出かける前に皿が割れたら

 翌日。十月に入ったその日の気温は、最高気温三十度の猛暑だった。曇り空で直射日光を避けられることだけが幸いだった。
「……おはよう、仁科」
「はよ」
 彼はいつものように本を読んでいた。相変わらず、タイトルを見てもよくわからない。だから僕は深入りせず、そのまま彼の後ろの席に腰を下ろした。
 しばらく、僕と仁科の間には沈黙が降りる。それを破ったのは彼の方だった。
「昨日、俺と別れた後、どこにいた?」
 尋ねられるだろうな、と思っていたことそのままを問われた。僕は予め用意していた答えを口にする。
「どこって……別に。普通に帰ったけど」
 嘘を付くことにした。仁科のあの姿を見たことは、墓場まで持っていくつもりだったからだ。
 ずっと、知らないフリをすること。知らなかったことにしておくこと。これからの人生すべてを懸けて黙り続けるから、仁科に僕の過失を見逃してほしかった。……友達でいたかったのだ。
 空気を変えたくて、僕は別の話題を振る。周りを意識して、ふと「女の子たちが騒がしいね」と独り言をこぼせば、仁科は「ああ」と頷いてみせた。
「少し前にあった誘拐事件の話で盛り上がってるらしい」
 仁科は本に集中しており、教室内を渦巻くトピックには興味がない様子だった。とりあえず、「早く見つかるといいね」と相槌を打てば、彼はにわかにその視線をこちらへ向ける。
「ああ、知らないのか。攫われたやつ、見つかったんだよ。それも全員」
「全員?」
「あ、」とその時僕はやっと思い出す。そういえば転入してすぐの頃、終礼前に先生が「最近は未成年の誘拐事件が多いから」と注意を促していたことを思い出す。では、その事件で失踪していた人たちが見つかったということだろうか。それは良い知らせなんじゃ、と思うが、どうにも仁科の表情は固い。
 嫌な予感に、僕はごくりと唾を飲む。
「見つかったことには見つかったんだ。……一人残らず、死んでたけどな」
 最悪な的中だった。思わず「……え」と放心する僕に、仁科はそっと首を横に振ってみせる。そう驚くようなことでもないという態度は、曰く貧困層の子どもを狙った人身売買や臓器売買のための殺人の線を否定できないからだという。身寄りもなく、力もない未成年者は、巨悪犯罪の餌食になりやすい。スラムも近く、若者の路上生活者も少なくないこの一帯において、これまでもそういった事件がないわけではなかった。
「それに、殺されたのは少年ギャングの連中らしい。揉め事起こして反感でも買ったのかもな」
「そんな……」
 淡々と言ってのける仁科に、普段は感じない冷たさを覚える。彼はこの件について何か背景を知っているのだろうか。それとも「パサイ・ウェストサイド」のリーダーとして、少なからずこの地域の裏社会を知っているからだろうか。昨日の彼を思い出せば、後者の方が真実に近いような気がした。
「何だよ、ビビってんのか?」
 黙り込む僕を見て、仁科は小馬鹿にしたような顔を覗く。それを感心しないと思ったのは、彼が事の重大さを軽視しているように感じられたからだ。もっと言えば、彼らしくない。「仮にも人が死んでるんだぞ」と顔色を変えて咎めれば、彼はわずかに固まって、そして小さく「……悪い」と謝った。
「仁科も楽観視するなよ。殺人鬼が君を殺しに来るかもしれないんだから」
「来ねえよ。来たら来たで俺が殺すし」
「そしたら君が捕まっちゃうじゃないか!」
「本末転倒だよ」と指摘すれば、「言葉の用法が微妙に違う」とのこと。安易に難しい言葉を使うべきではなかったか、と反省するものの、その一方で彼がいつも通りに呆れかえっているのを見れば、僕はようやく安堵に落ち着くことができたような気がした。……ああ、
(僕、仁科に怖いことをしてほしくないんだ)
 自分の中で形を捉えきれずにいた気持ちを、僕はようやく認識する。結局のところ、それだけだったのだ。女子生徒らの噂話を聞いて心配だったのも、不良グループのリーダーとしての彼を知りたかったのも、それらはすべて彼が危険と隣り合わせにあることを知っていたから。だから僕は彼に危ないことをしてほしくなかった。彼が傷つくのは嫌だから──彼は、僕の大事な友達だから。
 身勝手な独り善がりかもしれない。相手にも事情はあるし、どんなことも実際に決めるのは本人である以上、きっとこう思ってしまうこと自体が思い上がりも甚だしかった。それに、仁科は強くて、頭も良いのだ。できることが多い分、グループ内の仲間たちからの信頼と期待は大きいだろう。だからこれは僕の杞憂にすぎない。そしてほんの些細なわがままでしかない。
 友達だからこそ簡単には言えない「危ないことはすんなよ」が、この世にはあるのだ。
(……友達、か)
 なら、友達ではないなら言えるのか──と考えていたところで、不意に仁科が「なあ、」と僕を呼びかける。普段は本の虫になっている彼が珍しい。浅い思考の海から上がり、「何?」と尋ねれば、彼は一度本の表紙に視線を落とし、そして再び僕を捉えた。
「テセウスの船って知ってるか?」
「……テセウスの船?」
 ざっと脳内の百科事典で単語を引くが、特に思い当たらない。世界史のキーワードだろうか、と推測するも、それでもやはりピンと来なかった。ああでも、どうしてだろう……聞いたことがある気がする。
「たしか、インド映画にそんなのがあった気がする……」
「へえ。やっぱり有名だから、作品の題材になったりするんだろうな」
「僕はそれ、知らないけどね」
 首を傾げる僕に、仁科は「じゃあ問題だ」と話を続ける。内容はこうだ。
 あるところに一隻の船があった。その船は長期間保存するにあたり、古くなったパーツをその都度新しいパーツへと換えていった。そして最終的には、すぺてのパーツが新しいものに置き換えられた。さて、この船ははたして、当初の船と「同じもの」と言えるのか。
「わかった、哲学だな」
「そうだ。一般的には、同一性の思考実験として知られているな」
 僕はしばらく考えてみることにする。仮にその船を「ブラックパール号」と名付けたとして、パーツがすべて置き換えられた船もブラックパール号と呼ばれるだろう。けれどそのブラックパール号を構成しているパーツは、すべて違うものだ。つまりその船はブラックパール号であってブラックパール号ではない。
(答えが矛盾してる……?)
 いや、矛盾しているのではない。おそらくこれと決まった答えがないのだ。前者も後者も、基準となる物の見方が異なるだけで、どちらの考え方も正しい。……なら、僕は夢がある方を選びたい。
「僕は『同じ』だと思う」
「……どうして?」
「その船は()()()()()()意味があるんだろ? パーツを換えた人たちはみんな、その船を残したいから修理したんだ。ってことは、その船はパーツが全部換えられてもその船なんだよ」
 だって、みんながそう思ってるんだから。
 僕はふんと胸を張る。個人的にはなかなかナイスな解答だと思った。が、当の仁科の反応はあまり芳しくない。無反応というか、まるで鳩が豆鉄砲を食らったかのようで。
「おーい、仁科? 仁科ー、仁科クーン」
「……!」
 何度か呼びかけたところで、彼はハッと我に返る。「……ぼんやりしていた」とは言うものの、あれは明らかにびっくり仰天からのシステム停止状態だった。
「いや……まさかお前が、ちゃんと答えを出せるとは思わなくて」
「あれ? また喧嘩売られてる?」
 今度こそ買おうとすれば、仁科は「マジだって」と僕を宥める。なんでも、僕の解答は学者が唱えた一説に重なるらしいのだ。図らずも正解とされるものに辿り着いていたようで、ちょっと照れくさいが、意外と嬉しい。
「でも、なんで急にそんなこと聞いてきたんだよ」
 答え合わせはさておき、僕は根本的なことを問う。哲学好きな仁科の気まぐれだったらそれでかまわないのだが、どうもそう単純なことではないように思われたのだ。勘にすぎないが、何となく当たっている気がする。
「ただの興味本位だ」
「嘘だぁ……」
「嘘じゃねえよ。ちょうどこの本に書いてあったから」
 示すようにひらひらと冊子を手元で遊ばせる仁科だったが、依然として僕は腑に落ちない。「じゃあ仁科はどう思うんだよ」と訊いてみれば、「俺も同じだ」と彼は言う。
「お前と同じ。結局、人がどう信じるか次第だ」
 仁科はその目を窓のむこうへ向ける。
 朝、七時十分前。外はあいにくの曇天で、分厚い灰色の雲が空いっぱいに埋め尽くされていた。低気圧のせいか、海も少し荒れているようだ。雨が降るのも時間の問題かもしれない。
「なあ、吾妻。テセウスの船って、どんななんだろうな」
 僕に語りかけながら、仁科はやおらにその手をデイパックに伸ばすと、筆記用具やノートやらを詰め込んでいく。僕はその背中をじっと見つめながら、「さあ?」と受け答えた。
「俺、この問題結構好きなんだよ」
「なんで?」
「中身が変わっても、新しくなっても、人が『同じだ』って言ったら、それは同じものになる。……俺は、この問いがあること自体が、世界に理論だけじゃなくて、感情も要することの証明だと思う」
 支度を終えると、仁科は迷いなく席を立ち、「今日は欠席する」とだけ告げる。僕はなぜと尋ねようとしたが、結局その問いが飛び出ることはなかった。それは彼が、その先の追及を望んでいないようだったからだ。
 代わりに「先生に言っとく」と応じれば、彼は「よろしく」と微笑む。晴れ晴れしいというか、その笑顔はどこか開放的だった。
「今日の夕方、前に行ったマニラ湾のあの場所に来い。そこで待ってる」
 それだけを言い残し、時を置かず教室を去って行く仁科の存在を、しかし生徒は一人も気づかない。朝礼前の一番賑やかな時間、彼らの目には友達しか映っていなくて、ゆえに一人になった僕は教室の中で透明になる。
 再び窓へ視線を戻す。仁科の帰り道に雨が降らないといいのに──と、そう思ったのがいけなかったのか。僕が我慢を強いた空は、あっけなくもすぐに泣き崩れてしまって。
「嘘。ねえ、これマジでヤバくない?」
「失踪してた人たちの遺体が見つかったってやつ?」
「そうそう。その続報が出ててさ、近くの不良グループが警察に捕まったらしいよ」
「誘拐じゃなくて、殺したのを隠してたんだって」
 昼休みの終わり。街全体を塗り潰すような雨粒が降り注ぐ中、今朝の事件は既に噂としてのありようを変えていた。生徒たちがお互いのスマートフォンを見せ合い、SNSの投稿を読み上げる姿には恐怖と興奮とが入り交じる。

〝パサイ西部で未成年数名が事情聴取〟
〝少年ギャングの幹部、構成員の少年が同行。なおリーダー格の少年はいまだ見つからず〟

 名前は出ていない。が、その「リーダー格」が誰なのか、この教室の生徒なら誰でも知っていることだった。
「そういえば今日、ルカ休んでるじゃん」
「やっぱりこれ、本当なんじゃ……」
 砂嵐のようなざわめきが広がる中、雨脚が激しくなっては窓を打ち付ける音が強まる。人々を建物の中に閉じ込め、外の世界を無理やり灰色へ沈めていく暴挙を、僕はただぼんやり眺めていた。