傘を差せぬまま

 いつもと変わらない塾の帰り道。少し歩いたところで、隣を歩く彼に声をかける。
「ねえ、これ、ありがとう。」
私は鞄から一冊の本を取り出した。それは、この前、彼に借りたミステリー小説だった。
「どうだった?」
「面白かった。」
「だろ?」
彼は本を受け取ると、表紙を眺めながら少しだけ笑った。
「でも、犯人は途中で分かったよ。」
「嘘つけ。」
「ほんとだって。あのリップの場面で怪しいと思った。」
「でも、最後まで読んだんだな。」
「だって、気になるじゃん。」
そう答えると、彼は少し微笑んだ。
「まあ、その気持ちは分かる。」
「でしょ?」
たったそれだけの会話なのに、楽しかった。同じ本の話をしながら歩いていることが、当たり前になっていく。
「私はさ、結局、最後のところが一番好きだった。」
「意外だな。もっと途中のトリックとか好きかと思った。」
「そういうのも好きだけど、最後に全部つながる感じが好き。」
「へえ。」
彼は少しだけこちらに視線を向けた。
「じゃあ、今度はそういうやつにするか。」
「今度?」
私が聞き返すと、彼は一瞬目を逸らした。
「……いや、別に。」
その言い方がおかしくて、私は笑った。ふと視界に、返した彼の本が映る。読み終わった本を返すだけなのに、なぜか少しだけ名残惜しく感じた。この本が手元からなくなれば、今日まで話していたことも、一緒に歩いた帰り道も、終わってしまうような気がしたから。もちろん、そんなことはないだろうけど。また話せばいいけど。でも、なぜか不安になった。私が顔を上げると、彼と目が合った。
「また貸してくれる?」
「いいけど……読むの?」
「読む。絶対読む。」
「わかった。じゃあ、明日持ってくるから。」
「うん、ありがとう。」
そんな会話をしながら並んで歩く。頭上にはどんよりとした重々しい雲が浮かんでいた。

「はい、これ。」
翌日の塾で、彼が席につくなり鞄から取り出したのは、少し古い文庫本だった。
「ミステリー?」
「ミステリーだけどちょっと違う部分もあって…。まあ、読んでみたらわかる。たぶん、お前が好きな系統だと思う。」
「私が?」
「うん。」
なんとなく、その一言が嬉しかった。私の好きなものを知っていること。私が好きそうなものを考えてくれたこと。それが、どうして嬉しいのかは、よく分からなかったけど。
「じゃあ、読んでみる。」
「お前、読むの遅いからな。」
彼が笑みを浮かべる。
「うるさいな。」
つられて私の口角も勝手に上がってしまう。
「まあ、ゆっくりでいいから、読み終わったら感想聞かせて。」
「うん。もちろん」
私が本を受け取ったそのとき、表紙の隙間から小さな付箋がひょこっと見えた。
「…これ何?」
「ん?」
 付箋を開くと、彼の字で短く書かれていた。
『ここ、たぶんお前好き』
「なにこれ?」
「だから、読めば分かるって。」
「なんで私が好きだと思ったの?」
「…なんとなく。」
そう言って、彼は前を向いた。少しだけ赤くなった耳が髪の毛の隙間から覗いているのを見て、私はまた妙に口元が緩んだ気がした。

 家に帰り、借りた本を開く。ページをめくるたびに知らない物語の中に入り込んでいく感覚。面白くて、ドキドキするのに、心地がいい。そこかで感じたことがあるこの感覚が落ち着く。そのまましばらく読み進めて、付箋の挟まったページにたどり着いた。そこに書かれていたのは、私が好きな雰囲気の場面だった。
「…ほんとだ。」
思わず声が漏れる。彼は、どうして分かったんだろう。そのページを読み終えてからも、私はしばらく付箋を眺めていた。たった一枚の小さな紙。そこに残された、いつも見ている彼の筆跡。それだけなのに、なぜか大切なもののように思えた。読み終えたら話そう。この場面が好きだったこと。どうしてここが好きだってわかったのか。それから、彼がどうしてこの本を選んだのか。話したいことが、いくつも浮かんだ。しおりを挟み、読みかけの本を机の上に置いた。