出かける前に皿が割れたら

 吾妻に自分のやっていることがバレたのは、それからわりとすぐのことだった。
 あの日以来、俺たちはジープニーでの登校を共にしていた。これまで徒歩通学だった俺にとって、毎日運賃を払って登校することにはやや後ろめたさがあったものの、母はその分を負担してくれていた。何も言っていなかったが、おそらく吾妻との関係を保つようにだろう。つるむことで利益があるならそれは享受しておくべきだと、あの母親が考えそうなことだった。
「仁科は普段、何してるの?」
 揺れるジープニーの中で、吾妻は何とはなしに問う。それはこれまで何度かされたことのある質問だったが、まさか正直に「ギャングをボコしている」とは言えなかったため、俺はその都度「読書している」と答えていた。まるっきり嘘というわけではない。実際、本を読むことは好きで、図書室で借りた本を家の隅で読みふけることがしばしばあったからだ。が、なぜかその回答に対し、そいつは不満げなようで。
 曰く、「なんか隠してるだろ」とのことで。
「隠してねーよ」
「嘘だな。仁科、この質問答える時、いつも視線が下がる!」
「うっ……」
 なんだか妙に勘が鋭いな、と思うが、俺は空咳を払ってごまかすと、あくまで「嘘じゃない」と断言する。だって、本当に嘘ではないのだ。たまたま読書よりかは人を殴っているケースが多いだけで。
「じゃあいつもは何読んでるんだよ。ファンタジーとか?」
「いや、哲学」
「……哲学?」
 一瞬とぼけた顔を見せる吾妻は、すぐにフムと口元に手を添えて考え出す。哲学とは何か、うにゃうにゃ頭を捻ってみることにしたらしい。が、結局めぼしい回答が生まれなかったのか、そいつはパチパチ目瞬くと「な、何それ……?」と白々しく首を傾げてみせた。
「というか、仁科はそんな難しそうなの、読めるの?」
「まあ、読めるから読んでるんだろうな」
「うーん……余計怪しい!」
「余計って何だ。失礼だぞ」
 お前と違って馬鹿じゃあるまいし、とは思うものの、自分でも悪趣味だと思っているため、そのまま口を噤む。
 哲学とは、簡単に言えば物質を越えた概念を思考することだ。生きる意味だとか、愛や善悪とは何なのかだとか、そういった見えも触れもしないことを考えること。そしてそれは現実として、科学のように社会に役立つわけではないし、医学のように誰かを救えるわけでもなかった。
 現実における利益に乏しく、人によってはまったく意味がない。そんな類いの本を読んでいるなんて、センスが無いと言われても反論できなかった。
 目的地に着き、ジープニーを降りていくその背中を見送る。俺のことが知りたいなんて、哲学書を読む自分より物好きだ、と思ったのは、胸の中に仕舞っておくつもりだった──……のだが。俺はその()()()を、少々甘く見ていたようで。
「──……色々見えてんぞ」
 それは下校のついでにアジトへ顔を見せようとした、その道すがら。ふと視線を感じて振り返れば、そこには物陰からこちらを窺う馬鹿の姿があった。
 存在を指摘され、「ひっ」という短い悲鳴とともに飛び出してきたストーカーへ、俺は冷ややかな目つきを遣る。「お前、なんでここにいるんだよ」と尋ねれば、そいつは「えっと……あの、これはですね……」と人差し指同士をつんつんしてしてみせた。
「その……なんか、たまたま見つけたから付いてきちゃった、的な?」
「なるほどな。よし、警察に通報」
「なんで⁉ じょ、冗談だってぇ……牢屋は嫌だよぉ……」
 勝手に本気にしては泣きついてくる吾妻の頬に、涙とは別の雫が落ちる。二人して顔を見上げては、立ち込める暗雲に危機を察知。「「スコールだ!」」と叫ぶと、そのまま俺たちは全速力でアジトの方へと突っ走っていった。
 息を切らしながら、本降りになる前にかろうじて滑り込む。俺は二階を示すと、吾妻を人目の付かない奥へと招いた。誰かにこの場を見つかってはいけないのは、グループに関係のない人間を連れ込むこと自体、あまり褒められたことではないからだ。
 体を拭くためのタオルを手にすると、俺はその後を追って上階へと上がる。
「吾妻、これ──」
 言いかけて、しかしすぐに口を噤む。そこに見えたのは、ほぼ物置と化した混沌たる室内に一人、真っ白なシャツが似合う少年の姿。灰色が浮かぶかび臭いソファの上に散らばる、いくつかの本の中の一冊、そのくたびれた表紙をなぞると、そいつはおもむろにこちらを向いた。
「仁科、本当に哲学が好きなんだな」
 吾妻の手元にあるのは、古代の哲学者・ソクラテスにまつわる書籍。そしてその他もすべて、哲学者の著書やそれに関連する本だった。
 今朝まで「哲学」という言葉すら知らなかった吾妻が、なぜそれらの古本を見てそう思ったのか。デイパックを開くと、そいつは一冊の本を取り出す。「学校の図書室で借りてきた」という、新品のそれの題には「哲学入門」の文字。
「ソクラテスは『無知の知』を唱えた人!……で、合ってる?」
 自信満々に言い切ったかと思いきや、秒も持たずおろおろとする馬鹿に、俺はフッと小さく噴き出す。「……合ってる」と答えては、俺は持っていたタオルの一つをそいつに向かって放り投げ、その隣に腰を降ろした。
 外は雨が勢いを増し、トタン張りの薄い屋根を叩く。が、普段はうるさいそれも、吾妻がいる空間では不思議と気にならず、俺は一緒にその本を開いた。
「『無知の知』って言うのはな──」
 語り出すと止まらなかった。聞き手は頷き、わからないことを問うてくれるから、俺はそのたびにページを捲る手を止めて、今まで知り得た手垢だらけの知識を一つ一つ明かした。人に学びを話すなんて経験はこれまでなかったから、喋りは早いわ、説明もぐちゃぐちゃだったに違いない。けれどそいつは笑わなかった。ただずっと、耳を傾けてくれた。
「仁科は、どうして哲学が好きなの?」
「……夢があるから」
「夢?」
「ああ。きっとこれでいい、って思えるっていうか」
 それは物事が少しだけよく見えるということ。難しいことを恐れないでいいと思えるということ。……「夢」と言うには、大袈裟すぎるだろうか。実用性に欠けるうえ、役立たずで何も生まないのも確かだ。が、俺にとってその学問は、この薄暗い胸の内にほのかな熱を灯すものだった。
 こんな世界も悪くないかもしれない、と諦めないでいられる光だったのだ。
「……俺さ、ハーフなんだ。父親が日本人で、母親がフィリピン人。風俗店の客と店員の関係だったんだが、運悪く俺がデキちまったの。そんで父さんは俺たちのこと捨ててどっか行っちまって──」
 望まれて生まれたわけではなかった。それどころか、俺の存在は不幸の引き金となり、二人の人生を狂わせてしまった。現実は俺を祝福しなかった。……そういう人間だった。
「ルカって名前の由来は、キリスト教の聖人からでさ。そいつは異邦人なんだよ。他所者ってこと。異物というか、余計なもんが混じってるというか」
 ゆくりなくも思い出す。たしか吾妻は、俺と自分は同じ日本人だから仲良くなれる、と言っていた。けれどこれを聞いてどう思っただろうか。やはり、がっかりしただろうか。
 俺に、失望しただろうか。
「……仁科」
 俺の名前を呼ぶ声が、かすかに震える。そいつは一度鼻を啜ると、手元のタオルで強引に顔を拭った。そうしてすぐに笑顔を作っては、声を絞り出して「ありがとう」と告げる。
「仁科のこと、教えてくれてありがとう! すごく嬉しい」
「嬉しい……?」
「うん。だってそうだろ。僕たち友達なんだから。友達のことは、何でも知りたいものじゃん!」
 そう言うと、仁科は通学鞄からスマートフォンを取り出し、しばらく操作しては俺にその画面を見せる。スクリーン内では動画が再生され、パサイの風景の映像とともにキャプションが流れる。……これは、吾妻のコメントだろうか。
「僕ね、VLOGを作るのが好きなんだ」
「VLOG?」
「ええと……日記の動画版みたいなやつ、って説明したらわかる? 日常生活を映像に残すんだよ」
 テキストのブログと比較し、視覚的にも聴覚的にも情報の訴求力が優れたVLOGは、より高密度な臨場感とともに思い出や感動を記録できるのだという。初めて知る活動ということもあり、すぐにはピンと来ないものの、映像内の吾妻の楽しそうな姿と、隣で緊張している現在(いま)のそいつとの落差に、俺はつい失笑してしまう。……ああ、だってとても良いな、と思ったから。
 俺も、吾妻のことをもっと知りたいと思ったのだ。
「……どうして、VLOGを作ろうと思ったんだ?」
 自然と言葉に出てしまった問いに、しかし吾妻は照れくさそうに頬を掻きながらも答えてくれる。「映画が好きなんだ」、と。そもそも見ることが好きで、それから作りたいと思うようになった、と。
「一番好きなジャンルは時間もの。仁科が知ってそうなのは……うーん。あっ、『時をかける少女』とか? アニメ版の主人公、僕と同じ名前なんだよ」
 雑多ながらくたに溢れ、古い布と建材の腐った匂いとが混ざり合った狭い空間は、まるで時間に取り残されたかのよう。それでも雨が降れば、継ぎ接ぎの壁には木目のまだら模様が浮かび上がり、話し声が弾めば、そのほこりっぽい空気に温かさが宿る。
 その日、僕たちは時間も忘れてお互いのことを話し合った。何でも明かせたし、何でも受け入れられたのは、この場所だったからか。それとも相手が吾妻だったからか。いつの間やら雨が止み、用があってアジトに訪れたジョンに見つかるまで、その話はずっと続いたのだった。
「ル、ルカ? そいつ、誰……?」
「こいつは、あー……吾妻」
 俺の、友達。
 思えば、相手を苗字で呼び合うのは日本の友達同士らしかった。