カテイの手紙

 保育園の話に戻りましょう。秀太が四歳になり、そろそろいい加減、私もハイハイから二足歩行に段を移して久しい時期になっていました。秀太はわがままな性格ではなく、決して両親に口答えのしないとても利口な男の子に成長しているように思われて、私はなんだか嬉しかったのを覚えています。周囲の子供を持つ家庭からはひっきりなしに悲鳴が聞こえてくる時期なのですが、うちの子は私に似たのか、それともどこか間が抜けていてもしっかりしている夫に似たのか、とにかく手のかからない子供でした。食事は必ず、出された分を食べます。毎朝の「行ってきます」の朝の時間にも、駄々をこねることなく夫の車に乗って行きます。あの頃、何度言われたか数えていないのですが、とにかくたくさんの羨ましいという言葉を耳に受け止めていた毎日でした。どうしてあのように育てられたのですか、と周りのお母様たちから質問の嵐に遇い、それに答えているうちに嵐は次第に大きくなっていくようで、いつしか私は、私の自宅に案内してお母様の集会のようなものを結成し、そしてその長のような立場に立つようになっていったのです。つまり私は、あの周辺地域の人たちの、家庭が何であるかを知っている族長のようなものなのでした。悪い気は、到底起こり得ませんでした。私の気に入られようと、愛くるしい子供を差し向ける親などもありました。私は俎上に載せられたものは何でも受け入れ、相談を受ければ「あなた、ここは直さなくては」と修正案を提出し、愚痴をこぼされればお菓子やお茶でも出して、テーブルに肘をついていくらでも話を聞いていました。概ね、その集会での私の立ち回りは完璧と言って差し支えなかったでしょう。日増しに参加人数は増えて、小さなアパートに私を数に入れて一〇名集まったこともございます。その集まりは、息子の、一七歳の時のあの事件があるまで、毎月一回は催されていました。この一七歳の事件については、先ほども記しました夫の件と一緒に書くつもりです。そこまで、どうか我慢して読んでください。
 さて、その事件までを書き進めるにあたり、まず秀太の四歳の頃の話に戻らなくてはなりませんね。ここからです、ここからなのです、話のおかしくなり始めたのは。
 私の母と父は、つまり秀太のおじいちゃんとおばあちゃんは、よく私たち一家に遊びに来ていました。私が心配というよりは、やはり秀太を心配している気配でした。秀太は二人にとって初めての孫です。その孫を産んだ娘が結婚相手に選んだのが、何と形容するのが正しいかもわからない、正体不明の男。実家と仲が悪く、私が彼について話すことには毎度首を捻っているのが常でしたから、面妖な男、そしてその男と結婚した面妖の妻。この二人に小さな孫を預けておくのが、あの二人からしてみればどうしても気がかりだったのでしょう。監視の目的で、父母は月に二回か三回、やってくるのでした。