出かける前に皿が割れたら

 フィリピンの玄関口、ニノイ・アキノ国際空港に到着したのは、予定時刻ぴったりだった。
 タラップを降りた瞬間、むっとした湿気と、香草の甘い匂いが鼻をくすぐる。南国らしいうららかな陽気が懐かしく、「ああ、帰ってきたんだ」と、そう思うだけで胸が少し熱くなった。
「さて、どこ行く?」
 キャリーケースを転がしながら、僕はそっと横を覗き込む。隣のやつ──仁科は、手元の本に落としていた視線をおもむろに上げると、その端正な顔立ちに薄い笑みを浮かべてみせた。
「お前の好きなところでいいよ」
「そう言って考える気ないだろ、君」
 人差し指で頬をツンとつついてやれば、仁科はあからさまに目を泳がせる。まったくもう、と思いつつ、僕は指を折りながらいくつかプランを挙げることにする。
「まずは……仁科のお母さんにご挨拶?」
「いや、あれは後でいい。絶対面倒なことになるし」
「『ウェストサイド』のみんなにも会いたいよね」
「ジョンに予定聞いておく」
「あ、バクララン・マーケットは?」
「お前、あそこ好きだよな。あの賑わってる感じ」
「うん。あの、いつ行ってもお祭りみたいなのが良い。あとは……あ、そうだ。映画館も行きたいな。高校の時みたいにさ」
「映画なんてどこでも見れんだろ」
「何言ってんの、仁科。見る場所で全っ然、違うから! まず映画館の空気からして違うから!」
「はいはい。行きましょうね」
 子ども扱いにムッと頬を膨らませていれば、ぽんぽん頭を撫でられる。……うん。まあ、悪い気はしない。ケロリと機嫌を直す。
「とりあえず、パサイのバスステーションに行こう」
 他愛もない会話を交わしながら、僕らはターミナルの出口へ向かって進む。大学生になって、生活も環境もずいぶん変わった。見える景色も、背負うものも、あの頃とはまるで違う。それでもこうして肩を並べて歩いていると、不思議なほどにかつての僕らがそのまま息を吹き返すようだった。
 ふと足元を見下ろせば、歩幅を合わせる彼の足先が見える。いつからか当たり前になったそれが、どれほど僕と時間を共にしてくれたがゆえのものか、気づいたのはつい最近のこと。変わっていく世界の中で、変わらずそばにいてくれる人がいる──その事実だけで、僕は豊かに満ち足りていた。……そのことを、彼が知っていてくれるのなら、それで十分だった。
「……あ、」
 ふと足を止めては、僕はスマートフォンを取り出す。「よし、撮るか!」と意気込めば、「またかよ」と仁科は呆れたように眉を釣り上げた。が、何だかんだ言いつつも、歩みを止めてくれる。
 日課と化したVLOG作り。僕が動画を撮るのは、もはやお馴染みの光景だった。
「はい、ただいまフィリピンに帰ってきました〜!」
「お前、声でけえよ。恥ずかしいだろ」
「いいんだよ、大学生活の報告も兼ねてるんだから。母さんたち、仁科のことすごい気にしてんだよ?」
「……好きにしろ」
 仁科はお手上げすると、腰を屈めて軽くぶつかるようにして身を寄せてくる。わざわざ画角の中に入ろうとしてくれる、その仕草がなんだかくすぐったくて、僕はそっと口元を和らげた。
 インカメラに切り替えると、スクリーンには僕と仁科が並んで映る。しばらくビデオを回しては、その場で撮影したばかりの動画をチェック。映像には鮮明に顔が映っており、画面越しに感情が伝わってくるようだった。もちろん、黒く塗り潰されてなんかいない。当たり前のように、笑っている。
「……うん、いい感じ!」
 キャリーケースを引っ張り、僕たちは再び歩き出す。
「ねえねえ仁科。久しぶりにジープニー乗ろうよ」
「お前、現金持ってんの」
「え……⁉ や、それは……えっと……」
「はあ……だと思った。もういい、俺が払うから黙って乗れ」
「あ、ありがと」
「礼はいらねえよ。お前がドジなのは昔からだろ」
「……!」
「昔から」──ふと、その言葉が胸の奥に静かに落ちる。僕らはもう高校生ではない。歳を重ねて、酸いも甘いも噛み分けてきて、その分彼とは長い付き合いを過ごしてきた。だから、「昔から知っている」という、その表現自体は誤りではない。だが、なんというか……、
(それよりも、もっと前のことを知っているような……)
 時々、そんな感覚を覚えることがあった。それは前世の記憶ともまた違う、あえて言うなら「違和感」のようなもの。ふとした瞬間に既視感を覚えたり、同じ体験をしたことがあるような感じがするのだ。
 まるで別の世界のことを知っているみたいな──いや、そんなフィクションじみたこと、あり得るはずがないのだが。
(でも……昔から、か)
 仁科曰く、日々は偶然の巡り合わせなのだという。予期せぬことの連続で世界は回っていて、そんな中で僕たちは生きている。つまり、この一瞬一瞬が運命めいているのだ。特別なのだ。だから僕たちはこの日常を愛しているし、時間を積み重ねた先の今日という日を迎えることに喜びを覚える。
(……なんか、)
 そばに君がいてくれて良いな、と思う。
「……仁科」
「あ?」
「手、繋いでいい?」
 僕の言葉に、彼はフッとほくそ笑む。「待ってろ」と告げ、本を閉じてバッグにしまうと、それから躊躇いもなく、その大きな手が僕の手を包み込んだ。温かな体温が心地よい。そしてどうしようもなく愛おしくて、僕は握る手をぎゅっと強めた。
 頬が桃色を帯びる。僕たちの関係は、「友達以上」と言うにはまだ少し照れくさい。けれどただの友達ではないことは、とっくに示し合わせていた。これからもずっと、と約束だってした。
「ねえ、仁科」
「ん?」
「帰ってきてよかったね」
「……ああ。すごく」
 ターミナルの自動ドアが開き、外の光が僕らを包む。ここから先は新しい世界、知らない未来。僕たちは二人で、その一歩を踏み出した。