「ごめ~ん遅れて!待った?」
凍りついた時間の上を、軽い声が滑っていった。
私のたった一人の友人の声が聞こえた瞬間、世界は色を取り戻した。
金髪のツイン縦ロールを揺らし、派手なロリータドレスを纏った彼女は、まるでこの街の灰色を拒むように眩しかった。
「全然待ってないよ!私も遅れてたから。いこ!」
嘘をつくのは簡単だった。むしろ、嘘をつくことでしか生きられなかった。
本当は三十分以上待っていた。
本当は彼女が来なければどうしようと不安で押し潰されそうだった。
けれど、それを言葉にした瞬間、この軽やかな現実が壊れてしまう気がした。
彼女の笑顔の中で、自分の弱さを曝け出すことができなかった。
だから私は笑った。
それが、世界と私を繋ぐための最後の儀式みたいに思えた。
彼女の声は軽いのに、隣を歩く足取りだけが妙に重かった。
愛美とは学生時代からの友人だった。いつも一緒にいる、二人で行動するタイプの友人同士─────私たちはそういう関係だった。
八方美人で、多趣味で、行動力があり、いつも自分から私を誘ってくれた。
私の心の中の唯一の明かりのように見えた。けれど、その明かりはいつも不安定だった。
こまめに連絡しないとすぐに機嫌を悪くする。
一度怒れば、何もかもが変わってしまう。
彼女の左腕にはまだ二週間前の痣がまだ残っている。
屋上の風は、真夏なのに冷たかった。彼女が手すりに足をかけた瞬間、私は反射的にその腕を掴んだ。
その皮膚の下で、彼女の鼓動が暴れていた。
あの時、もし手を離していたら─────
いや、もし一緒に静かな場所へ行っていたら─────
世界はもう少し、優しかったのだろうか。
二人は手をつないで雑多な街を歩く。
ネオンの光が肌に反射して、まるで生きていることを確かめる儀式みたいだった。
彼女の手は温かい。それでも、あの屋上の風の冷たさは、まだ指先に残っている。
「最初ちょっと見たい服あるからそこよってもいい?」
彼女の声音は軽やかだった。
「どんなの?」
私もその明るい声色に倣って語尾を上げ返した。
所謂、量産型の服を着ている私は自分をその可愛さに委ねていた。
唯一、有名どころではないブランドの服を選んでいることだけが、ささやかな自己証明だった。
「えっとね~こんな感じの!」
スマートフォンの画面に映る服を見て、私は精一杯の明るさで反応した。
街の光に私は上手く溶け込めているだろうか。
「え!めっちゃ可愛いね!絶対似合う~!」
本当にそう思った。彼女は何を着ても似合う。
「ね!めっちゃ可愛いよね~サイズ合うかなぁ~」
彼女の屈託のない笑顔を見ていると、その瞬間だけは、世界がやさしく見えた。
けれど、そのやさしさがどれほど脆いものかを、私たちは知っていた。
二人は風に背中を押されるように、光の方へと足を速めた。
店に飾られたロリータファッションは眩しくて、私にはない全てそこにあった。
誰にどう評価されてもその服らは揺らぐことなくアイデンティティを保ち続ける。
現実を見る必要のない完璧な鎧。
もし、あの花弁のように装飾の重なる服を身にまとえたなら、甘い匂いを纏って、世界を自分のものにできるのだろう。
フィッティングルームから愛美は、先程見せてくれたワンピースを着て現れた。
「かわいい!めっちゃ似合う!」
本心を口にするたび、自己否定が加速して渦を巻いていく。
それでも、世界はゆっくりと動いていた。
私には、着ることが出来ない。
愛美は過去の傷を隠すように全身にPOPなタトゥーがあしらわれている。
特に深く刻まれた腕には赤、青、黄──色とりどりの花が咲き乱れ、まるで痛みの上に花園を築いたようだった。
今日は彼女が好きなアイドルのライブを観に行く約束をしていた。
五人のグループで特にミストブルーのイメージカラーの子を推しているという。
大人びた声色で冷ややかに歌うその女性に、愛美は「憧れ」という言葉を何度も口にした。
私もそのグループが好きだと伝えている。“箱推し”だと笑って言ったが、それも小さな嘘だ。
本当は私もペールピンクを担当している子が好きだ。以前のライブで、ステージの上から私に向けてまっすぐ笑いかけてくれたその瞬間に、私は一瞬で心を奪われてしまった。
彼女の歌声を聴くたびに、あの人のことを思い出す。
世界の終わりの光の中で、私を抱きとめてくれた天使のような女性。
優しく、少し寂しげな眼差しで「大丈夫」と言ったあの人に、ペールピンクの彼女はどこか似ている。
彼女たちの歌は、繊細な自尊心と愛の狭間で揺れる感情を綴っている。
私はその歌詞に自分を投影し、何度も勇気をもらいながら、また同じ痛みを今も反芻し続けている。
ライブが始まると、光が彼女たちを切り取った。強すぎる照明が、床に濃い影を落とす。
その中で笑う愛美の姿が、私には、光と影のあわいに沈んで見えた。
影の中で、私は自分の気配を探していた。
また、ここに私の居場所はないんだと確認が終わると、きっとまた私は私を空にして次の依り代を見つけるのだろう。
配信者に傾いた時期があった。地下アイドルにのめり込んだ時期もあった。
アニメに救われた時期も、セックスに逃げた時期もあった。
どれも愛美や誰かの影の延長だった。
けれど、どれも長くは続かない。熱はすぐに冷め、私の中に何も残らなかった。
音が鳴り始めると、空気の粒が震えた。低音が胸の奥を打ち抜き、身体の内側がわずかに軋む。
光が彼女の髪に反射して、ペールピンクがほのかに滲む。
彼女は歌っている。私が言葉にできなかった痛みを、まるで前から知っていたかのように。
ステージの上の彼女は、遠くて、近い。
見上げているのは偶像なのに、その声が届くたび、私の中の空洞が微かに共鳴した。
この声が止まったら、私はまた何を支えにすればいいんだろう。
音は流れ、光は走り、私はただ、彼女の呼吸に合わせて動かされていた。
光が落ちたあと、影の中で、自分の空洞を確かめていた。
会場を出ると、夜の空気が温度を奪っていった。
愛美はまだ笑っていた。曇りを払ったその表情は、私の届かない場所にあった。
影の中を一人で歩く。誰の歌も、もう聴こえなかった。
深夜のコンビニで、陳列棚を眺めていた。思考は目的を失いどこか遠くへ漂っていく。
新しい清涼飲料水は、いつの間にか姿を消していた。
子供の頃は、意味もなく派手な色の炭酸が並んでいて、それを手に取るだけで、世界に少し遊び心があった気がする。
可愛い色とか、誰かと話題にできそうとか──そんな些細な理由で選びたいだけなのに、今はどこの棚にも、均質な緑茶ばかりが整然と並んでいる。
大人になるというのは、きっと、こうした無意味な選択肢が一つずつ失われていくことなのだろう。
飲み比べをしようと思って、コンビニに寄るたびにラベルの違うお茶を買った。
けれど、どれがどんな味だったのか、もう覚えていない。
区別をつける気力も、感想を抱く余白も、いつの間にかどこかに置き去りにしてきた。
そうやって、すべてが少しずつ鈍っていく。
アルバイト先の先輩の名前。結婚した友人の笑い声。
借金で消えた知人の消息。
そして、かつて憧れていた人の面影。
どれも少しずつ、心の底で色を失っていく。
忘却は、私にとっての最後の抵抗だった。
ノスタルジーを感じられるものばかりを集めて、心が少しだけ穏やかになる錯覚に浸っていた。
だけど、理性のどこかで思う。ああ、また一つ未来を手放したんだ、と。
誰と一緒にいても、孤独だけは薄まらない。
笑っていても、いつも心のどこかで透明な壁を感じている。
人は皆、利得で他者を選ぶ。善悪ではなく、生存のために。私もきっと同じだ。
孤独が怖くて、寂しさに耐えられなくて、誰かを求めてしまう。
名前も、顔も、声も関係ない。ただ一瞬でも、孤独の外側にいられるならそれでよかった。
時代が進んで、売春は“援助交際”になり、今では“パパ活”と呼ばれるようになった。
言葉だけが柔らかくなって、現実は何も変わらない。
私は、生きる力を持たない。だから、誰かに「ここにいていい」と認められることで、かろうじて自分の存在を確かめている。
もし誰にも肯定されなかったら、この世界の中で、そっと砕けてしまう気がする。
そんな夜が、何度もあった。そして今夜も。
凍りついた時間の上を、軽い声が滑っていった。
私のたった一人の友人の声が聞こえた瞬間、世界は色を取り戻した。
金髪のツイン縦ロールを揺らし、派手なロリータドレスを纏った彼女は、まるでこの街の灰色を拒むように眩しかった。
「全然待ってないよ!私も遅れてたから。いこ!」
嘘をつくのは簡単だった。むしろ、嘘をつくことでしか生きられなかった。
本当は三十分以上待っていた。
本当は彼女が来なければどうしようと不安で押し潰されそうだった。
けれど、それを言葉にした瞬間、この軽やかな現実が壊れてしまう気がした。
彼女の笑顔の中で、自分の弱さを曝け出すことができなかった。
だから私は笑った。
それが、世界と私を繋ぐための最後の儀式みたいに思えた。
彼女の声は軽いのに、隣を歩く足取りだけが妙に重かった。
愛美とは学生時代からの友人だった。いつも一緒にいる、二人で行動するタイプの友人同士─────私たちはそういう関係だった。
八方美人で、多趣味で、行動力があり、いつも自分から私を誘ってくれた。
私の心の中の唯一の明かりのように見えた。けれど、その明かりはいつも不安定だった。
こまめに連絡しないとすぐに機嫌を悪くする。
一度怒れば、何もかもが変わってしまう。
彼女の左腕にはまだ二週間前の痣がまだ残っている。
屋上の風は、真夏なのに冷たかった。彼女が手すりに足をかけた瞬間、私は反射的にその腕を掴んだ。
その皮膚の下で、彼女の鼓動が暴れていた。
あの時、もし手を離していたら─────
いや、もし一緒に静かな場所へ行っていたら─────
世界はもう少し、優しかったのだろうか。
二人は手をつないで雑多な街を歩く。
ネオンの光が肌に反射して、まるで生きていることを確かめる儀式みたいだった。
彼女の手は温かい。それでも、あの屋上の風の冷たさは、まだ指先に残っている。
「最初ちょっと見たい服あるからそこよってもいい?」
彼女の声音は軽やかだった。
「どんなの?」
私もその明るい声色に倣って語尾を上げ返した。
所謂、量産型の服を着ている私は自分をその可愛さに委ねていた。
唯一、有名どころではないブランドの服を選んでいることだけが、ささやかな自己証明だった。
「えっとね~こんな感じの!」
スマートフォンの画面に映る服を見て、私は精一杯の明るさで反応した。
街の光に私は上手く溶け込めているだろうか。
「え!めっちゃ可愛いね!絶対似合う~!」
本当にそう思った。彼女は何を着ても似合う。
「ね!めっちゃ可愛いよね~サイズ合うかなぁ~」
彼女の屈託のない笑顔を見ていると、その瞬間だけは、世界がやさしく見えた。
けれど、そのやさしさがどれほど脆いものかを、私たちは知っていた。
二人は風に背中を押されるように、光の方へと足を速めた。
店に飾られたロリータファッションは眩しくて、私にはない全てそこにあった。
誰にどう評価されてもその服らは揺らぐことなくアイデンティティを保ち続ける。
現実を見る必要のない完璧な鎧。
もし、あの花弁のように装飾の重なる服を身にまとえたなら、甘い匂いを纏って、世界を自分のものにできるのだろう。
フィッティングルームから愛美は、先程見せてくれたワンピースを着て現れた。
「かわいい!めっちゃ似合う!」
本心を口にするたび、自己否定が加速して渦を巻いていく。
それでも、世界はゆっくりと動いていた。
私には、着ることが出来ない。
愛美は過去の傷を隠すように全身にPOPなタトゥーがあしらわれている。
特に深く刻まれた腕には赤、青、黄──色とりどりの花が咲き乱れ、まるで痛みの上に花園を築いたようだった。
今日は彼女が好きなアイドルのライブを観に行く約束をしていた。
五人のグループで特にミストブルーのイメージカラーの子を推しているという。
大人びた声色で冷ややかに歌うその女性に、愛美は「憧れ」という言葉を何度も口にした。
私もそのグループが好きだと伝えている。“箱推し”だと笑って言ったが、それも小さな嘘だ。
本当は私もペールピンクを担当している子が好きだ。以前のライブで、ステージの上から私に向けてまっすぐ笑いかけてくれたその瞬間に、私は一瞬で心を奪われてしまった。
彼女の歌声を聴くたびに、あの人のことを思い出す。
世界の終わりの光の中で、私を抱きとめてくれた天使のような女性。
優しく、少し寂しげな眼差しで「大丈夫」と言ったあの人に、ペールピンクの彼女はどこか似ている。
彼女たちの歌は、繊細な自尊心と愛の狭間で揺れる感情を綴っている。
私はその歌詞に自分を投影し、何度も勇気をもらいながら、また同じ痛みを今も反芻し続けている。
ライブが始まると、光が彼女たちを切り取った。強すぎる照明が、床に濃い影を落とす。
その中で笑う愛美の姿が、私には、光と影のあわいに沈んで見えた。
影の中で、私は自分の気配を探していた。
また、ここに私の居場所はないんだと確認が終わると、きっとまた私は私を空にして次の依り代を見つけるのだろう。
配信者に傾いた時期があった。地下アイドルにのめり込んだ時期もあった。
アニメに救われた時期も、セックスに逃げた時期もあった。
どれも愛美や誰かの影の延長だった。
けれど、どれも長くは続かない。熱はすぐに冷め、私の中に何も残らなかった。
音が鳴り始めると、空気の粒が震えた。低音が胸の奥を打ち抜き、身体の内側がわずかに軋む。
光が彼女の髪に反射して、ペールピンクがほのかに滲む。
彼女は歌っている。私が言葉にできなかった痛みを、まるで前から知っていたかのように。
ステージの上の彼女は、遠くて、近い。
見上げているのは偶像なのに、その声が届くたび、私の中の空洞が微かに共鳴した。
この声が止まったら、私はまた何を支えにすればいいんだろう。
音は流れ、光は走り、私はただ、彼女の呼吸に合わせて動かされていた。
光が落ちたあと、影の中で、自分の空洞を確かめていた。
会場を出ると、夜の空気が温度を奪っていった。
愛美はまだ笑っていた。曇りを払ったその表情は、私の届かない場所にあった。
影の中を一人で歩く。誰の歌も、もう聴こえなかった。
深夜のコンビニで、陳列棚を眺めていた。思考は目的を失いどこか遠くへ漂っていく。
新しい清涼飲料水は、いつの間にか姿を消していた。
子供の頃は、意味もなく派手な色の炭酸が並んでいて、それを手に取るだけで、世界に少し遊び心があった気がする。
可愛い色とか、誰かと話題にできそうとか──そんな些細な理由で選びたいだけなのに、今はどこの棚にも、均質な緑茶ばかりが整然と並んでいる。
大人になるというのは、きっと、こうした無意味な選択肢が一つずつ失われていくことなのだろう。
飲み比べをしようと思って、コンビニに寄るたびにラベルの違うお茶を買った。
けれど、どれがどんな味だったのか、もう覚えていない。
区別をつける気力も、感想を抱く余白も、いつの間にかどこかに置き去りにしてきた。
そうやって、すべてが少しずつ鈍っていく。
アルバイト先の先輩の名前。結婚した友人の笑い声。
借金で消えた知人の消息。
そして、かつて憧れていた人の面影。
どれも少しずつ、心の底で色を失っていく。
忘却は、私にとっての最後の抵抗だった。
ノスタルジーを感じられるものばかりを集めて、心が少しだけ穏やかになる錯覚に浸っていた。
だけど、理性のどこかで思う。ああ、また一つ未来を手放したんだ、と。
誰と一緒にいても、孤独だけは薄まらない。
笑っていても、いつも心のどこかで透明な壁を感じている。
人は皆、利得で他者を選ぶ。善悪ではなく、生存のために。私もきっと同じだ。
孤独が怖くて、寂しさに耐えられなくて、誰かを求めてしまう。
名前も、顔も、声も関係ない。ただ一瞬でも、孤独の外側にいられるならそれでよかった。
時代が進んで、売春は“援助交際”になり、今では“パパ活”と呼ばれるようになった。
言葉だけが柔らかくなって、現実は何も変わらない。
私は、生きる力を持たない。だから、誰かに「ここにいていい」と認められることで、かろうじて自分の存在を確かめている。
もし誰にも肯定されなかったら、この世界の中で、そっと砕けてしまう気がする。
そんな夜が、何度もあった。そして今夜も。
