傘を差せぬまま

 それから、どれくらいの月日が経ったのだろうか。もうよく覚えてはいなかった。季節は変わり、塾の帰り道も、前とは違う景色になっていた。それでも、時々思い出す。ノートを覗き込む距離とか、何気ない会話とか。彼が私の隣にいた、あの日々のことを。新しいミステリーを読もうとするたびに、少しだけ迷った。これ、面白いかなって。読みやすいかなって。前ならすぐ聞けたのに。彼のおすすめを紹介してくれたのに。
「最後までちゃんと読めよ?」
そう言いながら、少しだけ笑う顔を思い出す。そう、もう聞けないのだ。彼は、いないのだから。
 ある日の帰り道。空は少しだけ曇っていた。でも、雨が降るような天気には見えなくて。そのまま歩いていたら、不意に、ぽつりと水滴が落ちてきた。
「……え?」
見上げると、もう一粒。気づいた時には、雨はしっかり降っていた。傘は持っていた。でも、差す間なんてなかった。差していれば、濡れずに済んだかもしれないのに。ただ、立ち尽くしているうちに、どんどん濡れていく。冷たいはずなのに、どこか温かく感じる、懐かしいあの感覚。指先に残っていた温度が、ふと蘇った。あの日みたいだ、そう思った。しばらくすると、雨は止んだ。さっきまでの音が嘘みたに消えていく。空を見上げると、もう青くなっていた。何事もなかったみたいに。でも、足元に目を落とすと、アスファルトはしっかり濡れていた。さっきまでのことを、ちゃんと残している。
「…そっか」
小さく呟く。理由は、最後まで分からなかった。そのほうがいい気がしたから。どうして、私の前からいなくなってしまったのだろうか。どうして、何も言ってくれなかったのか。…どうして、彼だったのか。それでも、あの時間がなかったことになるわけじゃない。触れた温度も、交わした言葉も。全部ちゃんと残っている。消えないまま。乾かないまま。
もしも、あの時。ちゃんと傘をさせていたら、こんな風に、残ることも、濡れることも、なかったのかな。少しだけ、そんなことを思う。でも、すぐに首を振った。きっと、違う。あの時、傘なんてさせなかった。差せるはずもなかった。あまりにも突然で。あまりにも強くて。気づいた時にはもう遅かったから。だからきっと、これで良かったんだ。たとえ、終わってしまったとしても。たとえ、もう戻れないとしても。たとえ、まだ乾かないとしても。あの時、確かにあったものを、確かに過ごした時間を、確かに隣にいた彼を、なかったことにはしたくない。
雨はもうとっくに止んでいるのに、アスファルトに残る濡れた跡だけが、あの日々を消してくれない。それでも、私はこのままでいいと思っている。
ふと空を見上げる。どこまでも青くて、何もなかったみたいな空。ほんと相変わらず…。
「別に、いいけど。」
ふと呟いてみる。