文化祭最終日は朝から信じられないほど忙しかった。正直、午前中の記憶はない。
出店を回る気力もなく、控え室兼物置になっている一年四組の教室に行く。疲れすぎて三階に上がるのも一苦労だった。
誰もいないと思っていたら、ベランダに先客がいた。
「篠崎くん、お疲れ様。休憩時間だっけ」
「お疲れ。変わってもらった。次二時間後」
「僕と同じだ」
「知ってる。朝確認したから」
違和感があった。そしてすぐ、彼の視線が完全にベランダの外にあることに気づいた。
「何か見てるの?」
「当たり前だけど、俺がいなくても動くんだなと思って」
視線を追うと、一階の広場でダンス部がパフォーマンスをしていた。
「ダンス部の人たち?」
「未練なんてないのに、変な感じ。何にもなかったみたいに息合ってるし」
辛そうな顔。篠崎くんはいつも僕を元気づけてくれるから、お返しがしたくなった。
励まそうと思って口を開こうとした時、わりと大きめのくしゃみが出てしまった。
「ご、ごめん」
「謝る必要はないけど……寒いの?」
「うん。さすがにTシャツだけだと寒かった」
「ブレザーは?」
「花ちゃんに貸しちゃった」
「菊池のこと名前で呼ぶんだ」
「え? 呼んでーって言われたから呼んでるだけだよ」
「あいつ次はあだ名で呼べとか言ってくるから普通に苗字呼びでいいぞ」
「そうなんだ」
そういえば、松下くんも苗字で呼んでた気がする。
「菊池にブレザー貸したのは?」
「何人かで男装して呼び込みするって言ってた」
「はしゃぎすぎだろ……」
篠崎くんは僕に「待ってろ」と言って教室に移動した。そしてなぜかカーテンを閉めてから戻ってきた。厚手のカーテンが、教室とベランダに境界を作る。
彼の手には、ブレザーが握られていた。
「これは?」
「俺の。貸してやる」
「ありがとう」
「でかいかもしれないけど、ないよりマシだろ」
お礼を言って着てみると、思ったよりも大きい。袖から指先しか出ない。僕のブレザーを着た菊池さんの姿と一瞬被った。
「菊池さんがさ、僕のブレザー着た時余った袖を口元に持っていってたんだ」
「へー。それで? 可愛いとか思ったわけ?」
「全然思ってないけど。あ、この言い方失礼か。不思議だなぁって思ってた。でもなんとなくわかった」
余りきった袖。あの時の彼女と同じように口元に袖を当てる。
いつもと変わらない篠崎くんの匂いが今だけちょっと重い。
「包まれてる感じ。確認したくなるね。あったかい」
「本当、宮宇地は何でこんな……」
いきなり篠崎くんがしゃがみ込んだ。
「大丈夫?」
彼に手を差し伸べたのとほぼ同時に、扉が開く音が聞こえた。
「篠崎ー! 充電器貸してー! あれ? 梅原がいるって言ってたのに」
松下くんの声だ。そっちに気を取られていたら突然、腕を引っ張られる。
「わっ」
気がついたら、篠崎くんの腕の中にいた。
「誰かいるのかー?」
松下くんの足音が聞こえる。早く離れないと、見つかったら大変なことに——
「静かに」
耳に息がかかる。くすぐられたような感覚。
「あの」
「……しーっ……」
篠崎くんが、僕の身体を抱き寄せている。まるで金縛りにあったみたいに声が出ない。
「松下ー! シフト! 早く戻れ!」
「やべっ! 普通に忘れてた……今行く!」
松下くんの足音が遠ざかっていく。僕はまだ動けないでいる。
海みたいな、すーっとするけど少し甘い匂い。篠崎くんに全身を包まれて、一つの塊になったみたいだ。
「行ったみたいだな」
「うん……あの、もう」
「やだ。もう少し、このままで」
篠崎くんが僕の肩に額を預ける。
「いいよ。僕の肩でよければ、いつでも貸すね」
「いつでも、か」
「篠崎くん? いつもと様子違うけど疲れてる?」
背中に回る力が強くなる。
「宮宇地が」
「僕が?」
「……馴染んできてるから」
「何に?」
「クラスのやつらに。やっぱ文化祭って面倒くさい」
顔は見えないけど、彼の表情は想像できた。いつもの社交的で堂々としている態度とはまるで違う。それなのに、僕はなぜか彼らしいと思った。
「僕にとって篠崎くんが一番だよ」
「そうだといいけど」
「僕はずっと篠崎くんの味方だよ。約束する」
彼の背中に腕を回す。力を込めると、さらに強い力で抱きしめられた。
拍手が聞こえる。ダンス部のパフォーマンスが終わったのだろう。でもそれは、僕にも、篠崎くんにも関係ないことだ。
このまま、シフトの時間なんて来なければいいのに。
僕にとって他人事だった文化祭は、いつのまにか忘れられないものに変わっていた。
出店を回る気力もなく、控え室兼物置になっている一年四組の教室に行く。疲れすぎて三階に上がるのも一苦労だった。
誰もいないと思っていたら、ベランダに先客がいた。
「篠崎くん、お疲れ様。休憩時間だっけ」
「お疲れ。変わってもらった。次二時間後」
「僕と同じだ」
「知ってる。朝確認したから」
違和感があった。そしてすぐ、彼の視線が完全にベランダの外にあることに気づいた。
「何か見てるの?」
「当たり前だけど、俺がいなくても動くんだなと思って」
視線を追うと、一階の広場でダンス部がパフォーマンスをしていた。
「ダンス部の人たち?」
「未練なんてないのに、変な感じ。何にもなかったみたいに息合ってるし」
辛そうな顔。篠崎くんはいつも僕を元気づけてくれるから、お返しがしたくなった。
励まそうと思って口を開こうとした時、わりと大きめのくしゃみが出てしまった。
「ご、ごめん」
「謝る必要はないけど……寒いの?」
「うん。さすがにTシャツだけだと寒かった」
「ブレザーは?」
「花ちゃんに貸しちゃった」
「菊池のこと名前で呼ぶんだ」
「え? 呼んでーって言われたから呼んでるだけだよ」
「あいつ次はあだ名で呼べとか言ってくるから普通に苗字呼びでいいぞ」
「そうなんだ」
そういえば、松下くんも苗字で呼んでた気がする。
「菊池にブレザー貸したのは?」
「何人かで男装して呼び込みするって言ってた」
「はしゃぎすぎだろ……」
篠崎くんは僕に「待ってろ」と言って教室に移動した。そしてなぜかカーテンを閉めてから戻ってきた。厚手のカーテンが、教室とベランダに境界を作る。
彼の手には、ブレザーが握られていた。
「これは?」
「俺の。貸してやる」
「ありがとう」
「でかいかもしれないけど、ないよりマシだろ」
お礼を言って着てみると、思ったよりも大きい。袖から指先しか出ない。僕のブレザーを着た菊池さんの姿と一瞬被った。
「菊池さんがさ、僕のブレザー着た時余った袖を口元に持っていってたんだ」
「へー。それで? 可愛いとか思ったわけ?」
「全然思ってないけど。あ、この言い方失礼か。不思議だなぁって思ってた。でもなんとなくわかった」
余りきった袖。あの時の彼女と同じように口元に袖を当てる。
いつもと変わらない篠崎くんの匂いが今だけちょっと重い。
「包まれてる感じ。確認したくなるね。あったかい」
「本当、宮宇地は何でこんな……」
いきなり篠崎くんがしゃがみ込んだ。
「大丈夫?」
彼に手を差し伸べたのとほぼ同時に、扉が開く音が聞こえた。
「篠崎ー! 充電器貸してー! あれ? 梅原がいるって言ってたのに」
松下くんの声だ。そっちに気を取られていたら突然、腕を引っ張られる。
「わっ」
気がついたら、篠崎くんの腕の中にいた。
「誰かいるのかー?」
松下くんの足音が聞こえる。早く離れないと、見つかったら大変なことに——
「静かに」
耳に息がかかる。くすぐられたような感覚。
「あの」
「……しーっ……」
篠崎くんが、僕の身体を抱き寄せている。まるで金縛りにあったみたいに声が出ない。
「松下ー! シフト! 早く戻れ!」
「やべっ! 普通に忘れてた……今行く!」
松下くんの足音が遠ざかっていく。僕はまだ動けないでいる。
海みたいな、すーっとするけど少し甘い匂い。篠崎くんに全身を包まれて、一つの塊になったみたいだ。
「行ったみたいだな」
「うん……あの、もう」
「やだ。もう少し、このままで」
篠崎くんが僕の肩に額を預ける。
「いいよ。僕の肩でよければ、いつでも貸すね」
「いつでも、か」
「篠崎くん? いつもと様子違うけど疲れてる?」
背中に回る力が強くなる。
「宮宇地が」
「僕が?」
「……馴染んできてるから」
「何に?」
「クラスのやつらに。やっぱ文化祭って面倒くさい」
顔は見えないけど、彼の表情は想像できた。いつもの社交的で堂々としている態度とはまるで違う。それなのに、僕はなぜか彼らしいと思った。
「僕にとって篠崎くんが一番だよ」
「そうだといいけど」
「僕はずっと篠崎くんの味方だよ。約束する」
彼の背中に腕を回す。力を込めると、さらに強い力で抱きしめられた。
拍手が聞こえる。ダンス部のパフォーマンスが終わったのだろう。でもそれは、僕にも、篠崎くんにも関係ないことだ。
このまま、シフトの時間なんて来なければいいのに。
僕にとって他人事だった文化祭は、いつのまにか忘れられないものに変わっていた。
