと緊張するだろう。それらを踏まえて、ひねり出してのピクニックという提案が人参さんらしい、面白くて可愛くてちょっと変わっている。けど、素直に嬉しいと思った。人参さんにやっと会えることも、色々考えて私を誘ってくれたことも。
『もちろん嫌じゃないですよ。楽しみです』そう返事した私は緊張しながらも気分がとても高揚していた。
そして人参さんと初めて会う日。私は簡単なお弁当が入ったトートバッグを持って大きな公園のある駅に着いて待っていた。レジャーシートは人参さんが持って来てくれるらしい。地べたに座ってもいいようにジーンズに春らしい明るい色のトップスを合わせ、メイクはナチュラルだけれど普段より丁寧にしたし、軽く髪も巻いてみた。けど、どうだろう。気合い入れすぎたかな。もう一回だけ手鏡でチェックしようかな、そわそわ緊張しながら手荷物をごそごそとしていると、「泉さんですか?」という低い男性の声がした。
「はいっ」そう言って顔を上げた私が見たのは――。
情報をよく読み込んでいくと、そのアプリはSNSとマッチングアプリを混ぜ合わせたようなもので、さっき見かけた独身証明書が必要だったり細かな嗜好や希望を入力して登録するものとは違うみたいだ。「これなら始められるかな?」自然とそう思えた。緩く始めてみて合わなかったら簡単に退会出来るみたいだし。登録ボタンを押す時、何故だか不思議と体全体に力が入ったけれど、えいっと勇気を出して私は人見知り限定マッチングアプリに登録してみた。ハンドルネームは何となく本名のまま「泉」。女性で登録したので女の子がアイコンになっている。SNSのようで色んな人が投稿していて、それに反応したり、気になった投稿をした人のアイコンをタップすればその人と個別でやり取りが出来る仕組みになっているようだ。思っていたより簡単に交流が出来そうな雰囲気にほっと胸をなで下ろし、投稿を眺めていく。人見知りを自称する人が集まるだけあって、アプリ全体的に和やかな会話が行われているようだ。スクロールを続けていくと、モーセの十戒として有名な海を割り陸を作る画像を貼り付けてその下に「水割り」と書いて投稿している男の子のアイコン、つまり男性を見つけた。水割り? 遅れてくすくすと笑いが込み上げてきて、この意味不明なくだらなさが何だかツボでどんな人が投稿したのか気になった。投稿主は「人参」。え、人参? なんで? 当然ハンドルネームだろうけど、人参が特別大好きなのかな。色々な疑問と興味が人参さんに湧いてきて、「この人と話してみたら楽しいかもしれない」と思い、私は導かれるように人参さんにメッセージを送っていた。
『こんにちは、水割り面白いですね』素っ気ないメッセージだったかな? と送信してから少し後悔したけれど、一分も待たないうちにスマホが震えた。人参さんからの返信だった。
『こんにちは。ありがとうございます! そう言って頂けて嬉しいです。初めて面白いって言ってもらえました』疑問文で返ってこなかったことで返事をどうしようか少し迷ったけれど、人参さんも人見知りだから仕方ないと思えた。疑問文で返ってこない時は私が質問を送る形にしようと自分なりに決めた。
* * *
決めたことを実践していたら、意外と会話が続いて人参さんのことを色々知ることが出来た。年齢は私の二歳上で三十歳。エンジニアのお仕事をしている。中高と男子校に通い、大学も理系の学部で女の子と接する機会はほとんどなかったそうだ。そして人参は、食べるのはそこまでだけれど育てることが好きらしい。人参を育てている、と最初に聞いた時は農業でもされているのかと思ったけれど、違った。家庭菜園で楽しんでいるようだ。人参さんが少し変わっているのは間違いないだろうけれどそこがまたツボだし、私も人参さんも割とマメな性格だからかお互い苦痛にならない程度でだけれど結構な頻度でメッセージをやり取りするようになっていた。朝起きておはよう、今日も仕事頑張ろう。お昼休みに、午後からもう一踏ん張りだね。仕事が終わって家に帰ったらお疲れ様。毎日似たようなやり取りだけど、何気ない日常を共有出来る穏やかさが人参さんの文面からはにじみ出ていた。
『こんばんは、泉さんがオススメして下さった本僕も買ってみました。読むの楽しみです』
『お! ネタバレしましょうか?』
『絶対やめて下さい! 楽しみだって言ってるでしょう?』
こういった軽口や冗談もやり取りの中だと出来るようになっていた。文字だけで人を好きになれるものかなって疑問はあるけれど、私が人参さんに好感を持っているのは間違いないと思う。
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ある日、私は仕事でミスをしてひどく落ち込んでいた。私がもっとしっかりしていたら未然に防げたものだったと思う。家に帰ってからもどんよりとした気持ちを引き摺ったままで、もう一歩も動きたくない。一歩も動く気力が湧かない、とスーツのままベッドの隅で小さく三角座りをしていた。夕食の時間はとっくに過ぎていたけれど、ちっともお腹が空かなくて、一食くらい抜いても構わないかな、と更に体を縮こませていた。そんな時、スマホにピコンと通知音が鳴った。人参さんからのメッセージだ。
『泉さん、こんばんは。今日は今年初のたけのこを食べました。泉さんは晩ご飯何でしたか?』たけのこいいなぁ、人参さんは前好き嫌いがないって言っていたから、たけのこも美味しく食べたんだろうな。人参さんのことを考えると不思議と気持ちが落ち着いた。そして、私は人参さんの前では嘘はつきたくなかった。顔が見えないアプリで出会ったからこそ、誠実に、そして正直でありたかったのだ。
『今日は食欲がなくて、まだ食べられていません。ちょっと仕事でミスをしてしまって』苦笑いの顔のスタンプを付けて送信した。するとすぐに既読がついて返信がきた。
『泉さん。桜のソメイヨシノは全ての木が同じ遺伝子を持つクローンだってご存じですか?』夕食の話をしていたはうなのに、何故桜? と思ったけれど、人参さんが突拍子のないことを言っても何だか人参さんの個性に思えてしまうから不思議だ。そして、ちょうど今見頃の桜が全部クローンだなんて話は初めて聞いたので単純に話題にも興味を持った。
『え! 初めて知りました。日本全国で咲く桜が同じ遺伝子を持っているなんて面白いですね』今度は笑顔のスタンプを付けた。
『桜には自家不和合性という性質があって自分自身の花粉とは受精出来ないんです』
『へぇ。じゃあ、どうやってソメイヨシノはあんなに増えたんですかね?』
『さっき言ったようにソメイヨシノは同じ遺伝子を持つクローンなのでソメイヨシノ同士の自然交配では子孫を残せません。自力では増えることがないんです。人間の手を借りないと増えることはないんですよ。手間が掛かると思いますか? けどこんなに綺麗に咲き誇る桜を見られるなら、いくらだって手を貸したいと思ってしまいそうですよね』そうして人参さんから満開の桜の画像が送られてきた。綺麗。人間の手を借りないと増えない桜。それは、もう少し周りの手を借りても良いんじゃないですか? という彼からの遠回しなメッセージが込められている気がした。そう思いたいという私の願望が強いかもしれないけれどきっと違う。だって人参さんだもの。ずっとぴんと張っていた気が緩むと同時にお腹がぐうと鳴った。嗚呼、私、人参さんが好きだな。
* * *
『泉さん、僕と直接会うのが嫌じゃなかったら、お互い好きな本を持ち寄ってピクニックしませんか?』
そんな控えめな文面が人参さんから届いたのはゴールデンウィーク目前の四月末のことだった。ピクニック? とは思ったけれど、人参さんも私もあまりお酒が得意ではないことを今までのやり取りでお互い知っていたし、かしこまったディナーも初対面だと緊張するだろう。それらを踏まえて、ひねり出してのピクニックという提案が人参さんらしい、面白くて可愛くてちょっと変わっている。けど、素直に嬉しいと思った。人参さんにやっと会えることも、色々考えて私を誘ってくれたことも。
『もちろん嫌じゃないですよ。楽しみです』そう返事した私は緊張しながらも気分がとても高揚していた。
そして人参さんと初めて会う日。私は簡単なお弁当が入ったトートバッグを持って大きな公園のある駅に着いて待っていた。レジャーシートは人参さんが持って来てくれるらしい。地べたに座ってもいいようにジーンズに春らしい明るい色のトップスを合わせ、メイクはナチュラルだけれど普段より丁寧にしたし、軽く髪も巻いてみた。けど、どうだろう。気合い入れすぎたかな。もう一回だけ手鏡でチェックしようかな、そわそわ緊張しながら手荷物をごそごそとしていると、「泉さんですか?」という低い男性の声がした。
「はいっ」そう言って顔を上げた私が見たのは――。


