宮古馬

 しばらくの間、拓三は黙り込んだままであった。きまり悪くなったのか、台湾人の夫婦は互いに顔を見合わせて、それから踵を返して出口を目指していく。残された清隆と拓三は、静かに目を合わせたままだ。ある時点で清隆は、拓三の目が若干潤んでいるのを発見した。その瞳の中に己の姿を見たような気がして、慌てて作業服の袖で顔を拭った。
「清隆の言いたいことは、よくわかった」
 風が吹けばかき消されそうな声だ。
「だがな、大切に育ててきた鶏の卵が地面の上で粉々になっているのを見つけた時、決めたんだよ。もうこんなやつらを大事な動物たちに近づけちゃならん、もしまた接近を許したら、今度は卵どころでは済まなくなる。これ以上のことをされたら、俺は、ああ言う連中の一人を殺してしまうかもしれないんだ」
「拓三さんに人殺しは無理ですよ。一人の観光客を殺したところでどうにもならないということくらい、わかってるはずです」
「ああ、そうだな」と、拓三は言った。
「わかってる。何一〇億人といたら、俺と同じ気持ちになれるやつは少なからずいる。清隆みたいに、俺を尊敬しているとか言い出す輩も現れるかもしれない。俺は結局、臆病なんだ」
 それだけこぼすと、拓三は俯いて目元を指で払った。年老いた彼より清隆の方が体格に恵まれている。身長も清隆の方が勝っているのでなんだか子供を説教しているような気持ちにさせられてしまう。そして失礼かもしれないが、拓三に対してこの人はこんなにちっぽけな先輩だったのかと思ってしまった。
「あの二人、追いかけませんか」
「追いかける? どの面下げて追いかけると言うんだ」
「どの面もこの面もありません、一回まず謝るんですよ。謝って、向こうの気持ちがまだ変わってなければ、宮古馬を見ようとまたここへ来てくれるはずです」
「この歳になって、追い返した客に頭を下げるのか」
「プライドが邪魔しますか? なら、やめますか?」
「バカにするな、俺だって歳の離れた後輩にここまで言われれば多少悪いことをしたと思うさ。閉業時間を気にしているだけだ」
「それ、開店前の居酒屋に居座る人が言いますか」
「それはそうだ。なら、同じ轍はもう踏まんぞ、清隆。時間内にきっちりやることをやろう。学生の前で時計を見失っては示しがつかんしな」
「それもそうですね。走りますよ」
 ゴム長靴は走るために作られていない。アスファルトの上でべこべこ、ぼこぼこ音を立てながら肩を並べて走った。声をかける前に夫婦はその音を耳で拾って振り返ってくる。清隆と拓三は、爽やかな笑顔で頭を下げた。