趣味の悪い机の上に、二万円がぽつんと置かれていた。
仰向けに天井を見上げる。照明の光は、やけに遠く淡く見えた。
手のひらを重ね、静脈の走る感触を確かめる。
「ネイル可愛いからいっか・・・」
無音の部屋で、その言葉は音もなく途切れた。
「ふぃ~さっぱりさっぱり。よかった連絡先交換しといて。来月も大変そうならまた頼むよ」
中年男性の声が遠方で響いていた。
「ありがとうございます。」
そう言いながら、口角だけをわずかに上げた。鏡の中で何度も見たことのある、空っぽな笑み。
自分の声がひどく他人のものに聞こえた。違和感は胸の奥で、ゆっくりと腐っていく気がした。そんな自分が、底の方から嫌になった。
「君って何て名前でこういう活動やってるの?」
その言葉が、水面に投げられた小石みたいに心に沈んでいく。
表面は波ひとつ立たず、底の泥だけが濁っていく。
「ハルって言います。」
本名だった。
もう隠す気力も、演じる余裕もなかった。いや、もう、どうでもよかった。
名前くらい、本当のものを渡しても。どうせ私なんて誰の記憶にも残らない。
「へぇ、センスあるね。ピンクの服にあってていいじゃん。」
男の声が、薄く笑うように響いた。男はホテルのレンタルからコスプレ衣装を選んだ。
幼いころ憧れていた魔法少女の服。あの頃の私が今の私を見たらどう思うだろう。
そんな在り来たりな思考を、夢と現実の狭間に捨てた。
男の笑い声が消えたあと、安い香水の匂いだけが部屋に残り、ゆっくりと心の底へ落ちていった。
遠い昔の傷口に、静かに沁み込むように。
男は顎ひげを剃っていた。洗面台の端を伝う水滴が、白い陶器の上に落ちて弾けた。
その軌跡を目で追った瞬間、胸の奥にかすかな熱が走った。
刃の冷たさだけが、世界とつながる感覚だった。肌の奥で、ゆっくりと温もりが広がっていく。
痛みではなく、静かな安堵に近いもの。
鏡の中の私は、ほとんど変わっていない。表面だけが乾いて、内側は、ゆるやかに滲んでいた。
「……あれ?」
世界が、また壊れた。
男の皮膚が、沈黙の中で張り詰めた。
内側から圧がこみ上げ、肉が膨らみきった瞬間、皮膚は静かに裂けた。温い飛沫が散り、空気がわずかに揺れた。
現実の膜が、ひと筋だけ軋む音を立てた。
目の前には、形を失った男と宙に浮かぶ光の裂け目があった。
宙に裂けた光は、痛みの形をしていた。
それなのに、美しいと思った。救いの欠片みたいに、そこだけが静かに輝いている。私は、何かを思い出すように手を伸ばした。
指先に冷たい膜の感触が触れた。光は、私の形を知っていたように、掌の中に収まった。
光を掴んだ瞬間、光が視界を白く包んだ。
眩しさが薄れたとき、そこには一本の杖があった。
透明で、脆くて、子供のころ夢中で見ていたアニメの小道具に似ていた。
安っぽくて、きらきらして、確かに憧れていたもの。私が捨ててきたもの。取り戻したかったもの。
ほんの少しだけ、救われた気がした。
けれど、その静けさの奥には微かな歪みがあった。
目の前にいるのは、この世のものではない。
記憶の底にこびりついて離れなかった、異形─────
男の中から現れた“それ”は、形を持たぬまま、私の方へと滑るように近づいた。
空気が裂け、次の瞬間には重い衝撃だけが身体を支配した。
宙を舞う感覚。
ガラスの破片に反射する光が、ゆっくりと眼前を横切る。
考える間もなく、地面が私を受け止めた。骨が、どこかで音もなく悲鳴を上げる。
壊れたように痛かった。肺に空気が入らず、世界が薄く霞んでいく。
それでも視界の端に、あの“異形”がいた。
まるで何事もなかったかのように、再び私へと歩み寄ってくる。
手の先に、杖が転がっていた。
6階から落ちたはずなのに、生きている。その理由が杖にあるような気がした。
私は、這うようにしてそれへ手を伸ばす。助けを乞う。というより、もう一度“生きる感触”に触れたかった。
異形は容赦がなかった。何度も、何度も、私を打ち据える。
地面の冷たさと、皮膚の内側で暴れる熱とが混ざり合い、どちらが現実なのか、もう分からない。
母の声が、遠くで響いた気がした。
お願い、殴らないで──
化け物の顔に、母の輪郭を見てしまった瞬間、胸の奥がひどく疼いた。
大きな音が、世界を震わせた。片腕が宙を舞い、闇に溶けた。
その腕には、私が“生きていた”という痕跡が、細く、いくつも刻まれていた。
世界が、私を拒んでいる。それでも、心の底から熱がこみ上げた。
私は──まだ、生きたい。
残った腕で杖を引き寄せた。理由も、原理も、どうでもよかった。
杖は私を知っているように、掌にすっと馴染んだ。
その瞬間、杖は私の記憶に形を変えた。透明な刃を宿した、巨大な剃刀。
空気が震え、世界が脈動する。
私はそれを振り下ろした。異形が裂け、光が走る。
その眩しさの中で、私の意識はゆっくりと遠ざかっていった。
仰向けに天井を見上げる。照明の光は、やけに遠く淡く見えた。
手のひらを重ね、静脈の走る感触を確かめる。
「ネイル可愛いからいっか・・・」
無音の部屋で、その言葉は音もなく途切れた。
「ふぃ~さっぱりさっぱり。よかった連絡先交換しといて。来月も大変そうならまた頼むよ」
中年男性の声が遠方で響いていた。
「ありがとうございます。」
そう言いながら、口角だけをわずかに上げた。鏡の中で何度も見たことのある、空っぽな笑み。
自分の声がひどく他人のものに聞こえた。違和感は胸の奥で、ゆっくりと腐っていく気がした。そんな自分が、底の方から嫌になった。
「君って何て名前でこういう活動やってるの?」
その言葉が、水面に投げられた小石みたいに心に沈んでいく。
表面は波ひとつ立たず、底の泥だけが濁っていく。
「ハルって言います。」
本名だった。
もう隠す気力も、演じる余裕もなかった。いや、もう、どうでもよかった。
名前くらい、本当のものを渡しても。どうせ私なんて誰の記憶にも残らない。
「へぇ、センスあるね。ピンクの服にあってていいじゃん。」
男の声が、薄く笑うように響いた。男はホテルのレンタルからコスプレ衣装を選んだ。
幼いころ憧れていた魔法少女の服。あの頃の私が今の私を見たらどう思うだろう。
そんな在り来たりな思考を、夢と現実の狭間に捨てた。
男の笑い声が消えたあと、安い香水の匂いだけが部屋に残り、ゆっくりと心の底へ落ちていった。
遠い昔の傷口に、静かに沁み込むように。
男は顎ひげを剃っていた。洗面台の端を伝う水滴が、白い陶器の上に落ちて弾けた。
その軌跡を目で追った瞬間、胸の奥にかすかな熱が走った。
刃の冷たさだけが、世界とつながる感覚だった。肌の奥で、ゆっくりと温もりが広がっていく。
痛みではなく、静かな安堵に近いもの。
鏡の中の私は、ほとんど変わっていない。表面だけが乾いて、内側は、ゆるやかに滲んでいた。
「……あれ?」
世界が、また壊れた。
男の皮膚が、沈黙の中で張り詰めた。
内側から圧がこみ上げ、肉が膨らみきった瞬間、皮膚は静かに裂けた。温い飛沫が散り、空気がわずかに揺れた。
現実の膜が、ひと筋だけ軋む音を立てた。
目の前には、形を失った男と宙に浮かぶ光の裂け目があった。
宙に裂けた光は、痛みの形をしていた。
それなのに、美しいと思った。救いの欠片みたいに、そこだけが静かに輝いている。私は、何かを思い出すように手を伸ばした。
指先に冷たい膜の感触が触れた。光は、私の形を知っていたように、掌の中に収まった。
光を掴んだ瞬間、光が視界を白く包んだ。
眩しさが薄れたとき、そこには一本の杖があった。
透明で、脆くて、子供のころ夢中で見ていたアニメの小道具に似ていた。
安っぽくて、きらきらして、確かに憧れていたもの。私が捨ててきたもの。取り戻したかったもの。
ほんの少しだけ、救われた気がした。
けれど、その静けさの奥には微かな歪みがあった。
目の前にいるのは、この世のものではない。
記憶の底にこびりついて離れなかった、異形─────
男の中から現れた“それ”は、形を持たぬまま、私の方へと滑るように近づいた。
空気が裂け、次の瞬間には重い衝撃だけが身体を支配した。
宙を舞う感覚。
ガラスの破片に反射する光が、ゆっくりと眼前を横切る。
考える間もなく、地面が私を受け止めた。骨が、どこかで音もなく悲鳴を上げる。
壊れたように痛かった。肺に空気が入らず、世界が薄く霞んでいく。
それでも視界の端に、あの“異形”がいた。
まるで何事もなかったかのように、再び私へと歩み寄ってくる。
手の先に、杖が転がっていた。
6階から落ちたはずなのに、生きている。その理由が杖にあるような気がした。
私は、這うようにしてそれへ手を伸ばす。助けを乞う。というより、もう一度“生きる感触”に触れたかった。
異形は容赦がなかった。何度も、何度も、私を打ち据える。
地面の冷たさと、皮膚の内側で暴れる熱とが混ざり合い、どちらが現実なのか、もう分からない。
母の声が、遠くで響いた気がした。
お願い、殴らないで──
化け物の顔に、母の輪郭を見てしまった瞬間、胸の奥がひどく疼いた。
大きな音が、世界を震わせた。片腕が宙を舞い、闇に溶けた。
その腕には、私が“生きていた”という痕跡が、細く、いくつも刻まれていた。
世界が、私を拒んでいる。それでも、心の底から熱がこみ上げた。
私は──まだ、生きたい。
残った腕で杖を引き寄せた。理由も、原理も、どうでもよかった。
杖は私を知っているように、掌にすっと馴染んだ。
その瞬間、杖は私の記憶に形を変えた。透明な刃を宿した、巨大な剃刀。
空気が震え、世界が脈動する。
私はそれを振り下ろした。異形が裂け、光が走る。
その眩しさの中で、私の意識はゆっくりと遠ざかっていった。
