夜の庭は不思議な空気に満ちていた。
石燈籠の明かりに照らされた飛び石がぼんやりと浮かび上がり、池には輝く満月が映り込んでいる。やけに大きく見える月を覗き込んだら、吸い込まれてしまいそうだ。
昼間であればここから見える梅御殿も、闇に紛れてしんと静まり返っている。どこからかキョキョキョと聞こえてきたのは、ホトトギスの鳴き声か。
怖くはないけど、現世とも思えない景色。それを前にして、私は一人、池にある浮き島へ続く赤い橋で佇んでいた。
夏とは思えない涼しい風が吹き抜けた。
「聞かずして黙もあらましを何しかも、君が直香を人の告げつる」
暗闇に、聞き覚えのない男の声が響いた。
それは私へ問う歌だ。
浮き島を背にして振り返った先、橋の向こうに闇夜より黒い影が浮かんでいる。
声は届くものの、暗がりで顔はよく見えない。だけど、声の様子からするに二十代、私や蒼司と歳は変わらないだろう。
さわさわと風が吹き抜け、気配が近づいてくるのを感じる。
鼓動は跳ねる胸元で手を握りしめた。
大丈夫、蒼司がすぐそばで術の準備を進めてくれているんだから、強気でいくのよ。男を引き付けて油断させるのが私の役目──私なら、できる!
大きく息を吸い込み、影に向かって声をかけた。
「きっと来ると思ってました」
「……お前が文を送った者か。姉上はどこだ」
「あめさんは、ここにいません」
「いない……?」
「あなたに事実を伝えるため、文を送りました」
「……事実? よもや、この文に書かれた歌が真実というのではなかろう!?」
突如として激高した男は、胸元から引き出した紙を乱暴に広げた。
そこに綴った歌を思い出し、ゆっくりと口を開いた。
「里人の 我れに告ぐらく汝が恋ふる、愛し夫は黄葉の散りまがひたる神奈備の、この山辺から[或る本に云く、その山辺]ぬばたまの黒馬に乗りて川の瀬を、七瀬渡りてうらぶれて、夫は逢ひきと人そ告げつる」
歌を詠む間、男は足を鳴らして私の目の前まで近づいた。
赤い橋を照らす灯篭の明かりに、闇よりも暗い表情が浮かぶ。怒りに満ちたその顔は、まるで鬼のようだ。
あまりの気迫に数歩後ずさる。着物の裾に隠れた足が震えていた。
「姉上はどこだ」
低い声は冷たく響き、怒りをにじませていた。
この男は、あめさんが死んだと思っている。
私が送った歌は、里人が夫を待つ妻へその死を告げる挽歌だ。
神奈備は、神が降りる山や森を現し、七瀬が多くの瀬──三途の川を現しているとも考えられる。そんな追悼の意味をこめたこの歌に、あめさんの髪とつげ櫛を添えて送りつけたのだから、受け取った方としてみれば気が気でないだろう。
男の胸の内を表しているのが、現れたときに口ずさんでいた返歌だ。
どうして夫の死を私に教えたのか。聞かせないで黙っていて欲しかった。──死を信じたくない悲しみが込められている。
「貴様が、姉上を殺したのか」
ギラギラとした眼差しが私を睨んでいる。
「答えろ!」
ぐんっと伸びてきた手が肩を掴んだ。着物の上から食い込みそうなほど、爪がたてられた。骨がミシミシというほど手加減なしで掴まれ、痛みに息を呑む。
石燈籠の明かりに照らされた飛び石がぼんやりと浮かび上がり、池には輝く満月が映り込んでいる。やけに大きく見える月を覗き込んだら、吸い込まれてしまいそうだ。
昼間であればここから見える梅御殿も、闇に紛れてしんと静まり返っている。どこからかキョキョキョと聞こえてきたのは、ホトトギスの鳴き声か。
怖くはないけど、現世とも思えない景色。それを前にして、私は一人、池にある浮き島へ続く赤い橋で佇んでいた。
夏とは思えない涼しい風が吹き抜けた。
「聞かずして黙もあらましを何しかも、君が直香を人の告げつる」
暗闇に、聞き覚えのない男の声が響いた。
それは私へ問う歌だ。
浮き島を背にして振り返った先、橋の向こうに闇夜より黒い影が浮かんでいる。
声は届くものの、暗がりで顔はよく見えない。だけど、声の様子からするに二十代、私や蒼司と歳は変わらないだろう。
さわさわと風が吹き抜け、気配が近づいてくるのを感じる。
鼓動は跳ねる胸元で手を握りしめた。
大丈夫、蒼司がすぐそばで術の準備を進めてくれているんだから、強気でいくのよ。男を引き付けて油断させるのが私の役目──私なら、できる!
大きく息を吸い込み、影に向かって声をかけた。
「きっと来ると思ってました」
「……お前が文を送った者か。姉上はどこだ」
「あめさんは、ここにいません」
「いない……?」
「あなたに事実を伝えるため、文を送りました」
「……事実? よもや、この文に書かれた歌が真実というのではなかろう!?」
突如として激高した男は、胸元から引き出した紙を乱暴に広げた。
そこに綴った歌を思い出し、ゆっくりと口を開いた。
「里人の 我れに告ぐらく汝が恋ふる、愛し夫は黄葉の散りまがひたる神奈備の、この山辺から[或る本に云く、その山辺]ぬばたまの黒馬に乗りて川の瀬を、七瀬渡りてうらぶれて、夫は逢ひきと人そ告げつる」
歌を詠む間、男は足を鳴らして私の目の前まで近づいた。
赤い橋を照らす灯篭の明かりに、闇よりも暗い表情が浮かぶ。怒りに満ちたその顔は、まるで鬼のようだ。
あまりの気迫に数歩後ずさる。着物の裾に隠れた足が震えていた。
「姉上はどこだ」
低い声は冷たく響き、怒りをにじませていた。
この男は、あめさんが死んだと思っている。
私が送った歌は、里人が夫を待つ妻へその死を告げる挽歌だ。
神奈備は、神が降りる山や森を現し、七瀬が多くの瀬──三途の川を現しているとも考えられる。そんな追悼の意味をこめたこの歌に、あめさんの髪とつげ櫛を添えて送りつけたのだから、受け取った方としてみれば気が気でないだろう。
男の胸の内を表しているのが、現れたときに口ずさんでいた返歌だ。
どうして夫の死を私に教えたのか。聞かせないで黙っていて欲しかった。──死を信じたくない悲しみが込められている。
「貴様が、姉上を殺したのか」
ギラギラとした眼差しが私を睨んでいる。
「答えろ!」
ぐんっと伸びてきた手が肩を掴んだ。着物の上から食い込みそうなほど、爪がたてられた。骨がミシミシというほど手加減なしで掴まれ、痛みに息を呑む。

