アンカー・チェイン

 茹だるような暑さと蝉の騒がしい鳴き声を煩わしく思いながら、俺たちは棒アイスを食べている。今日集まったのは除霊のためではなく、単に飲みたい気分だったからだ。ただ、近くのコンビニで酒やつまみを買って寮に戻ってきた頃には汗だくになっていて、酒より先に身体がアイスを求めていた。
 ふと、壁にかけたカレンダーが目に入る。もう八月も半ばになろうとしているのか。月日が経つのはあっという間だ。
「お前、お盆はなんか予定あんの? 帰省とか」
「特にない」
即答だった。その極端なほどの素っ気なさがなんとなく引っ掛かる。
「……あれ。実家、どこなんだっけ」
「鎌倉だ。だが、もう帰ることはない」
「…………そうなの」
息子のために教授を脅迫までするような親だ。てっきり家族関係は良好なのだと思っていた。学費も独り暮らしの生活費も親持ちのようだし、サナギのライフワークは家業だという除霊だ。跡継ぎになるとか、そういう未来もあるのかと、勝手に思っていたけど……。
「俺は、生まれた時から霊力が高かった。家の者はみな見えるものたちだが、俺の力は異質で疎まれた。家業も弟が継ぐことに決まっている」
……みえる人同士だからって、分かり合えるわけじゃないのか。そういう伝統ある家って、長男に後を継がせたいとか言いそうなものなのに、それでも弟を後継者に据えるってことは、よほどサナギの存在はイレギュラーだったんだな。サナギが家でどんな扱いを受けてきたのか、想像すると腹の底がどんより重くなる。
「……でも、お母さんはお前の単位の心配までしてくれてるんじゃないのか」
不躾だっただろうか。でもどうしても気になって聞いてしまった。少しでも救いのある話が聞きたかったのかもしれない。
「……母は、俺の力を恐れている。単位のことも、ただ『大学を追い出されて出戻られては困る』というだけだ」
「……ごめん」
「別に構わない」
こういう時、サナギの表情が少しも変わらないのが心配になる。俺はお前にこんな話させたこと、後悔してるのに。でも、そう聞いてしまうと、お金を惜しまず渡されているのも、手切れ金みたいなものだったのかと納得してしまった。
「お前はどうなんだ。何か予定があるのか」
「俺もなんの予定もないよ。帰る家がないのは、俺も同じだ」
事故のあと、俺は父方の伯母の家に引き取られた。その時期、三つ上の従兄弟が反抗期の真っ只中で、家の中はかなり荒れていた。そんな状況で余裕もなかったせいか、伯母夫婦の俺への当たりは強かった。だから、まあなんていうか、要するにあまりいい扱いは受けなかった。
 高校までは面倒を見るからその先は自立してほしいと遠回しに言われていたので、新聞奨学生として自分で学費を稼ぎながら進学することを選んだ。
 別にされたことに不満はないし、むしろ高校まで衣食住を提供してくれたことに感謝してる。だけど、もうあの家に帰るつもりはない。その方がたぶん、お互いにとっていいと思っているだけだ。
「ま、それならお盆も変わらずこうやってだらだら過ごすことになりそうだな」
「どうだろうな。お盆は除霊師にとっては忙しくなる時期だ。死者が戻って来るということは、あちらの世界への入り口が開かれるということだ。心霊や怪異の噂も増える」
「もうなるべく平穏に過ごしたいよ俺は……」
 やれやれと項垂れると、ちょうど寮のドアがノックされた。寮母さんだ。
「山藤くん。ピザ、来てるわよ」
閑話休題。俺たちは憂鬱なお盆のことを考えるのをやめて、いそいそと晩酌の準備を始めた。
 残念ながらサナギの予想は当たり、お盆が近づくに連れてじわじわと心霊の噂は増え始めた。そういえば、毎年夏はひどい夏バテで食欲も体力もなくなると思っていたけど、季節柄の霊障だったと発覚した。どちらかといえばあまり知りたくなかった。ただまあ、今年はサナギが都度除霊をしてくれるおかげで、猛暑の中でも比較的食事を楽しめているので、それはとてもありがたく思っている。
「これをどう思う」
サナギに見せられたのは、とあるSNSの投稿だった。
「子供が不審な男に声をかけられて連れ去られそうになった……? これ、普通に不審者情報じゃないのか?」
「近い地域で、同じような投稿が複数あがっているようだ」
「活動的な不審者なんじゃね?」
「……そうか。なんとなく、気になったんだが」
サナギは腑に落ちない様子だったけど、正直こればかりは「生きてる人間が一番怖い」的なオチな気がする。こういう輩は春先に増えるイメージだけど、こんな真夏にもいるところにはいるんだな。
「てか、これうちの学生のアカウントだ。てことは、この出没情報ももしかしたらこの辺かもしれないぞ」 
不審者情報の投稿者の一人が、プロフィール欄に大学名と学年を書いていた。だからと言って目撃場所が大学付近とは限らないけど、もしそうだとしたら生活圏が被っている可能性はあるかもしれない。
「そうなのか。では、お前も気を付けろ」
「いや、俺成人男性だから。不審者はさすがに」
「その不審者が生きた人間なら、そうかもしれないな」
……たしかに。もしもそれが霊や怪異なら、俺は付き纏い被害者筆頭候補か……。
「ビール、もうないのか」
勝手にうちの冷蔵庫をあけながらサナギがぼやいている。自分の言いたいことを言い終えたら二言目には酒かよ。別にいいけど。
「あー、そういえば買ってなかったな。ついでにつまみほしいしコンビニ行くか」
 寮を出て、黄昏時の道を歩き始める。日が落ちてもまだ外は暑い。異常気象も大概にしてほしい。
「さっきの噂だけどさ。人に声をかけて連れ去ろうとする、って、そんな怪異いるのか?」
「誑かして捕食すると考えればむしろ怪異としては一般的な部類だ。それに、『連れ去ること自体』を本懐とする者もいる」
「何それ。こわ」
「そうでもない。俺にとってはーー」
ーー角を曲がって、一本奥まった道に入った瞬間、流れる空気が変わった。シンとしていて、どこか寒気を覚えるような。緊張感があって、空気が震えているような。言い知れぬ恐怖感で、足が止まった。何か、変だ。たぶん、何かいる。
 道の先に、一人の紳士が歩いているのが見えた。英国風の上質なグレーのスーツに、茶色いハットとステッキ。この異様な空気の中、ゆったりと靴音を鳴らす姿は人間離れしてーーいや、そもそもあれは、本当に人間か……?
 帽子の影になって、目元はよく見えなかった。口許は微かに微笑んで見える。それがさらに恐ろしく感じられて、嫌に鼓動が速くなる。
「サ、ナギ……」
声が震えた。助けを求めるつもりでサナギの方に視線を向けると。
「……!」
サナギは目を丸くして固まっていた。その視線は、こちらに向かってくる紳士に注がれている。
 ……ヤバイ。来る。
 背中を汗が伝う。恐怖と緊張で呼吸が引き攣って、喉から変な音がしていた。
 ていうか、サナギはなんで固まってるんだよ。ここから戦闘とか始まったら、俺どうすればいい!? 今のところ付き纏われるのと取り憑かれる以外に俺にできることないんだけど……!?
 俺たちの前で紳士が静かに立ち止まった。片手を帽子の鍔に添えて、そっと押し上げる。その所作が洗練されていて、思わず息を飲む。
 初めて、紳士の目が露になった。蜂蜜のような金色の瞳が、俺たちを見て柔らかく細められた。
「お久しぶりです。坊っちゃん」
「…………坊っちゃん?」
紳士の口から、仏頂面の大男にはおよそ似つかわしくない呼称が飛び出した。呼ばれたサナギはいっそう目を丸くして、口をパクパクさせている。
「本当に、蓮華……なのか?」
「ええ」
蓮華と呼ばれた紳士がふわりと微笑む。
 何はともあれ、蓮華さんが何かに取り憑かれているようにはとても見えないし、どうやら人ならざる気配は俺の勘違いだったらしい。物腰は柔らかそうだけど、実は剣道の達人とかで、そういうすごい気迫の持ち主なのかもしれない。
「……知り合いか?」
ひとまず色々と説明がほしくて、サナギに声をかけた。どうやら二人は久々の再会のようで邪魔するのは申し訳ないと思いつつ、あまり蚊帳の外にされるのもつらいものがある。
「蓮華は、俺の実家の守護霊だ」
「元、ですよ」
「ん??」
「元って……まさか、任を解かれたのか?」
「そろそろ自由が欲しくなりまして……恐れながら、主従の契約を解除していただきました」
「ん????」
何か、理解できない会話が繰り広げられていた気がする。守護霊? ん?? それって……。
「蓮華さんは……人間……?」
「違う。蓮華は怪異だ」
「俺、見えるけど……」
声も聞こえるし、話もできる。まさか、サナギとずっと一緒にいて急に何かに目覚めたとかか?
「力の強い怪異は人間に姿を見せることができる。現世にいる強力な怪異の多くはそうして人間に擬態して暮らしている」
「そ、そうですか……」
「なぜ敬語なんだ」
「いや、ちょっと混乱して……」
蓮華さんは怪異で、俺は何にも目覚めていない。うん。理解した。
 深呼吸をして、目の前に初めて見る「怪異」の存在を少しずつ受け入れる。
 こんなに近くで見ても、本当に人間にしか見えない。俺はいまからでも、「実は怪異と言うのは嘘で、蓮華さんは剣道の達人なんだ~」と言われたらそちらのほうがすんなり信じられる。
 だけど確かに、最初に感じたあの感覚は間違ってなかったんだ。こんなにも柔和な笑みを浮かべていても、蓮華さんからは何か、人間離れした脅威みたいなものを感じる。それがひどく心をざわつかせて、ずっと気持ちが落ち着かない。
「……で、守護霊っていうのはなんなんだよ」
「除霊師の家は怪異から恨みを買いやすい。だから力のある怪異と契約して家を守るんだ」
「なるほど……」
まあ、なんとなく雰囲気は理解した。とりあえず、蓮華さんはサナギやサナギの家族を守ってきた存在ってところは間違いないわけだ。危険のない相手と分かって、少し肩の力が抜けた。
「……では、この辺りで噂になっていたのは、お前だったんだな」
「……え」
「友引の怪、蓮華。連れ去り未遂の不審者はお前だ」
犯人を当てる名探偵のように、サナギは真っ直ぐに蓮華さんを見据えて言い切った。
「その通りです、坊っちゃん。しかし、不審者とは。傷つきますね」
蓮華さんはこともなげに罪を認めた後で、しゅんと眉を下げる。
「ロクの言葉を借りただけだ」
「えっ! いや、そうだけど……」
思わぬところで名前を出されて狼狽える。
 いや……待て待て。
 蓮華さんが、連れ去り未遂の犯人?
 だとしたら、こんな風に談笑してていいのかよ……?
 だけど、これまでのような妖怪バトル的なことが始まる気配はいまのところない。二人はただ旧知の間柄として懐かしいやり取りに花を咲かせているだけに見えた。
「相手を探しているということは、隠世に帰るつもりなのか」
「ええ。でも相手を探していたわけではないんですよ。私にとっては抗えぬ本能ですから、声掛けはただのガス抜きです。心に決めたお相手は、ひとりだけーー」
蓮華さんが一歩進み出て、しなやかに手を伸ばした。反射的に身構えた俺と違って、サナギは落ち着いていた。その手はサナギの顎をすくい、頬をそっと撫でた。
「お迎えにあがりましたよ。坊っちゃん」
「…………!」
その美しい所作から、目を離せなかった。でも、遅れて言葉の意味を理解すると、咄嗟に身体が動いた。サナギの手首を掴んで、蓮華さんから引き剥がすように引き寄せる。
「ちょっと……あの。どういうことですか。迎えってなんなんですか」 
 サナギは俺に引っ張られると、ハッとしたように息を飲んだ。あの金色の瞳に囚われて、今まで呼吸を忘れていたみたいだった。
 怖い。やっぱり俺は、この人の纏うただ者でない空気が恐ろしい。声が震えないように、けれど同時に、この得たいの知れない相手をなるべく逆撫でしないように、慎重に言葉を口にした。
「一緒に連れていってほしいーーそれが、幼少の頃からの坊っちゃんの願いでした」
ひゅっと喉が鳴った。まずい。これは、かなりヤバイ。
 このところサナギは本当に人間らしくなって、出会った時に比べればふらっとどこかへいってしまいそうな危うさは随分ましになった気がしていた。
 それなのに、今はこの掴んだ手首を離すのが怖い。
「兼ねてから、いつかその願いを叶えて差し上げたいと思ってまいりました。ようやくその思いを遂げられる時がきたのです」
「……俺を、隠世へ……?」
「ええ。今年は盆の始めがちょうど新月です。あちらの世界とこちらの世界の境目が最も曖昧になる日。坊っちゃんをお連れするならその日が一番でしょう。その日に改めて、お迎えにあがります」
一礼して、蓮華さんはコツコツと靴音を鳴らして去っていった。霧のようなもので蓮華さんの後ろ姿がぼやけたかと思うと、その影はいつの間にか消えていた。
「……おい。サナギ」
ぼんやりと蓮華さんの消えた方を見つめていたサナギを揺り起こすように、気づけば握った手に力を込めていた。
「行かないよな、お前。どこにも」
「……痛い。あまり強く握るな」
「はぐらかすなよ。ちゃんと答えろ」
真正面から睨み付けると、サナギは少したじろいで、戸惑ったように目を伏せた。
「……まだ、分からない」
「……っ」
 手の中から、サナギの手がこぼれ落ちる。
 その時唐突に、サナギの死をハッキリと想像した。頭に浮かんだのは、あの事故の映像だった。サナギを乗せた車が炎上するのを、俺はなにもできずにただ見ている。
 ーー冗談じゃない。もしまたそんなことになったら、もう今度こそ立ち直れない。トラウマだよ。最悪だ。苦しい。……泣きそう。
「……ロク」
気づくと肩に手を置かれて、じっと覗き込まれていた。間近で目があって驚く俺に、サナギは懸命になにかを伝えようとしていた。
 その不器用で口下手な間が、感情的になっていた俺の頭を冷まさせてくれた。俺は小さく息を吐いて、サナギの言葉を待った。
「……かつての俺なら、迷わなかった。今は、どうするべきかきちんと考えたい」
 行くわけないと、ただ否定するよりずっと誠実な返答だった。俺と過ごした数ヵ月が、たしかにサナギの中で息づいている。その事実を信じて待ちたいと思った。
「……分かった」
サナギの手が離れる。サナギもまた、どこかほっとしたような顔を浮かべていた。
「コンビニ行くか」
「ああ」
 コンビニで酒とつまみを買った帰り道、蓮華さんに会った場所を通ると、やっぱりどこか緊張感が走った。
「行く時話してた、『連れ去ること自体』を本懐とする怪異っていうのが、蓮華さんのことだったのか?」
会話を途切れさせたくなくて、なんとなく思い出したことを口にした。
「そうだ。蓮華は友引の怪、人間を道連れにする化け物だ」
友引という言葉は聞き覚えがある。たしか大安とか仏滅とかの仲間だ。中でも友引は、葬式をするのを避けた方がいいと言われている日だったと思う。理由はーー故人が友を道連れにするから。
「……でもそういえば、迎えに行く、とか言ってたけど。場所も時間も言われてないよな?」
もしかして、待ち合わせの詳細を伝えるためにまた接触してくるつもりなのか? そう思うと、途端に少し身構えてしまう。
「それは、おそらく問題ない。場所は龍虎神社だろう。そこに蓮華の祠がある」
「……え。蓮華さんって、神様なのか……?」
「そういうわけではない。子供を蓮華に道連れにされないよう、古い時代に悪鬼を鎮める祠が作られたんだそうだ」
「へえ……」
人に姿を見せられるほど強力で、鎮めるための祠まで立てられてるなんて、正直これまで出会ってきたどの怪異よりも危険な相手なんじゃないか……? その割に、昔馴染みのよしみなのかサナギが妙に蓮華さんを警戒していないのが引っ掛かる。俺からしたらいの一番に除霊すべき相手のように思えるんだけど。
「時間は、おそらく午の刻だ。それが蓮華の霊力の高まる時間帯なんだ」
「……本当に、よく知ってるんだな。蓮華さんのこと」
「それは……そうだな。幼い頃、蓮華だけがいつも俺のそばにいてくれた」

 新しい部屋はそれなりに広くて、静かだった。使用人も用がない時はほとんど寄り付かない。食事も、寝る時も一人きりだ。それを寂しいとはあまり感じなかった。かといって嬉しかったわけでもなく、俺はただ何も感じていなかった。
 部屋には鬼火が住み着いていた。結界だらけのこの家にうっかり入り込んで出られなくなり、人のいないこの場所に逃げ込んでいたらしい。
 鬼火ははじめ俺を怖がっていたけど、半日もするとふわふわ近くを漂うようになった。
「坊っちゃん。どうしてこんなところへ?」
夜中になってもなかなか寝付けなくて、ぼんやり鬼火を眺めていたら、蓮華がやって来た。小さな鬼火とはいえ、家の者とは違う霊力の存在に気づいて様子を見に来たのかもしれない。
「昨日からここが俺の部屋だから」
 俺の異質な力を恐れて、母は精神的にまいってしまった。それで、母の心を守るためにと俺の部屋は別邸に移された。
 説明すると、蓮華はしばらく言葉を失くしていたけど、やがて俺に向き直ってそっと笑いかけてくれた。その隣を、くるくると小さな鬼火が揺れる。
「それ、どうするの? ……殺すの?」
鬼火はぎょっとして動きを止め、俺の背中の後ろに飛び込んできた。それをみて蓮華は可笑しそうに声をあげた。
「随分懐かれましたね、坊っちゃん。エサでもやったんですか?」
「俺はなにもしてない」
「ふふ、そうですか。……さて。困りましたね。本来なら屋敷に入り込んだ怪異はすべてを祓う決まりです。たとえ無力な鬼火であっても、例外はありません」
「……そうなの」
「ですが、その鬼火は坊っちゃんの友達のようですからね。……内緒ですよ」
 蓮華に連れられて、俺は鬼火を両手の中に隠してこっそりと屋敷の裏にまわった。何をするつもりだろうかと思っていたけど、よく見ると北側の結界にほんの小さな解れがあることに気づいた。
「気づかれましたか。さすが坊っちゃん」
蓮華がにっこりと微笑んで俺の頭を撫でた。
「ここの結界の緩み、今晩のうちに直しておくつもりだったのですが、その前に。……さあ、早くお行きなさい。もうここへ来ては行けませんよ」
蓮華に促されて、両手をそっと開いた。中から小さな鬼火がふわふわと飛び立った。別れを惜しむようにちかちか瞬いてから、鬼火は結界の外へ消えていった。
「……出ていったの」
「そうですね」
「……ふうん」
じゃあこれからは、あの部屋で俺は本当に一人だ。
 無意識にぎゅっと唇を結んでいた。地面を睨んでいた俺の前に、蓮華が膝をついて目線を合わせた。
「私がいますよ」
蓮華が俺の手を握った。さっき俺が鬼火にしていたように、そっと両手で包みこまれる。
「蓮華は俺が怖くないの」
「ええ、ちっとも。こんなに愛らしい人の子の何が怖いというのでしょう」
今度はグリグリと髪を撫でまわされた。月に照らされた影の髪型もぐちゃぐちゃになった。
「大丈夫です。私は強い。あなたは私のように強い相手と共にいればいいんですよ」
蓮華は立ち上がり、俺の手をとって歩き始めた。そのまま部屋まで送ってもらって、俺は結界を直しにいく蓮華を見送った。
 それから、蓮華は時間ができると俺の部屋に遊びに来てくれるようになった。他の守護霊を連れてきてくれることもあって、俺の部屋はひとりきりの静かな部屋じゃなくなった。
「蓮華はどこから来たの?」
「隠世……ここではない別の世界ですよ」
「それ、どんなところ?」
ーー人間のいない世界。
蓮華は多くを語らなかった。ただ、その言葉が強烈に心に残った。
 学校でも、家でも、俺は誰ともうまく付き合えなかった。どんな人間とも、俺は仲良くなれなかった。だけど、蓮華や、ほかの守護霊たちはみんな俺といてくれた。
 俺の知らない世界に、俺の居場所はあるのかな。そこにいけば、俺はみんなと同じように普通に暮らしていけるのかな。
 力をもって生まれた俺を、怪異なら受け入れてくれるのかな。
「……蓮華。いつか、俺も一緒に連れていってよ」
「もったいないお言葉。友引の怪として、これほど光栄なお誘いはありません」

 サナギの語る思い出は鮮明で温かかった。サナギにとって蓮華さんがどれほど特別な存在か、それを聞けば嫌というほど理解できた。
 それに、蓮華さんが幼いサナギにかけてきた言葉は、いまでもサナギの価値観の根本を担っている気がする。蓮華さんが親同然に面倒を見てきたからこそ、サナギの価値観は人としての倫理を逸脱していたのかもしれない。
 お盆のはじめの、八月十三日。友引で新月のその日が、意志決定の期限だ。その日まで、もうあと一週間と少ししかない。
 残り少ない時間の中で、力のない俺に何かできることはあるんだろうか。サナギの思い出の中の蓮華さんが優しくて、俺の考えはモヤモヤした雑念に幾度となく阻まれた。

 あれから、俺たちは変わらない夏休みを過ごしてしまっている。こんな時に限ってバイトが三連勤で、サナギとは顔も合わせられずにぼちぼちチャットでメッセージを送りあっているだけ。ただサナギがずっと何か考えていることは伝わってくるから、あまり急かすこともできず手をこまねいていた。
 四日ぶりにバイトが休みの今日、俺はひとまずサナギを家に呼んだ。宅飲みしようという名目で誘ったので、サナギが来る前に軽くコンビニで物資調達をして、寮に戻ってきてーー。
 ……なんか、変だ。急にずっしりと身体が重くなった。ベッドに倒れ込んでから、片手を伸ばして遠くに落ちていたスマホを掴んだ。こちらに向かっているであろうサナギに手早くチャットを打つ。
 ……だめだ。スマホ見てると目がチカチカして気持ち悪い。電話にしよう。
 サナギはもう電車だろうか。繋がらないかもと思っていたが、数コールの後もしもしと低い声が応答した。
「……いま、どこ」
「駅だ。これから電車で向かうつもりだったが、何かあったのか」
「……ごめん。たぶんなんか連れて帰ってきちゃった……」
「……分かった。着いたらどうにかする。電車が来たからもう切るぞ」
電話が向こうから切られたので、スマホを放って枕に突っ伏した。頭が痛い。
 でも、今日は事故現場とかお墓とか、それっぽい場所は通ってないはず。いや、そもそもいつもの寮からコンビニまでの道しか歩いてない。となると完全に避けようのないもらい事故だ。改めて自分の体質が憎い。
 ていうか、あいついま絶対間があったよな。あれは確実に呆れてる間だった。また磁石みたい~とか思ってんだろうな、ムカつく……。
 盛大にため息をつきながら、俺は生唾を飲んでサナギの到着を待った。

 ロクの寮につくと、ベッドの端にちょこんと老婆が腰かけていた。白髪に眼鏡をかけて、とても申し訳なさそうな顔でロクを気にかけていた。
「ここで何をしている」
「……あら! あなた、私が見えるの?」
声をかけると、老婆は目を丸くして声を弾ませた。こういう反応をするのは十中八九無害な幽霊だ。面倒な相手ではなさそうで少しほっとする。
 彼女は喜代子と名乗って、ぺらぺらと身の上話をはじめた。五年前に脳梗塞で突然倒れて亡くなったそうだ。「濃いめの味付けが好きで、血圧の薬も飲んでたけど、まさかいきなり死んじゃうなんてね」と、彼女はあっけらかんと笑った。
「私、方向音痴でね。あの世からの道も複雑だし、この辺りの景色も毎年どんどん様変わりするでしょう? だから、いつも早めに向こうを出るんだけど……」
つまり、彼女はお盆に向けて帰ってきた霊だ。お盆が過ぎれば、もうこの世には留まれない。
「気がついたら彼についてきちゃってたのよ。不思議ね……」
「それは、こいつが悪い」
「え。なんで? ……何が?」
ロクが虚を突かれたような声を出すので、ひとまず状況を説明した。
「霊を集めちゃう体質なんて大変ねえ。体調は大丈夫かしら……ごめんなさいね」
「彼女はお前の身体を心配している」
「あ……まあ、大丈夫です。このくらいは」
霊に同情されるのは初めてで、ロクの反応はどこか歯切れが悪い。
「それで、これからどうするんだ?」
「彼女がそばを離れればお前の頭痛は治る」
「それって、ただここから喜代子さんを追い出せとか言うんじゃないよな」
「お前の言うことは分かっている。彼女の家を探して送り届けよう」
「まあ、本当に? ありがたいわ」
老婆は嬉しそうにはしゃいで、ロクにも何度も礼を伝えていた。ロクがその言葉に応えることはない。
 寮を出ると、喜代子さんの記憶を頼りに俺たちは辺りの道を歩き始めた。しかし、「この先を曲がると郵便局があったはず」と言われて着いていけば行き止まりで、「あそこの喫茶店の常連だったのよ」と案内された先は歯医者になっていた。方向音痴の人間とはこういうものなのか。それとも、それほど時が流れて町の景色が様変わりしているということなのだろうか。
「あら……! あの桜の木!」
しばらく歩いていると、喜代子さんは突然駆け出した。公園の中の大きな木に駆け寄って、幹をそっと撫でる。
「ああ、この公園。懐かしい……」
喜代子さんはうっとりと目を細めて、小さく息を吐いた。
「叶うなら、もう一度咲いてるところがみたかったわね……」
青々とした葉桜の木漏れ日の中で、喜代子さんは静かに呟いた。
「ちょ……どうしたんだよ、急に走って」
遅れて追いついてきたロクが、俺の視線を辿って桜を見上げた。
「この木が、どうかしたのか」
「よくここでデートしたの」
ロクの声に、彼女が答える。嬉しそうに、少し恥ずかしそうに微笑んだその横顔は、少女のようにも見えた。
「デートできていた場所だそうだ」
「ふふ。何十年もね、無口なあの人と黙って散歩した。懐かしい……」
「その相手に、会いに来たのか」
「ええ。一年に一度だけ、あの人の顔をみられるのが何より楽しみなの。織姫みたいよね」
「……そうだな」
 そこから先、もう喜代子さんは道に迷わなかった。確信した様子で二つの角を曲がり、古い一軒家の前で立ち止まった。庭先から家を覗くと、ちょうど中にいた老夫と目があった。
「なんだお前ら。うちになんか用か」
厳めしい顔立ちに、右隣のロクが少し身構えたのが分かった。警戒されているのは明らかだった。
 一方、左隣の喜代子さんは「まあ!」とはしゃいだ声をあげる。
「ただいま、あなた。また少し老けたわね。あら、よく見たら少し痩せたんじゃない? ちゃんと食べてるのかしら」
「ええと……俺たちは、喜代子さんの……知り合いで」
「……喜代子の?」
ロクの言葉に、老夫の顔色が変わる。
「もうすぐ……お盆だから。お線香、あげさせてもらえませんか」
「……上がれ」
顎でぶっきらぼうに玄関を指すと、老夫はそのまま部屋の奥に入っていってしまった。
「行こう、サナギ」
「ああ」
 部屋の中はずいぶん雑然としていた。廊下にはコンセントに繋がったままの掃除機が投げ出されていて、掃除の途中だったようだと分かる。
「その奥の部屋だ」
案内された和室には、立派な仏壇が飾られていた。飾られた写真は隣にいる姿そのままだ。
「この写真、ほうれい線が気になるのよね。もっといい写真を使ってくれたらよかったのに」
喜代子さんのぼやきが聞こえていないロクは、傍らで粛々と線香に火をつけていく。お鈴を鳴らし、二人で手を合わせて、目を閉じる。
 襖の開く音が聞こえた。老夫が部屋に入ってきたようだ。
「……ありがとうございます」
ロクが丁寧に頭を下げると、老夫もおずおずとそれに応じた。
「この写真……どうして、選んだんだ」
「ああ、それ。よく笑う女だったから。……俺の記憶の中のあいつはいつもそんな顔だ」
「そうか。いい写真だ」
「まあ! そう言われると文句言いづらいわね」
喜代子さんが照れ臭そうに頬を掻く。
「お掃除の途中だったのに、お邪魔してしまってすみませんでした」
「別に構わねえよ。毎年この時期は大掃除だからな」
「え……年末じゃなくて、ですか?」
「そりゃあ、あいつが帰ってくるからだよ」
老夫は襖を開け放って、廊下から家を見回した。ここに来る途中、リビングやダイニングにも物が溢れているのが見えていた。
「あいつが生きてる時は、そりゃあ綺麗な家だったんだ。俺が少しも家事をやらねえから、俺を遺して先には死ねないってのがあいつの口癖だった。なのにぽっくり死んじまった。だから俺はあいつの棺に向かって言ってやったんだよ。『お前なんかいなくても生きていける』ってさ。言っちまったからには、家の中ぐちゃぐちゃじゃ格好つかないだろ」
喜代子さんは笑っていた。ぐちゃぐちゃの家も、それを必死に片付ける夫の姿も、喜代子さんはただ笑って、嬉しそうに眺めていた。
 邪魔にならないようにと、ロクが帰宅を申し出ると、老夫はそうかとだけ言って俺たちを送り出した。喜代子さんによろしくとロクが頭を下げると、言われた本人はにこやかに手を振っていた。
 家を出て、もう一度建物を振り返った。同じように家を見上げたロクが、ぽつりと声を漏らす。
「言い方あれだったけどさ。奥さんに心配させたくないってことだったんだろうな。まあ、残念ながら格好ついてないんだけど」
確かに、老夫はこっそり掃除しておくつもりだったようだが、早めに着いた喜代子さんにしっかり見られてしまっている。その時ふと、喜代子さんの言葉を思い出した。
ーーいつも早めに向こうを出るんだけど……。
「……そうか」
「なんだよ」
「喜代子さんは毎年、わざと早く帰ってきているんじゃないか。夫が自分のために、家を掃除しているところを見るために」
もしかしたら、はじめの年は本当にたまたま、方向音痴を心配して早めに出発したのかもしれない。その時夫が掃除に明け暮れる姿を見て、次の年からはわざと早く着くようにしたのではないか。
「……そうかも。だって、あんなの……見たいに決まってるよな」
無口で亭主関白で、ほとんど家事をしてこなかった男が、自分のために汗水流して必死に家中を掃除している。それはきっと、彼女がこの先の一年を天の川の向こうで過ごすための活力になる。
「……お前がそれに気づいたことが、俺は一番嬉しいよ」
ロクが目を伏せて小さく微笑む。その顔の奥にどんな感情があるのか、読み取ることはできなかった。
「……おばあちゃんに親切にするなんて、らしくないね。兄貴」
 その時、不意にとげのある声が背中に投げ掛けられた。驚いて振り返ると、見覚えのある顔がじっとこちらを睨み付けて仁王立ちしていた。後ろには、見知った補佐役を二人侍らせている。
 実家の家紋の入った和服姿に、受け継がれる当主の数珠。間違いなく、そこにいるのは俺の弟だった。
「……どうしてここにいる」
「誰? ……人間だよな?」
ロクが心配そうに耳打ちしてくる。蓮華のことがあったせいで、自分の目に見える相手が人間かどうか自信が持てなくなっているらしい。
「お前こそ何者だ。僕は氏家第十六代目当主、氏家遼我だ」
「俺は、山藤禄。サナギの……友達、ですけど」
「……友達?」
遼我はきょとんと首をかしげてから、訝しげにこちらを見た。
「……友達のロクと弟の遼我だ」
手短に互いを紹介すると、二人はじっと見つめあってからみるみる目を見開いて固まった。
「それで、なんでお前がこんなところにいるんだ」
「そりゃ、蓮華が逃げたからだよ」
「……逃げた?」
「もしかして、兄貴のところじゃないかと思って来てみたけど、その反応もしかしてアタリだね?」
「詳しく話せ」

 遼我くんが語ったのは、蓮華さんから聞いていたのとは全く違う話だった。
 蓮華さんは契約を解かれて自由になったと言っていたけど、実際には契約の解除なんて行われていなかった。蓮華さんは契りを破って逃亡し、遼我くん率いる除霊師一族に追われる身なのだという。
「まあ、兄貴が対処するなら僕みたいな凡人は用無しだったかもね」
 嫌にとげのある言い方だった。サナギは普段何を言われても少しも響かないような顔をしている癖に、今日は妙に落ち込んでいるように見える。
「蓮華のことは、俺に任せてくれないか」
「……好きにすれば。なら、僕は帰る」
 遼我くんはそのままぷいと顔を背けてすたすた帰っていってしまった。後ろにいた人たちも、サナギに一礼して遼我くんの後を追っていった。
 ちらりとサナギの横顔を窺った。やっぱり、どこか元気がないように見えて、心がざわざわした。
 サナギと家の関係は、少しだけ聞いている。俺はサナギの名字だって、今の今まで一度も聞いたことがなかった。それほど話したくないことだったと分かっていたから、俺もあまり深くは聞いてこなかった。
 今、少しだけそのことを後悔してる。
 だって、こんなの……想像も及ばない。俺、今お前が何を考えてるのか、なんにも分からなくて……悔しい。
 たぶん、これがサナギの一番心の柔らかい部分なのだということは分かったけど、どんな言葉を掛けていいかも、全然分からなかった。
 ……お前、本当に死んだりしないよな。
 ただそれだけが気がかりで、たまらなかった。

 翌日は朝からバイトだった。夕方仕事を終えて帰ろうとしたところで、フロアに見たことのある顔を見つけた。
「遼我くん?」
今日は制服姿だった。こうしてハンバーガー屋にいるところを見ると、昨日の印象とはまったく違って、普通の高校生にしか見えない。
「……うわ。兄貴の友達。なんでいんだよ」
「ここ、俺のバイト先。それ俺が揚げたポテト」
「……」
口の中のポテトが突然不味くなったような顔をされてやや傷ついた。
「ここいい? 今バイトあがったとこなんだ」
「もう座ってんじゃん……」
あからさまにゲンナリした顔をしつつも、それ以上の拒絶はされないようで安心した。せっかくこうして会えたなら、聞いてみたいことが色々あった。
 俺は、もっとサナギのことが知りたい。
「遼我くんて、高校生? いくつ?」
「十七。高二」
「そっか。若いね」
俺とサナギの四つ下か。その年で当主だなんて、荷が重すぎる気がするけど、除霊師の世界では普通のことなんだろうか。
「……ロクさんはあいつのこと……どのくらい知ってるわけ」
躊躇いがちに、探るように問いかけられる。
「除霊のことなら、いつも一緒に行ってるよ」
「え……ロクさんて補佐役なの?」
「補佐役……? なにそれ」
「除霊をサポートする人。兄貴がおかしいだけで、本当は除霊って一人でやるもんじゃないんだよ。術者は普通二、三人の補佐役をつけて除霊するの。僕も昨日二人連れてたじゃん」
「え、そうなの!?」
除霊師なんてサナギ以外にみたことがなかったから、サナギのやり方がスタンダードだと勝手に思い込んでた。昨日の二人も、執事かSPかなにかかと思っていたら、除霊を手助けする役割の人たちだったのか。
「補佐役って、具体的に何するの?」
「補助的な術を発動するとか、術者の霊力を補うとか、戦況に応じてお札や道具を準備するとか」
説明をされても、いまいちピンと来ない。お札や道具か……。
「……そもそも俺、サナギが道具使うとこなんか見たことないな」
イメージできないのはそのせいかと一人で納得すると、遼我くんがゲンナリした顔でため息をついた。
「それもおかしいんだよ。身一つでぶん殴って解決とか、そんなことしてるの兄貴だけだよ。普通は道具に霊力を込めて祓うのに」
「えっ……あ、そうなんだ!?!」
「いや、普通に考えて、除霊師がそんなフィジカル系なわけなくない?」
「まあ、イメージ違うなとは思ってた……」
驚きつつも、もはや俺にとってはサナギのやり方の方が馴染み深いので今さらお札とか言われてもいまいちしっくり来ない。でも、サナギが家の中で異質だなんだと言われたのはそのせいだったのかと、なんとなく察してしまった。
「除霊に同行してるならさ、ロクさんはみえる人なの?」
「みえないよ」
遼我くんが期待の眼差しを向けてくれた気がしたけど、残念ながら俺はちょっと憑かれやすいだけの一般人だ。はっきり伝えると、遼我くんはいじけたように目を伏せた。
「……なんだ。そうなんだ」
きっと、みえる人にはみえる人だけの苦労や辛さがあるんだろう。家族以外に分かり合える人も少なそうだ。そういう苦労を語り合う相手になってあげられないことは、申し訳ないと思った。
「……じゃあ、なんで同行してるの? 興味本位?」
「いや、まあ……ちょっとでも役に立てばいいなと思ってるだけだよ。実際どうかは分からないけどね」
「……変なの」
遼我くんがストローに口をつけると、ズズズと大きな音が鳴った。中身を飲みきってしまったらしい。
「おかわり、いる? 奢るよ」
「……コーラ」
「了解」
 席を立ち、遼我くんのコーラと、自分の分のアイスコーヒーを注文した。受け取って席に戻ると、遼我くんはモソモソとまずそうな顔で俺の揚げたポテトを頬張っていた。
「お待たせ」
「……ありがと」
素直だ。かわいいところもある。よく見れば、その不貞腐れたような真顔はサナギに少し似ているような気もした。
「遼我くんはサナギのこと嫌いなの?」
「当たり前だろ。僕があいつのせいでどんだけひどい目に遭ってきたと思う? あいつが家を継げないから、僕は自分の未来を選べない」
「それは……きついね」
たった十七歳で、一族を背負う重責はさぞ苦しいだろう。それは、サナギのせいでもない気がするけど、遼我くんがサナギを責めたくなる気持ちも分かる。
「それに、あいつは自分のこと一族の嫌われ者だと思ってるんだろうけど、みんなの兄貴に向ける目は畏怖だよ。ただ、みんな伝統や格式に縛られてて、表立って兄貴の存在を認められないだけ。内心ではみんな僕を格下扱いしてるよ」
「そう……なの」
「まあ、そりゃそうだよね。順当に修行して順当に強くなっても、僕は兄貴には一生追い付けないんだから」
ーーどんなに努力しても、僕には変えられない未来があるだけ。
 それは十七歳の子から聞くには辛い言葉だった。
 周りからの評価はもちろんだけど、誰より遼我くん自身が、サナギと自分の力の差を気にしているように見えた。
 その時、遼我くんのスマホが鳴った。ちらっと見えてしまった画面の表示は、「母さん」。遼我くんは小さくため息をついてから、電話をとった。
「もしもし。……ごめん。分かってる。すぐ帰るから。……蓮華の行きそうな場所、いくつか見てただけ。……兄貴? 会うわけないよ。大丈夫。……うん。うん。門限までには帰る。ごめん。……分かった。じゃあね」
電話口から漏れ聞こえる女性の声は、とても切羽詰まって余裕がなさそうに聞こえた。あれが、サナギと遼我くんのお母さん。教授を脅してサナギに単位をとらせていると聞かされた時には驚いたものだけど、その声は何となく、持っていたイメージとかけ離れていない気がした。
「……さっき、畏怖だって言ったけど。母さんだけは別。母さんは兄貴が怖くて、理解できない化け物を生んだせいで精神的に不安定になっちゃった。だから僕にはめちゃくちゃ過保護なの。ウザいよね」
遼我くんはコーラを飲み干すと、立ち上がって鞄を肩にかけた。
「でも、まあ。跡継ぎも、母さんの相手も、誰かがやんなきゃいけないことだから。しょうがないんだよ。僕がやるしかない」
困ったように笑った遼我くんの背中に、大きな責任と優しさが乗っている。なんだ。すごい家の当主でも、意地悪な弟でもない。そこにいるのは、ただ懸命に自分の運命を受け止めて立つ十七歳の男の子だった。
「……お前、めちゃくちゃかっこいいよ」
「……なに、急に」
「だってお前、兄貴よりよっぽどすごいことしてるじゃん。そんな拗ねてないで胸張れよ」
「……拗ねてないし」
サナギなんて、霊力が強いのかなんなのか知らないけど、ただの社会不適合な変人だよ。あれと規格が違うからって、比べてヘコむのはナンセンスだ。
「……コーラ、ごちそうさま!」
捨て台詞のように吐き捨てて、遼我くんは走って店を出ていった。
 除霊のこととか、サナギの家のこととか、知りたかったことをたくさん聞けた。それに、遼我くん自身のことも。やっぱり、話せてよかった。
 二人分のごみをまとめて片付けて、店を出た。日が暮れて辺りはすっかり暗くなっていた。夜に取り残された蝉が一匹だけ、仲間を探して必死そうに鳴いている。
 ……もし、俺にも怪異がみえたら。俺はサナギの補佐役になって、もうちょっとくらいサナギの役に立てたりしたのかな。惑喰も、盗器も、ひとたび戦いが始まれば俺は役立たずの置物どころか、守られるばかりのお荷物になっていた。
 ……いや、そうだとしても、サナギは補佐役なんか必要としてないか。それよりは、磁石の方がちょっとくらいはいる意味があるのかもしれないと思い直すことにした。

 八月十二日の夜、落ち着かない気持ちで、俺はサナギに電話をかけていた。
「……もしもし。なんだ」
サナギの平坦な声が聞こえて、いきなり頭が真っ白になった。言いたいことはたくさんあるのに、うまく言葉が出てこない。
「…………決めたのかよ」
「そうだな」
「…………それは」
「明日、お前は来るな」
「……え?」
俺の言葉を遮って、サナギがはっきりと告げた。まさかそんな風に言われるとは思っていなくて、焦りが声に出てしまう。
「いや、冗談だろ……?」
「本気だ。蓮華は惑喰や盗器よりも強力な怪異だ。近くにいればお前の身も危険に晒すかもしれない」
「……」
それって、結局俺は役立たずだってことか。
 俺を守りながら立ち回ったり、俺を助けるために戦ったり、肝心な時は本当に、俺はなんの力にもなってなかったもんな。それは、分かってた、けど……。
 でも、だからって。……お前の決断も見届けられないなんて、ちょっと、あんまりじゃないかよ。
「もう遅いから、早く寝ろ」
「……うるせえ」
「おやすみ」
「…………おやすみ」
 電話が切れた。あいつ、大事なことは何にも言わなかった。
 ……これが最後なわけないよな。俺はお前のこと、信じていいんだよな。

 そして、とうとう八月十三日がやって来た。
 当然一緒に行くものだと思っていたから、バイトのシフトもあけてしまったけど、なにもしないでただ待っているのは落ち着かない。
 だけど、俺がいたら邪魔になるのは明白だ。サナギのためを思うなら、俺は行くべきじゃない。ここで信じて待っているのが、一番いい。
 その時、ドアノックの音が聞こえた。扉を開けてみると、寮母さんが立っていた。
「山藤くん。お客さん来てるよ」
「お客さん……?」
「帽子を被った英国紳士みたいな人だったけど、彼どういう知り合い?」
「……!」
慌てて寮の前まで出ていくと、そこには確かに蓮華さんがいた。にこやかに微笑んで会釈される。
「なんで、ここに……」
「あなたは坊っちゃんにとって大切な人のようですから。坊っちゃんのお見送りにぜひいらしていただければと、お誘いに参りました」
「お見送り……」
まるで、最後の別れになることを確信してるような言い方だ。思わず、視線に敵意がこもる。
「サナギに来るなって言われてるんですよ」
「それで、あなたは来ないおつもりで?」
「邪魔になるのは嫌なんで」
「なるほど。邪魔、ですか……」
じっとりとなめ回すように、蓮華さんの視線が俺の頭から爪先までを辿った。
「たしかに、あなたは坊っちゃんに相応しい方ではないようです。あなたは弱く、なんの力も持っていない」
「……」
悔しい。言い返せない。
「坊っちゃんは力ある怪異と共にあるべきです。坊っちゃん自身の幸せのために」
「俺は……そうは思いません。サナギは俺たちと同じ人間です。俺は、サナギといて楽しいし……サナギも、そうだと信じてる」
「もしそれを私にも信じさせたいというのなら……こんなところで引きこもっていないで見届けに来るべきだ、と……そうは思いませんか?」
「っ……」
「では、あなたの心が決まったなら……またあとで」
蓮華さんは不適な笑みを残して去っていった。
 コツコツと時を刻むような靴音がいつまでも耳の中に響いていた。
 ふらふらと部屋に戻って、ベッドに倒れ込む。……クソ。どうすればいいんだよ。
 ーー邪魔になるから来るな。
 サナギの言葉は正しい。俺は足手まといでしかないし、俺がいるせいでサナギが不利になるのは嫌だ。
 ーーあなたはサナギに相応しくない。サナギはあなたといても幸せじゃない。
 だけどそんなこと言われて、黙っていられるわけない。俺は、俺の全てをかけて、その言葉を否定したい。
 ……来るなと言われて様子を見に行くなんて、まるでサナギを信じていないみたいじゃないかって思ってた。でも、俺は……必ずあいつが勝つと、守ってくれると信じて、この戦いを見届けに行ってもいいかな。
 俺がお前の相棒に相応しいって、証明するために。

 午の刻ーー午前十一時、人気のない龍虎神社の境内で、サナギと蓮華さんが向かい合っていた。鳥居の影からそっと二人の様子を窺う。
 拝殿を背に立つ蓮華さんは俺に気づいているようだけど、手前で蓮華さんと向かい合うように立っているサナギは俺に背を向けていてこちらが見えていないようだった。集中を乱したくないし、これでよかったかもしれない。
「心は決まりましたか?」
蓮華さんの声は優しかった。サナギの語った思い出と遜色のない、温かな導き手の声。敵意や悪意は少しも感じられなかった。
「ああ。悩み抜いて、納得のいく結論を出せた」
ごくりと、唾を飲み込む。サナギの声に迷いはなかった。
「蓮華。お前がずっとそばにいてくれたこと、心から感謝している。俺にとって唯一心を許せたのはお前だった。家にも学校にも居場所を見いだせず、いつかここではないどこか、自分の居るべき場所に連れていってほしいと望んでいた」
鼓動が早い。サナギの次の言葉を聞くのが怖い。
 本当に、どこかへ行く気じゃないよな……?
 固唾を飲んだその時、「でも」とサナギの凛とした声が境内に響いた。
「俺は、ロクとここで生きていきたい」
「……!」
サナギの言葉が胸を打つ。安堵で力が抜けて、思わず深いため息がこぼれた。……よかった。本当に、よかった。
「……そうですか。残念です」
気を抜いていた俺の全身を刺すような緊張感が走った。顔を上げると、遠くで蓮華さんが静かに俯いていた。纏う雰囲気がさっきまでとは明らかに違う。その圧倒的なオーラに当てられて、身動きがとれない。……うまく、息ができない。
「坊っちゃんに来ていただけないというのなら、道連れは『彼』にいたしましょう」
「っ……!」
目が、合った。
 次の瞬間、目の前の景色がまったく別物に変わっていた。
「ロク……!」
「……ッ」
気づけば、俺は蓮華さんに羽交い締めにされていた。片腕は首にまわされて、力をかけられれば呼吸ができなくなるだろう。
 さっきまで自分がいた鳥居が、サナギの奥に見える。見た目は人間に擬態していると言っても、その身体能力は人間を逸脱しているらしい。
「そいつに手を出すな」
サナギはじっと蓮華さんを睨み付けて両手を構えた。
「坊っちゃんが一緒に行くと言ってくださるなら、すぐにでも彼を解放しますよ」
……人質か。クソ。俺をここに連れてきたかったのって、そのためかよ。
 あそこまで言われてもし俺が来なければ、俺にとってサナギはそれまでの存在ということ。それはサナギを説得する材料にされていたかもしれない。そして俺が危険を押してここに来るなら、人質として利用価値がある。どちらにせよ俺は蓮華さんが有利になるよう使われてたってことだ。
「坊っちゃんと過ごした日々は、私の生涯で唯一の尊い時間でした」
ーーどれだけの人間を道連れにしようと、孤独は癒えなかった。人を害する怪異として氏家に捕まり、飼い殺されることになった。けれど守護霊としての退屈な日々は、突如終わりを告げた。サナギに出会ったからだ。
 蓮華さんは宝物を広げるように、サナギとの思い出を語り始めた。その声や眼差しは、サナギが蓮華さんとの思い出を語った時と似ている気がした。
「あなたが私の道連れとなることを望んでくれた時、私の生きる意味は決まってしまった。あなたの願いを叶えられるのは私しかいません」
ーーいつか、俺も一緒に連れていってよ
それが、子供の戯言だったとは思わない。蓮華さんの言葉はどこまでもサナギへの愛に溢れている。
「人間が……氏家の者たちがあなたにしてきた仕打ちを私は決して許しません。それに、坊っちゃんを理解し、共に生きるには、人間はあまりに弱い。私は、坊っちゃんが伸び伸び過ごせる居場所へあなたと共に行きたいのです」
ハッとサナギの顔が強張った。今日初めて、サナギの表情に迷いが生じたのが分かった。
 その顔は、遼我くんと対峙したときのサナギの顔を思い出させた。
 それに、遼我くんから聞いたお母さんの話を。
 ーー日本では、家族と縁を切る方法はない。それこそ……死ぬ以外に、本当の意味で家族を断ち切る術はない。
 俺は本当に、蓮華さん以上にサナギの幸せを考えられていると言えるだろうか。ただ俺が、サナギに死んでほしくなくて、我儘言ってるだけじゃないって……どうして、言いきれる?
 考え始めると途端に自信がなくなって、ぐっと下唇を噛んだ。
「……それでも、俺はこの世界で生きていく。そして、これからもそいつの呪いをこの身を持って否定する」
「……!」
はっと顔を上げたら、真っ直ぐこちらを見つめるサナギと目が合った。横面を叩かれたみたいに、頭の中がはっきり整理された。
 何を迷ってたんだ。バカじゃないか、俺は。
 なんのためにずっと、こいつと一緒に過ごしてきたのか忘れたか。
 こいつを連れていかせてたまるか。俺はこいつを死なせないために一緒にいるんだ。
 落ち着いて周囲の状況を改めて確かめる。俺は蓮華さんに羽交い締めされていて、俺への攻撃を警戒してサナギも距離を縮められずにいる。俺がうまく逃げられればいいんだろうけど、どうすればーー。
 その時、ふと首筋に当たる蓮華さんの腕の感触に気がついた。
 ……蓮華さんには実体がある。俺にも見えて触れるなら、俺にもできることがある!
「っ……!」
身を捩って、思い切り蓮華さんの脇腹に肘を打ち付けた。
「グ……ッ」
蓮華さんの体勢が崩れた。その隙に転がるようにして夢中で蓮華さんのそばを離れた。よし。逃げられた。これでーー。
「サナギ……!」
名前を呼んだ次の瞬間、空の日差しを遮るようにサナギの影が飛び出してきた。勢いそのまま、サナギは蓮華さんに飛びかかりーー。
「……さよならだ。蓮華」
サナギは蓮華さんを力強く抱き締めた。その手には、見たことのない紙切れが握られていた。サナギが蓮華さんの背中にそっと紙を押し当てる。それから、サナギはぶつぶつとなにか呪文のようなものを呟いていたようだった。まもなく、蓮華さんのまわりに眩しいほどの光の粒が浮かび上がる。
 ……あれが、お札。土壇場で、サナギはいつもみたいにぶん殴るんじゃなくて、蓮華さんを傷つけない除霊の方法を選んだんだ。
 蓮華さんは抵抗することもなく、静かにサナギの除霊を受け入れた。少しずつぼやけていくその顔は、穏やかに笑っていた。
「祓われるなら、坊っちゃんに祓ってもらいたいと思っていました」
「俺も、お前を祓うのは俺だと思っていた」
「逃げてきた甲斐がありました。……最後に、あなたの幸せを見届けられてよかった」
 蓮華さんの身体は光に包まれて、やがて消えてなくなった。
 本当に、これで終わったんだ。
 光の余韻の中、ここ数日ずっと落ち着かない気持ちでいたせいで、気が抜けて呆然としてしまう。なんとなく、まだ実感がわいてこなかった。
「……俺が怪異を初めて殴ったのは七つの時だった」
サナギが独り言のようにぼそりと口を開く。
「そんなことをするのは俺だけだと、ずっと言われてきた。……だが、これで俺とお前の、二人だけだ」
「……!」
サナギが笑った。その不器用で眩しい笑顔をみてーー俺は自分のしてきたことが間違いじゃなかったと、確信した。
「暴力は嫌いなのではなかったのか」
「あれは仕方なかった。だろ?」
「そうだな」
 境内に二つの笑い声が響く。
 それから俺たちはコンビニで酒とつまみを買って、いつものように寮に戻った。それから、この先も続いていく俺たちの夏休みに、レモンサワーとビールで乾杯したのだった。