週明けの放課後、僕は学校に併設された図書室に訪れていた。新しく本を借りたいという、仁科の付き添いだった。
初めて訪れた図書室の第一印象は、思いのほか小さい、だった。ぐるりと一周するだけなら一分も満たない面積に、壁二辺を埋めるだけで書架もない蔵書数。これでも公立高校の中では規模が大きい方らしいが、この手の設備に潤沢さを求めるなら私立やインターナショナルに通うしかないというのが仁科の談だった。
「マニラは公共図書館も少ないしな。なかなか本に出会えない」
他に生徒が見当たらない中、仁科は真っ直ぐ部屋の一画に進む。目当ての本は既に決まっていたのか、彼はその一冊を手に取った。ついでに「お前はどうすんの?」と尋ねられれば、僕は「借りたいほどではないんだけど」と前置きつつ、気になっている本を挙げることにする。
「ここに、都市伝説の本ってないかな?」
「……都市伝説? お前、そういうの興味あんのか」
「いや、そういうわけじゃないんだけど……何となく?」
仁科はわずかに考える素振りを見せると、「そうだな」と足の先を方向転換する。「たしかここらへんに……」と言いながら向かう先は、もう一つの壁の本棚、大まかに「風俗・民俗学」とカテゴリされた区画。彼はそこから一冊の本を引き抜くと、「これは?」と僕に手渡してくれた。題字には「口承に基づく現代魔術」の文字。なんか……それっぽい!
「ちょっと気になることがあってね」
「じゃあ、そこで軽く読んでいくか」
仁科が指差した方向には、長机と椅子が用意されている。夜間組の授業が終わるまで開放されているのを考えれば、さくっと読みたいところだけ読んでしまう方が都合は良かった。
「仁科は良いの?」
「俺はこれ読んでる」
手元の冊子をひらひらされれば、僕はありがたく彼の厚意に甘えることにする。そうして二人して席へ向かうと、僕は机越しの、彼の向かい側に腰を降ろした。
仁科は本を開くとすぐに没頭し、まるで僕のことなど忘れてしまったかのように読み進めてはページを捲る。僕はその姿をしばらくぼんやりと眺めては、やがて自分も手元の冊子を開くことにした。
あの後──教会で雨宿りののち、僕らはすぐに帰宅の途についた。仁科の様子が明らかに良くなかったこと、そして何より本人が「あの場所から離れたい」と望んだのが理由だ。
結局、彼とジョンさんが何を話していたのかはわからない。だが、あの憔悴した顔を見るかぎり、あまり快い内容ではなかったのは確かだろう。だから僕も無理に踏み込むことはせず、特に会話らしい会話もないまま、その日は別れたのだった。
幸いだったのは、今朝の登校時には仁科の調子がいつも通りに戻っていたことだ。僕が「おはよう」と声をかければ、「はよ」と返ってきたし、僕が忘れ物をした話をすれば、呆れつつも笑ってくれた。本人が気にしていないようだったので、僕としてはそれで十分なはずだった。
(……なんてね。本当に納得してるなら、わざわざこんな本読まないけどな)
ぱらぱらとページをめくり、目当ての記事で指を止める。見出しには「死者蘇生の儀式」とあり、その詳細が記されていた。
あの日以降、僕は教会で耳にした都市伝説について考えていた。噂話をしていた女性の一人が口にした「顔が無い」という表現が、奇しくも動画に映る仁科の状況とそっくりだったからだ。もしかすれば、彼はその都市伝説に関わっているのかもしれないと、こうして調べることにしたのだ。
記事には以下の内容が書かれていた。
一、概要
本儀式は、■■地域に伝承する「むこうの世界に行ってしまった人を呼び戻す行為」とされる。伝統と共存する民間信仰とみられ、現在では「故人を蘇らせる黒魔術」と考えられる。
体系的な記録はほとんど残っておらず、部分的な口承と民俗資料により存在が示唆されるのみである。
二、条件
対象物:故人に関連のある物品。特に、骨や血液、頭髪といった、故人の肉体にまつわるもの
故人の身代わりとなる肉体。特に、故人と同じ性別、近い年齢の第三者の肉体
補足:「むこうの世界」を認識できない場合は、「こちらの世界」を対称に写す物品を要す
三、行程
Ⅰ:呼び戻す際の身代わりとなる肉体を用意する
なお、この時点で肉体は「こちらの世界」のものではあってはならない
Ⅱ:上記の肉体と、故人にゆかりのある物品を並べ、「むこうの世界」を映すものをかざす
Ⅲ:「こちらの世界」が「むこうの世界」と癒着するのを確認
ややあって周囲に故人とまったく同じ見かけの■■が発生するのを確認
Ⅳ:儀式終了。新たに発生した■■■■■■■■
四、補足
・過去の記録において、成功例は確認されているものの稀。報告の多くは不確実である
・儀式後に発生した■■が故人と同一であるという裏付けはない
・儀式が失敗した場合は■■の顔が黒く潰れたように失われることがある
※「こちらの世界」、「むこうの世界」の明確な定義については不明
※■■部については不明
続きにはさらに、資料としてこの儀式の成功例が記されてあった。
(前略)
西暦■■■■年、■■■にて「儀式」を試みた記録が残っている。
執り行ったのは■■という人物で、対象となったのは直前に亡くなった彼の娘であった。
身代わりとして、当時流行した疫病で亡くなった■■の娘と■■■の娘の遺体が用意された。
(中略)
二体を中央に並べ、その周囲を三方向から鏡で囲む。続いて、粉砕した娘の骨を周囲に撒いたとされる。
(後略)
儀式の終盤、鏡越しのむこう側に二人の女の姿が現れたという。
■■はそれを娘の蘇生と受け取り、深く喜んだのちに娘たちと共に■■■を去ったと口承される。
なお、それ以降の記録は確認されていない。
※■■部については不明
最後まで読み進めると、僕は大きく息を吐いた。普段こういったオカルト系と縁がないせいか、ただ読むだけでも妙に疲れてしまう。けれど内容を見れば、これはあの教会で噂されていた都市伝説に間違いなかった。
(そういえば、さっきスマホで調べた時にも似たような話が載ってたな)
朝礼前に見た内容を思い出す。それはたしか、「死んだ弟を生き返らせようと儀式に手を出した友人がいた」という話だった。けれど結局、このケースは失敗に終わっていた。現われた男の顔が、まるで穴が空いたように真っ黒だったらしいのだ。この文献で言うところの「顔が黒く潰れたように失われた」状態。儀式が失敗に終わったことで、その友人、もとい実行者は異常をきたし、最終的に自死を選んだという。
曖昧だったものが固まって形になるように、それは僕の中で急に現実味を帯びる。もしこれがガセではなく、本当に存在する儀式なのだとしたら──動画の中で仁科の顔が無かったことは、ただの不気味な現象ではなく、理由のあることになってしまう。
(仁科は……死んでいるのか?)
死んでいるのに、この「儀式」を通じて蘇ったというのか。
ショックに口元を手で覆う。まさか友達が死んでいるだなんて、想像すらしていなかったからだ。そして同時に混乱した。この現実とどう向き合えばいいのか。どうすればいいのか。その手に負えない困惑だけが、頭の中でぐるぐると渦を巻くようだった。
もちろん、恐ろしくないわけではない。初めてあの真っ黒な顔を見た時、僕は「気のせいだろ?」と自分に言い聞かせながらも、その異質さに咄嗟に目を背けた。人間は知らないこと、特に自身の理解に及ばないことに恐怖を感じる傾向にあるが、僕にとってあの映像はまさにそうだった。が、それは怪異でも心霊現象でもない、まぎれもない事実なわけで。
(仁科の顔が真っ黒になるのは、動画の中だけだ)
その理屈までは、そして儀式が成功しているのか否かも、僕にはわからない。実際、目の前にいる仁科はいつもの仁科だ。顔もある。目も鼻も口も、ちゃんとそこにある。だからこそ、映像の中で「顔が無い」という事実が、余計に理解できなかった。……が、そんな中でも、これが他人に知られてはいけないことだ、という感覚だけははっきりしていて。
もし周囲にこのことが知られたら、仁科はきっと孤立してしまうだろう。怖いからだ。死から蘇ったなんて、顔が無いなんて、異様で、普通ではないから。……でも、
──僕は君を、絶対にぼっちになんかさせない!
そう、決めたから。仁科の友達で、そして彼がどんな人かを知っているから──僕は、彼のこの秘密を守ろうと思った。知らないふりをして、これまで通り接しようと思ったのだ。
(だけど……もし仁科が蘇った死者だとしたら、いったい誰がその儀式を行ったんだ?)
そもそも、仁科はどうして死んだんだ?
ぽっつりと浮かんだ疑問に、僕はその視線を彼へ寄越す。すると偶然にも目が合い、彼は僕に対して怪訝そうに眉をひそめた。「なんだよ」という、そのぶっきらぼうな声に、僕は不自然にもたじろいでしまう。
「あっ……えっと、これはその……あのですね……」
平然としていればいいものの、あいにくとそんな器用さは持ち合わせていない。どう取り繕おうか、頭の中で必死に思考をこねくり回していると、手元のページがぱらりと捲れた。そうして視界に飛び込んできたのは、この国に伝わる皿の伝承。
「そ、そう! えっと……そう、出かける前に皿が割れたら、って話!」
出かける前に皿が割れたら──君はどうする?
苦し紛れの問いかけに、仁科は「どうするって……」と口を噤む。しばし質問の内容をさらうかのような沈黙。それから返ってきたのは、「別にどうもしねえ」という端的ながら彼らしい回答で。
「割れたな、って思って掃除するだけ。……つか、なんだよそれ」
「おまじないの話だよ。聞いたことない? 外出する前に皿が割れたら、その皿が寂しがって出先で人間に不幸をもたらすんだって。だから魔除けでもう一枚、皿を割るんだ」
「うさんくせえな。で? お前はどうすんだよ」
「二枚も割れるなんてもったいない! ので……時間を巻き戻して、そもそも割らないように気をつける!」
「くだらねえ。やれるもんならやってみろ」
お気に召さなかったのか、僕の意見はあえなく一蹴される。たしかに答えとして「時間を巻き戻す」は反則だったかもしれない。そもそも現実的ではない以上、冗談の域を出ないからだ。けれど、僕にはちょっとした意図があった。
「ごめんね、仁科。別にふざけたことが言いたいんじゃなくて……ただ、『皿が寂しがる』って言うのが、なんか可哀想で」
僕は話を続ける。頭が悪く、簡潔に言うことができない僕は、誤解が生まれそうな時は思ったことをそのまま口にすることにしていた。
「普通に考えたら、皿が寂しいって思うはずないだろ? だってただの物なんだから。感情がないんだから、寂しがるはずがない。でも、その皿は寂しいんだって。できないことができちゃうくらい……寂しい、って思えちゃうくらい」
それくらい、すっごく寂しいんだろうなって思ったら……時間くらい、巻き戻してやりたくなるだろ。
比喩とか、フィクションとか、そういった類いの話だ。むろん実際にできるとは言っていなくて、僕もそれはわかっている。が、その現代魔術には「おまじない」らしい温かさがあって、僕はそれに応えたかったのだ。
「……僕さ、映画見るの好きなんだよね」
映画鑑賞そのものが好きだ。だから映画のジャンルや撮影年代にあまりこだわりはなくて、分け隔てなく、見たいものを見たい時に見ていた。
「アクション映画だったら『ワイルド・スピード』、『アベンジャーズ』。ロマンス映画だったら『ラ・ラ・ランド』、『シェイプ・オブ・ウォーター』。古いけど、『タイタニック』も鉄板だけあって好き」
だけど、僕にも特に好きな設定というものがある。それがサイエンス・フィクション、中でも時空を越える「時間もの」系。
「『バック・トゥ・ザ・フューチャー』は子どもの頃から一番のお気に入りなんだ。『バタフライ・エフェクト』や『アバウト・タイム』も大好き」
「……『時をかける少女』とか、そういう?」
「そうそう。あれは実写もアニメも良かったよね。大好き!」
なぜ時間ものが好きなのかといえば、あらゆる設定の中でも特に空想的だと思っているからだった。時空を越えることは現代の技術では困難なうえ、現象が世界に与える影響も大きい。だが、映画だったら可能だった。あまりに突飛なファンタジーは、創作物の特権だからだ。
銀幕の中だからこそ描ける世界を愛していた。見ているだけでその物語の登場人物の一人になれたような気がして、その非現実的な手触り、リアルとは一線を画した体験に浸っているのが好きだったのだ。それは、そのうち熱意が高じて、自分で動画を作るようになるほど。VLOGを作るようになったのも、それがきっかけだった。
「映画のようにはいかない。けど、映画のおかげで『時間を巻き戻せたらいいな』とは思うんだ。つまりそういうことだよ──皿を二枚割ることになるなら、時間を巻き戻すってのは」
そんなことは無理も承知で、「そうしたい」と望む。それが悪意ではないことを伝えようとすれば、仁科は何も言わずそれに頷いた。肯定の意、要するに彼は納得してくれたらしい。
「くだらないとは思うけどな。でも、お前が映画オタクなのはわかった」
「オタクってほどじゃないと思うけど」
「いつも以上に饒舌だったぞ。よっぽど好きなんだな」
仁科の指摘に僕はじわりと頬を赤らめる。そこまでだっただろうか、と視線を泳がせて、いやいやと首を横に振る。ただ映画鑑賞をしていれば、「その世界に生きてる!」という感じがするし、動画編集をしていれば、「この世界を創ってる!」と思うだけだ。それを「よほどの好き」と表わすなら、仁科だって読書に夢中じゃないか、と思った。
「何の本読んでるの?」
いつか同じようなことを聞いたな、と思いつつ尋ねてみれば、仁科は無言で表紙を一瞥する。次いで、「……『確率における哲学的試論』」と言われれば、僕は「ん?」と頭の上にハテナを浮かべた。
「確率における……何て言った?」
「『確率における哲学的試論』。まあ、あれだ。自然哲学の本だ」
「自然哲学……?」
言い直されたところでよくわからないのが本音。そこで僕は正直に「はい、先生。何もわかりません!」と答えれば、仁科は「素直でよろしい」と頷いた。しかし本の表紙を撫でる、その指が目に入れば、僕はつい「それって何?」と話を続けていた。彼もまた意外だったようで、「何って……」とその声をくぐもらせる。
「数学者のラプラスってやつの本だ」
「なんで? 哲学なのに数学なの?」
「昔は哲学と数学が密接に結びついてたんだ。内容は……ムズいな。上手く言い表せない」
「だよな。哲学って時点でよくわからないのに、それに数学が入ってきたらもっと意味わかんないよ」
僕の反応に仁科はプッと噴き出す。嘲笑されているのかと思いきや、「たしかにそうだな」と同意されれば、僕は彼の表情が先よりいくぶんか緩んでいるの気がついた。
「ラプラスの悪魔って聞いたことあるか? その元になった、決定論を唱えた学者の話だ」
「何か聞いたことあるな……」
「さっきお前が言ってた、『バタフライ・エフェクト』の題材になったバタフライ効果と関連するからだろう」
決定論とは、簡単には「すべての未来は必然であり、既に決まっている」とする理論だという。ラプラスはこれを数学の論理に基づいて提唱した人物であり、氏によれば、僕と仁科がこうして図書室で本を読んでいることも、宇宙が始まった時から決まっていたらしい。
「もっとも、この理論は現在では否定されている。間違っているんだ。でも……なんか良いだろ。夢があって」
「夢?」
一瞬、僕は「それはどうだろう」と思った。宇宙が何万年前からあるかはわからないが、そんな昔から今日この瞬間が決まっているというのは、なかなかロマンがあると思ったからだ。
こうなると決まっている──それはすなわち、この世界には「運命」があるということだから。
「視点の違いだな。俺は逆に、決まっていないからこそ物事はすべて運命なんだと思う。全部偶然の巡り合わせなんだ。だから、夢がある」
仁科は言う。俺は別に読書が好きなわけじゃない、と。本の中でも、哲学書を読むのが好きなのだ、と。
「こういうのを読んでいると、上手くいかないことがあった時に納得できた気になるんだ。世界はこうで、自分はこうだからこうなった。だからきっと、これでいい、これが最善──みたいな」
「仁科は哲学が好きなんだな」
「好きなわけねえだろ」
「……は⁉」
僕はその回答に言葉を失う。意味がわからなかった。「だって今、哲学書を読むのが好きって……」と言いかければ、仁科はあくまで「読むのが好きなだけだ」と強調した。
「前も言ったろ。本を読んでる間は他のことを考えないで済む、って」
仁科が言うに、哲学とはつくづく実用性に欠けるものだった。研究したとして仕事や金にはならないし、生活が豊かになるわけでもない。結論のない学問だから、時間を使うだけ無駄とすら思われる。加えて、生きづらさを感じたり、社会に馴染めない人間が惹かれるだけあって、「現実逃避をしているだけ」というレッテルを貼られる始末。
「好きなはずがないだろ。こんな役に立たなくて、何も生まない学問なんて」
吐き捨てるような仁科の物言いに、僕はわずかに目を見開く。その声音は硬さを内包していて、辺りにたちまち緊張感をもたらすようだった。まるですべてを拒絶するみたい。僕も……彼自身でさえも。
だからきっと、それは本心ではなかった。
「仁科って……ホント卑屈だなぁ」
「あ?」
彼の額に青筋を立てる。不本意だったのか、不良らしい迫力を醸し出す彼だったが、僕がそれに怯むことはなかった。むしろ「馬鹿だなぁ」と言わんばかりに、鼻ではんと笑うほど。
「だってそうだろ? 金にならない、時間の無駄、現実逃避──それがなんだよ。好きなら好きでいいじゃん!」
自然と言葉に力が入る。ああだって、それが仮に仁科本人だったとしても、彼の本当の気持ちを蔑ろにされるのは腹が立ったからだ。
僕は仁科が哲学書を読んでいる時の顔を知っていた。普段よりいくらか柔和な表情で、熱中してているのを知っていた。彼は心から読書を楽しんでいたのだ。だって、哲学が好きだから。
「役に立たない、何も生まない……これ全部、映画鑑賞がそうだよ! VLOGもそうだよ! つまり僕と一緒。結局は自己満足、価値はゼロ。ただ自分が満たされるだけ!」
それしかない。だが、それがすべてだった。それが「好き」ということだった。
「僕、仁科ほど頭良くないから、哲学が何なのかは正直わからない。胸張って『すごい』とは言えない。何が良いのかは説明できない。……でも、さっき仁科が今読んでる本を紹介してくれてる時、楽しそうだったから。それって好きってことなんじゃないの?」
さもなくば、運命の定義に「夢がある」とは言わないだろう。興味がないと無視するか、または馬鹿げていると冷笑したはずだ。それでも、彼はそう言った──その事実が、何よりの証明だろう。にもかかわらず、彼が自らその本心を否定してしまうのは、なんだかひどくもの悲しかった。
「……哲学じゃ、世界を救えない」
「でも読んでて楽しいんだろ? なら、それで十分じゃん。その本は君を救ってる。それだけで、十分」
ぐっと顎を引き、唇を結ぶ。愚直に仁科の方を見据えれば、「なに必死になってんだよ」と彼の口角が震えた。所詮は他人事だろ、と言わんばかりの顔は、そのくせ不愉快じみた後ろめたさを帯びていて、僕を前にたじろいでいるのがわかる。しかし妥協する気はさらさらなかった。この期に及んで、僕は彼にその「好き」を認めてほしかったからだ。
「どうしてそんなこだわる? どうでもいいだろ、こんなこと」
「どうでもよくない! 絶対に認めさせる」
「うざい。しつけえ。つか、なんでお前にそんなこと言われなきゃいけねえんだよ」
「僕だからだろ! 僕が、君の友達だから!」
バンッと机を叩き、勢いよく立ち上がってはその日一番の声を張る。断言したのは、僕の心からの気持ち。そしてこの状況にこだわる最たる理由。
「僕は君を肯定したいんだよ‼」
そう、友達だから、すべて理解したいのだ。仁科の好きなものも、その面倒くさい性格も、友達だから受け入れてやりたかった。そして僕の前ではありのままに振る舞ってほしい。……ただ、それだけ。
僕は伝えたかった。少なくとも僕は、哲学を愛す君を馬鹿にはしない、と。難しい本を一人で読み解ける君を尊敬している、と。
「ちょっと、そこ静かにしなさい!」
と、その時、にゅっと顔を出した司書の先生に、僕はギクリと背筋を強ばらせる。……そういえば、ここは図書室だった。
慌てて「すみません!」と頭を下げては着席。場所を失念するほどに熱くなっていたことに気づくと、僕は赤面せずにはいられなかった。隠れるように俯いた耳に、くすっと笑う声が届く。僕はそちらに向くと、ジトりと冷たい視線を寄越した。
「仁科……君、最低だぞ」
「わ、悪い。でも、面白くて……くくっ」
よほどツボに入ったのか、悪びれもせず笑い続ける彼に、僕はその口をへの字に曲げる。自分としては真剣に言ったつもりだったのに、なんだこの後味の悪さは。恥ずかしいやら、納得いかないやら──そのくせ、笑っている彼の顔を見れば、そんな毒気は抜かれてしまって。
落ち着いてきたのか、やがて仁科は笑いを収める。するとおもむろに立ち上がっては、僕の隣にそっと腰を下ろした。ふうとひと息を吐いては流し目。あと少しで肩が当たりそうなほどの距離からこちらを覗き込む、その端正な作りの顔立ちに、僕の心臓はヘンな音を立てた。
「お前って、わりと頑固だよな」
「何だよ。悪口かよ」
「まさか。褒めてんだよ」
「全然そんな感じしないけど」
ぶすっと口を尖らせる僕とは対照的に、仁科はどこか上機嫌だった。
ひそひそ声でやり取りを交わすうち、胸の鼓動が速まり、体温がじわりと上がっていくのがわかる。気づけば──いつの間にか、彼の顔をまともに見られなくなっていた。
「……なあ」
耳元で囁かれた声が、肌をくすぐる。一際強く拍動が刻まれれば、それはいっそ痛いくらいだった。そしてその瞬間に胸の奥で芽生えたのは、これまで抱いたことのない種類の感情で。
「さっきの、やっぱり俺は言えねえ。俺にその資格はないからな。でも……ああ言ってくれたのは、嬉しかった」
ありがとな、吾妻。
その一瞬だけ、僕の視界の彩度が高まる。ああどうして、その言葉はきらきら光る宝石のように、あるいは暖かな春の日だまりのように思えたのだろうか。
仁科があんなふうに素直な気持ちを見せるなんて、本当に珍しい。だからこそ今、どんな顔をしているのか知りたくてたまらなかった。けれどどうしても視線を上げられない。胸がざわついて、目が合うのが怖くて、僕はしばらく瞬きを繰り返すことしかできなくて。
知らない感情を、僕は不器用にも扱いかねていた。
初めて訪れた図書室の第一印象は、思いのほか小さい、だった。ぐるりと一周するだけなら一分も満たない面積に、壁二辺を埋めるだけで書架もない蔵書数。これでも公立高校の中では規模が大きい方らしいが、この手の設備に潤沢さを求めるなら私立やインターナショナルに通うしかないというのが仁科の談だった。
「マニラは公共図書館も少ないしな。なかなか本に出会えない」
他に生徒が見当たらない中、仁科は真っ直ぐ部屋の一画に進む。目当ての本は既に決まっていたのか、彼はその一冊を手に取った。ついでに「お前はどうすんの?」と尋ねられれば、僕は「借りたいほどではないんだけど」と前置きつつ、気になっている本を挙げることにする。
「ここに、都市伝説の本ってないかな?」
「……都市伝説? お前、そういうの興味あんのか」
「いや、そういうわけじゃないんだけど……何となく?」
仁科はわずかに考える素振りを見せると、「そうだな」と足の先を方向転換する。「たしかここらへんに……」と言いながら向かう先は、もう一つの壁の本棚、大まかに「風俗・民俗学」とカテゴリされた区画。彼はそこから一冊の本を引き抜くと、「これは?」と僕に手渡してくれた。題字には「口承に基づく現代魔術」の文字。なんか……それっぽい!
「ちょっと気になることがあってね」
「じゃあ、そこで軽く読んでいくか」
仁科が指差した方向には、長机と椅子が用意されている。夜間組の授業が終わるまで開放されているのを考えれば、さくっと読みたいところだけ読んでしまう方が都合は良かった。
「仁科は良いの?」
「俺はこれ読んでる」
手元の冊子をひらひらされれば、僕はありがたく彼の厚意に甘えることにする。そうして二人して席へ向かうと、僕は机越しの、彼の向かい側に腰を降ろした。
仁科は本を開くとすぐに没頭し、まるで僕のことなど忘れてしまったかのように読み進めてはページを捲る。僕はその姿をしばらくぼんやりと眺めては、やがて自分も手元の冊子を開くことにした。
あの後──教会で雨宿りののち、僕らはすぐに帰宅の途についた。仁科の様子が明らかに良くなかったこと、そして何より本人が「あの場所から離れたい」と望んだのが理由だ。
結局、彼とジョンさんが何を話していたのかはわからない。だが、あの憔悴した顔を見るかぎり、あまり快い内容ではなかったのは確かだろう。だから僕も無理に踏み込むことはせず、特に会話らしい会話もないまま、その日は別れたのだった。
幸いだったのは、今朝の登校時には仁科の調子がいつも通りに戻っていたことだ。僕が「おはよう」と声をかければ、「はよ」と返ってきたし、僕が忘れ物をした話をすれば、呆れつつも笑ってくれた。本人が気にしていないようだったので、僕としてはそれで十分なはずだった。
(……なんてね。本当に納得してるなら、わざわざこんな本読まないけどな)
ぱらぱらとページをめくり、目当ての記事で指を止める。見出しには「死者蘇生の儀式」とあり、その詳細が記されていた。
あの日以降、僕は教会で耳にした都市伝説について考えていた。噂話をしていた女性の一人が口にした「顔が無い」という表現が、奇しくも動画に映る仁科の状況とそっくりだったからだ。もしかすれば、彼はその都市伝説に関わっているのかもしれないと、こうして調べることにしたのだ。
記事には以下の内容が書かれていた。
一、概要
本儀式は、■■地域に伝承する「むこうの世界に行ってしまった人を呼び戻す行為」とされる。伝統と共存する民間信仰とみられ、現在では「故人を蘇らせる黒魔術」と考えられる。
体系的な記録はほとんど残っておらず、部分的な口承と民俗資料により存在が示唆されるのみである。
二、条件
対象物:故人に関連のある物品。特に、骨や血液、頭髪といった、故人の肉体にまつわるもの
故人の身代わりとなる肉体。特に、故人と同じ性別、近い年齢の第三者の肉体
補足:「むこうの世界」を認識できない場合は、「こちらの世界」を対称に写す物品を要す
三、行程
Ⅰ:呼び戻す際の身代わりとなる肉体を用意する
なお、この時点で肉体は「こちらの世界」のものではあってはならない
Ⅱ:上記の肉体と、故人にゆかりのある物品を並べ、「むこうの世界」を映すものをかざす
Ⅲ:「こちらの世界」が「むこうの世界」と癒着するのを確認
ややあって周囲に故人とまったく同じ見かけの■■が発生するのを確認
Ⅳ:儀式終了。新たに発生した■■■■■■■■
四、補足
・過去の記録において、成功例は確認されているものの稀。報告の多くは不確実である
・儀式後に発生した■■が故人と同一であるという裏付けはない
・儀式が失敗した場合は■■の顔が黒く潰れたように失われることがある
※「こちらの世界」、「むこうの世界」の明確な定義については不明
※■■部については不明
続きにはさらに、資料としてこの儀式の成功例が記されてあった。
(前略)
西暦■■■■年、■■■にて「儀式」を試みた記録が残っている。
執り行ったのは■■という人物で、対象となったのは直前に亡くなった彼の娘であった。
身代わりとして、当時流行した疫病で亡くなった■■の娘と■■■の娘の遺体が用意された。
(中略)
二体を中央に並べ、その周囲を三方向から鏡で囲む。続いて、粉砕した娘の骨を周囲に撒いたとされる。
(後略)
儀式の終盤、鏡越しのむこう側に二人の女の姿が現れたという。
■■はそれを娘の蘇生と受け取り、深く喜んだのちに娘たちと共に■■■を去ったと口承される。
なお、それ以降の記録は確認されていない。
※■■部については不明
最後まで読み進めると、僕は大きく息を吐いた。普段こういったオカルト系と縁がないせいか、ただ読むだけでも妙に疲れてしまう。けれど内容を見れば、これはあの教会で噂されていた都市伝説に間違いなかった。
(そういえば、さっきスマホで調べた時にも似たような話が載ってたな)
朝礼前に見た内容を思い出す。それはたしか、「死んだ弟を生き返らせようと儀式に手を出した友人がいた」という話だった。けれど結局、このケースは失敗に終わっていた。現われた男の顔が、まるで穴が空いたように真っ黒だったらしいのだ。この文献で言うところの「顔が黒く潰れたように失われた」状態。儀式が失敗に終わったことで、その友人、もとい実行者は異常をきたし、最終的に自死を選んだという。
曖昧だったものが固まって形になるように、それは僕の中で急に現実味を帯びる。もしこれがガセではなく、本当に存在する儀式なのだとしたら──動画の中で仁科の顔が無かったことは、ただの不気味な現象ではなく、理由のあることになってしまう。
(仁科は……死んでいるのか?)
死んでいるのに、この「儀式」を通じて蘇ったというのか。
ショックに口元を手で覆う。まさか友達が死んでいるだなんて、想像すらしていなかったからだ。そして同時に混乱した。この現実とどう向き合えばいいのか。どうすればいいのか。その手に負えない困惑だけが、頭の中でぐるぐると渦を巻くようだった。
もちろん、恐ろしくないわけではない。初めてあの真っ黒な顔を見た時、僕は「気のせいだろ?」と自分に言い聞かせながらも、その異質さに咄嗟に目を背けた。人間は知らないこと、特に自身の理解に及ばないことに恐怖を感じる傾向にあるが、僕にとってあの映像はまさにそうだった。が、それは怪異でも心霊現象でもない、まぎれもない事実なわけで。
(仁科の顔が真っ黒になるのは、動画の中だけだ)
その理屈までは、そして儀式が成功しているのか否かも、僕にはわからない。実際、目の前にいる仁科はいつもの仁科だ。顔もある。目も鼻も口も、ちゃんとそこにある。だからこそ、映像の中で「顔が無い」という事実が、余計に理解できなかった。……が、そんな中でも、これが他人に知られてはいけないことだ、という感覚だけははっきりしていて。
もし周囲にこのことが知られたら、仁科はきっと孤立してしまうだろう。怖いからだ。死から蘇ったなんて、顔が無いなんて、異様で、普通ではないから。……でも、
──僕は君を、絶対にぼっちになんかさせない!
そう、決めたから。仁科の友達で、そして彼がどんな人かを知っているから──僕は、彼のこの秘密を守ろうと思った。知らないふりをして、これまで通り接しようと思ったのだ。
(だけど……もし仁科が蘇った死者だとしたら、いったい誰がその儀式を行ったんだ?)
そもそも、仁科はどうして死んだんだ?
ぽっつりと浮かんだ疑問に、僕はその視線を彼へ寄越す。すると偶然にも目が合い、彼は僕に対して怪訝そうに眉をひそめた。「なんだよ」という、そのぶっきらぼうな声に、僕は不自然にもたじろいでしまう。
「あっ……えっと、これはその……あのですね……」
平然としていればいいものの、あいにくとそんな器用さは持ち合わせていない。どう取り繕おうか、頭の中で必死に思考をこねくり回していると、手元のページがぱらりと捲れた。そうして視界に飛び込んできたのは、この国に伝わる皿の伝承。
「そ、そう! えっと……そう、出かける前に皿が割れたら、って話!」
出かける前に皿が割れたら──君はどうする?
苦し紛れの問いかけに、仁科は「どうするって……」と口を噤む。しばし質問の内容をさらうかのような沈黙。それから返ってきたのは、「別にどうもしねえ」という端的ながら彼らしい回答で。
「割れたな、って思って掃除するだけ。……つか、なんだよそれ」
「おまじないの話だよ。聞いたことない? 外出する前に皿が割れたら、その皿が寂しがって出先で人間に不幸をもたらすんだって。だから魔除けでもう一枚、皿を割るんだ」
「うさんくせえな。で? お前はどうすんだよ」
「二枚も割れるなんてもったいない! ので……時間を巻き戻して、そもそも割らないように気をつける!」
「くだらねえ。やれるもんならやってみろ」
お気に召さなかったのか、僕の意見はあえなく一蹴される。たしかに答えとして「時間を巻き戻す」は反則だったかもしれない。そもそも現実的ではない以上、冗談の域を出ないからだ。けれど、僕にはちょっとした意図があった。
「ごめんね、仁科。別にふざけたことが言いたいんじゃなくて……ただ、『皿が寂しがる』って言うのが、なんか可哀想で」
僕は話を続ける。頭が悪く、簡潔に言うことができない僕は、誤解が生まれそうな時は思ったことをそのまま口にすることにしていた。
「普通に考えたら、皿が寂しいって思うはずないだろ? だってただの物なんだから。感情がないんだから、寂しがるはずがない。でも、その皿は寂しいんだって。できないことができちゃうくらい……寂しい、って思えちゃうくらい」
それくらい、すっごく寂しいんだろうなって思ったら……時間くらい、巻き戻してやりたくなるだろ。
比喩とか、フィクションとか、そういった類いの話だ。むろん実際にできるとは言っていなくて、僕もそれはわかっている。が、その現代魔術には「おまじない」らしい温かさがあって、僕はそれに応えたかったのだ。
「……僕さ、映画見るの好きなんだよね」
映画鑑賞そのものが好きだ。だから映画のジャンルや撮影年代にあまりこだわりはなくて、分け隔てなく、見たいものを見たい時に見ていた。
「アクション映画だったら『ワイルド・スピード』、『アベンジャーズ』。ロマンス映画だったら『ラ・ラ・ランド』、『シェイプ・オブ・ウォーター』。古いけど、『タイタニック』も鉄板だけあって好き」
だけど、僕にも特に好きな設定というものがある。それがサイエンス・フィクション、中でも時空を越える「時間もの」系。
「『バック・トゥ・ザ・フューチャー』は子どもの頃から一番のお気に入りなんだ。『バタフライ・エフェクト』や『アバウト・タイム』も大好き」
「……『時をかける少女』とか、そういう?」
「そうそう。あれは実写もアニメも良かったよね。大好き!」
なぜ時間ものが好きなのかといえば、あらゆる設定の中でも特に空想的だと思っているからだった。時空を越えることは現代の技術では困難なうえ、現象が世界に与える影響も大きい。だが、映画だったら可能だった。あまりに突飛なファンタジーは、創作物の特権だからだ。
銀幕の中だからこそ描ける世界を愛していた。見ているだけでその物語の登場人物の一人になれたような気がして、その非現実的な手触り、リアルとは一線を画した体験に浸っているのが好きだったのだ。それは、そのうち熱意が高じて、自分で動画を作るようになるほど。VLOGを作るようになったのも、それがきっかけだった。
「映画のようにはいかない。けど、映画のおかげで『時間を巻き戻せたらいいな』とは思うんだ。つまりそういうことだよ──皿を二枚割ることになるなら、時間を巻き戻すってのは」
そんなことは無理も承知で、「そうしたい」と望む。それが悪意ではないことを伝えようとすれば、仁科は何も言わずそれに頷いた。肯定の意、要するに彼は納得してくれたらしい。
「くだらないとは思うけどな。でも、お前が映画オタクなのはわかった」
「オタクってほどじゃないと思うけど」
「いつも以上に饒舌だったぞ。よっぽど好きなんだな」
仁科の指摘に僕はじわりと頬を赤らめる。そこまでだっただろうか、と視線を泳がせて、いやいやと首を横に振る。ただ映画鑑賞をしていれば、「その世界に生きてる!」という感じがするし、動画編集をしていれば、「この世界を創ってる!」と思うだけだ。それを「よほどの好き」と表わすなら、仁科だって読書に夢中じゃないか、と思った。
「何の本読んでるの?」
いつか同じようなことを聞いたな、と思いつつ尋ねてみれば、仁科は無言で表紙を一瞥する。次いで、「……『確率における哲学的試論』」と言われれば、僕は「ん?」と頭の上にハテナを浮かべた。
「確率における……何て言った?」
「『確率における哲学的試論』。まあ、あれだ。自然哲学の本だ」
「自然哲学……?」
言い直されたところでよくわからないのが本音。そこで僕は正直に「はい、先生。何もわかりません!」と答えれば、仁科は「素直でよろしい」と頷いた。しかし本の表紙を撫でる、その指が目に入れば、僕はつい「それって何?」と話を続けていた。彼もまた意外だったようで、「何って……」とその声をくぐもらせる。
「数学者のラプラスってやつの本だ」
「なんで? 哲学なのに数学なの?」
「昔は哲学と数学が密接に結びついてたんだ。内容は……ムズいな。上手く言い表せない」
「だよな。哲学って時点でよくわからないのに、それに数学が入ってきたらもっと意味わかんないよ」
僕の反応に仁科はプッと噴き出す。嘲笑されているのかと思いきや、「たしかにそうだな」と同意されれば、僕は彼の表情が先よりいくぶんか緩んでいるの気がついた。
「ラプラスの悪魔って聞いたことあるか? その元になった、決定論を唱えた学者の話だ」
「何か聞いたことあるな……」
「さっきお前が言ってた、『バタフライ・エフェクト』の題材になったバタフライ効果と関連するからだろう」
決定論とは、簡単には「すべての未来は必然であり、既に決まっている」とする理論だという。ラプラスはこれを数学の論理に基づいて提唱した人物であり、氏によれば、僕と仁科がこうして図書室で本を読んでいることも、宇宙が始まった時から決まっていたらしい。
「もっとも、この理論は現在では否定されている。間違っているんだ。でも……なんか良いだろ。夢があって」
「夢?」
一瞬、僕は「それはどうだろう」と思った。宇宙が何万年前からあるかはわからないが、そんな昔から今日この瞬間が決まっているというのは、なかなかロマンがあると思ったからだ。
こうなると決まっている──それはすなわち、この世界には「運命」があるということだから。
「視点の違いだな。俺は逆に、決まっていないからこそ物事はすべて運命なんだと思う。全部偶然の巡り合わせなんだ。だから、夢がある」
仁科は言う。俺は別に読書が好きなわけじゃない、と。本の中でも、哲学書を読むのが好きなのだ、と。
「こういうのを読んでいると、上手くいかないことがあった時に納得できた気になるんだ。世界はこうで、自分はこうだからこうなった。だからきっと、これでいい、これが最善──みたいな」
「仁科は哲学が好きなんだな」
「好きなわけねえだろ」
「……は⁉」
僕はその回答に言葉を失う。意味がわからなかった。「だって今、哲学書を読むのが好きって……」と言いかければ、仁科はあくまで「読むのが好きなだけだ」と強調した。
「前も言ったろ。本を読んでる間は他のことを考えないで済む、って」
仁科が言うに、哲学とはつくづく実用性に欠けるものだった。研究したとして仕事や金にはならないし、生活が豊かになるわけでもない。結論のない学問だから、時間を使うだけ無駄とすら思われる。加えて、生きづらさを感じたり、社会に馴染めない人間が惹かれるだけあって、「現実逃避をしているだけ」というレッテルを貼られる始末。
「好きなはずがないだろ。こんな役に立たなくて、何も生まない学問なんて」
吐き捨てるような仁科の物言いに、僕はわずかに目を見開く。その声音は硬さを内包していて、辺りにたちまち緊張感をもたらすようだった。まるですべてを拒絶するみたい。僕も……彼自身でさえも。
だからきっと、それは本心ではなかった。
「仁科って……ホント卑屈だなぁ」
「あ?」
彼の額に青筋を立てる。不本意だったのか、不良らしい迫力を醸し出す彼だったが、僕がそれに怯むことはなかった。むしろ「馬鹿だなぁ」と言わんばかりに、鼻ではんと笑うほど。
「だってそうだろ? 金にならない、時間の無駄、現実逃避──それがなんだよ。好きなら好きでいいじゃん!」
自然と言葉に力が入る。ああだって、それが仮に仁科本人だったとしても、彼の本当の気持ちを蔑ろにされるのは腹が立ったからだ。
僕は仁科が哲学書を読んでいる時の顔を知っていた。普段よりいくらか柔和な表情で、熱中してているのを知っていた。彼は心から読書を楽しんでいたのだ。だって、哲学が好きだから。
「役に立たない、何も生まない……これ全部、映画鑑賞がそうだよ! VLOGもそうだよ! つまり僕と一緒。結局は自己満足、価値はゼロ。ただ自分が満たされるだけ!」
それしかない。だが、それがすべてだった。それが「好き」ということだった。
「僕、仁科ほど頭良くないから、哲学が何なのかは正直わからない。胸張って『すごい』とは言えない。何が良いのかは説明できない。……でも、さっき仁科が今読んでる本を紹介してくれてる時、楽しそうだったから。それって好きってことなんじゃないの?」
さもなくば、運命の定義に「夢がある」とは言わないだろう。興味がないと無視するか、または馬鹿げていると冷笑したはずだ。それでも、彼はそう言った──その事実が、何よりの証明だろう。にもかかわらず、彼が自らその本心を否定してしまうのは、なんだかひどくもの悲しかった。
「……哲学じゃ、世界を救えない」
「でも読んでて楽しいんだろ? なら、それで十分じゃん。その本は君を救ってる。それだけで、十分」
ぐっと顎を引き、唇を結ぶ。愚直に仁科の方を見据えれば、「なに必死になってんだよ」と彼の口角が震えた。所詮は他人事だろ、と言わんばかりの顔は、そのくせ不愉快じみた後ろめたさを帯びていて、僕を前にたじろいでいるのがわかる。しかし妥協する気はさらさらなかった。この期に及んで、僕は彼にその「好き」を認めてほしかったからだ。
「どうしてそんなこだわる? どうでもいいだろ、こんなこと」
「どうでもよくない! 絶対に認めさせる」
「うざい。しつけえ。つか、なんでお前にそんなこと言われなきゃいけねえんだよ」
「僕だからだろ! 僕が、君の友達だから!」
バンッと机を叩き、勢いよく立ち上がってはその日一番の声を張る。断言したのは、僕の心からの気持ち。そしてこの状況にこだわる最たる理由。
「僕は君を肯定したいんだよ‼」
そう、友達だから、すべて理解したいのだ。仁科の好きなものも、その面倒くさい性格も、友達だから受け入れてやりたかった。そして僕の前ではありのままに振る舞ってほしい。……ただ、それだけ。
僕は伝えたかった。少なくとも僕は、哲学を愛す君を馬鹿にはしない、と。難しい本を一人で読み解ける君を尊敬している、と。
「ちょっと、そこ静かにしなさい!」
と、その時、にゅっと顔を出した司書の先生に、僕はギクリと背筋を強ばらせる。……そういえば、ここは図書室だった。
慌てて「すみません!」と頭を下げては着席。場所を失念するほどに熱くなっていたことに気づくと、僕は赤面せずにはいられなかった。隠れるように俯いた耳に、くすっと笑う声が届く。僕はそちらに向くと、ジトりと冷たい視線を寄越した。
「仁科……君、最低だぞ」
「わ、悪い。でも、面白くて……くくっ」
よほどツボに入ったのか、悪びれもせず笑い続ける彼に、僕はその口をへの字に曲げる。自分としては真剣に言ったつもりだったのに、なんだこの後味の悪さは。恥ずかしいやら、納得いかないやら──そのくせ、笑っている彼の顔を見れば、そんな毒気は抜かれてしまって。
落ち着いてきたのか、やがて仁科は笑いを収める。するとおもむろに立ち上がっては、僕の隣にそっと腰を下ろした。ふうとひと息を吐いては流し目。あと少しで肩が当たりそうなほどの距離からこちらを覗き込む、その端正な作りの顔立ちに、僕の心臓はヘンな音を立てた。
「お前って、わりと頑固だよな」
「何だよ。悪口かよ」
「まさか。褒めてんだよ」
「全然そんな感じしないけど」
ぶすっと口を尖らせる僕とは対照的に、仁科はどこか上機嫌だった。
ひそひそ声でやり取りを交わすうち、胸の鼓動が速まり、体温がじわりと上がっていくのがわかる。気づけば──いつの間にか、彼の顔をまともに見られなくなっていた。
「……なあ」
耳元で囁かれた声が、肌をくすぐる。一際強く拍動が刻まれれば、それはいっそ痛いくらいだった。そしてその瞬間に胸の奥で芽生えたのは、これまで抱いたことのない種類の感情で。
「さっきの、やっぱり俺は言えねえ。俺にその資格はないからな。でも……ああ言ってくれたのは、嬉しかった」
ありがとな、吾妻。
その一瞬だけ、僕の視界の彩度が高まる。ああどうして、その言葉はきらきら光る宝石のように、あるいは暖かな春の日だまりのように思えたのだろうか。
仁科があんなふうに素直な気持ちを見せるなんて、本当に珍しい。だからこそ今、どんな顔をしているのか知りたくてたまらなかった。けれどどうしても視線を上げられない。胸がざわついて、目が合うのが怖くて、僕はしばらく瞬きを繰り返すことしかできなくて。
知らない感情を、僕は不器用にも扱いかねていた。
