雨は、いつから降り始めたのだろうか。いつだったか、わからない。
でも、あなたと初めて話した日のことは、ちゃんと覚えている。
あれは、いつもと同じ塾の帰りだった。授業が終わって、みんなが帰り支度をする中、私は一人、頭を抱えて座っていた。机に向かい、ノートを見つめていた。解き直しをしないといけない問題が、どうしても分からなかった。何度見ても、何度やっても、正しい答えに辿り着けない。
「まだ、残るの?」
不意に横から声がした。顔を上げると、そこにいたのは、あの人だった。同級生。でも、学校は違う。塾で何度か見かけたことはあった。でも、話したのはこの日が初めてだった。
「……うん、ちょっと分からないところがあるから。」
私がそう答えると、彼は私のノートを覗き込む。
「あー」
ある式を指差した。
「ここ、式間違ってる。」
あっさり言われて、思わず顔をしかめた。
「え、どこ?」
「ここ、符号ミス。」
指で示された式をよく見てみる。確かに小さなミスが一つ。小さくも、確かにあった。たった一つの符号ミス。それでも、一つ違えば全てが狂う。それが数学なのだ。
「ほんとだ…。」
小さな声で呟くと、彼は少しだけ笑った。嫌味には感じない、優しそうな笑み。
「惜しいな。」
その一言が悔しかった。でも、同時に、少しだけ嬉しかった。
「あ、ありがとう。」
「別に、いいけど。」
素っ気ない言葉。でも、その後も帰らずに、私の隣に腰を下ろした。
「他にも分からないのあったら教えるよ。」
「いいの?」
「まあ、暇だし。」
彼はそう言いながら、ペンを握る。その仕草が自然だった。まるで、端からそうするつもりだったかのように。それからしばらく、私たちは並んで問題を解いた。私が分からないところを聞くと、彼は嫌な顔一つせず、簡単に、私が理解しやすいように説明してくれる。無駄な言葉はなく、ただ事実だけを。頭がいいんだな、そう思った。私とは考え方が違うな、そうも思った。どのように生きていれば、このような思考に至るのか私には分からない。
「はい、ここ。式変形ミスしてる。」
「ありがとう。」
ノートを返される。私が解いたときより、少しだけ文字の増えたノート。彼は、正しい。彼の指摘は間違っていないし、彼が教えてくれた通りに展開していけば、自ずと答えが湧いてくる。教室には私と彼だけ。だからだろうか。静かな教室に、ページをめくる音だけが、やけに響いて聞こえた。
「ねえ…、」
ふと思い出したかのように、声をかけられた。
「ん、何?」
「本、読むよね?」
少し意外な質問だった。
「読むよ。」
「いつも、何系読んでるの?」
「…他にも読むけど、恋愛とか。」
そう答えると、彼は一瞬だけ間を置いた。
「…ふーん。なんか、そんな気がした。」
「なにそれ。」
思わず笑う。
「そっちは?」
「ミステリー」
即答だった。
「ミステリーか。あれ、難しいんだよね。」
「じゃあ、今度読みやすそうなの貸すよ。」
「え、ネタバレされそう…。」
「しねーよ。」
こんなやりとりが妙に楽しくて。今まで”ただ同じ塾の人”だった彼が、今まで”違う世界で生きている”と思っていた彼が、少し近くなった気がした。
その日の帰り道。晴れた空。でも、風が少しだけ湿っぽく感じた。でも、雨は降っていなかった。
まだ、その時は。
でも、あなたと初めて話した日のことは、ちゃんと覚えている。
あれは、いつもと同じ塾の帰りだった。授業が終わって、みんなが帰り支度をする中、私は一人、頭を抱えて座っていた。机に向かい、ノートを見つめていた。解き直しをしないといけない問題が、どうしても分からなかった。何度見ても、何度やっても、正しい答えに辿り着けない。
「まだ、残るの?」
不意に横から声がした。顔を上げると、そこにいたのは、あの人だった。同級生。でも、学校は違う。塾で何度か見かけたことはあった。でも、話したのはこの日が初めてだった。
「……うん、ちょっと分からないところがあるから。」
私がそう答えると、彼は私のノートを覗き込む。
「あー」
ある式を指差した。
「ここ、式間違ってる。」
あっさり言われて、思わず顔をしかめた。
「え、どこ?」
「ここ、符号ミス。」
指で示された式をよく見てみる。確かに小さなミスが一つ。小さくも、確かにあった。たった一つの符号ミス。それでも、一つ違えば全てが狂う。それが数学なのだ。
「ほんとだ…。」
小さな声で呟くと、彼は少しだけ笑った。嫌味には感じない、優しそうな笑み。
「惜しいな。」
その一言が悔しかった。でも、同時に、少しだけ嬉しかった。
「あ、ありがとう。」
「別に、いいけど。」
素っ気ない言葉。でも、その後も帰らずに、私の隣に腰を下ろした。
「他にも分からないのあったら教えるよ。」
「いいの?」
「まあ、暇だし。」
彼はそう言いながら、ペンを握る。その仕草が自然だった。まるで、端からそうするつもりだったかのように。それからしばらく、私たちは並んで問題を解いた。私が分からないところを聞くと、彼は嫌な顔一つせず、簡単に、私が理解しやすいように説明してくれる。無駄な言葉はなく、ただ事実だけを。頭がいいんだな、そう思った。私とは考え方が違うな、そうも思った。どのように生きていれば、このような思考に至るのか私には分からない。
「はい、ここ。式変形ミスしてる。」
「ありがとう。」
ノートを返される。私が解いたときより、少しだけ文字の増えたノート。彼は、正しい。彼の指摘は間違っていないし、彼が教えてくれた通りに展開していけば、自ずと答えが湧いてくる。教室には私と彼だけ。だからだろうか。静かな教室に、ページをめくる音だけが、やけに響いて聞こえた。
「ねえ…、」
ふと思い出したかのように、声をかけられた。
「ん、何?」
「本、読むよね?」
少し意外な質問だった。
「読むよ。」
「いつも、何系読んでるの?」
「…他にも読むけど、恋愛とか。」
そう答えると、彼は一瞬だけ間を置いた。
「…ふーん。なんか、そんな気がした。」
「なにそれ。」
思わず笑う。
「そっちは?」
「ミステリー」
即答だった。
「ミステリーか。あれ、難しいんだよね。」
「じゃあ、今度読みやすそうなの貸すよ。」
「え、ネタバレされそう…。」
「しねーよ。」
こんなやりとりが妙に楽しくて。今まで”ただ同じ塾の人”だった彼が、今まで”違う世界で生きている”と思っていた彼が、少し近くなった気がした。
その日の帰り道。晴れた空。でも、風が少しだけ湿っぽく感じた。でも、雨は降っていなかった。
まだ、その時は。



