その日は、いつもよりも寒かった。教室に入った瞬間、空気の冷たさに肩がすくむ。暖房は入っているはずなのに、指先が凍りついている。うまく温まらない。席に座ってノートを開くが、ペン先が震えていた。少し遅れて、彼が教室に入って来る。
「よっ!めちゃ寒いな。」
私に向けられた挨拶、言葉。
「ね。」
それだけ返して、ペンを持つ指にまた力を入れる。いつもと同じはずの時間。ページを捲る音も、シャー芯の擦れる音も、何も変わらない。違うのは、教室の温度だけ。そのはずだった。
「ここ」
彼の声に、顔を上げる。
「この問題。」
ノートを覗き込まれて、距離が近くなる。
「またミスしてる。」
「うそ?」
「ほんと。お前、計算ミス多いよな。」
軽く笑われて、少しだけむっとする。
「どこ?」
「ここ。」
指で示されて、身を乗り出す。肩が触れそうになる。でも、今日はそれよりも…。
「……寒い。」
無意識に呟いていた。小さな声だったと思う。他の人には聞こえないくらいの。それでも、彼は一瞬だけ動きを止めた。
「……」
何も言わない。ただ、少しだけ視線が落ちる。次の瞬間だった。ふと、指先に何かが触れた。言葉を発する間もなく、そのまま手が握られる。一瞬、何が起きたのか分からなかった。思考が停止すると言うのはこう言うことなんだ、と感じた。
「……え?」
声にならない声が漏れる。ほとんどが振動のないただの空気だと思う。彼は何も言わない。私も何も言えない。ただ、手だけが繋がっている。心臓の音が、うるさいくらいに響く。ドクン、ドクンと。自分でも分かるくらいに早くなっていく。落ち着け、そう思ったところで、自分の心臓なんて制御できるものじゃない。意識は手の感覚に全て持っていかれたのかもしれない。彼の指。少しだけ冷たくて、でも、私よりは温かい。それに、触れているところだけがやけに熱くて…。逃げようと思えば逃げられたはずなのに。離そうと思えば離れられたはずなのに。何故か、動けなかった。動きたくなかった。
「……」
ちらっと横を見る。彼は前を向いたままで、何事もないみたいな顔をしてた。でも、私は見つけてしまった。彼の耳。赤くなった耳。寒さのせいだろうか、それとも…。それを見た瞬間に、私の胸の奥がぎゅっと潰されたように感じた。ああ、そう思った。これが、何なのか。どう意味なのか。全部分かってしまったのだ。私が彼に向けている感情、全部。それでも、言えなかった。聞けなかった。ただ、そのまま、しばらくの間、手を繋いでいた。どれくらいの時間が経ったのかは、もう分からなかった。気づいた時には、もう離れていたから。
「次、やるぞ。」
何事もなかったように言う彼。
「……うん。」
私はそれだけしか返せなかった。その後のことは、あまり覚えていない。さっきとは違う手に、胸の奥を掴まれたようで。いつも通りに問題を解いていたはずなのに、何を解いていたのか思い出せない。ただ、指先に残った温度だけが、ずっと消えずにいた。
帰り道。いつも通り並んで歩く道。いつもと同じはずなのに、何もかもが違って見えた。
「……今日、本当に寒いな。」
彼はまたそう言う。
「ね。」
同じように返す。でも今度は、さっきと少しだけ意味が違った。少しだけ、間があって。ぼうっと、隣を見る。彼の手が、すぐそこにあった。ほんの少し手を伸ばせば‘、届く距離。でも、その日は。それ以上何もなかった。
ただ、あの瞬間から、確かに雨が降っていた。気づいた時にはもう遅くて、びしょびしょになって。戻ることなんてできない。傘を差すにしても遅すぎた。きっと、あの時から。私は完全に“彼“と言う雨に濡れてしまっていた。
「よっ!めちゃ寒いな。」
私に向けられた挨拶、言葉。
「ね。」
それだけ返して、ペンを持つ指にまた力を入れる。いつもと同じはずの時間。ページを捲る音も、シャー芯の擦れる音も、何も変わらない。違うのは、教室の温度だけ。そのはずだった。
「ここ」
彼の声に、顔を上げる。
「この問題。」
ノートを覗き込まれて、距離が近くなる。
「またミスしてる。」
「うそ?」
「ほんと。お前、計算ミス多いよな。」
軽く笑われて、少しだけむっとする。
「どこ?」
「ここ。」
指で示されて、身を乗り出す。肩が触れそうになる。でも、今日はそれよりも…。
「……寒い。」
無意識に呟いていた。小さな声だったと思う。他の人には聞こえないくらいの。それでも、彼は一瞬だけ動きを止めた。
「……」
何も言わない。ただ、少しだけ視線が落ちる。次の瞬間だった。ふと、指先に何かが触れた。言葉を発する間もなく、そのまま手が握られる。一瞬、何が起きたのか分からなかった。思考が停止すると言うのはこう言うことなんだ、と感じた。
「……え?」
声にならない声が漏れる。ほとんどが振動のないただの空気だと思う。彼は何も言わない。私も何も言えない。ただ、手だけが繋がっている。心臓の音が、うるさいくらいに響く。ドクン、ドクンと。自分でも分かるくらいに早くなっていく。落ち着け、そう思ったところで、自分の心臓なんて制御できるものじゃない。意識は手の感覚に全て持っていかれたのかもしれない。彼の指。少しだけ冷たくて、でも、私よりは温かい。それに、触れているところだけがやけに熱くて…。逃げようと思えば逃げられたはずなのに。離そうと思えば離れられたはずなのに。何故か、動けなかった。動きたくなかった。
「……」
ちらっと横を見る。彼は前を向いたままで、何事もないみたいな顔をしてた。でも、私は見つけてしまった。彼の耳。赤くなった耳。寒さのせいだろうか、それとも…。それを見た瞬間に、私の胸の奥がぎゅっと潰されたように感じた。ああ、そう思った。これが、何なのか。どう意味なのか。全部分かってしまったのだ。私が彼に向けている感情、全部。それでも、言えなかった。聞けなかった。ただ、そのまま、しばらくの間、手を繋いでいた。どれくらいの時間が経ったのかは、もう分からなかった。気づいた時には、もう離れていたから。
「次、やるぞ。」
何事もなかったように言う彼。
「……うん。」
私はそれだけしか返せなかった。その後のことは、あまり覚えていない。さっきとは違う手に、胸の奥を掴まれたようで。いつも通りに問題を解いていたはずなのに、何を解いていたのか思い出せない。ただ、指先に残った温度だけが、ずっと消えずにいた。
帰り道。いつも通り並んで歩く道。いつもと同じはずなのに、何もかもが違って見えた。
「……今日、本当に寒いな。」
彼はまたそう言う。
「ね。」
同じように返す。でも今度は、さっきと少しだけ意味が違った。少しだけ、間があって。ぼうっと、隣を見る。彼の手が、すぐそこにあった。ほんの少し手を伸ばせば‘、届く距離。でも、その日は。それ以上何もなかった。
ただ、あの瞬間から、確かに雨が降っていた。気づいた時にはもう遅くて、びしょびしょになって。戻ることなんてできない。傘を差すにしても遅すぎた。きっと、あの時から。私は完全に“彼“と言う雨に濡れてしまっていた。



