出かける前に皿が割れたら

 十二月の終わり。クリスマスを明日に控え、街が一段と煌びやかに飾られたイブのこと。その浮かれた空気とは裏腹に、「パサイ・ウェストサイド」はグループ同士の対立の仲介役として、緊張感の漂う現場に向かっていた。
 発端は、違法ドラッグの取引で契約不履行が発覚したこと。政府の規制を逃れるために日々アングラ化する薬物売買は、いつだって火種を抱えている。今回も例外ではなく、話し合いの場はすぐに罵声と怒号に包まれ、やがて大規模な乱闘へと発展した。
 仲裁に入った俺も巻き込まれ、拳どころか刃物さえも飛び交う混乱の中で腕を切られる。血の温度だけがやけに鮮明で、十二月の生温かい空気が逆に痛みを際立たせた。どうにかその場を収めるも、その頃には既に俺のシャツは濃赤で重くなっていて。
 仲間に背中を押されるようにして現場を離れ、痛みに口を曲げたままアジトへ戻る。そうして応急処置をしようと、二階へ上がったところで──俺は図らずも、その瞬間を迎えてしまったのだった。
 薄暗い部屋の奥。ソファに腰掛けていた吾妻が、俺を見るなり勢いよく立ち上がる。驚きに目を見開き、「……仁科!」とひび割れた声で叫ぶと、そいつは真っ直ぐ俺の元に駆け寄ってきた。
「血……! どうしたの、これ……!」
「……別に、少し揉めただけだ。つか、お前こそなんでここにいんだよ。今日明日は家族と過ごすって言ってただろ」
 それとなく話を逸らそうとする。が、吾妻はまるでごまかされてはくれず、むしろ怒ったように眉を寄せると、「そんなことどうだっていい!」と叫んでは、俺を無理やりソファに座らせた。
「揉めただけでこんなになるわけないだろ! じっとしてろよ、すぐ手当てするから」
「…………」
 救急箱を探す背中を見つめながら、俺はそっと天井を仰ぐ。自己嫌悪に苛まれるのは、俺自身、この展開を望んではいなかったからだ。
 吾妻とつるむ中で、俺は一つ決めていたことがあった。それは自分のやることにそいつを巻き込まないこと。もっと言えば、暴力や流血といった不安を煽る場面に見せないようにしていた。それはひとえに心配をかけたくなかったから。笑みの眩しいその顔を、恐怖や悲痛で歪めたくなかったからだった。
 薬箱を見つけた吾妻が、焦りを滲ませながら舞い戻ってくる。それから強制的に、されど恭しくシャツの袖を捲られれば、露わになった肌には鮮血で塗りつぶされた切り傷が走っていた。他の連中のような刺青もなく、だからこそ傷の痛ましさがいやに目立つ。吾妻は一瞬だけ息を呑んだように動きを止めるが、すぐに小さく首を振ると、迷いを振り払うように救急箱をこじ開けた。
「……お前、なんでそんな真剣なんだよ」
 ひどく深刻な面持ちで手当を進める吾妻に問いかければ、ふとその目がじっとこちらを捉える。ツンと刺す消毒液の匂いと痛み。そんなものより、俺は目の前の存在に意識を絡め取られた。
「だって……」
 吾妻はきつと唇を噛みしめると、ガーゼを摘まんだピンセットを握りしめたまま、ふるふると声を震わせた。
「だって、仁科が危ないことするから……」
 言葉の表面をなぞり、そっと顎を引く。案の定、俺は吾妻を不安にさせてしまったのだろう。心苦しさを覚えながら「……悪い」と謝ると、そいつはぶんぶんと首を横に振った。
「違う。そうじゃなくて……これは、僕の問題で……」
「……吾妻の?」
 ぽたりと俺の手に涙が落ちる。その時、俺はようやくそいつが泣いていることに気づいたものの、その一方で「違う」という言葉の意味を理解できずにいた。
 俺が泣かせたわけではないなら、なぜ吾妻は泣いているのか。自分の問題だとは言うが、ならどうして俺の前で泣くのか。……そいつは答える。「こんなこと言える立場じゃないけど、」と。
「君が、こんな風に傷つけられるのが……嫌なんだ」
「……は?」
「わ、わかってるよ! 僕は仁科みたいに強いわけじゃないし、何もできないし、こんなの思う資格がないのはわかってるけど……でも、危ない目には遭ってほしくなくて」
 ほとほとと泣きつつ、それでも吾妻はその手を止めない。身を乗り出してまで傷に向かうその姿が、気持ちを揺さぶっては胸が苦しいほどだった。
「……馬鹿だな、お前」
 そう言いながら、俺はその頭をもう片方の手で柔らかく撫でる。泣いてほしいわけではなかったからだ。もちろん、俺のためにその心を病む必要もなかったから。
「そんなこと言うのは、お前くらいだよ」
 俺の言葉に、吾妻は驚いたように顔を上げる。その目元の赤みを見れば、俺の心には再び割れるような亀裂が走った。痛いと感じるそれは、ただの自己嫌悪ではない。卑下の中に混じるのは、「それでも俺のために泣いてくれて嬉しい」という、あくどき悦びだった。
 吾妻の頬に伝った涙を拭い、俺はなかば決めつけるかのように問う。薄々予感しながら、「ここがどんな場所か、わかってんだろ」、と。どこか期待しながら、「俺が何をしてるかも、理解してんだろ」、と。
 吾妻は迷いなく頷いた。「うん。知ってるよ」、と。
「仁科は信念があって戦ってるんだって、知ってる。たくさん考えて、色んなことを思ってやってるんだって……わかってるつもり」
 異を唱えたいわけではない。納得できないわけでもない。が、それでも、と吾妻は言う。
「それでも……仁科に傷ついてほしくないんだ。……仁科が、大事なんだ」
「…………」
「……友達なのに、ごめん。応援できなくて、困らせるようなこと言って……ごめん」
 肩を落とす吾妻の、その言葉が、まるでガラスのような鋭利を伴って己に刺さる。その感情は筆舌に尽くしがたかった。今までそれなりに本を読んできて、だいたいのことは言い表せる自信があったというのに、俺はそれをどう表現すればいいかわからなかったのだ。
 痛いのに、温かい。苦しいのに、嬉しい──体の内側で噛み合っていたものが軋むような感覚に、俺はそっと息を飲む。それが何なのか知りたかったのは、興味や好奇心とはまた別の気持ちだった。哲学書を読んでいた時には感じなかったそれは、この胸に初めて抱いたものだったから。
「……吾妻」
 名前を呼んで、上を向かせる。かち合う視線。潤んだ瞳に俺が映るのが見えたのは、おそらくその至近距離のせいだろう。近づくだけ近づき、触れるだけ触れれば、その乾いた唇は柔らかさに弾んだ。
 ぴたりと、吾妻の手が止まる。次いで見開かれる大きな瞳。はくりと乱れる呼吸の音。「に、仁科……?」と訝しむそいつは、みるみるうちに頬を赤く染めると、いっそ大袈裟なほど盛大に混乱を催す。が、その反面、俺自身の心情は驚くほど凪いでいて。
「い、今……何して……」
「……嫌だった?」
 俺の問いに、吾妻ははっと息を飲んで固まる。「い、嫌って……」と言葉をつっかえ、視線を泳がせるそいつは、どう答えるべきか考えあぐねているようだった。
「ご、ごめ……僕、びっくりして……」
 震える声に、俺は静かに目を瞬く。吾妻から視線を落とすと、俺は「……悪い」とそいつの言葉を無理やり遮った。その顔を見て、自分が抱いたその気持ちが何か、わかったような気がしたからだ。それは諦めに似たやりきれなさ。愛おしさを辛く思う、切ないという感情。
「困らせたな。友達なのに、こんなことして……すまない、最低だった」
 びくりと、吾妻の肩がわななく気配を覚える。が、俺はかまわず話を続けることにした。自分は所詮、その程度にすぎないと明かすために……いや、そうやって言い訳したくて。
「誰かに心配されるような価値もねえし……お前を困らせることしかできねえ」
 言葉にすれば、それはまるで胸の奥で澱んでいた黒いものが、ゆっくりと浮かび上がってくるかのようだった。自分の内面をさらけ出すという行いは、決まってそんな不甲斐なさを感じるものかもしれない。しかし俺には、密かに寄せていた吾妻への想いがあって、その後ろ暗さが余計に罪悪感を際立たせていた。
(ああだって……ろくなもんじゃない)
 母に疎まれ、仲間に忌避されるような、くだらない感情だ。そんなものを抱くこと自体がまず間違いで、そしてそれを本人へぶつけるのはもってのほかだった。
(それでも……嬉しかった)
 吾妻に「大事だ」と言ってもらえて、俺はそれだけで満たされたのだ。
 くしゃりと、吾妻の顔が歪む。俺の言葉を耳にしたそいつは、まるで痛みを堪えるみたいだった。
「……そんなこと、言わないでよ」
 吾妻の腕が伸びて、そっと俺を縋る。その指先は震えていたものの、直後に「困ってなんかない」と断言された意志が俺の肌に爪を立てた。
「僕は……僕は、仁科が心配で……怖くて……仁科が悲しい気持ちになるのが嫌で……だから泣いたんだよ」
 胸倉を掴んだ吾妻の瞳が、真っ直ぐ俺を射抜く。
「友達、だからじゃない。大事だから……仁科が大事だから、泣いたんだよ!」
 全体がぶわりと熱を帯びる。「……吾妻」と吐息するようにこぼれ出た呼び声が喉を焼けば、後を追って目の奥がじわりと過熱した。
「仁科が自分を『その程度』なんて言うの、僕は嫌だ! 僕にとっては……そんな言葉じゃ足りないくらい、大事なのに……!」
 声を張り上げているわけでも、叫んでいるわけでもない。勢いのあまり、かえって吾妻の声はもつれ、かすれそうなくらいだったが、その訴えはそれほどまでに真っ直ぐで、俺を捕らえて離してくれなかった。……俺に逃げ場なんて、どこにもなかった。
「……馬鹿言うなよ」
 そう言ったって、前のめりに「馬鹿言ってやる!」と返される。吾妻は言った。「そんなものいくらでも言ってやる」、と。声を振り絞って言い放った。
「仁科がどんな世界にいても、どんなことをしてても……」
 僕は、仁科が……好きだよ。
 俺は言葉を失う。……それはまさに訪れるべき時だった。俺がずっと、心の中で待ち望んでいた瞬間。外の喧騒がかき消え、アジトのかび臭い空気もなくなり、痛む腕の感覚さえもすべてが遠くに失せていく。そしてそんな中、吾妻の言葉だけが、俺の胸の深くに届いた。

 ──……友達なのに、ごめん。

 吾妻は、たしかそう言っていたか。俺が大事だから、俺のやり方を支持できないと、そういう意味で。……では、この告白も、そいつは同じように謝るのだろうか。友達なのに好きになってごめん、と──「本当に最低だ」と、俺が非を認めたように。「ろくなものではない」と、卑下したように。
 どうしてだろうか。矛盾しているようだが……俺はそれを望んでいなかった。
「……吾妻」
 気づけば、俺はそいつの頬に触れていた。今度は迷いなんてなかった。ゆっくりと目を閉じる吾妻の唇を、俺はそっと撫でて、触れて、再び自身と重ねる。そうして分かち合ったお互いの体温が、俺の全部を溶かしていくようだった。
 吾妻は何も拒まなかった。ソファの上に組み敷かれても、シャツの隙間に手を差し込まれても、そいつはすべて受け入れた。しっとりとした汗かきと耽溺で砕ける息遣いの最中、時折「……痛くない?」と俺が言うべきことをそのまま口にしては怪我を気遣う、そのけなげさがいじらしくて、俺はさらに夢中になって。
「好きだ、吾妻」
 睦言で喉が嗄れるほど、それは甘やかな時間だったと思う。熱くて、恥ずかしくて、それはたったひとときの出来事だったというのに、俺たちのこれまでをすべて塗り替えてしまうほどに鮮烈で、どうしようも幸福だった。ずっと秘めていたものをようやく明かせたからだろうか? それとも、今まで知らなかったそいつの新しい顔を見られたからだろうか。触れられた指先の感触が、まだ体から離れてくれなくて。
 腫れぼったい瞼を閉じ、深い眠りに落ちたその顔を眺める。シャツを着直すと、俺は今朝に出向くことになっていた教会へ足を運んだ。……その日はクリスマス。一団体として、「パサイ・ウェストサイド」は献金を捧げることを予定していたからだ。
 先に到着していたジョンは、俺を見るなりもの問いたげな顔をしてみせる。
「遅かったな。いつも時間ぴったりなあんたが珍しい」
「ジョン、頼みがある」
 それだけ言うと、俺は献金の手続きをそいつにすべて任せた。主なる神の定めし秩序に背いてしまった──昨夜のことがあった以上、俺はその領域を跨ぐわけにはいかなかったからだ。言うまでもなく、信心深さゆえ、というわけではない。日頃から暴力に手を染めるようなやつが、そんな謙虚さを持ち合わせているはずもない。ただ、自分が犯した罪を、あの静かな空間に持ち込むのが怖かっただけだ。

 ──まさか本気で、とか言わないわよね?

 誰からも祝福されることではないと、わかっていたから。……そしてそれは実際、その通りで。
「ルカ! 今、連絡が入った。昨日、ウチが調停したグループの片方が、決定に不満を持ってアジトに乗り込んだらしい……!」
 正午前、それは教会への献金のやり取りを終えた直後のことだった。顔色を失ったジョンが、息を切らしながらその報告を上げてきたのは。
 幸いだったのは、「パサイ・ウェストサイド」のメンバーが不在だったことだ。特に俺やジョンといった幹部を狙い損ねた時点で、襲撃側の目論見は外れたと言える。だが、問題はそこではなかった。嫌な予感に指先が痙攣するようだったのは、ある心当たりがあったから。
「マコトが、マコトが刺されたって……!」
「……っ!」
 気づけば俺は走り出していた。戸惑う余地も、躊躇する暇もなかったのは、おそらく考えることそのものが耐えられなかったから。無心で教会を飛び出し、祝いの飾りが揺れる路地を駆け抜ける。ざわめく人だかりを肩で押し分け、アジトの扉を乱暴に開け放った。
 中は凄惨に荒らされていた。椅子が倒れ、棚が壊れ、床を踏み潰す足跡は二階へ続く。息付く間もなく階段を駆け上がり、その視界に室内へ収めた。……そこで目にしたのは、スイカの果肉が飛び散ったように血で染まったソファと、その上に倒れ込む吾妻の姿だった。
「……吾妻?」
 返事はなかった。しかし近くに駆け寄れば、かすかに胸が上下しているのが見えた。「吾妻、聞こえるか……!」と呼びかければ、その瞼はわずかに震える。「にし、な……?」という声は、今にも消えそうなほどか細く、俺は咄嗟に体を抱きしめる。肌は既に冷たく、呼吸も浅く、それでも俺を探すようにそいつは弱々しく動いた。
「よかった……会えて……。言わなきゃ……って……思ってたから……」
「喋らなくていい! 今、助け──」
「仁科、」
 吾妻は俺の言葉を遮るように、絶え入る間際の声を上げる。小さく笑うと、彼は俺にむかってその手を差し伸べた。「……泣かないで、ね」と、その指先で頬を優しく撫でるために。……濡れたものをそっと、拭うために。
「大丈夫だから、ね。だから……泣かないで」
 涙を流した覚えはなかった。そんなどうでもいいことに、意識を割いている余裕がなかったのかもしれない。どくどくと溢れる出血はおぞましく、光を失っていく瞳はもはや形だけのもの。それでも俺は必死になって吾妻を抱きしめた。頬に触れるその手をぎゅっと握りしめた。はぐれたら、離したら、もう二度と触れられない気がしたから。
「吾妻……吾妻……」
 感情が胸の奥深くへと沈んでいく。青い激情と灰色の失意とが混ざって、汚くなって、そのせいで息がうまくできなかった。苦しかったのだ、吐きそうだったのだ。けれど嘔吐いたところで、喉から溢れたのは言葉のなり損ないばかり。ゆえにいくら呼びかけても、その声を叫んでも、そいつはいつものように答えてはくれなかった。
 やがて、その手から力が抜けていく。動きもしない、冷たいだけのその感触が、やけに手元に残っていた。