吾妻と初めて会ったのは十二歳の時だった。中等学校に上がって初の新学期、八月末のパサイ・シティのど真ん中で、途方に暮れていたのがそいつだった。
「ど、どうすればいいんだ……」
おろしたての真っ白なシャツに、無知を絵に描いたようなマヌケたツラ。馴染みのない日本語──吾妻が外国人で、さらに自分よりも恵まれた家庭の人間であることは、当時の俺でもひと目でわかった。ゆえに声をかけたのは、温かな親切心などではなく、醜い嫉妬のため。恥をかかせてやろうと思って、俺は「何か困ってんの?」と声をかけたのだった。
「えっ、日本語通じる?」
「少しだけ」
驚きと感心、それから安堵まで浮かべて笑った吾妻は、「ジープニーに乗りたくて」と明かす。そんなこともできないのかと、当時は呆れを通り越して意味がわからなかったが、よく考えればその頃のそいつはフィリピンに来てまだ一週間も経っておらず、この国の交通事情に慣れていなくても不思議ではなかった。
「どこ行きてえの?」
「えっと、マニラの──」
そう言って無防備に差し出されたスマートフォンは、つい最近発売されたばかりのハイエンドモデル。転売したら高く売れるだろうな、なんて一瞬くだらないことを思いながら、画面に表示された行き先を確認すると、そこはちょうど俺の通学路と重なっていた。
「……仕方ねえな」
行き先が一緒だからと、ついていってやることにしたのは、それだけの理由だった。
二人でジープニーに乗り込めば、吾妻は新参者らしく、きょろきょろと興味深げに車内を見回した。よほど珍しいのか、その目が興奮とともにキラキラを増していけば、次第にウザいというより、防犯面で危なっかしくなってくる。「大人しくしてろ」と言いつければそいつは素直にこくりと頷き、小さくかしこまったものの、その様子を見て俺は何となく確信したのを覚えていた。ああ、こいつ……馬鹿だ、と。人に言われたことをそのまま聞くだけの、世間知らずの愚か者だ、と。
「ね。君、名前なんて言うの?」
「今日初めて会ったやつに言うわけねーだろ」
そう返すと、吾妻は「そっか」とでも言いたげに、また素直に黙り込んだ。が、めげたわけではなかったらしい。
「じゃあ自己紹介したら教えてくれる? 僕はね、吾妻。吾妻真琴」
「聞いてねえ」
「中学一年で、今日が初登校」
「同学年かよ……つか、聞いてねえって言ってんだろ。言うな、喋るな、黙れ」
「へへ。君が名前を教えてくれたらやめるよ」
「こいつ……」
前述に補足。吾妻は腹が立つほどの馬鹿だった。
新学期早々、どうやら俺は厄介ごとに巻き込まれたらしい。ちょっかいをかけて困らせてやろうとしただけなのに、その報いは予想外のタチの悪さだった。脳天気なくせに、妙に頑固。ジープニーに一人で乗ることすらできないくせに生意気で、今もへらへら笑っている。ひと言で言うなら、俺が一番苦手とするタイプだった。
「なんでそんなこと聞いてくるんだよ」
露骨に機嫌の悪い態度で見せれば、吾妻はその目をまん丸くする。幼さを感じるあどけない顔つきは、しかし次の瞬間には太陽のような燦めきを伴い、その質問に明瞭に答えた。……「友達になりたいから」、と。
「……お前と友達にならなきゃいけない理由がない」
「卑屈だな。陰キャってやつ?」
「殺すぞ」
「うわ、口悪。どっちかって言うとヤンキーだったか。……でも、きっと仲良くなれるよ」
だって僕たち、同じ日本人じゃん。
揺れる車内で、隣り合った互いのシャツの半袖が擦り合う。かたやシワ一つない純白なものに、かたやくたびれた上級生の使い古しのお下がり。傍から見ればその違いは歴然。それだというのに、この馬鹿は浅はかにも、俺たちが仲良くなれそうだと言う。
(……面倒くせえ……)
同じ十二歳だからなんだ。同じ国にルーツがあるからなんだ。同じジープニーに乗っているからといって──共通点があるからと言って、すべての人間とわかり合えるわけではない。それでも吾妻は俺に手を差し伸べるのだ。見くびるような目つきを寄越す俺にただ、親愛の握手を求めるために。
その日はつくづく運が悪かった。馬鹿の戯れ言に付き合わされた挙げ句、生来の狭量を刺激されて気分はどん底。朝からどうしてこんな気持ちにならねばいけないというのか。悔しくて、情けなくて……けれど、そんな俺の劣等感すら、吾妻は洒落臭くも笑ってみせて。
ずいっとさらに差し出された手に、結局俺は根負けする。嫌々ながらも握手に応えると、俺は小さく自身の名を口にした。途端にパッと華やぐ吾妻の顔。「仁科くんね」と呼ばれるのは、妙に居心地が悪くて、俺はすぐに「『仁科』でいい。くん付けはキモい」と訂正を入れた。
「うん、わかった。僕のことは自由に呼んでくれて良いからね」
「じゃあ、『お前』」
「本当に卑屈だな!」
「冗談だよ。……吾妻、な」
目的地が近づけば、俺は手すりを硬貨で軽く叩き、降車のサインを出す。吾妻が下車した場所は国内有数のインターナショナルスクールの近くで、その街並みを背景にした姿はずっと、俺の隣よりも、シャツの白が馴染んで見えた。
「気をつけて行けよ」
「うん。ありがとう、仁科!」
豊かに生まれ育ったらしいそいつは、何の迷いもなく感謝を口にする。そんなところですら、やはり自分とは異なる世界の人間だと思いつつも、俺はその現実をさも当然のように受け入れた。
「じゃ、またね」
「……またな」
そう言い合ったものの、おそらく会うのはこれが最後だろう。俺に吾妻と関わる理由はないし、吾妻にも俺と関わる理由はない。だからせいぜい、この一時だけの友人として、そいつが馬鹿でドジなことをしでかさないことを願うしかなかった。……もっとも、その祈りはあっけなく砕け散ることになるわけだが。
翌朝。同じ場所、同じ時間。馬鹿は昨日と同じアホ面でそこにいた。俺を見つけた瞬間、「いた!」とデカい声を上げて駆け寄ってくると、吾妻は「おはよう、仁科」という挨拶とともに、やたらエレガントなデザインのショッパーを俺の胸に押しつけてきた。目に入った金の箔押しは、俺でも知っているヨーロッパの高級菓子ブランドのロゴで。
「これ、昨日のお礼。仁科に渡したくて」
「……お礼?」
「うん。ここで待ってたら、また会えるかなって」
よく見れば、吾妻はその肌にじんわりと汗を掻いていた。朝方とは言え、八月末。そいつは南国の高温多湿な気候を甘く見ていた。
「……お前って、馬鹿なのか?」
「えっ⁉」
心外だと言わんばかりに吾妻はショックを受けた顔をするが、それは俺の心からの本音だった。そもそも、俺は感謝されるようなことはしていないのだ。ジープニーの乗り方を教えてやった……たったそれだけ。「ありがとう」と言われるのはまだしも、こんな贈り物をもらうまでのことをしたつもりはなかった。
「そんだけのことで……こんな高えもん、もらえない」
俺はショッパーを突き返し、はっきりと拒絶を示す。遠回しに断ったところで、吾妻には絶対に伝わらないと思ったからだ。が、それはそれで、そいつは「なんで?」と首を傾げて食い下がってきて。
「でも、ここのクッキー、すごく美味しいんだよ。僕のオススメ。だから仁科にも食べてもらいたくて」
「…………」
「あ、それとも甘いの嫌い? なんか別のだったら良い?」
「…………」
返されたショッパーをしげしげと眺めながら、贈り物そのものに問題があったのかと、まるで明後日の方向へ考え始める吾妻に俺は額を押さえる。せっかくの感謝の気持ちに砂をかけられたと、不快に思う様子は一切ない。むしろ「どうすれば受け取ってもらえるか」を真剣に考えているそいつは、つくづく俺の手に余るやつだった。
見えている世界が違うのだ。どうしようもなく、価値観が合ってくれなかったから。
(そもそも……俺はお前に、恥をかかせようと思って近づいたんだぞ)
吾妻は何も知らないのだ。俺がどれだけひねくれた人間か、どれだけ醜い人間か。そして元より住む世界の違うそいつが、そんな俺みたいな人間に情けをかけることが、いったいどれだけリスキーなのか。
きっと吾妻にとって、その焼き菓子はただの感謝の印にすぎないのだろう。しかしその気持ちを悪用しようとするやつらが、この世にはうじゃうじゃいるのだ。自分たちのためなら、そういう心からの善意すらも踏みにじることだって厭わないというやつらが。……そして俺も、妬んだ時点でその一員だった。
(俺とこれ以上、関わろうとすんな)
内心で吠える。わからなければわからないままでいいから、呆れて俺のことを放って行ってしまえばいい。そう思うのに──吾妻は俺を見てハッとすると、その場でショッパーを開いて中からものを取り出してみせた。
現われたのは、まるで宝石箱のように豪華な装飾が施されたクッキー缶。その蓋を開け、ぎっしり詰まった中から一枚のクッキーを摘まむと、そいつは僕にそれを差し出した。
「食べて。美味しいから」
鼻腔を爽やかなバニラの匂いがくすぐる。唇へ押しつけられると、俺はしずしずその口を開いた。
さくりと、軽やかな食感とともにクッキーが砕ける。その瞬間、優しい砂糖の甘さと芳醇なバターの風味がふわりと口の中に広がれば、俺は驚きに目をぱちくりとした。……心地好い舌触りに、くせのない味、印象的な香り。三つのバランスが主張しすぎず、程よく合わさったそれは、今まで食べてきたどんな食べ物よりも上品なのに、劇的だったからだ。
思わず菓子箱に視線を移しては、その美しい卵色の並びを見つめる。その時、ふふっと軽やかな笑い声が耳に入れば、俺はその面をゆっくりと上げた。視線の先では、吾妻がほくほくと頬を緩ませている。
「良かった。笑ってくれた」
「……あ?」
言われて初めて、俺はそれに気づく。そっと口元に手を遣り、口端に付いた砂糖を拭おうとすれば、たしかにその指は持ち上がった口角をなぞった。
「仁科さっき、悲しそうにしてたから」
「あのね、」と吾妻は言う。このクッキーは、別に昨日の感謝だけではないのだ、と。
「僕、仁科と知り合えて嬉しかったんだ。まだここに来たばっかりで、わかんないことだらけだし、学校はインターだけど日本人いないし……だから本当に嬉しかった。仁科と会えて」
それで僕も、仁科に嬉しくなってほしくて。
クッキーはそのためのものだった。自分がそうだったように、そいつは俺に喜んでもらいたかったのだ。
(……意味わかんねえ)
理解不能だった。暴論だとすら思った。俺は思わず唖然として、「お前、自分が何を言っているのかわかっているのか……?」と目で訴えるが、それに対する吾妻はピカピカの得意満面で、ひどく誇らしげな様子だった。そいつの中では一応理論として成立していることが窺えるが、俺は白い目で見ずにはいられない。自分の周りではまず見かけない、ホンモノの温室育ちに肝を潰したのだ。だって……、
(喜んでもらいたいって何だ)
だからわざわざクッキーを持ってきたって、何だ。馬鹿みたいだ。いや、実際そいつは馬鹿なのだが。
(こいつ……俺がどうにかしねえと……)
責任を取らなければ、と思ったのは、おそらくそのアホ面のせい。底抜けの天真爛漫さに裏打ちされた、ある種強情とまで言える真っ直ぐさに、俺は思いがけなくも折れることとなったのだ。
「ど、どうすればいいんだ……」
おろしたての真っ白なシャツに、無知を絵に描いたようなマヌケたツラ。馴染みのない日本語──吾妻が外国人で、さらに自分よりも恵まれた家庭の人間であることは、当時の俺でもひと目でわかった。ゆえに声をかけたのは、温かな親切心などではなく、醜い嫉妬のため。恥をかかせてやろうと思って、俺は「何か困ってんの?」と声をかけたのだった。
「えっ、日本語通じる?」
「少しだけ」
驚きと感心、それから安堵まで浮かべて笑った吾妻は、「ジープニーに乗りたくて」と明かす。そんなこともできないのかと、当時は呆れを通り越して意味がわからなかったが、よく考えればその頃のそいつはフィリピンに来てまだ一週間も経っておらず、この国の交通事情に慣れていなくても不思議ではなかった。
「どこ行きてえの?」
「えっと、マニラの──」
そう言って無防備に差し出されたスマートフォンは、つい最近発売されたばかりのハイエンドモデル。転売したら高く売れるだろうな、なんて一瞬くだらないことを思いながら、画面に表示された行き先を確認すると、そこはちょうど俺の通学路と重なっていた。
「……仕方ねえな」
行き先が一緒だからと、ついていってやることにしたのは、それだけの理由だった。
二人でジープニーに乗り込めば、吾妻は新参者らしく、きょろきょろと興味深げに車内を見回した。よほど珍しいのか、その目が興奮とともにキラキラを増していけば、次第にウザいというより、防犯面で危なっかしくなってくる。「大人しくしてろ」と言いつければそいつは素直にこくりと頷き、小さくかしこまったものの、その様子を見て俺は何となく確信したのを覚えていた。ああ、こいつ……馬鹿だ、と。人に言われたことをそのまま聞くだけの、世間知らずの愚か者だ、と。
「ね。君、名前なんて言うの?」
「今日初めて会ったやつに言うわけねーだろ」
そう返すと、吾妻は「そっか」とでも言いたげに、また素直に黙り込んだ。が、めげたわけではなかったらしい。
「じゃあ自己紹介したら教えてくれる? 僕はね、吾妻。吾妻真琴」
「聞いてねえ」
「中学一年で、今日が初登校」
「同学年かよ……つか、聞いてねえって言ってんだろ。言うな、喋るな、黙れ」
「へへ。君が名前を教えてくれたらやめるよ」
「こいつ……」
前述に補足。吾妻は腹が立つほどの馬鹿だった。
新学期早々、どうやら俺は厄介ごとに巻き込まれたらしい。ちょっかいをかけて困らせてやろうとしただけなのに、その報いは予想外のタチの悪さだった。脳天気なくせに、妙に頑固。ジープニーに一人で乗ることすらできないくせに生意気で、今もへらへら笑っている。ひと言で言うなら、俺が一番苦手とするタイプだった。
「なんでそんなこと聞いてくるんだよ」
露骨に機嫌の悪い態度で見せれば、吾妻はその目をまん丸くする。幼さを感じるあどけない顔つきは、しかし次の瞬間には太陽のような燦めきを伴い、その質問に明瞭に答えた。……「友達になりたいから」、と。
「……お前と友達にならなきゃいけない理由がない」
「卑屈だな。陰キャってやつ?」
「殺すぞ」
「うわ、口悪。どっちかって言うとヤンキーだったか。……でも、きっと仲良くなれるよ」
だって僕たち、同じ日本人じゃん。
揺れる車内で、隣り合った互いのシャツの半袖が擦り合う。かたやシワ一つない純白なものに、かたやくたびれた上級生の使い古しのお下がり。傍から見ればその違いは歴然。それだというのに、この馬鹿は浅はかにも、俺たちが仲良くなれそうだと言う。
(……面倒くせえ……)
同じ十二歳だからなんだ。同じ国にルーツがあるからなんだ。同じジープニーに乗っているからといって──共通点があるからと言って、すべての人間とわかり合えるわけではない。それでも吾妻は俺に手を差し伸べるのだ。見くびるような目つきを寄越す俺にただ、親愛の握手を求めるために。
その日はつくづく運が悪かった。馬鹿の戯れ言に付き合わされた挙げ句、生来の狭量を刺激されて気分はどん底。朝からどうしてこんな気持ちにならねばいけないというのか。悔しくて、情けなくて……けれど、そんな俺の劣等感すら、吾妻は洒落臭くも笑ってみせて。
ずいっとさらに差し出された手に、結局俺は根負けする。嫌々ながらも握手に応えると、俺は小さく自身の名を口にした。途端にパッと華やぐ吾妻の顔。「仁科くんね」と呼ばれるのは、妙に居心地が悪くて、俺はすぐに「『仁科』でいい。くん付けはキモい」と訂正を入れた。
「うん、わかった。僕のことは自由に呼んでくれて良いからね」
「じゃあ、『お前』」
「本当に卑屈だな!」
「冗談だよ。……吾妻、な」
目的地が近づけば、俺は手すりを硬貨で軽く叩き、降車のサインを出す。吾妻が下車した場所は国内有数のインターナショナルスクールの近くで、その街並みを背景にした姿はずっと、俺の隣よりも、シャツの白が馴染んで見えた。
「気をつけて行けよ」
「うん。ありがとう、仁科!」
豊かに生まれ育ったらしいそいつは、何の迷いもなく感謝を口にする。そんなところですら、やはり自分とは異なる世界の人間だと思いつつも、俺はその現実をさも当然のように受け入れた。
「じゃ、またね」
「……またな」
そう言い合ったものの、おそらく会うのはこれが最後だろう。俺に吾妻と関わる理由はないし、吾妻にも俺と関わる理由はない。だからせいぜい、この一時だけの友人として、そいつが馬鹿でドジなことをしでかさないことを願うしかなかった。……もっとも、その祈りはあっけなく砕け散ることになるわけだが。
翌朝。同じ場所、同じ時間。馬鹿は昨日と同じアホ面でそこにいた。俺を見つけた瞬間、「いた!」とデカい声を上げて駆け寄ってくると、吾妻は「おはよう、仁科」という挨拶とともに、やたらエレガントなデザインのショッパーを俺の胸に押しつけてきた。目に入った金の箔押しは、俺でも知っているヨーロッパの高級菓子ブランドのロゴで。
「これ、昨日のお礼。仁科に渡したくて」
「……お礼?」
「うん。ここで待ってたら、また会えるかなって」
よく見れば、吾妻はその肌にじんわりと汗を掻いていた。朝方とは言え、八月末。そいつは南国の高温多湿な気候を甘く見ていた。
「……お前って、馬鹿なのか?」
「えっ⁉」
心外だと言わんばかりに吾妻はショックを受けた顔をするが、それは俺の心からの本音だった。そもそも、俺は感謝されるようなことはしていないのだ。ジープニーの乗り方を教えてやった……たったそれだけ。「ありがとう」と言われるのはまだしも、こんな贈り物をもらうまでのことをしたつもりはなかった。
「そんだけのことで……こんな高えもん、もらえない」
俺はショッパーを突き返し、はっきりと拒絶を示す。遠回しに断ったところで、吾妻には絶対に伝わらないと思ったからだ。が、それはそれで、そいつは「なんで?」と首を傾げて食い下がってきて。
「でも、ここのクッキー、すごく美味しいんだよ。僕のオススメ。だから仁科にも食べてもらいたくて」
「…………」
「あ、それとも甘いの嫌い? なんか別のだったら良い?」
「…………」
返されたショッパーをしげしげと眺めながら、贈り物そのものに問題があったのかと、まるで明後日の方向へ考え始める吾妻に俺は額を押さえる。せっかくの感謝の気持ちに砂をかけられたと、不快に思う様子は一切ない。むしろ「どうすれば受け取ってもらえるか」を真剣に考えているそいつは、つくづく俺の手に余るやつだった。
見えている世界が違うのだ。どうしようもなく、価値観が合ってくれなかったから。
(そもそも……俺はお前に、恥をかかせようと思って近づいたんだぞ)
吾妻は何も知らないのだ。俺がどれだけひねくれた人間か、どれだけ醜い人間か。そして元より住む世界の違うそいつが、そんな俺みたいな人間に情けをかけることが、いったいどれだけリスキーなのか。
きっと吾妻にとって、その焼き菓子はただの感謝の印にすぎないのだろう。しかしその気持ちを悪用しようとするやつらが、この世にはうじゃうじゃいるのだ。自分たちのためなら、そういう心からの善意すらも踏みにじることだって厭わないというやつらが。……そして俺も、妬んだ時点でその一員だった。
(俺とこれ以上、関わろうとすんな)
内心で吠える。わからなければわからないままでいいから、呆れて俺のことを放って行ってしまえばいい。そう思うのに──吾妻は俺を見てハッとすると、その場でショッパーを開いて中からものを取り出してみせた。
現われたのは、まるで宝石箱のように豪華な装飾が施されたクッキー缶。その蓋を開け、ぎっしり詰まった中から一枚のクッキーを摘まむと、そいつは僕にそれを差し出した。
「食べて。美味しいから」
鼻腔を爽やかなバニラの匂いがくすぐる。唇へ押しつけられると、俺はしずしずその口を開いた。
さくりと、軽やかな食感とともにクッキーが砕ける。その瞬間、優しい砂糖の甘さと芳醇なバターの風味がふわりと口の中に広がれば、俺は驚きに目をぱちくりとした。……心地好い舌触りに、くせのない味、印象的な香り。三つのバランスが主張しすぎず、程よく合わさったそれは、今まで食べてきたどんな食べ物よりも上品なのに、劇的だったからだ。
思わず菓子箱に視線を移しては、その美しい卵色の並びを見つめる。その時、ふふっと軽やかな笑い声が耳に入れば、俺はその面をゆっくりと上げた。視線の先では、吾妻がほくほくと頬を緩ませている。
「良かった。笑ってくれた」
「……あ?」
言われて初めて、俺はそれに気づく。そっと口元に手を遣り、口端に付いた砂糖を拭おうとすれば、たしかにその指は持ち上がった口角をなぞった。
「仁科さっき、悲しそうにしてたから」
「あのね、」と吾妻は言う。このクッキーは、別に昨日の感謝だけではないのだ、と。
「僕、仁科と知り合えて嬉しかったんだ。まだここに来たばっかりで、わかんないことだらけだし、学校はインターだけど日本人いないし……だから本当に嬉しかった。仁科と会えて」
それで僕も、仁科に嬉しくなってほしくて。
クッキーはそのためのものだった。自分がそうだったように、そいつは俺に喜んでもらいたかったのだ。
(……意味わかんねえ)
理解不能だった。暴論だとすら思った。俺は思わず唖然として、「お前、自分が何を言っているのかわかっているのか……?」と目で訴えるが、それに対する吾妻はピカピカの得意満面で、ひどく誇らしげな様子だった。そいつの中では一応理論として成立していることが窺えるが、俺は白い目で見ずにはいられない。自分の周りではまず見かけない、ホンモノの温室育ちに肝を潰したのだ。だって……、
(喜んでもらいたいって何だ)
だからわざわざクッキーを持ってきたって、何だ。馬鹿みたいだ。いや、実際そいつは馬鹿なのだが。
(こいつ……俺がどうにかしねえと……)
責任を取らなければ、と思ったのは、おそらくそのアホ面のせい。底抜けの天真爛漫さに裏打ちされた、ある種強情とまで言える真っ直ぐさに、俺は思いがけなくも折れることとなったのだ。
