終礼を迎えてから、待ち合わせ場所──以前二人で映画鑑賞した日に訪れたベイサイドウォークに着くまで、約一時間。彼が指定した「夕方」が下校時間のちょうど一時間後くらいに当たるのは、どうやらそういうことらしかった。
雨はとうに止んでいたが、空はいまだ重たく曇り、風はどこか湿り気を帯びて生温い。一人の帰り道がいつもと少しだけ違うように感じられたのは、話しかける相手がいなかったからかもしれない。目的地の遊歩道にも知らないうちに到着していて、そこから見える海は荒れたように波を立て、鈍色の天と溶け合って境界が曖昧になっていた。
大規模商業施設の裏、メインゲートの反対側。海以外に何もなく、人通りもほとんどないような殺風景な道の真ん中に、ひとり立つ影が見える。
「仁科」
歩み寄りながら名前を呼ぶと、彼はゆっくりこちらを振り返る。彩度が低い視界のせいか、彼の表情はあまりしっかりとは読み取れない。しかし僕を見つけた瞬間、その目がわずかに見開かれたことだけはわかった。
僕たちの間を、絶えることなく潮騒が響く。それは見えない壁のようで、会えたはずなのに距離を覚えさせ、そして僕がそれ以上、仁科に歩み寄ることを拒んでいるかのようだった。
「……早かったな」
その声は語るだけ、感情らしいものはない。ただ何かしら硬いような、強ばったようなものが感じられたのは確かで、そして僕はそれを気づかなかったことにした。
なるべく普段通りに答える。「だって君に呼ばれたから」、と。早く着いたのは、一人で歩くのが退屈だったからだ、と。
「仁科の方こそ……来れないかと思ったよ」
僕の言葉に、彼は困った風な表情を覗かせる。その顔が弱々しく見えたのは、どうもこの曇天のせいだけではない気がした。
海風が吹き、仁科の前髪が揺れる。「来れない理由はないな」という言い回しは気丈で、彼らしい。けれどその声音はやっぱりからっぽで、軽々しさに打ち震えているようにも聞こえた。
「……学校で聞いた。仁科が──」
言いかけた僕の言葉を、彼は首を横に振って遮る。全部を言わずとも、今の僕が何を言わんとしているかくらいはお見通しのようだった。
初めから、彼はこうなることをわかっていたのかもしれない。自分の立場も、僕がそれを耳にすることになるのも、とっくに把握していた。そのうえで今朝、僕をここへ呼ぶためだけにあの席にいたのだ。……ひとえに、この時を迎えるためだけに。
「けじめをつけたいことがある」
「……けじめ?」
「ああ。責任を取る必要がある」
仁科はそう言うと、にこりと朗らかな笑みを浮かべる。が、僕には何のことを言っているのかさっぱりわからなかった。「けじめ」も「責任」も、思い当たるものが何ひとつ無かったからだ。ゆえに僕は疑問符を浮かべるしかないが、彼はそれに「当然だ」と肩を竦めてみせる。
「これは俺が決めたことだからな」
仁科の笑顔が──消える。と、次の瞬間、こちらにむかって真っ直ぐ突き出されたそれを認識した途端に、僕は言葉を失った。その目に捉えたのが鋭利だったからではない。そこに込められた敵愾心が、その存在感だけで僕を貫いたからだ。
「警察に捕まる前に……お前を処分しねえと」
それが俺のけじめだ。
曇り空の濃淡から、夕景の緋色が滲む。バタフライナイフとともに突き刺さる、仁科の険のある視線は、昨日盗み見た裏切り者へのものよりずっと冷たく、それでいて燃えるようだった。
僕ははくりと呼吸を毀し、「な、なんで……?」と声を絞り出す。すると仁科はひどく不愉快そうに、そして悔しげに顔を歪めてみせた。
「てめえが偽物だからだよ」
「……え?」
「吾妻は……吾妻真琴は、去年のクリスマスに死んだ!」
ナイフの刃先が震える。声も、悲痛に掠れていた。が、それでも仁科はかまわず問いを重ねる。「てめえは誰だ」、と。「どうしてここにいるんだ」、と。
「お前……ずっとおかしいんだよ! 最初から……初めて会った時から!」
「なんの……話……」
「とぼけんな! だってお前……お前の顔……」
無い、じゃねえか……!
わずか一瞬、揺れるナイフの腹に自身の顔が映る。仁科の言う通り、それは穴が空いたように真っ黒く潰れていて──たしかに、僕には顔が無かった。
雨はとうに止んでいたが、空はいまだ重たく曇り、風はどこか湿り気を帯びて生温い。一人の帰り道がいつもと少しだけ違うように感じられたのは、話しかける相手がいなかったからかもしれない。目的地の遊歩道にも知らないうちに到着していて、そこから見える海は荒れたように波を立て、鈍色の天と溶け合って境界が曖昧になっていた。
大規模商業施設の裏、メインゲートの反対側。海以外に何もなく、人通りもほとんどないような殺風景な道の真ん中に、ひとり立つ影が見える。
「仁科」
歩み寄りながら名前を呼ぶと、彼はゆっくりこちらを振り返る。彩度が低い視界のせいか、彼の表情はあまりしっかりとは読み取れない。しかし僕を見つけた瞬間、その目がわずかに見開かれたことだけはわかった。
僕たちの間を、絶えることなく潮騒が響く。それは見えない壁のようで、会えたはずなのに距離を覚えさせ、そして僕がそれ以上、仁科に歩み寄ることを拒んでいるかのようだった。
「……早かったな」
その声は語るだけ、感情らしいものはない。ただ何かしら硬いような、強ばったようなものが感じられたのは確かで、そして僕はそれを気づかなかったことにした。
なるべく普段通りに答える。「だって君に呼ばれたから」、と。早く着いたのは、一人で歩くのが退屈だったからだ、と。
「仁科の方こそ……来れないかと思ったよ」
僕の言葉に、彼は困った風な表情を覗かせる。その顔が弱々しく見えたのは、どうもこの曇天のせいだけではない気がした。
海風が吹き、仁科の前髪が揺れる。「来れない理由はないな」という言い回しは気丈で、彼らしい。けれどその声音はやっぱりからっぽで、軽々しさに打ち震えているようにも聞こえた。
「……学校で聞いた。仁科が──」
言いかけた僕の言葉を、彼は首を横に振って遮る。全部を言わずとも、今の僕が何を言わんとしているかくらいはお見通しのようだった。
初めから、彼はこうなることをわかっていたのかもしれない。自分の立場も、僕がそれを耳にすることになるのも、とっくに把握していた。そのうえで今朝、僕をここへ呼ぶためだけにあの席にいたのだ。……ひとえに、この時を迎えるためだけに。
「けじめをつけたいことがある」
「……けじめ?」
「ああ。責任を取る必要がある」
仁科はそう言うと、にこりと朗らかな笑みを浮かべる。が、僕には何のことを言っているのかさっぱりわからなかった。「けじめ」も「責任」も、思い当たるものが何ひとつ無かったからだ。ゆえに僕は疑問符を浮かべるしかないが、彼はそれに「当然だ」と肩を竦めてみせる。
「これは俺が決めたことだからな」
仁科の笑顔が──消える。と、次の瞬間、こちらにむかって真っ直ぐ突き出されたそれを認識した途端に、僕は言葉を失った。その目に捉えたのが鋭利だったからではない。そこに込められた敵愾心が、その存在感だけで僕を貫いたからだ。
「警察に捕まる前に……お前を処分しねえと」
それが俺のけじめだ。
曇り空の濃淡から、夕景の緋色が滲む。バタフライナイフとともに突き刺さる、仁科の険のある視線は、昨日盗み見た裏切り者へのものよりずっと冷たく、それでいて燃えるようだった。
僕ははくりと呼吸を毀し、「な、なんで……?」と声を絞り出す。すると仁科はひどく不愉快そうに、そして悔しげに顔を歪めてみせた。
「てめえが偽物だからだよ」
「……え?」
「吾妻は……吾妻真琴は、去年のクリスマスに死んだ!」
ナイフの刃先が震える。声も、悲痛に掠れていた。が、それでも仁科はかまわず問いを重ねる。「てめえは誰だ」、と。「どうしてここにいるんだ」、と。
「お前……ずっとおかしいんだよ! 最初から……初めて会った時から!」
「なんの……話……」
「とぼけんな! だってお前……お前の顔……」
無い、じゃねえか……!
わずか一瞬、揺れるナイフの腹に自身の顔が映る。仁科の言う通り、それは穴が空いたように真っ黒く潰れていて──たしかに、僕には顔が無かった。
