電車に揺られて二時間、僕と陸は同じ駅で降りた。僕にとっては見慣れた最寄駅だけど、陸は落ち着きなくキョロキョロしている。
「こっちだよ」
「あ、ああ」
陸の袖を引っ張って行く方向を指差す。知り合いはそんなにいないけど、手を繋ぐのは恥ずかしい。
駅からほど近い、僕もよく利用するドラッグストアの前で陸が立ち止まった。
そばに立って耳をすましたら、陸が「いやいや、今日はない。さすがにだめだ」と呟いていた。
「陸? どうしたの? 体調悪い?」
「めっちゃ元気! うん、やっぱりなし! 今日じゃない! 絶対だめ!」
陸は早口でそう言い切ると、駅の方に向かって歩き出した。
「そっち逆だよ」
「え、ああ。ごめん」
いつもと様子がおかしい陸に疑問を覚えながら、僕たちは暗くなった住宅街を歩いた。
「ただいま」
「……お邪魔します」
玄関からリビングに移動し、陸に適当に座ってと伝える。
しまった。そこから先の作法を全く知らない。人を家に招くなんて初めてだ。
「お茶でいい?」
「ありがとう。一つ聞きたいんだけど、遥は俺以外家に誘ったことある?」
「ないよ。陸が初めて」
「その言い方、今はちょっと。あ、いや嫌ってわけではなくて」
「ごめんね。だからこういう時どうしたらいいかわからなくて。僕の部屋狭いからリビングがいいかなって思ったんだけど、陸はどっちがいい?」
深く息を吐いた音がして、それから陸の雰囲気が変わった。
さっきまでのそわそわした感じはなくなって、真っ直ぐで真剣な瞳が僕を捉える。
「遥の部屋がいい」
僕は何回かこくこくと頷いて、冷たいお茶を準備してグラスを持った。
もしかしたら僕はとんでもないことを言ってしまったのかもしれない。一度意識すると、自分の行動が信じられないものに思えた。
恋人を親がいない家に誘うって、そういうことだよね。陸が挙動不審になっていた理由が、点と線で繋がった。
「こっちだよ」
声が震えていたかもしれない。僕は陸の目をまともに見れないまま、階段を上がった。グラスと氷がぶつかる音がやけに響いて、うるさかった。
四畳半の部屋は、必要最低限だけの家具しか置かれてない。
ベッドに勉強机と椅子、それからクローゼットに本棚。それなのにどこか雑然としていて、もっと掃除しておけばよかったと後悔した。
「ごめん。汚いけど、適当に床に座ってもらえたら。お茶は机に置いておくね」
「ありがとう。普通に綺麗だけどな」
ベッドの上に散乱している服をスルーしてくれて助かった。デート前に散々悩んで、結局時間がなくて似たような服を選んだ痕跡だから。
陸が部屋の中に立っているだけで部屋の光景が一新される。単純に彼が大きいからとかではなくて、存在感が桁違いだ。
「あの、床がだめだったら椅子に——」
「懐かしい! 小学生の時同じの持ってた! 触っていい?」
「え、いいけど」
陸は球体のおもちゃをまじまじと見つめている。当たり前だけど、僕と同い年なんだなぁと思う。
「転がしてみていい? 落とさないから」
「うん。カードも残ってるよ」
陸の顔がぱあっと明るくなって、今だけ小学生に戻ったみたいに感じた。
ころころと球体のおもちゃが机に転がりカードに乗ると、カチッと音が鳴って開いた。
「ヒュドラだ! すげー! やっぱかっこいいな! 俺ドラゴンのやつ持ってた」
「いいよね。なんか捨てられなくて取ってた」
「ありがとう。めっちゃ懐かしかった。うわ、畳むのこんな難しかったっけ」
そう言って陸は苦戦しながらおもちゃを片付けてお茶を半分飲むと、床に座った。必然的に僕は彼の隣に座ることになる。
「なんか、緊張するね」
「……あー、うん」
ぎこちなくて、遠い距離。肩と肩の間に隙間がある。まだボウリングの時の方が近かったかもしれない。
お互い無言の時間が続く。あ、ドアが開きっぱなしだ。陸がうっかりなんて珍しい。
突然、隣から笑い声が聞こえた。もちろん声の主は僕の恋人だ。
「陸?」
「ごめん、ごめん。自分でもさすがに緊張しすぎだろって思って」
よかった。やっぱり僕だけじゃなかったんだ。
「ごめんね。実は、あんまり意識しないで誘っちゃったんだ。その、そういうこととか」
「わかってる」
陸が僕の頬を片手で挟む。ちょっと、これは恥ずかしいかも。と思ってたらすぐ離してくれた。
「怒ってる?」
「怒ってない。なんとなく、遥の様子でわかってたし。それでも行くって決めたのは俺だから」
いつもの笑顔。僕を安心させようとしているのが伝わって、目が逸らせない。
「あ、あの。ぼく、僕は」
「大丈夫。怖くなったら逃げていいから。ドア開けてあるし……って自分の部屋じゃないのに偉そうだけど。てか暖房つけてるなら閉めないとだな」
ドアが開いてたのは、うっかりじゃなかったんだ。
陸が立ち上がろうとするのを手首を掴んで止める。
「僕が閉めてくる」
「え、でも」
「待ってて」
いつものドアが重く感じる。なるべく音を立てないよう、でもしっかりと閉める。
振り返ると、静かにこちらを見つめる恋人がいた。彼の正面に立つ。部屋が暑いのは、暖房のせいじゃない。
「来る?」
陸が自分の膝を軽く叩いて誘う。
「うん」
喉が渇く。机の上にあるお茶は、氷が溶けて水と二層に分かれていた。
「おいで」
腕を広げて微笑む彼は、息が止まるくらい綺麗だった。
どっち向きに座ればいいかわからなくて迷っていたら、陸に「遥の顔見たい」と言われてようやく動けた。
「重くない?」
「全然。もっとあっても平気」
胡座をかいている陸の膝上に、対面で座る。心臓の鼓動がどちらのものかわからなくなった。
「あったかいね」
「うん」
陸が僕の背中に腕を回し、抱きしめる。全身を包まれているような心地なのに、陸が僕の肩に頭を預けるから、甘えられているようにも感じる。
「陸。好きだよ」
「俺も。遥が好き」
顔を上げた陸と目が合う。視界がぼやけて、彼の輪郭が曖昧になる。
口の端に柔らかな感触があった。すぐにそれが恋人の唇だと気づいた僕は、そっと目を閉じた。
何回か短いリップ音の後、唇に吸い付くような圧がかかる。長く合わさる口付け。彼が姿勢を直す時に伝わる振動すら心臓の鼓動に変わる。
ふいにお互いの吐息が混じった気がした。軽く口を開けて受け入れる。今までで一番深く繋がるキスだった。
僕と陸が紡ぐ音だけが、部屋に響いている。ずっと聴いていたいような、耳を塞ぎたくなるような不思議な気分だった。
僕たちは時間が経つのも忘れて夢中になっていた。
グラスの表面に浮いた水滴は全部机に吸い込まれていた。
「本当に送らなくていいの?」
「大丈夫。道は覚えてるし」
「でも」
「俺が心配だから。ちょっとくらい彼氏っぽいことさせて」
陸が優しく僕の頬に触れる。彼氏っぽいことって、むしろ今日はそれしかしてない気もするけど。陸がなんだか嬉しそうだから黙っておく。
「気をつけてね」
「ありがとう。また連絡する」
玄関を出たところに立って、陸の背中を見送る。少ししてスマホに「早く家入ってくれないと俺が帰れないんだけど!」と通知がきて慌てて家に入った。
自分の部屋に行くと、何かが違う気がした。ベッドの上は相変わらず服が散らばっているし、元通りになった球体のおもちゃも机にあるのに。
床に座ってから、違和感の正体に気づいた。微かに陸の匂いが残っているような気がする。
部屋を出て、あるものを取って戻る。そしてそれを辺りに振りかけた。
布用消臭剤の香りが部屋に充満する。
後ろめたいことはしていないのに、居ても立っても居られなかった。
再び床に座ると、彼の匂いは完全に消えていた。失敗したなぁと後悔しながら、その日は夕食も食べず眠りについた。
陸におやすみとメッセージを送る最後の瞬間まで、ずっと幸せな一日だった。
「こっちだよ」
「あ、ああ」
陸の袖を引っ張って行く方向を指差す。知り合いはそんなにいないけど、手を繋ぐのは恥ずかしい。
駅からほど近い、僕もよく利用するドラッグストアの前で陸が立ち止まった。
そばに立って耳をすましたら、陸が「いやいや、今日はない。さすがにだめだ」と呟いていた。
「陸? どうしたの? 体調悪い?」
「めっちゃ元気! うん、やっぱりなし! 今日じゃない! 絶対だめ!」
陸は早口でそう言い切ると、駅の方に向かって歩き出した。
「そっち逆だよ」
「え、ああ。ごめん」
いつもと様子がおかしい陸に疑問を覚えながら、僕たちは暗くなった住宅街を歩いた。
「ただいま」
「……お邪魔します」
玄関からリビングに移動し、陸に適当に座ってと伝える。
しまった。そこから先の作法を全く知らない。人を家に招くなんて初めてだ。
「お茶でいい?」
「ありがとう。一つ聞きたいんだけど、遥は俺以外家に誘ったことある?」
「ないよ。陸が初めて」
「その言い方、今はちょっと。あ、いや嫌ってわけではなくて」
「ごめんね。だからこういう時どうしたらいいかわからなくて。僕の部屋狭いからリビングがいいかなって思ったんだけど、陸はどっちがいい?」
深く息を吐いた音がして、それから陸の雰囲気が変わった。
さっきまでのそわそわした感じはなくなって、真っ直ぐで真剣な瞳が僕を捉える。
「遥の部屋がいい」
僕は何回かこくこくと頷いて、冷たいお茶を準備してグラスを持った。
もしかしたら僕はとんでもないことを言ってしまったのかもしれない。一度意識すると、自分の行動が信じられないものに思えた。
恋人を親がいない家に誘うって、そういうことだよね。陸が挙動不審になっていた理由が、点と線で繋がった。
「こっちだよ」
声が震えていたかもしれない。僕は陸の目をまともに見れないまま、階段を上がった。グラスと氷がぶつかる音がやけに響いて、うるさかった。
四畳半の部屋は、必要最低限だけの家具しか置かれてない。
ベッドに勉強机と椅子、それからクローゼットに本棚。それなのにどこか雑然としていて、もっと掃除しておけばよかったと後悔した。
「ごめん。汚いけど、適当に床に座ってもらえたら。お茶は机に置いておくね」
「ありがとう。普通に綺麗だけどな」
ベッドの上に散乱している服をスルーしてくれて助かった。デート前に散々悩んで、結局時間がなくて似たような服を選んだ痕跡だから。
陸が部屋の中に立っているだけで部屋の光景が一新される。単純に彼が大きいからとかではなくて、存在感が桁違いだ。
「あの、床がだめだったら椅子に——」
「懐かしい! 小学生の時同じの持ってた! 触っていい?」
「え、いいけど」
陸は球体のおもちゃをまじまじと見つめている。当たり前だけど、僕と同い年なんだなぁと思う。
「転がしてみていい? 落とさないから」
「うん。カードも残ってるよ」
陸の顔がぱあっと明るくなって、今だけ小学生に戻ったみたいに感じた。
ころころと球体のおもちゃが机に転がりカードに乗ると、カチッと音が鳴って開いた。
「ヒュドラだ! すげー! やっぱかっこいいな! 俺ドラゴンのやつ持ってた」
「いいよね。なんか捨てられなくて取ってた」
「ありがとう。めっちゃ懐かしかった。うわ、畳むのこんな難しかったっけ」
そう言って陸は苦戦しながらおもちゃを片付けてお茶を半分飲むと、床に座った。必然的に僕は彼の隣に座ることになる。
「なんか、緊張するね」
「……あー、うん」
ぎこちなくて、遠い距離。肩と肩の間に隙間がある。まだボウリングの時の方が近かったかもしれない。
お互い無言の時間が続く。あ、ドアが開きっぱなしだ。陸がうっかりなんて珍しい。
突然、隣から笑い声が聞こえた。もちろん声の主は僕の恋人だ。
「陸?」
「ごめん、ごめん。自分でもさすがに緊張しすぎだろって思って」
よかった。やっぱり僕だけじゃなかったんだ。
「ごめんね。実は、あんまり意識しないで誘っちゃったんだ。その、そういうこととか」
「わかってる」
陸が僕の頬を片手で挟む。ちょっと、これは恥ずかしいかも。と思ってたらすぐ離してくれた。
「怒ってる?」
「怒ってない。なんとなく、遥の様子でわかってたし。それでも行くって決めたのは俺だから」
いつもの笑顔。僕を安心させようとしているのが伝わって、目が逸らせない。
「あ、あの。ぼく、僕は」
「大丈夫。怖くなったら逃げていいから。ドア開けてあるし……って自分の部屋じゃないのに偉そうだけど。てか暖房つけてるなら閉めないとだな」
ドアが開いてたのは、うっかりじゃなかったんだ。
陸が立ち上がろうとするのを手首を掴んで止める。
「僕が閉めてくる」
「え、でも」
「待ってて」
いつものドアが重く感じる。なるべく音を立てないよう、でもしっかりと閉める。
振り返ると、静かにこちらを見つめる恋人がいた。彼の正面に立つ。部屋が暑いのは、暖房のせいじゃない。
「来る?」
陸が自分の膝を軽く叩いて誘う。
「うん」
喉が渇く。机の上にあるお茶は、氷が溶けて水と二層に分かれていた。
「おいで」
腕を広げて微笑む彼は、息が止まるくらい綺麗だった。
どっち向きに座ればいいかわからなくて迷っていたら、陸に「遥の顔見たい」と言われてようやく動けた。
「重くない?」
「全然。もっとあっても平気」
胡座をかいている陸の膝上に、対面で座る。心臓の鼓動がどちらのものかわからなくなった。
「あったかいね」
「うん」
陸が僕の背中に腕を回し、抱きしめる。全身を包まれているような心地なのに、陸が僕の肩に頭を預けるから、甘えられているようにも感じる。
「陸。好きだよ」
「俺も。遥が好き」
顔を上げた陸と目が合う。視界がぼやけて、彼の輪郭が曖昧になる。
口の端に柔らかな感触があった。すぐにそれが恋人の唇だと気づいた僕は、そっと目を閉じた。
何回か短いリップ音の後、唇に吸い付くような圧がかかる。長く合わさる口付け。彼が姿勢を直す時に伝わる振動すら心臓の鼓動に変わる。
ふいにお互いの吐息が混じった気がした。軽く口を開けて受け入れる。今までで一番深く繋がるキスだった。
僕と陸が紡ぐ音だけが、部屋に響いている。ずっと聴いていたいような、耳を塞ぎたくなるような不思議な気分だった。
僕たちは時間が経つのも忘れて夢中になっていた。
グラスの表面に浮いた水滴は全部机に吸い込まれていた。
「本当に送らなくていいの?」
「大丈夫。道は覚えてるし」
「でも」
「俺が心配だから。ちょっとくらい彼氏っぽいことさせて」
陸が優しく僕の頬に触れる。彼氏っぽいことって、むしろ今日はそれしかしてない気もするけど。陸がなんだか嬉しそうだから黙っておく。
「気をつけてね」
「ありがとう。また連絡する」
玄関を出たところに立って、陸の背中を見送る。少ししてスマホに「早く家入ってくれないと俺が帰れないんだけど!」と通知がきて慌てて家に入った。
自分の部屋に行くと、何かが違う気がした。ベッドの上は相変わらず服が散らばっているし、元通りになった球体のおもちゃも机にあるのに。
床に座ってから、違和感の正体に気づいた。微かに陸の匂いが残っているような気がする。
部屋を出て、あるものを取って戻る。そしてそれを辺りに振りかけた。
布用消臭剤の香りが部屋に充満する。
後ろめたいことはしていないのに、居ても立っても居られなかった。
再び床に座ると、彼の匂いは完全に消えていた。失敗したなぁと後悔しながら、その日は夕食も食べず眠りについた。
陸におやすみとメッセージを送る最後の瞬間まで、ずっと幸せな一日だった。
