出かける前に皿が割れたら

 その日の最後の授業が終わり、僕はうんと背筋を伸ばす。時刻は午後四時。時間割は朝七時から一時間単位で詰め込まれており、以降は下校組と課外授業組、そして夜間組とで分かれる。特に用はないため、僕はこのまま帰宅する予定だった。
「──というわけで、今日はこれで終業とする。最近は未成年の誘拐事件が多発してるらしいから、みんな気をつけるように」
「ゆ、誘拐って……」
 共用の教科書を返却し、自前で持ち込んでいた辞書や参考書を通学鞄代わりのデイパックに詰め込みつつ、僕は教師の言葉に唖然とする。
(さらっと言うことではないような……)
 と思ってしまうものの、つい身を竦める自分と、まるで気にする様子のない周囲の温度差は歴然だった。治安に対する信用度があまりに違いすぎる、というのが正直なところ。とはいえ、マニラも東京や大阪と同様の大都市だ。夜間の安全に関しては一般的な繁華街に相応するのだと考えれば、案外そんなものかもしれなかった。
 リスクの程度はともかく、気をつけることに越したことはない。
「……おい、」
 呼びかけられた方へ顔を向ける。するとそこには、既に身の回りの準備を整えたらしい仁科の姿が見えた。「帰り?」と尋ねれば、彼は静かに頷いてみせる。そうだ、と僕はついでがてら、提案を持ちかけることにした。
「僕もこれから帰るんだ。一緒に帰らない? あ、僕はパサイの方なんだけど」
「……俺もだ。親の迎えは?」
「こっちはそれが普通らしいね。けど、僕は違う。このまま歩きで帰るつもり」
「同じだな。よし、帰るぞ」
 そう告げると、仁科はとっとと教室を出て行ってしまう。「ま、待ってよ!」と叫びつつ、僕は慌てて支度を終えると、荷物を詰め込んだデイパックを背負い込んで彼の背中を追いかけた。
 課外授業組や夜間組の生徒たちとすれ違いながら、僕らは人の波でごった返す廊下を抜けていく。昇降口へ向かうほどに混雑は増し、子どもを迎えに来た家族や親戚たちがあちこちで声を掛け合っている。その光景を横目に校舎を出ると、外の通りにはさらに多くの迎えの人たちが集まり始めていて、ざわめきが夕方の空気に広がるようだった。
「すごい人だなぁ。本当に迎えに来るんだ」
「治安悪ぃし、交通網も微妙だから、車なり二輪なりで迎えに来る方がベターなんだよな」
「仁科の家族は迎えに来ないの?」
「仲終わってるし来るわけない。そういうお前は?」
 僕は言いかけて、しかし実際には答えを詰まらせる。ぱちぱち目瞬いては、首を傾げる仕草。何かを察したのか、仁科はすぐに「別に言わなくてもいい」と口を挟んだ。僕が「ごめん」と謝れば、彼はそれに焦れったいような、むず痒そうな顔色を見せる。
「ただの話のネタだろ。お前のことが知りたいわけじゃない」
「素直じゃないな、仁科は」
「ここに置いていってやってもいいんだぞ」
「ちょ、それだけは勘弁! まだあんまり道わかってなくてさ……」
 歩き出す仁科の背中を、僕はひょこひょこと付いていく。話に聞いていた通り、生徒の多くは保護者が迎えてきているようで、個人で下校する連中は、僕と仁科を除いて他に見当たらなかった。
 四時の夕焼けが赤く空に差し掛かる中、はみ出し者の僕たち二人は、首都マニラの南の方角に位置するパサイ・シティへと向かう。気づかなかったが、こうして並び立つと仁科は意外と背が高かった。
「なぁ、仁科。家帰ったら、仁科はいつも何してんの?」
「それを聞いてどうする。答えなきゃいけない理由は?」
「ただの話のネタだけど」
「…………」
 意趣返しに気づいたのか、彼は如実に不快感を示す。が、しばらくして諦めたように息をつくと、その沈黙の後に渋々言葉を続けてみせた。端的に、「……本を読んでいる」、と。
「へえ。読書、好きなんだ?」
「読んでる間は他のことを考えないで済むからな」
「なんだそれ」
 やっぱり、仁科は素直じゃない。そんなことがひどくて面白くて、ついつい笑い出しそうになっていれば、そこへふと、突然彼から質問が投げられた。
「フィリピンに来たのは、最近のことなのか?」
「……え?」
 本当を言えば、僕はこの時かなり驚いていた。まさか仁科がこの手のやり取りを広げてくるなんて思ってもみなかったからだ。「これはつまり……僕に興味があるってこと⁉」と、そんな都合のいい期待が顔に出てしまったのだろう。彼は「……やっぱ何でもねえ」と話を無かったことにしようとする。が、僕はその逃げ道を与える気はなかった。
「そうだよ。ちょっと前に来たばかりなんだ」
 そう、正直に伝えることにした。
「だから……今日はなんか、普通にヒヤヒヤしたよ。英語、ちゃんと通じるかなって。まあ、案外なんとかなったけど」
「昼クラスに転入できるくらいなんだから問題ないだろ」
 仁科の言うことはたしかに一理あった。フィリピンの公立高校では、生徒数の調整のために昼間と夜間の二部制が採られていて、成績によってどちらに所属するかが決まる。そして多くの場合、昼間の授業には上位の生徒が出ることになっていた。つまり、僕が昼クラスに入れたということは、学力については学校側のお墨付きということ。しかし、それとこれとは話が別だった。異なる環境に身を置くことは、やはりある程度の緊張を伴うものだからだ。
「まあ、そのうち慣れんだろ。お前、そういうの得意そうだし」
「わかった風に言うなぁ」
「あながち間違ってもないだろ。あんな強引に『友達になって~』とか言っといて」
 言い回しにどこか毒を感じなくもないが、僕はそれを褒め言葉として受け取ることにする。「仁科が言うならそうかもね」と笑みを覗かせれば、彼はなんとも形容しがたい、微妙な表情を浮かべてみせた。胡乱げで、苦虫を噛み潰したみたいな顔。とにかく、ポジティブなものではないことは確かだ。
 そっと周囲に視線を流せば、すぐそこに現代的でスタイリッシュな街造りが目に入る。
 メトロ・マニラは東南アジア最大級の都市の一つであり、西部には雄大なマニラ湾を臨む。学校があるエルミタ地区は、マニラ都市圏の中でも有数のメトロポリタンエリアで、多くの行政機関や司法機関、国内最大級の博物館や公園といった文化的施設が建ち並んでいた。
 近代的な景観は目に眩しく、進歩的な空気は気持ちを浮き足立たせる。僕はおもむろにサブバッグからスマートフォンを取り出すと、撮影機能をオンにした。
「……録画?」
「うん。なんかいいな、って思って。僕、こういうの撮るの好きなんだよね。それで後でVLOGとかにするんだけど……あ、VLOGって知ってる?」
「日記の動画版みたいなやつだろ」
「そうそう! ああいうのよく作っててさ」
 見上げるほどの高層ビルの窓ガラスを、夕焼けのオレンジ色がきらきらと反射して輝く。僕はそれにむかってスマートフォンをかざすと、そのままゆっくり歩き出し、目の前の光景を画面の中に収めた。綺麗だな、なんかワクワクするな、と思いながら。
「気をつけろよ」
「わかってる」
 生返事を寄越しつつ、僕は口元に笑みを浮かべ、レンズ越しの世界に没入する。ビジネスシーンを象徴するような洗練されたビル群と、アジアらしいエスニックな装飾の街並み。モダンとクラシックが混ざり合う独特の風景は、西から差し込む夕日によっていっそう色気を帯びていた。
 趣ある街中を、トロピカルな装飾を施したジープニーと呼ばれる乗り合いバスが横切る。派手な色彩が夕景に溶け込み、その一瞬はまさに「エモーショナル」という言葉がぴったりだった。
(綺麗だ……)
 迫り来る夜の訪れに、街の電飾がチカチカと灯り始める。色とりどりの光に、思わずうっとりと意識を奪われかけた──その時。
「うわっ……!」
 足元を疎かにした僕は、整備の甘い舗道のタイルにつま先を引っ掛ける。ぐらりと傾く視界に、迫る地面。転倒を覚悟した刹那、後ろから腕が伸び、僕の身体をぐっと支えた。
「あっぶねぇ……」
 息を呑んで振り返ると、そこには顔を引きつらせ、冷や汗を浮かべた仁科がいた。
「ご、ごめん、仁科……」
 慌てて謝罪を口にするも、「気をつけろって言ったよな」と、語気を荒くして責められてしまう。まったくその通りなので言い返すこともできず、しゅんと大人しく肩を落とせば、彼は歯がゆそうに頭を掻いた。「……ったく」と、呆れたようにため息をつき、ジト目でこちらを睨めつける。
「次は気をつけろよ」
 そう言い残すと、仁科は締めていたネクタイを手荒に緩め、歩き出した。僕は端末をスリープにして、その背中を追いかけると、彼の腕をぎゅっと掴む。
「ま、待てよ、仁科」
「なんだよ」
「さっきの! あ、ありがとうって……まだ、言ってない……」
 だから……ありがとう。
 言い損ねた気持ちをそのまま口にすれば、彼は再び顔を顰める。「……お前って、馬鹿なのか?」としみじみ言われれば、僕は思わず困惑せずにはいられなかった。どういう意味で言っているのか、その意図がまったく理解できなかったからだ。
 ぽかんとする僕に、仁科は首筋に手を遣りつつ視線を落とす。
「感謝されるほどのことじゃない」
「でも、助けてもらったら『ありがとう』くらい言うじゃん」
「そもそもお前がドジしてすっ転ばなければ良かった話だろ」
「そういうんじゃなくてさぁ……」
 素直に受け取ろうとしない仁科に、僕は思わずじりじりする。それはなかなかにひねくれた彼の性格に対して。底意地が悪いというより、とっつきにくいのだ。物事を偏屈に捉えることで社交を拒もうとする、まさに「卑屈」。自身も周りも苦労するタイプの、難儀なやつだった。
 僕はやれやれとばかりに肩を竦める。こういう時はヘンに穿った見方をせず、ありのまま認めれば良いのだと教えてやりたかったが、こうもひん曲がっているとそれすら骨が折れそうだった。むしろ下手を打てば余計に拗れそうな勢いだ。だからこの場では、僕の方が折れることにする。
「僕が馬鹿でドジだから、君がいてくれて助かったって言ってんだよ!」
 ありがとな、仁科!
 ド直球に言ってやれば、さしもの天邪鬼も虚を突かれる。仁科のぎょっとしたツラが面白くて、ついつい破顔をこぼしてしまえば、次に彼はその唇をへの字に曲げてみせた。……ああ、なんて露骨なふてくされっぷりだろうか。まるで背伸びを覚えたばかりの子どもみたいに、目まぐるしく移り変わるその表情変化はかえって愉快で、僕は彼とは対照的にすこぶる機嫌が良かった。
「まあまあ、そんな怒んなって。途中でコケたけど、動画自体は撮れたからさ」
 どうどうと宥めつつ、僕は仁科に手元のスマートフォンを見せる。画面内に選択されているのは、先ほど撮影したばかりの動画ファイル。きちんと撮れたことを伝えたくて、目の前で再生ボタンをポチリと押してやると、僕は「上手く撮れてるだろ」と胸を張ってみせた。
「VLOG作りももう六年目。動画を撮るだけならもうとっくにプロレベルで──」
「死ぬほどぼやけてんぞ」
「……え?」
「だから、ブレッブレなんだけど。この動画」
「よく見ろよ」と促され、僕は画面を自分のものにする。と、次の瞬間、視界に入ったものを前に、僕は言葉を失っていた。
「何だよ、これ……」
 そこに映っていたのは、被写体が揺れ続け、像がまったく結ばれない映像だった。それもただブレているわけではない。仁科の言う通り、ピントは外れっぱなしで、画面全体にノイズが走ったようにぼやけた動画が延々と再生されていた。
 ゾクリと背中に悪寒が走る。言葉では説明しようもない胸騒ぎは、しかし直視を拒もうとする自身を許さなかった。あまりに不自然な──奇妙で、非現実的な映像に、僕は目が離せなかったのだ。
 むろん、こんな動画を撮った覚えはない。というより、そもそも撮りようがないのだ。撮影に慣れている僕は、録画中に画面から目を離すことはないし、もし映像に異常があればその場で気づくはずだからだ。それに、今どきのスマートフォンは高性能で、被写体がブレたりぼやけたりすれば、自動でフォーカスが合う仕組みになっている。だから、こんな動画が撮れていること自体、おかしかった。
(いや、でも……オートフォーカスそのものは働いてるんだよな)
 よくよく動画を見れば、ぼやけた映像のあちらこちらで、細かく焦点が検知されているのがわかる。けれど結局、全体が乱れすぎていて、何を捉えようとしているのかまでは判別できなかった。明らかに手ブレではない画面の揺れ方に、何かを追うようなフォーカスの動き。不明瞭なイメージにはなぜかひっきりなしに明るさ補正が入り、それがノイズのざらつきを生んでは、不気味さをより際立たせていた。
 やがて動画は終盤を迎える。僕が道に躓いた衝撃で画角が大きく跳ねれば、レンズはほんの一瞬、僕の横にいた仁科の顔を捉える。けれどそれはなぜか、真っ黒に塗り潰されていて──まるでそこだけ、穴が空いているように見えて。
 ……映像に映る仁科には、顔がなかったのだ。
「これって……」
「……どうかしたか」
「うわっ!」
 何気ない仁科の呟きに、僕は盛大に仰天してはスマートフォンを手から落とす。「お、驚かすなよ!」と叫んでは、いそいそ拾い上げ、端末のボディにひびや傷が付いていないかをチェック。無事なことを確認すれば、僕は重ねて「ヘンなこと言うなよ、仁科!」と彼を叱った。が、当の本人は反省するどころか、「へえ、意外と小心者なんだな?」と小馬鹿にしてくる始末で。
「君なぁ……僕が荒くれ者じゃなくて良かったね」
 すっと握り拳をかざして威嚇するも、はたして効果はあったのか。「んな細せえ腕じゃ、荒くれてたとて大したことねえよ」と一蹴されてしまえば、「そ、それはそうかもしれないけど!」とあえなく意気を削がれてしまった。けれど僕はくじけない。
「でも……僕はナメても、お化けはナメない方がいいよ?」
 そう言うと、僕はわざとその声を意味深に潜める。すべてはその生意気な、仁科のしたり顔を崩すために。
「だってお化けは……人間を殺せるんだから!」
「……は?」
「『リング』とか、『呪怨』とか、見たことないのかよ。あいつら人を祟るんだぞ!……はっ! もしかしたら、この動画も呪われてて……僕たち殺されて……うわあああ!」
「うるせえな」
 相手を怖がらせるつもりが、むしろ空振って自分で自身を恐怖に陥れるというヘマを犯す僕に、仁科は生温かい視線を寄越す。「馬鹿でドジどころのさわぎじゃねえな?」と一周回って可哀想なものを見るかのように扱われれば、頬にかっと熱が集まるのがわかった。……くそ。仁科のやつ、僕のことをからかいやがって!
(いや、でも……本当にこの動画、おかしいだろ)
 なぜこんなにも映像がぼやけてしまっているのか。なぜスマートフォンに搭載された自動補正や調整が利かなかったのか。なぜ……仁科の顔が真っ黒だったのか。
 お化けのせいかもわからないが、本音を言えば恐ろしくて、考えるのすら躊躇われる。気づけば自然と肩に力が入り、体が強ばるほどだった。が、それでも僕は気になってしまう。そのせいで周囲への注意が散ってしまうくらいで、そしてそれは粗忽な隙となると、油断していた僕の不意を突いた。
「……っ、吾妻!」
 仁科の叫びが空気を裂いた瞬間、僕の体は強引に引き寄せられる。訳も分からず、「え、」と拍子抜けした声をこぼす僕。反対に、彼は僕の肩越しに真っ直ぐ前方を睨みつけていた。
「……何の用だ」
 僕をかばうように半歩身を乗り出し、低く唸る。その声音にようやく、僕は仁科が誰かと対峙しているのだと気づいた。
 おそるおそる振り向いては状況を窺う。そこに見えたのは、おおよそ僕たちと同じ年齢くらいの男三人組だった。だが様子は明らかに物々しく、こちらを見る目は何かを値踏みするかのよう。いくら平和ボケした日本人とはいえ、この空気で相手が何なのか察せないほど愚かではなかった。
 ハッと瞠目しては、たちまち下がる体温。奇妙な動画に怯えていたさっきまでの自分が愚かに思えるほど、現実のたしかな危険が、ぐっと距離を詰めてきた。
「に、仁科……」
 恐怖に身を竦ませる僕の隣で、彼は再び相手らに何の用かと問う。が、彼らは気味悪くニタついては、「分かってんだろ」とその手をこまねいてみせた。一人は拳の骨を軽快に鳴らし、一人は袖に潜ませていたナイフをちらつかせる。脅迫からの盗難、あるいは暴行の示唆。白昼堂々の犯行は、しかし非行少年らしい向こう見ずを前には些末なことで、ゆえに街からは見逃される。この場に気づいているのは、僕たち当事者だけだった。
(は、早く……警察呼ばないと……ここから逃げないと……)
 このままでは仁科が危険だ。ぶるぶる震えつつ、僕は次に取るべき行動を考えるため、何とか頭を働かせようとする。けれども思考はろくにまとまらず、それどころか真っ白になっていく脳内に、僕の呼吸はたちまち浅くなり、目元にはじんわりと涙が滲んだ。このままじゃヤバいと、頭の中を警報音だけが耳障りに鳴り響く。しかし僕は何もできない。どうすればいいか分からない。
 どうしよう。このままじゃ、仁科が──と不安に口の中が渇いた、その矢先だった。
「悪い、ちょっとこれ持っとけ」
 端的な物言いとともに仁科から託されたのは、彼が背負っていたデイパック。と、次の瞬間、茫然とする僕の視界を一際シャープな存在感が立ち塞がれば、そのコンマ一秒後には、男の一人が痛烈な一撃によって地を突っ伏すのを見た。
「……!」
 それはあまりに一瞬のこと。されどあまりに劇的なこと。目瞬く暇すら許されない圧倒的な一幕は、しかしこれで終わらない。残りの男たちがすかさず構えの姿勢を取ろうとするも、それすら好都合だと足蹴が繰り出されれば、たちどころに響くのは鈍い轟音だった。それは肉を打ち、骨を砕き、筋を弾くほどの衝撃。手練れた足捌きは痺れるほどに見事で、一人を容易に沈めると、さらに余った勢いを遠心力に換え、目の前に突き出されたナイフの刃先を蹴り払ってみせた。
「く、来るな……!」
「てめえらが喧嘩売ってきたんだろ」
 なら、買うしかねえよなぁ⁉
 ギラつく瞳が見据えるのは、最後の一人。後退ろうとする男との間隙を一気に踏み抜き、構えた握り拳を容赦なく振り翳せば、その威力は相手のみぞおちへと容赦なく突き刺さり、反動はその肢体を地面に思い切り叩きつけられる。そのまま白目を剥いた男たちは完全にノック・アウト。返り討ちに遭った彼らが転がる脇で、ゆらりと立つ彼の姿は、まるでアクション映画のワンシーンのようだった。それは誰もが目を奪われ、その言葉を失う圧巻の光景。……が、現実はかなりマズい状況に違いなく。
「に、仁科!」
「あ?」
「とにかく……ここから逃げよう! このままじゃ、逆に仁科が捕まっちゃう!」
 二人分のデイパックを抱えながら、僕は慌てて彼に駆け寄る。そうして彼の手をなかば力ずくで奪っては、僕は一目散にその場から逃げ出した。一刻も早く、少しでも遠くに──仁科がこれ以上、大変なことに巻き込まれないように。ただそれだけのために、僕は息が切れようと、道がわからなかろうと、彼を連れてそのまま走り続けた。
 それから、どれだけ時間が経っただろうか。気づけば辺りは暗くなり、一変した街並みはすっかり見知らぬところへ。ゆっくり減速しては立ち止まる僕は、ボロボロになった息遣いのまま、手を繋いだ彼の方へと振り返る。「だ、大丈夫か。仁科?」と覗き込んだ彼の顔は、相も変わらず感情の読めない表情をしていた。
「……手」
「あ、ごめん。つい」
 ぎゅっと握っていた手を離してやれば、仁科はぼんやりとその手のひらを眺める。ついでに抱えていた彼のデイパックも差し出してやれば、彼はその手で、何も言わずにそれを受け取った。
 つかの間、その場には沈黙が落ちる。どうするべきか、何を言うべきか、きっとお互い察しがつかなかったのだ。空気を読みかねている、とも言う。けれど結局、その間は数十秒にも満たなくて、静寂を破ったのは、意外にも彼の方だった。
「……喉乾いた」
「まあ……走ったからね」
「つか、こっちパサイの方面じゃねえんだけど」
「は⁉ いや、そんなこと知らないし……もっと早く言えよ! というか、そもそも文句言うな! あのまま逃げなかったら、仁科が逮捕されるところだったんだぞ!」
 流れるようにツッコミを入れれば、彼はムスッと仏頂面を見せ、あからさまに不機嫌を表明する。いったい何が不満だというのか、問い質したところ、「……そもそも、お前が観光客気分だったのが悪い」とのことで。
「ニタニタ笑いながら動画撮ってるやつなんか、カツアゲにとっちゃ恰好の餌食だぞ」
「だからって、あんなボコボコにすることないだろ。普通に逃げればよかったんだ!」
「喧嘩売られたら買うだろ、普通」
「買わないよ⁉ どんな不良だよ!」
「不良だから買うんだろ。わかんねぇ?」
「……え?」
 仁科は深く息を吐くと、「お前に怪我がなくてよかった」と肩を撫で下ろす。無愛想から一転、彼の表情にかすかに安堵が滲めば、その時僕はようやく、彼が僕を彼なりに心配していたことに気づいた。
「エルミタは繁華街だから、ああいう輩も多い。そしてあいつらは、基本的に容赦という言葉を知らない。だから気をつけるに越したことはない」
「仁科は……僕を守ってくれたの?」
 僕の問いに、彼は少し困った顔をする。それは回答の内容を迷っているというより、どう答えるべきか言葉を選びかねている様子だった。……が、そんなところがなんだか、彼らしいと思う。
 どうも、仁科ルカとはそういう男らしいのだ。素行も、性格も、言葉遣いも悪い。けれど本を読むのが好きだし、僕には「気をつけろ」と言ってくれる。転びそうになったら支えてくれるし、悪いやつとの間には割って入ってくれる。
「守ったわけじゃねえ。あいつらにけじめを付けさせただけだ。喧嘩を売られたから、買っただけ」
 あくまでもそう言い表す仁科に、僕はその顔を仰ぐ。真っ直ぐ彼を見つめるが、別にそれに深い意味はなかった。言葉に含まれた真意を暴きたいだとか、本当はどう思っているのか、そのすべてを知りたいわけではない。
 僕はただ、彼と向き合いたかったのだ。
「仁科って……もしかして、めっちゃ強いヤンキーだったりする?」
「さあ? 強いかどうかは主観的にはどうとも言えねえな。でも……わりと有名、ではあるかもしれない」
 不良グループ「パサイ・ウェストサイド」。俺はそこのリーダーだ。
 暗い空の下。知らない街。そんな世界の一角で、初めて仁科本人から、仁科のことを教えてもらえたことは、僕にとって思いのほか嬉しかった。