……不幸な事故だった。非行少年らの襲撃に偶然巻き込まれてしまった、いわば「災難」──この一件は、そうしてあまりに呆気なく処理されることとなった。ゆえに誰も俺を責めなかった。誰一人として、だ。……吾妻の親御さんたちでさえも。
二人に会ったのは、その葬式の場が初めてだった。俺を見るなり、吾妻の母親は泣きながら手を握ってきて。
「あなたが……仁科くんね。真琴がいつも話していたわ」
その声は優しくて、吾妻と同じ響きがあった。父親もまた、柔らかな表情で俺に語りかけてくれた。「生前は息子と仲良くしてくれてありがとう」、と。
「学校は馴染めなかったみたいでね。家では仁科くんのことばかり聞いていたんだ」
「そう。優しくて、頭が良くて、それにとっても美人さんで、って。だから、ひと目見てすぐにわかったわ。あなたが仁科くんだ、って」
その時、二人がひどく申し訳ない顔をしていたことを覚えている。せっかく会えたというのに、それがこんな機会になってしまったことを、彼らはいたく惜しんでいた。
「真琴のお友達でいてくれて、本当にありがとう」
「もし良かったら、君と息子の話を聞かせてくれないか。どんな小さなことでもいい。君にとって、息子はどんな子だったかい」
真っ直ぐ目を見て耳を傾けてくれるその人たちを前に、しかし俺はうまく話すことができなかった。喉が詰まって、声は言葉にならなくて。
「吾妻くんを守れなくて、すみませんでした……」
二人が俺たちの関係をどこまで知っているのかは定かではない。が、だからこそ、「俺のせいだ」と言いたかった。俺と親しくなければ、道外れたこの世界を知らなければ、あんなアジトに招かなければ──……この気持ちを告げなければ、こうはならなかったはずなのに。それでも二人は、俺を咎めるどころか、気遣ってさえくれたのだ。「悲しい思いをさせてごめんね」、と。……ああ、と納得したものだった。たしかに吾妻は、その優しさの下で育ったのだろう、と。俺の手を大事に握る、その人肌の温かさは、まさにあいつが持っていたものだったから。
「──ただいま」
晴らしどころのない気持ちのまま帰宅すると、一転してそこには何も変わらない現実が待ち受けていた。普段通りの雑然とした空間と、鏡にむかって髪を梳く母親。少し前までとの温度差は、まるでガラスのコップに結露が張り付くようで。
「本当に、死んじゃったんだ?」
母の言葉に俺は無言で頷く。化粧箱となっていたクッキー缶を適当にまさぐりつつ、その人は言う。「もうお菓子もらえないね」、と。
「……そのためにつるんでたわけじゃないよ」
「どうかしらね。あたしの知らないところで、実はおこぼれもらってたんじゃないの?」
母も、やはり俺のことを責めなかった。けれど代わりに、「可哀想」という言葉で俺を憐れんだ。「せっかくいいお友達ができたのに」、「何にも意味なかったね」、と。俺は密かに奥歯を噛んだ。どれだけ訴えたところで、反論したところで、母のこの物言いは直らなかったからだ。
同情とも、気の毒に思うとも違う、卑しめたいがための言葉の数々。俺がみすぼらしい何かにでも見えているというのか。母は息子の友人の死を悼むよりも、甘い汁の元を失ったことを嘆いていた。そしてそれを耳にしているうちに、胸の奥がどんどん底冷えしていくのがわかって、俺は逃げるようにその場を離れた。
人の波で溢れ返る街を、あてもなく彷徨う。胸の奥が空洞になったみたいで、何を見ても何も感じずにいたその中で、俺はなんとはなしにジョンに電話をかけた。生真面目なそいつは、例によってすぐに出てくれる。
「──……ルカ。あんたが今どんな気持ちか、わかるよ」
やり取りの中で、その言葉だけが妙に印象に残ったのはなぜか。これまでの慰めの声色とは違う、何かを覚悟したような重たい響きに、嫌な予感が胸の奥でゆっくりとその質量を増す。この後に続くだろう言葉に、俺は自ずと身構えようとしていて──、
「でもな……『ウェストサイド』は、あんたがいないと回らない」
……けれどそれは、思いのほかガツンと胸を突いてきて。
「マコトのことを忘れろとは言わない。だけど、しっかりしてくれ。あんたが壊れたら、下のやつらが全部潰れる」
「…………」
「この事件はもう市内全域に広まってる。『ウェストサイド』の評判は下降の一途を辿ってるんだ。だから……頼むぞ、ルカ。あんたは、『ウェストサイド』のリーダーなんだから」
ふと、道の真ん中で足を止める。雑踏の中で急に立ち止まったものだから、肩をぶつけてくる人間、舌打ちをする人間が次々と俺を睨みつけた。瞳孔の濁った目、眦の釣り上がった目。いくつもの目玉がぎょろぎょろ見つめる前で、俺は膝から崩れ落ちた。手からこぼれたスマートフォンが地面に叩きつけられ、画面がぱきりと割れる。その音を境に、視界は不整形にぐにゃりと歪んだ。
「ルカ? 大丈夫か、ルカ?」
そんな何度も尋ねなくとも、聞こえていた。そしてわかっていた。わかっていたのに、ジョンの言葉はまるで遠く遠くの向こう岸で響いているかのようで、自分に向けられているとは思えなかった。
……たぶん、聞きたくなかったのだ。
(だって俺以外、何も変わってない。吾妻が死んだのに……俺のせいで、吾妻が死んじまったのに……)
あの日を境に、俺は一人だけおかしくなった。周囲はそれぞれの形で俺を元に引き戻そうとしたが、結局戻ることはなかった。吾妻真琴のいない世界は、色も、音も、温度も、すべてが薄くて実感を伴わなかったからだ。自分でも何とかしようと、いつも以上に本にのめり込んだ。哲学書を読み漁った。さもなくば、俺は今にも諦めてしまいそうだったからだ。こんな人生も悪くないと思う、俺自身のことを。
眠れない夜が続いた。目を閉じると、吾妻の最期の顔が浮かんだ。開けても何も変わらなかったから、次に吾妻の声を探そうとした。吾妻の体温を思い出そうとした。ずっと、吾妻の言葉を反芻していた。
──大丈夫だから、ね。
俺はあの日から、吾妻が欠けた世界に適応できずにいた。「大丈夫」の意味がわからないまま、あいつの言ったその言葉だけが俺を生かし、同時に青息吐息の水際に立たせていた。……だからだろうか。初めてその「儀式」の噂を耳にした時、視界が開けるような思いがしたのは。吾妻を取り戻せるなら、たとえどんな代償を払うことになってもかまわないと、振り切れるような開放感を得た気がしたのは。
むこうの世界の人間を呼び戻す──故人を蘇らせる黒魔術。俺が聞いたのは、十九世紀に勃発した米比戦争での戦死者を蘇生した、という話だった。むろん、信憑性があったわけではない。昔の話で、当事者は既に他界しているうえ、記録も曖昧だ。が、それでもこうした巷説になるということは、ある種の願い、祈りが少なからず込められているということだった。例えば──死者にもう一度会いたいという、人間の普遍的な希望とか。
人々に伝わる口承というものは、大抵が伝統と宗教の混ざり物だった。ルカによる福音書には、イエスが未亡人の息子を蘇らせた逸話があるが、この儀式はその「神の力」の模倣なのだろう。もっとも、神の子ではないただの人間が行うには、傲慢どころが愚劣の極みに違いなかったが……まあ、それがなんだ、という話でもあった。
用意したのは、吾妻に手を掛けたとされる人間の死体と、吾妻の血を吸ったソファの布片。儀式を始めると、たしかに何かが現れた。だが、それは吾妻ではなかった。顔が黒く塗りつぶされたように欠損していたのだ。瞬時に失敗だと理解した。俺は反射的にそいつの首にナイフを突き立てた。すると肉体は崩れ、動かなくなった。蘇生したそれは、再び死んだのだ。
床に転がる死体を見て、「この儀式は危険だ」と、そう思った。だが同時に、曲がりなりにも過程を再現できたことへの高揚感もあった。死者を呼び戻す力はたしかに存在するのだ。ならば、成功するまで繰り返せばいい。それだけのことだった。
次の身代わりは、吾妻を殺したチームの連中だった。殺すことに躊躇いはなかった。殺した後に何かを感じることもなかった。ただ、儀式は軒並み失敗した。やり方が悪かったわけではない、単にやつらが使い物にならない素材だったのだ。さっさとそいつらを処分し終えると、次は「ウェストサイド」に楯突く者を選んだ。儀式は失敗を繰り返したが、大した問題ではなかった。成功するまで続ければいいだけの話だからだ。
儀式は回数を重ねるごとに手順が洗練されていった。死体を用意し、布片を置き、鏡に映す。それだけの作業だった。だが、結果は毎回同じだった。現れるのは、吾妻ではない「別の何か」。顔は黒く潰れ、声もなく、ただこちらをぼんやり見ているだけ。そのたびに俺はナイフを突き立てた。反応は鈍く、抵抗も弱い。殺すというより、処分すると言ったほうが近かった。
「──あんた、自分が何をしているのかわかってるのか⁉」
動きに気づいたジョンに、何度か止められることがあった。「あんたはおかしい」、「頼むからしっかりしろ」と繰り返し言われた。が、俺にはその言葉の意味が理解できなかった。俺はただ、吾妻に会いたかった。そのために必要なことを、淡々と実行しているだけだった。
殺して、儀式を執り行って、そして処分する──その、繰り返し。何か特別なことを思うことはなかった。けれど儀式を繰り返すうちに時々、何をしているかわからなくなることがあった。同じことを繰り返すせいで、脳の処理がバグるのだ。それでもやめようとは思わなかったのは、吾妻に会える可能性がある限り、続ける理由は十分だったからだ。ひと月、ふた月、半年と、俺の時間の多くはこの儀式に費やされていった。
やがて、何度失敗したのか、数えることすら忘れた頃、ある問題が発生した。儀式に必要な、吾妻の血が染みたソファの布が、もう残りわずかになっていったのだ。
最後の一片を手にした時、俺はそれをしばらく見つめていた。薄汚れた布切れに、吾妻の黒く変色した血が乾いてこびりついている。吾妻とこの世界を繋ぐ唯一の証拠は、次が最後のチャンスであることを物語っていた。
成功させなければと、えも言われぬ緊張感があった。もしかすれば、それは多少の悲しみだったのかもしれない。許されないことをしでかしておいて、なお望むことを果たせない己への幻滅。上手くいかなかったら、とは考えなかった。……考えたくもなかった。
身代わりという死体を前に、血の付いた布を添える。儀式の終始は──結局、驚くほど静かだった。鏡を映しても何も起きなかったのだ。空気が揺れる気配も、影が歪む気配もない。失敗作としての「別の何か」が現われるでもなく、ただ沈黙だけがあった。
「…………」
俺はしばらくその場に立ち尽くした。虚無という言葉が、ようやく意味を持った瞬間だった。儀式は終わった。吾妻は戻らなかった。……それだけのことだった。
翌朝、俺は学校へ向かった。奇しくもその日は高校二年の新学期初日で、周囲は新たな学校生活に意気揚々とする者と、不安に憂鬱する者とで半々に分かれていた。俺自身の歩く足取りは、特に軽くも重くもない。要は単に動いているだけ。世界の動き、時間の流れに感情が伴っていなかったのは、今に始まったことではなかった。
今日も、どうせ代わり映えのない一日なのだろう。そう思っていたのだ。端から諦めていた、どうでも良かった。教室に着いてすぐ、俺は本を開いて読書に没入した。あらゆる罪を犯した現在、物事の意味や価値を探求する学問である哲学を好きだという資格はなかったが、俺にはそれしかなかったのだ。
ひどくごみごみとした胸中だったことを覚えている。目線を紙面に深く落として、唇をきつく結んで、自分一人を置いてざわめくこの空間で何とか息をする。文字の海に沈んでいく中で、それはだんだんと難しくなっていくが、なるべく平然を取り繕おうとした。いつも通りだと思いたかったから。奇跡も何もない、これが普通だと思いたかったから。
「友達になってくれない?」
と、そんな時だった。懐かしいその声が、ふと耳に入ったのは。
一回目は無視した。幻聴だと、この学校の生徒ではないそいつの声が聞こえるのはおかしいと、そう思ったから。けれどそれが二回聞こえれば、俺はその面を上げざるを得なくて。
目の当たりにしたのは、シワ一つない真っ白なシャツを身にまとう、顔の無い一人の少年。「……誰」と尋ねる俺に、そいつは何てことなく答える──「僕? だから、転入生」、と。
「今日からここの生徒」
訪れるはずのない時が来た──その瞬間、俺の中で止まっていた何かが、カチリと音を立てて動き始めた。
二人に会ったのは、その葬式の場が初めてだった。俺を見るなり、吾妻の母親は泣きながら手を握ってきて。
「あなたが……仁科くんね。真琴がいつも話していたわ」
その声は優しくて、吾妻と同じ響きがあった。父親もまた、柔らかな表情で俺に語りかけてくれた。「生前は息子と仲良くしてくれてありがとう」、と。
「学校は馴染めなかったみたいでね。家では仁科くんのことばかり聞いていたんだ」
「そう。優しくて、頭が良くて、それにとっても美人さんで、って。だから、ひと目見てすぐにわかったわ。あなたが仁科くんだ、って」
その時、二人がひどく申し訳ない顔をしていたことを覚えている。せっかく会えたというのに、それがこんな機会になってしまったことを、彼らはいたく惜しんでいた。
「真琴のお友達でいてくれて、本当にありがとう」
「もし良かったら、君と息子の話を聞かせてくれないか。どんな小さなことでもいい。君にとって、息子はどんな子だったかい」
真っ直ぐ目を見て耳を傾けてくれるその人たちを前に、しかし俺はうまく話すことができなかった。喉が詰まって、声は言葉にならなくて。
「吾妻くんを守れなくて、すみませんでした……」
二人が俺たちの関係をどこまで知っているのかは定かではない。が、だからこそ、「俺のせいだ」と言いたかった。俺と親しくなければ、道外れたこの世界を知らなければ、あんなアジトに招かなければ──……この気持ちを告げなければ、こうはならなかったはずなのに。それでも二人は、俺を咎めるどころか、気遣ってさえくれたのだ。「悲しい思いをさせてごめんね」、と。……ああ、と納得したものだった。たしかに吾妻は、その優しさの下で育ったのだろう、と。俺の手を大事に握る、その人肌の温かさは、まさにあいつが持っていたものだったから。
「──ただいま」
晴らしどころのない気持ちのまま帰宅すると、一転してそこには何も変わらない現実が待ち受けていた。普段通りの雑然とした空間と、鏡にむかって髪を梳く母親。少し前までとの温度差は、まるでガラスのコップに結露が張り付くようで。
「本当に、死んじゃったんだ?」
母の言葉に俺は無言で頷く。化粧箱となっていたクッキー缶を適当にまさぐりつつ、その人は言う。「もうお菓子もらえないね」、と。
「……そのためにつるんでたわけじゃないよ」
「どうかしらね。あたしの知らないところで、実はおこぼれもらってたんじゃないの?」
母も、やはり俺のことを責めなかった。けれど代わりに、「可哀想」という言葉で俺を憐れんだ。「せっかくいいお友達ができたのに」、「何にも意味なかったね」、と。俺は密かに奥歯を噛んだ。どれだけ訴えたところで、反論したところで、母のこの物言いは直らなかったからだ。
同情とも、気の毒に思うとも違う、卑しめたいがための言葉の数々。俺がみすぼらしい何かにでも見えているというのか。母は息子の友人の死を悼むよりも、甘い汁の元を失ったことを嘆いていた。そしてそれを耳にしているうちに、胸の奥がどんどん底冷えしていくのがわかって、俺は逃げるようにその場を離れた。
人の波で溢れ返る街を、あてもなく彷徨う。胸の奥が空洞になったみたいで、何を見ても何も感じずにいたその中で、俺はなんとはなしにジョンに電話をかけた。生真面目なそいつは、例によってすぐに出てくれる。
「──……ルカ。あんたが今どんな気持ちか、わかるよ」
やり取りの中で、その言葉だけが妙に印象に残ったのはなぜか。これまでの慰めの声色とは違う、何かを覚悟したような重たい響きに、嫌な予感が胸の奥でゆっくりとその質量を増す。この後に続くだろう言葉に、俺は自ずと身構えようとしていて──、
「でもな……『ウェストサイド』は、あんたがいないと回らない」
……けれどそれは、思いのほかガツンと胸を突いてきて。
「マコトのことを忘れろとは言わない。だけど、しっかりしてくれ。あんたが壊れたら、下のやつらが全部潰れる」
「…………」
「この事件はもう市内全域に広まってる。『ウェストサイド』の評判は下降の一途を辿ってるんだ。だから……頼むぞ、ルカ。あんたは、『ウェストサイド』のリーダーなんだから」
ふと、道の真ん中で足を止める。雑踏の中で急に立ち止まったものだから、肩をぶつけてくる人間、舌打ちをする人間が次々と俺を睨みつけた。瞳孔の濁った目、眦の釣り上がった目。いくつもの目玉がぎょろぎょろ見つめる前で、俺は膝から崩れ落ちた。手からこぼれたスマートフォンが地面に叩きつけられ、画面がぱきりと割れる。その音を境に、視界は不整形にぐにゃりと歪んだ。
「ルカ? 大丈夫か、ルカ?」
そんな何度も尋ねなくとも、聞こえていた。そしてわかっていた。わかっていたのに、ジョンの言葉はまるで遠く遠くの向こう岸で響いているかのようで、自分に向けられているとは思えなかった。
……たぶん、聞きたくなかったのだ。
(だって俺以外、何も変わってない。吾妻が死んだのに……俺のせいで、吾妻が死んじまったのに……)
あの日を境に、俺は一人だけおかしくなった。周囲はそれぞれの形で俺を元に引き戻そうとしたが、結局戻ることはなかった。吾妻真琴のいない世界は、色も、音も、温度も、すべてが薄くて実感を伴わなかったからだ。自分でも何とかしようと、いつも以上に本にのめり込んだ。哲学書を読み漁った。さもなくば、俺は今にも諦めてしまいそうだったからだ。こんな人生も悪くないと思う、俺自身のことを。
眠れない夜が続いた。目を閉じると、吾妻の最期の顔が浮かんだ。開けても何も変わらなかったから、次に吾妻の声を探そうとした。吾妻の体温を思い出そうとした。ずっと、吾妻の言葉を反芻していた。
──大丈夫だから、ね。
俺はあの日から、吾妻が欠けた世界に適応できずにいた。「大丈夫」の意味がわからないまま、あいつの言ったその言葉だけが俺を生かし、同時に青息吐息の水際に立たせていた。……だからだろうか。初めてその「儀式」の噂を耳にした時、視界が開けるような思いがしたのは。吾妻を取り戻せるなら、たとえどんな代償を払うことになってもかまわないと、振り切れるような開放感を得た気がしたのは。
むこうの世界の人間を呼び戻す──故人を蘇らせる黒魔術。俺が聞いたのは、十九世紀に勃発した米比戦争での戦死者を蘇生した、という話だった。むろん、信憑性があったわけではない。昔の話で、当事者は既に他界しているうえ、記録も曖昧だ。が、それでもこうした巷説になるということは、ある種の願い、祈りが少なからず込められているということだった。例えば──死者にもう一度会いたいという、人間の普遍的な希望とか。
人々に伝わる口承というものは、大抵が伝統と宗教の混ざり物だった。ルカによる福音書には、イエスが未亡人の息子を蘇らせた逸話があるが、この儀式はその「神の力」の模倣なのだろう。もっとも、神の子ではないただの人間が行うには、傲慢どころが愚劣の極みに違いなかったが……まあ、それがなんだ、という話でもあった。
用意したのは、吾妻に手を掛けたとされる人間の死体と、吾妻の血を吸ったソファの布片。儀式を始めると、たしかに何かが現れた。だが、それは吾妻ではなかった。顔が黒く塗りつぶされたように欠損していたのだ。瞬時に失敗だと理解した。俺は反射的にそいつの首にナイフを突き立てた。すると肉体は崩れ、動かなくなった。蘇生したそれは、再び死んだのだ。
床に転がる死体を見て、「この儀式は危険だ」と、そう思った。だが同時に、曲がりなりにも過程を再現できたことへの高揚感もあった。死者を呼び戻す力はたしかに存在するのだ。ならば、成功するまで繰り返せばいい。それだけのことだった。
次の身代わりは、吾妻を殺したチームの連中だった。殺すことに躊躇いはなかった。殺した後に何かを感じることもなかった。ただ、儀式は軒並み失敗した。やり方が悪かったわけではない、単にやつらが使い物にならない素材だったのだ。さっさとそいつらを処分し終えると、次は「ウェストサイド」に楯突く者を選んだ。儀式は失敗を繰り返したが、大した問題ではなかった。成功するまで続ければいいだけの話だからだ。
儀式は回数を重ねるごとに手順が洗練されていった。死体を用意し、布片を置き、鏡に映す。それだけの作業だった。だが、結果は毎回同じだった。現れるのは、吾妻ではない「別の何か」。顔は黒く潰れ、声もなく、ただこちらをぼんやり見ているだけ。そのたびに俺はナイフを突き立てた。反応は鈍く、抵抗も弱い。殺すというより、処分すると言ったほうが近かった。
「──あんた、自分が何をしているのかわかってるのか⁉」
動きに気づいたジョンに、何度か止められることがあった。「あんたはおかしい」、「頼むからしっかりしろ」と繰り返し言われた。が、俺にはその言葉の意味が理解できなかった。俺はただ、吾妻に会いたかった。そのために必要なことを、淡々と実行しているだけだった。
殺して、儀式を執り行って、そして処分する──その、繰り返し。何か特別なことを思うことはなかった。けれど儀式を繰り返すうちに時々、何をしているかわからなくなることがあった。同じことを繰り返すせいで、脳の処理がバグるのだ。それでもやめようとは思わなかったのは、吾妻に会える可能性がある限り、続ける理由は十分だったからだ。ひと月、ふた月、半年と、俺の時間の多くはこの儀式に費やされていった。
やがて、何度失敗したのか、数えることすら忘れた頃、ある問題が発生した。儀式に必要な、吾妻の血が染みたソファの布が、もう残りわずかになっていったのだ。
最後の一片を手にした時、俺はそれをしばらく見つめていた。薄汚れた布切れに、吾妻の黒く変色した血が乾いてこびりついている。吾妻とこの世界を繋ぐ唯一の証拠は、次が最後のチャンスであることを物語っていた。
成功させなければと、えも言われぬ緊張感があった。もしかすれば、それは多少の悲しみだったのかもしれない。許されないことをしでかしておいて、なお望むことを果たせない己への幻滅。上手くいかなかったら、とは考えなかった。……考えたくもなかった。
身代わりという死体を前に、血の付いた布を添える。儀式の終始は──結局、驚くほど静かだった。鏡を映しても何も起きなかったのだ。空気が揺れる気配も、影が歪む気配もない。失敗作としての「別の何か」が現われるでもなく、ただ沈黙だけがあった。
「…………」
俺はしばらくその場に立ち尽くした。虚無という言葉が、ようやく意味を持った瞬間だった。儀式は終わった。吾妻は戻らなかった。……それだけのことだった。
翌朝、俺は学校へ向かった。奇しくもその日は高校二年の新学期初日で、周囲は新たな学校生活に意気揚々とする者と、不安に憂鬱する者とで半々に分かれていた。俺自身の歩く足取りは、特に軽くも重くもない。要は単に動いているだけ。世界の動き、時間の流れに感情が伴っていなかったのは、今に始まったことではなかった。
今日も、どうせ代わり映えのない一日なのだろう。そう思っていたのだ。端から諦めていた、どうでも良かった。教室に着いてすぐ、俺は本を開いて読書に没入した。あらゆる罪を犯した現在、物事の意味や価値を探求する学問である哲学を好きだという資格はなかったが、俺にはそれしかなかったのだ。
ひどくごみごみとした胸中だったことを覚えている。目線を紙面に深く落として、唇をきつく結んで、自分一人を置いてざわめくこの空間で何とか息をする。文字の海に沈んでいく中で、それはだんだんと難しくなっていくが、なるべく平然を取り繕おうとした。いつも通りだと思いたかったから。奇跡も何もない、これが普通だと思いたかったから。
「友達になってくれない?」
と、そんな時だった。懐かしいその声が、ふと耳に入ったのは。
一回目は無視した。幻聴だと、この学校の生徒ではないそいつの声が聞こえるのはおかしいと、そう思ったから。けれどそれが二回聞こえれば、俺はその面を上げざるを得なくて。
目の当たりにしたのは、シワ一つない真っ白なシャツを身にまとう、顔の無い一人の少年。「……誰」と尋ねる俺に、そいつは何てことなく答える──「僕? だから、転入生」、と。
「今日からここの生徒」
訪れるはずのない時が来た──その瞬間、俺の中で止まっていた何かが、カチリと音を立てて動き始めた。
