アスファルトで舗装された道は途中で途切れてしまい、俺たちはかろうじて登山道と呼べるようなでこぼこの山道を歩いていた。本当にこの先に温泉なんてあるんだろうか。遠くから鳥の羽音や動物の鳴き声が聞こえる。のどかな自然を通り越してちょっと怖い。少し道を逸れればあっという間に森の中、足元は崖でその先はよく見えない。それに、鬱蒼と繁る木々がすっかり空を覆ってしまって、光が全然届いていないのも不気味さに拍車を掛けていると思う。今日は曇りのち雨の予報なので、空気も心なしかどんよりしている気がする。
「温泉へいこう」とサナギに誘われたのが先週のことだ。夏休みに入ってすぐ、バイト以外にはなんの予定もなくだらだらと積ん読を消費していた俺に断る理由はなかったが、詳しく聞いてみれば当然のようにそれは除霊の誘いだった。
これから向かう温泉宿は、以前から怪奇現象の噂が絶えないそうだ。サナギに行き先を聞いて口コミサイトを見てみたら、たしかに一定の低評価がつけられていた。低評価の口コミはどれも「鏡の像に話しかけられた」「幻覚を見た」といった体験が書かれていた。
「お前、いつもどうやってこういう噂見つけてくんの。依頼されてるわけでもないんだろ」
延々と続く上り坂に息を切らしながら、ふと気になっていたことを尋ねてみる。
「今回はネットで検索して見つけた。あとは主に人の噂話だ。大学や電車でも、そういう話題を口にしている者はいる」
それって、平たく言えば盗み聞きじゃね? まあ、代わりに除霊してくれるってとこでトレードオフになってんのかな。話してる人たちはまさか自分の口にした噂話がきっかけでそんなことになってるとは思ってないだろうけど。
っていうか、そういえば。
「……ネットとか使えるんだな、お前」
「いつもスマホで連絡しているだろう。今さら何を言ってるんだ」
「いや……まあ、そういえばそうか」
だって、なんとなく除霊って古来からの術って感じで、文明の利器とは相性悪そうというか。偏見だけど、着物着て和食食べて畳の日本家屋に住んでそうだろうが。
「いまだって地図アプリで道を確認している。……着いたぞ」
「え。……わ、ほんとだ」
顔を上げれば、いつの間にか木々が開けて、目の前には暖簾のかかった立派な宿が現れていた。歴史ある旅館というだけあって、建物は古そうではあるけど、その分独特の趣と威圧感がある。こんな立地でよくそんな長いこと商売が成り立つものだと思うが、山奥の秘湯にゆっくり浸かれるのが売りらしく、遠くからわざわざ湯治に訪れるお客さんも多いみたいだ。
暖簾をくぐって引戸の入り口を開けると、上品そうな女将さんに出迎えられた。その笑顔には温かみがあり、ここがいわく付きの宿であることを忘れそうになる。
「こちらのお部屋をお使いください。ごゆっくり」
案内されたのは桔梗の間。旅費が惜しかったため残念ながら二人で相部屋だ。歴史ある旅館の一泊料金はなかなか馬鹿にならない。まあ、その分客室はそれなりに広さがあるから、蒲団は少し離して敷けそうだ。
温泉は別棟に大浴場があるそうで、部屋には簡易な洗面所とトイレしかなかった。食事は時間になったら食堂に行って食べるみたいだけど、それまでまだかなり時間がある。せっかくだから、早速温泉にでもいってみようか。肩凝りなんかはたちまち治ってしまうという触れ込みだったので、万年取り憑かれ体質の俺としてはぜひ効果のほどを確かめてみたい。
タオルや着替えをひとしきり用意して部屋の出口へ向かおうとした時、ふと洗面所の鏡が目に入った。……そういえば。口コミでは、この鏡に何か映ったとか書いてあったんだっけ……。
近づいてそっと鏡面に触れてみる。別に普通だ。鏡越しの自分の像と目が合った。
「あいつの言葉は真実か?」
「うわあ!?」
鏡の像の口が動いた。驚いて尻餅をついてしまう。鏡の中の俺は微動だにしない。ただじっと無様に転げた俺を見下ろしている。
「『お前のせいじゃない』」
「え……」
一瞬、鏡の像が歪んで、サナギの姿が見えた。その像も曖昧にぼやけて、再び俺の虚像が浮かび上がる。
「あいつは嘘をついているんじゃないか」
そんなわけない。と、咄嗟に俺の心が否定する。俺はサナギのあの言葉で、やっと人生の重荷をおろせたんだ。だからーー。
「お前の中に、何かいるぞ」
「……!」
鏡の中の俺の後ろに、黒いもやのようなものが見えた。そのもやに塗りつぶされるように、気づけば像は消えていた。
ごくりと唾を飲み込む。鏡に言われた言葉が脳を揺らしている。鼓動が速い。
サナギが、嘘をついてる……?
もう一度鏡の中をみる。そこには、呆然とした俺の顔があるだけだった。それなのに、あの黒いもやが俺のまわりに映って見えた気がして、慌てて目を擦った。
……もう一度鏡をみるのが怖い。だってあれは、俺の内側から出てきて、俺に纏わりついているものだった。
じゃあ、やっぱりあの事故は俺のーー。
「山藤! どうかしたのか」
サナギが洗面所に飛び込んできた。俺の声や物音を聞いて駆けつけてくれたらしい。
「あ……いま、鏡が」
「出たのか」
「そう、みたいで……」
鏡の像が突然語りかけてきたと説明すると、サナギはなるほどと小さく呟いた。
「惑喰だな」
「……ワクバミ」
また聞き慣れない単語が飛び出して、思わずおうむ返ししていた。
「惑わして喰らうと書く。幻覚を見せて人の心を暴く怪異だ」
「喰らう、って、人を?」
「そうだ」
貪魔に会った時も恐ろしいと思ったけど、今回の相手はその比じゃない。そんな怪異が目の前で俺に語りかけてきたと思うと、改めてゾッとした。
「正確には、奴らは人の魂を喰らう。心を暴かれると人は脆くなる。術にかけやすく、操りやすくなるんだ。そうすれば、容易に補食できる」
「それって……死ぬのか。喰われたら」
「魂は一部でも欠ければ人格に影響を及ぼす。喰らい尽くされれば空っぽの肉体は二度と目覚めない」
「……」
「お前も気を付けろ」
淡々と、サナギが付け加えた。返事をしようとしたけど、うまく声がでなかった。
心を暴く、とサナギは言った。それに、語りかけてきたのは俺の像だ。ならあの鏡は、俺自身の心を映していたんじゃないのか?
俺は、サナギの言葉をどこかで疑ってたんだろうか。だけど考えたくなくて、……サナギの言葉に縋りたくて、見ないようにしてたのか。
俺の中に何かいる、か。……それが、あの事故を引き起こした怪異だったとしたら。サナギはどうしてそれを俺に言わなかったんだろう。
「おい、山藤」
「……!」
強く名前を呼ばれて、ハッとした。目の前でサナギが眉間に皺を寄せて俺の顔を覗き込んでいた。
「惑喰に何か言われたのか」
「いや……特になにも」
「……そうか。ならよかった」
サナギの顔がほっとしたようにかすかに和らいだ。
……なんで、そんな顔するんだよ? もしかして、俺に嘘がバレなくてほっとしてるんじゃないのか?
途端、サナギのことが疑わしく思えてくる。
「……なんだ」
無意識にじっと見ていたようで、サナギは戸惑ったように目を逸らした。なんだよその反応。ますます怪しく見える。
「……風呂行ってくる」
少し、一人で考えたくて。俺はそれだけ言って早足に部屋を出た。
風呂の中でも惑喰の言葉がぐるぐる頭の中を巡って、せっかくの温泉を全然楽しめなかった。
それほど長風呂したつもりはなかったのに、考え事をしていたせいかひどくのぼせてしまった。気づいた頃には吐き気と頭痛で動くのもやっとになっていて、俺はなんとか脱衣所に転がり出た。何度も何度も手を止めながら、気が遠くなるほどの時間をかけてゆっくり服を着た。髪を乾かすのは諦めて、のろのろと部屋に向かう。
頭が割れそうに痛い。脱水症状かもしれない。でもいま飲み物を口にしたら吐くかも。まずは寝よう。横になっていればたぶんマシになるはず。あー、夕食食べれる気しないな。もったいねえ……。
ーー海沿いの道を見下ろしている。これは夢だとすぐに気がついた。
見慣れた白い車があの交差点に向かって走っていく。もう何度もみたあの日の夢だ。だけど、こんな視点からみているのは初めてだった。
目を凝らすと、車の中から何か黒いもやが漏れ出ていることに気がついた。それはあっという間に車を覆って、眩しい白を塗りつぶしてしまう。
なんだよあれ。……やばい。もうすぐ、あの交差点だ。向こうからトラックが走ってくる。車が交差点に入ると、黒いもやはいっそう大きくなって信号機を覆い隠してしまった。
あっ、と思った次の瞬間、トラックが車の脇腹に激突した。吹き上げられるような衝撃波と轟音で頭が真っ白になってーー。
「……!!」
飛び起きて、ぎゅっと目をつぶった。まだ、あの事故の瞬間が脳裏に焼き付いている。残念ながら吐き気も頭痛も治っていない。悪夢のせいか悪化している気さえした。
やっぱり、あの事故は俺のせいーー。
そう聞こえた気がしたけど、それが自分の作り出した幻聴か、惑喰の幻術か判断できない。
信号を見落とした、とトラック運転手は証言した。でも、居眠りでも酒気帯びでもなく、持病もない、日頃から勤務態度も良好なベテラン運転手にそんなことがあるんだろうか。あの人がまさかこんな事故を起こすなんて、とトラック会社の同僚や上司たちも口々に言っていた。
あの夢で起きていたように、もしそれが俺に憑いた何かのせいだったなら、その違和感にも説明がつく。
……雨の音がする。いつの間に降り始めていたんだろう。日も暮れて窓の外はすっかり暗くなっている。やっぱり夕食は食べ損ねたらしい。
「事故はお前のせいで起きた」
窓に映った自分が、俺と乖離してにやりと笑う。今度ははっきりと声が聞こえた。
「お前は何を知ってる。なぜそう言い切れるんだ」
つい、話しかけていた。答えが欲しい。
「一緒に来た男に聞けばいい。でもお前はそうできない。なぜならお前はその男を本当の意味では信じきれていないからだ」
「……」
否定できなかった。その事実こそが、俺がサナギを疑っている証拠だった。
「裏山の一番高い木を探せ。そこで真実を教えてやる」
窓に映る俺は再び怪しげに口角をあげ、次に気づいた時には消えていた。そこにはなんの気配もなく、ただ俺の姿が反射しているだけ。
ーー行かなきゃ。
静かに立ち上がり、そっと部屋を後にする。扉を閉める間際、一瞬サナギの顔が浮かんだ。あいつに何か声をかけた方がいいだろうか。だけど、ばたんと扉の音がそれを打ち消した。
先に嘘をついたのはあいつなんだ。俺は、ただ真実が知りたいだけ。何をあいつに断る必要があるんだ。これから生きていくため、前を向くためにも、俺は知らなきゃいけない。だから、行かないと。
夕食を終えて部屋に戻ると、山藤の姿がなくなっていた。濃い怪異の気配が残っている。どうやらあれはまた憑かれたらしい。
山藤を誘き寄せたということは、そこに惑喰の本体がいるのだろう。これで探す手間が省けた。やはり、山藤を連れてきて正解だった。
「……さて」
俺が文明の利器を使いこなすことを、あいつは意外そうにしていた。だが、除霊にもテクノロジーは必要だ。あいつが風呂に行っている間にあいつのスマホを拝借して、俺の端末から位置情報が分かるようにしておいた。山中を住みかとする怪異となると、こういう事態は想定の範囲内だった。
早速アプリを開いて確かめる。……宿の外に出たのか。
窓を叩く雨の音が聞こえている。嫌な感じの空だ。
宿を出ようとしたところで、女将さんに声をかけられた。
「いま外に出るのはやめておいた方がいいですよ。この辺りは地面がぬかるみやすくて、こういう雨だと滑りやすくなるから」
「……」
ここへ来る道中を思い出す。舗装もなく歩きにくい山道だった。確かに危ないかもしれない。
「忠告ありがたいが、連れが外へ出てしまったようなので探しに行ってくる」
「あっ! ちょっと、お客さん……!」
女将の制止を振り切り、俺は宿の外へ出た。傘を叩く雨粒は大きくて激しい。あいつは傘をもって出ただろうか。
GPSを辿りながら進んでいくと、ようやく遠くに山藤の姿を見つけた。道を外れて森の中へ進んでいく、その後ろ姿には違和感があった。
やけに頭がフラフラと揺れている。自分の意思で歩いているようには見えない。操られているのか。
山藤と距離を縮めながら、ふとスマホの地図に視線を落とす。
……その先、崖じゃないか?
考えるより先、身体が走り出していた。
「山藤! 止まれ! 山藤!」
聞こえていないか。まずい。間に合わないーー。
「……ロク!」
ようやく、足が止まった。ゆっくりとこちらを振り返り、目が合った、と思った次の瞬間。
「危ない……!」
ぬかるみに足をとられたのか、その身体は大きく後ろに傾いた。駆け寄って必死に手を掴む。
「っ……」
伸ばした手はなんとか手首を掴んだが、俺もぬかるんだ足元で踏ん張りがきかず、そのまま俺たちは宙に投げ出された。二人して数メートル先の崖下に転がり落ちる。
落下の余韻でしばらく身動きがとれなかった。ようやく身体を起こすと、隣で山藤が倒れていた。どうやら意識がないようだが、見た目には大きな怪我はなさそうに見える。自分自身も擦り傷や打撲程度で済んだようだ。落ちたところが落ち葉の柔らかい地面で助かった。
目の前には、立派な大木が聳え立っていた。むせ返るほどの濃い霊力が漂っている。良く見れば、木には封印術が施されているようだが、相当昔に行われたもののようで、木の幹に巻かれた縄が経年劣化していた。
つまり、古い時代に惑喰はこの木に封じられたが、封印が緩んだことで再び活動を始めたのだろう。本体は封印の名残でこの場所から動けなかったため、補食対象をこの場所に誘導していたと考えると合点が行く。人を喰って力を増して、いずれ封印を完全に解くつもりだったに違いない。
ーー惑喰。俺はお前が嫌いなようだ。山藤に余計なことを吹き込んだこと、俺は許さない。
身体の感覚が遠い。ただ、内側で二つの声が木霊しているのが聞こえていた。ピクリとも動けず、目を開けることも声を出すこともできないまま、ただその声に耳を傾ける。それが人でないことは、俺にも何となく理解できた。
「やっぱり先客がいたか。どうりで容易く操れたわけだ」
「これは俺のものだよ。出ていって」
「俺だって命が惜しい。あんたと戦うのは御免だね」
一つの声が遠退く。もしかして、あれは惑喰だったんじゃないか。
だとしたら、もう一つの声は……誰?
山藤の身体から抜け出てきた気配が実態を帯び、異形の化け物が形を為す。ぎょろりとした大きな目玉と歪な歯の並ぶ口が一つずつ。感情の読めないその表情は見ていると嫌に心がざわついた。
「お前、除霊師だな」
「そうだ」
「せっかく封印が解けそうなんだ。こんなところで除霊されてたまるか」
「封印なんて優しいことはしない。俺はお前を祓う……ッ!」
攻撃を繰り出すも、惑喰は俺を嘲笑うようにそれを躱す。それから、ひたすら攻撃を躱される消耗戦が始まった。自在に変形する身体はまるで気体のようで、衝き出した拳は幾度となく空を切った。
惑喰は物理的な攻撃を仕掛けてくるタイプではないが、一度幻術に捕まれば一気にこちらが不利になる。相手に仕掛けさせずになんとか終わらせたいところだ。
背中に庇った山藤の姿をちらりと確認する。その時、視界の端が白く光った。
「見えたぞ、お前の心」
惑喰がニヤリと嫌な笑みを浮かべる。
「お前は俺を殴ることを躊躇っている」
「……!」
覗かれた。焦りで嫌な汗が伝う。その通りだった。
惑わされぬよう、ぐっと奥歯を食い縛る。
「やめよう。戦う必要なんてないんだから。人間と相容れないお前は怪異とばかり関わってきた。だから怪異をいたぶるのは性に合わないんだ」
ぐわんぐわんと耳鳴りのように惑喰の声は歪んで聞こえた。……いや。聞こえた、というよりも、言葉が脳に直接降り注いでいるみたいだ。
「……!」
一瞬の隙をついて、いつの間にか間合いに入られていた。惑喰の目玉がぐんと迫り、大きな黒目に俺自身が反射する。その像がゆっくりと口を開いた。
「お前は人でなしの半端者だ。怪異にもなりきれず力を振りかざすことしかできない」
惑喰の声が脳髄に木霊する。
瞳の中の俺が笑った。
「……不正解だ」
「ゥグッ……!?」
俺の虚像に拳を叩き込み、素早く術を結ぶ。吹き飛ばされ身動きを封じられた惑喰が恨めしそうにこちらを睨んだ。
「なぜ、効かない……」
幻覚などではない。笑ったのは俺自身だった。奴の瞳はそれを正しく映していただけだ。
「それは、お前の言葉が的外れだったからだ。俺は確かに人でなしの半端者だが、今の俺の心はそこにはない」
霊力を右手に集めて、腰を落として拳を構える。性に合わない? 馬鹿を言うな。俺はずっとこのやり方で除霊をしてきたんだ。ーーこいつに会うまでは。
「拳を振りかざせば山藤は怒るかもしれない。だからこいつに見られたくなかった。それが、俺の躊躇いの理由だ」
だから、山藤が目を覚ます前に終わらせるーー。
拳を衝き出して、霊力を解き放つ。力に押された惑喰の身体がばらばらの光の粒になって霧散していく。惑喰が悲鳴をあげたが、それもやがて遠退いてふつっと途切れた。
あとには何も残らなかった。
肩の力を抜き、呼吸を整える。惑喰は心を暴く怪異だが、あれは全てを見透かすわけではなかったのだな。人の心の断片を感じとり、その不安を的確に読み取って人を惑わす言葉を使う。それは、とても……俺には、できそうもないことだと思った。
ともあれ、山藤に先ほどの戦いを見られなくてよかった。倒れたままの山藤に駆け寄り、そっと肩を揺らした。
名前を呼ばれていた。揺さぶられる感覚が意識を揺り起こして、目を開けるとそこにはサナギの顔があった。その上には真っ暗な空があって、大粒の雨が俺の顔を濡らし続けている。
「惑喰は祓った。もう心配ない」
「……ああ、うん」
うまく笑えない。刺々した気持ちが、サナギの言葉の裏を勝手に想像してしまう。
心配ないってなんだよ。それも嘘か?
俺の中にはまだ「何か」がいるんだろ。なんで何も言わないんだよ?
目を逸らしたままのろのろと身体を起こす。全身がびしょ濡れで、夏だというのに身体が冷えきっていた。髪から滴る水滴が目にかかって、払い除けるように軽く頭を振った。
「……怪我、してる」
サナギの袖に血が滲んでいるのが見えた。
「ただの擦り傷だ。お前とここに落ちた時に」
「……!」
サナギの視線を辿って、ハッと息を飲む。聳え立つ崖は決して低くはない。あそこから、落ちたのか。
言われてみれば、俺も足や脇腹がじんじんしていた。捻挫や骨折ではなさそうだけど、打撲だろうが擦り傷だろうが痛いものは痛い。
あそこまで自力で登るのは無理だろう。打ち所が悪ければ死んでたんじゃないかという高さだ。つまり、この雨の中俺たちは遭難した。
……ああ、そうか。もう分かったよ。十分だ。
「……やっぱり」
「……山藤?」
「全部、俺のせいじゃねえかよ!」
色々なことが腑に落ちた。あの日の事故も、家族の死も、全部、俺が引き起こしたことだった。俺さえいなければこんなことにはならなかった。
「落ち着け。お前のせいじゃない」
「落ち着けるかよ! だって、今のこれだって全部俺のせいだろ!」
二人して大雨の中遭難して、身体中傷だらけ。俺が惑喰に取り憑かれたから。俺がこんな体質だから。俺がいたから、こんなことになったんじゃないか。
サナギを睨み付ける。震える唇をぎゅっと噛み締めた。悲しみ、怒り、悔しさ、様々な感情が爆発して制御できなくなっていた。
「……お前、俺に何か隠してるんだろ」
「っ……」
「本当は事故のことだって、俺のせいなんじゃないのかよ!」
「…………!」
サナギの動揺は分かりやすかった。この男がうまく嘘なんかつけるはずないんだ。都合のいい言葉を信じたくて、鵜呑みにしようとした俺が馬鹿だった。
なんと答えればいいかわからない時、サナギは口から出任せを言うことができずにただ黙ってしまう。この沈黙こそが、サナギの嘘の証明に他ならなかった。
力が抜けて、乾いた笑いが漏れた。……馬鹿みたいだ。
「お前を死なせたくないとか言って……お前を危険にさらしてるのは、俺だったのかよ」
サナギを繋ぎ止めている気になって、思い上がってた。実際には、俺こそが疫病神だったのに。
俺がサナギを連れてきた場所は、こんな崖の下だった。何かが違えば、俺自身がサナギを殺していてもおかしくなかったんだ。俺の、家族のように。
「……それは、」
サナギが何かを言いかけて、そのまま言葉を飲み込む。それから、サナギが言葉をみつけられないでいる間、俺たちの間には冷たい沈黙が降りた。尚も激しく打ち付ける雨が静寂を掻き消してくれる。
雨でよかった。自己嫌悪で泣きそうだ。
その時、崖の上がにわかに騒がしくなり、ぽつぽつといくつも明かりが見え始めた。
「おーい、この下だ! 見つけたぞ!」
一人が叫ぶと、崖の上にわっと人が集まった。この雨の中、戻らない俺たちを心配して宿の人たちが探してくれていたらしい。
「やっぱり落ちてたか。救助を呼んだ方がいいな」
「二人とも無事か?」
「大丈夫だ。二人とも大した怪我もない」
サナギが答えると、崖の上に安堵の声が広がった。
身体が冷えきって、頭がガンガンする。風邪でも引いたのかもしれない。
心底嫌な気分だ。もうなにも考えたくない。
夜が明ける前に俺たちは救助され、念のため病院へ搬送された。幸い怪我は軽かったが、冬場なら低体温症でもっと危険な状態になっていただろうと釘を刺された。
さらに、警察から事情を聞かれることになり、山藤は「宿から野生動物が走っていくのが見えて追いかけてしまった」と話して警察官を困惑させていた。俺はありのまま話して構わないと思っていたが、山藤から怪異のことは黙っておけと念押されたので話を合わせた。
とにかく、事件性はないということで二時間足らずで聴取は終了し、明け方頃には宿へ戻ることができた。山藤は疲れたから休みたいと言って、チェックアウトまでずっと布団で横になっていた。
帰りのバスや電車に至るまで、俺たちの間に会話はなかった。
そして、あれから数日。スマホを確認するが、相変わらず山藤からは何の返事も来ていない。メッセージを見た形跡すらないということは、連絡自体をブロックされているのかもしれない。
……静かだ。
久しぶりに、一人になったことを実感している。山藤に出会うまではこれが当たり前だったのに、今はやけに退屈に感じる。せめて授業があればよかったのに、今は夏休みだ。去年まで、俺は何をして夏を過ごしていただろうか。少しも思い出せない。きっと思い出に残るほどのことを、何一つしてこなかったせいだ。
これだけ時間があるのなら、また除霊にでも出掛けようか。……けれどそれも、一人では何となく気乗りしなくて、結局自宅のソファで無為に天井を眺めている。
ーー山藤に嘘をついていた。
そのせいで、俺は相当山藤を怒らせてしまったらしい。たしかに、山藤の中に「何か」はいた。やっぱり、人間とうまく関係を育むのは容易ではない。そんなこと、俺には無理だったのかもしれないな。
……一人の人生に戻ろう。俺は、人でなしの、半端者なのだから。
考え事をしながら、また指先が無意識に山藤とのチャット画面を開いていた。宿から帰って数日。山藤と連絡がとれなくなって、数日。
ふと、別れ際の山藤のことを思い出した。バスでも電車でもしかめ面で黙り込んで、会話を拒むようにじっと目を閉じていた。宿でもひたすらこちらに背を向けて布団で横になっていた。怒っているのだと思って、俺は遠巻きにあまり話しかけないようにしていた。だけど、考え直してみると、あれはもしかして体調が悪かったのではないか。
そういえば、山藤は宿についてすぐ、温泉でのぼせたと言って寝込んでいた。あの時はまだ、山藤から惑喰の気配はほとんど感じなかった。もしもあれが霊的な力によって起こされた不調だとしたら、原因は惑喰ではなかったということになる。
すなわちーー山藤の中にいた「何か」が、山藤に影響を与えていたとは考えられないか。
人の負の感情で育つ怪異は多くいる。山藤の中にいるのも、そういう種類の怪異だったとしたら。あの時、惑喰の幻術で、山藤の中にあった俺に対する疑いの心が一気に膨れ上がったはずだ。それを餌に、山藤に取り憑く怪異が力を増していたとしたら。あの崖下で俺の嘘を確信した山藤は、さらに負の感情を増幅させただろう。
……もしかして。山藤から何の連絡もないのは、怪異の影響下にあって身動きがとれないからなんじゃないか? もし、それほどまでに内なる怪異が強大化しているとしたら、山藤はーー。
ハッとして立ち上がった後で、ふと冷静になる。もう一度ソファに座り直し、じっと思考を巡らせた。
なぜ、俺は山藤の元へ行こうとしているんだ?
俺は山藤に嘘をついていた。山藤はそれにとても怒っていたから、もう許してはもらえないかもしれない。山藤を助けたからって、これから先も山藤とまた過ごせる保証はない。ならば助けに行く理由なんてないんじゃないのか?
じっと目を閉じて考える。自分がどうしたいのか、どうするべきなのか。
声をかけたのはたまたまだった。キャンパス内で霊障で座り込む人間を見たのは初めてで、気まぐれに助けた。山藤の体質は除霊に便利だった。何度も一緒に除霊に出掛けた。たまには遠出をして、大仕事の後はあいつの部屋で酒を飲んだ。
それだけじゃない。一緒に受けた授業。学食。ラーメン。そしてテスト。山藤と出会って、俺の学生生活は別物になった。人間とこんなに一緒にいられたのは初めてだった。
山藤といる時、俺は人間でいられる気がしていた。
……それも、もう、ここまで。俺は嫌われて、山藤は「何か」に脅かされている。だから、どうしようもない。仕方ない。…………本当に?
山藤は俺を許さないかもしれない。それはたしかに、俺にはどうにもできないことだ。だけど「何か」は、どうにかできる。
それに、あいつが俺から離れていくならまだしも、怪異にあいつを取られるのは気分が悪い。ーーそれなら。
ソファから立ち上がり、ポキポキと指を鳴らす。
……取り返しに行こう。そして、これからのことは、あいつの判断に委ねよう。それなら俺も納得できる。
部屋を出た俺は、気づけば走り出していた。いつの間にか日が傾いて、足元には長い影が伸びていた。
宿から帰宅する道すがら、どんどん体調が悪化していくのを感じていた。帰宅してベッドに倒れ込んだときには、もう起き上がれないほどに身体が重くて、そのまま眠るように意識を手放した。
それからどれくらいの時間が経ったのか、次に気がついた時には、もうまったく身動きが取れなくなっていた。目を開けることも、指先を動かすことさえもできない。自分の身体が自分の物でないような強烈な違和感と、変わらぬ身体のだるさにひたすら混乱した。
何かの病気かとも思ったが、次第にそうじゃないと確信した。俺の内側にある「何か」が、少しずつ存在感を増していくような感覚があったからだ。これがきっと、サナギが俺に隠していた「何か」。俺を呪い、家族を殺した怪異なんだろう。
サナギの顔が浮かぶ。散々キレて当たったくせに、いまさら助けてほしいなんて虫のいい話だ。
だんだんと思考が鈍っていく。眠気とは違う、自我が遠退いていく感覚だった。雪山で遭難した人よろしく、きっとこれは「一度意識を手放したらおしまい」な状況に違いないと直感した。
俺、どうなるんだろう。このままどうにかなって、呪い殺されるのか? ……怖い。けど……死にたくない、とか、そんなこと思う資格、俺にはない。
きっと、バチが当たったんだ。
これでよかった。また、俺のせいで誰かが死ぬくらいなら。このまま、ひとりで。
ガシャン! バタン! と一際大きな音がして、沈んでいた思考がぴしゃりと途絶えた。
なんだいまの。何の音だ?
混乱していると、迷いのない声が凛と響いた。
「その男から離れろ」
……サナギだ。サナギが来たんだ。
ん。待てよ。じゃあさっきのガシャンって……嘘だろ。まさかあいつ、寮の部屋のドア壊した!? やばいだろそれは。他にもっとなんか……ああ、くそ。もう感情ぐちゃぐちゃだ。
なんでこんなとこ来てるんだよ。俺のせいでお前、死ぬかもしれないのにさ。
部屋に入ってすぐ、異様な気配に背筋が粟立った。山藤はベッドに横たわっていたが、意識はないようだった。その背中には根のようなものが張り巡らされ、そこから化け物の身体が生えていた。
「……盗器(トウキ)か」
「当たり。でも、ちょっと遅かったんじゃない?」
盗器は器となる人間に寄生する怪異だ。不安定な心を養分に力を蓄え、最後には器の主に成り代わる。
……どこまで深く根が張っているのか、一見しただけでは分からない。表層だけならなんとかなるが、体内に深く張り巡らされた根は取り除くのが難しい。
盗器の身体がすっと山藤の背に吸い込まれて消えた。力なく横たわっていた山藤が静かに目を開け、ゆっくりと身体を起こす。
「うん。よく馴染むよ。いい器だ」
確かめるように手足を動かしながら、山藤ーー盗器が笑った。
顔も声も、山藤そのものだった。……これが、盗器の成り代わり。盗器は器を得ると、その人間としてそのまま生き続けると言われている。周囲に気取られることのないよう、その人間を完璧に模倣するのだ。見据えた敵が守るべき相手の形をしていて、混乱で身体が固くなる。
「この器、お前と戦うにはちょうどよさそうだね」
「ッ……!」
盗器の攻撃は見えていたのに、咄嗟に動けなかった。強烈な拳を脇腹に叩き込まれ、堪らず後退った。
ーー山藤に、殴られた。脳がその情報を処理できず、体勢をうまく立て直せない。
「こいつ、人に手をあげるようなやつじゃないもんね! そりゃあ、びっくりしちゃうよね!」
会話の合間にも執拗な攻撃が続き、あっという間に防戦一方になる。怪異相手にこんなに不利な戦いを強いられたのは初めてだった。
息を整えながら、じっと盗器を睨み返す。
「……お前に、こいつの何が分かる」
「分かるよ。お前よりよほど長い時間こいつのことをみてきたんだから。完璧に人格を模倣できるくらいにね!」
「グ……ッ、ハッ……」
力一杯に蹴り飛ばされ、背中を壁に打ち付けた。うまく受け身が取れず、一瞬呼吸ができなくなる。
「もしかしてお前、この器を攻撃できないの? へえ……俺って本当に運がいいなあ!」
壁際に追い詰められ、さらに数発の拳を食らった。口の中に鉄の味が広がる。それをみて盗器はいっそう笑みを深めた。
「ああ、力が漲る。お前がここに来てくれてよかった。おかげで予想以上に早くこいつとひとつになれそうだ」
「……!」
盗器の纏う霊力の気配が濃くなった。盗器はさらに俺を痛めつけようと、無邪気に肩をまわしている。
ーーそうか。まだ、聞こえているんだな。
この戦況に、山藤の心が揺れ動いている。それが盗器に力を与えるなら、逆もできるはずだ。
狭くなっていた視界が広がって、ようやく肺がうまく膨らんだ気がする。
そうだ。やっぱり除霊をするなら、お前と二人がかりがいい。
「何にやにやしてるんだよ。気持ち悪いな。本当に人間じゃないみたいだ」
盗器が力一杯に振るった拳を、手のひらで受け止めた。……捕まえた。
「よく聞け。こんな攻撃では俺は死なない。お前の力など大したことはない。……これは、嘘じゃない」
盗器の顔がみるみる怒りに歪んでいく。力の込められた拳を力一杯に握り返して、瞳の奥を見据える。
「今回、先に殴ったのは盗器だ。つまり、これは暴力ではなく正当防衛だ」
「ッ……!?」
盗器の頬を思いきり殴り飛ばすと、盗器はバランスを崩して後ろに倒れ込んだ。すぐに飛び付いて馬乗りになり、背中から肩を床に押さえつける。
「ッ、クソ、どけよ……!」
「悪いが、今回ばかりはこうするしかなかった。……から、あまり、怒るな」
「……うわあ!?」
盗器が声をあげた次の瞬間、ミシミシと軋むような音が聞こえて、山藤の背中から木の枝のようなものが飛び出してきた。背中に張った根が再び可視化される。
山藤だ。盗器の主導権が弱まって、身体を制御できなくなったんだ。
「上出来だ」
枝の根本を掴み、ぐっと手に力をこめた。ありったけの霊力を集めて送り込む。
盗器。お前を許さない。俺は山藤に怒られ、嫌われ、山藤の前で暴力も振るわざるを得なくなった。これでまた嫌われて、お前を祓ってももう山藤は一緒にいてくれないかもしれない。
「全部、お前のせいだ。……盗器」
バキッという音ともに枝は折れ、張り巡らされた木の根がさらさらと消えていった。
握り潰されたそれは砂粒のように、俺の手からこぼれ落ちていく。指先をなでていく気配の中には、盗器の思念が残っていた。
ーー路上に倒れた少年が、炎上した車を呆然と見つめる姿がぼんやりと浮かび上がる。その背中には、小さな木の芽が宿っていた。
目を開けるとすぐに、サナギのほっとした顔が見えた。けれど、何を気まずく思ったのか、サナギはすぐに顔を背けて目を泳がせた。
殴られた右頬が痛い。でも、サナギの方がもっとボロボロだ。こんなにやられてるところ、初めて見た。
「……悪かった」
「……! ……どれがだよ」
殴ったこと。ドアを壊したこと。それともーー。
「嘘をついて……悪かった」
「……」
「お前を喜ばせることを言いたかったんだ。……大切な話を、打ち明けてもらったから」
……そんな理由かよ。怒りづらいな。クソ。
「……もういいよ」
「最後に、盗器の思念が見えた。あの事故の時、確かに盗器はすでにお前に憑いていた。だが、それはまだほんの小さな芽だった。大きな事故を起こせたとは思わない」
「……!」
「盗器が力を持つようになったのは、それより後だ。事故が自分のせいかもしれないと疑ったお前の心が、盗器を育てたんだ。だから」
ーーお前のせいじゃない。
もう一度、はっきりとサナギは断言した。嘘じゃないことなんて、言わなくても分かった。
「……ただ、もう一つお前に謝ることがある」
「……なんだよ」
「盗器を完全に祓うことはできなかった」
「……!」
「ほとんど力のない、例えるなら『種』のようなものが残った。それほどお前の中に張った盗器の根が深かったということだ」
無意識に、自分の胸に手を当てていた。この中にはまだ、怪異がいる。いつかまたそばにいる誰かを危険に晒して、不幸を呼んでしまうかもしれない。
それに、サナギの言葉が事実なら、あの事故の時すでに盗器は俺に取り憑いていた。その力が本当に取るに足らないものだったかは、もう誰にも証明しようのないことだ。サナギの言葉は嘘じゃないけど、きっと真実である確証もない。
「俺の考えは伝えた通りだ。あとは……お前が決めたことに従う」
サナギはそれだけ言うと、神妙な顔で黙り込んでしまった。伝えた通りだって? 馬鹿言うなよ、口下手が。正当防衛だとかなんとか、言い訳ばっかりしてたくせに。
助けてもらっておいて、文句言うほど俺は恩知らずじゃねえよ。
そんな恩人に、俺からできることは一つだけだ。
俺は、お前とはもう、関わらないーー。
ーーこんな攻撃では俺は死なない。
ーーお前の力など大したことはない。
ぎゅっと目を閉じて、その言葉を反芻した。本当は死にたがりのくせに、そんなところだけ妙に生命力を感じさせてくるから厄介だ。俺は、盗器の呪いよりも、……お前のことを、信じたいよ。
「……お前、俺がいないと『一緒に連れていってくれ』とか言い出すんだろ。なら、止める役が必要だよな」
「……!」
「お前のそばで、俺がお前をこの世に繋ぎ止め続けてやる。お前が隣で生きている限り、俺は自分が呪われていないと自分に証明できる」
「…………そうか」
サナギの顔が綻んだ。こんな柔らかい顔もできたんだな。……いや、出会った時よりずっと、豊かになったと思う。これも俺のおかげだって、少しは思い上がってもいいんだろうか。
「山藤」
「……禄でいい。お前、俺のことそう呼んだだろ」
「……聞こえてたのか」
記憶も曖昧で、ほとんど意識もなかったはずなのに、不思議とそれだけはハッキリ聞こえた。
「ならば……ロク。本当に、怒ってないのか」
「お前は俺のことなんだと思ってるんだよ。怒ってねえよ」
「だが、暴力は嫌いなんだろう」
「そりゃ好きじゃないけど、使うしかない場面だったってことくらい分かるよ」
守るための暴力まで咎めるつもりはない。そういう機微を、サナギはとことん理解できないらしいけど、そんなのはこれからまた一つずつ説明していけばいい。この先も変わらない日々が続いていくのだから。
「……そうか。それならよかった。ドアも、早く直るといいな」
「……あっ!」
慌てて見に行ってみれば、ドアノブごと鍵が外れて床に転がっていた。
「他に中に入る方法がなかった。ドアを蹴破るよりは、鍵だけ壊した方がいいかと思ったが、違ったか」
「…………」
使うしかない場面での暴力は咎めない。舌の根も乾かぬうちに、俺は自分の発言を後悔している。……いや、でもまあ、ドアを蹴破られるよりは、全然ましか……。
「違ってない。お前が正しいよ……」
鍵とドアノブの修理は五万もかかった。貧乏学生には痛い出費だが、命には変えられない。
とはいえ、サナギが繋ぎ止めた俺の命は、しばらくはシフトを増やしたバイトに消費されることになりそうだ。
「温泉へいこう」とサナギに誘われたのが先週のことだ。夏休みに入ってすぐ、バイト以外にはなんの予定もなくだらだらと積ん読を消費していた俺に断る理由はなかったが、詳しく聞いてみれば当然のようにそれは除霊の誘いだった。
これから向かう温泉宿は、以前から怪奇現象の噂が絶えないそうだ。サナギに行き先を聞いて口コミサイトを見てみたら、たしかに一定の低評価がつけられていた。低評価の口コミはどれも「鏡の像に話しかけられた」「幻覚を見た」といった体験が書かれていた。
「お前、いつもどうやってこういう噂見つけてくんの。依頼されてるわけでもないんだろ」
延々と続く上り坂に息を切らしながら、ふと気になっていたことを尋ねてみる。
「今回はネットで検索して見つけた。あとは主に人の噂話だ。大学や電車でも、そういう話題を口にしている者はいる」
それって、平たく言えば盗み聞きじゃね? まあ、代わりに除霊してくれるってとこでトレードオフになってんのかな。話してる人たちはまさか自分の口にした噂話がきっかけでそんなことになってるとは思ってないだろうけど。
っていうか、そういえば。
「……ネットとか使えるんだな、お前」
「いつもスマホで連絡しているだろう。今さら何を言ってるんだ」
「いや……まあ、そういえばそうか」
だって、なんとなく除霊って古来からの術って感じで、文明の利器とは相性悪そうというか。偏見だけど、着物着て和食食べて畳の日本家屋に住んでそうだろうが。
「いまだって地図アプリで道を確認している。……着いたぞ」
「え。……わ、ほんとだ」
顔を上げれば、いつの間にか木々が開けて、目の前には暖簾のかかった立派な宿が現れていた。歴史ある旅館というだけあって、建物は古そうではあるけど、その分独特の趣と威圧感がある。こんな立地でよくそんな長いこと商売が成り立つものだと思うが、山奥の秘湯にゆっくり浸かれるのが売りらしく、遠くからわざわざ湯治に訪れるお客さんも多いみたいだ。
暖簾をくぐって引戸の入り口を開けると、上品そうな女将さんに出迎えられた。その笑顔には温かみがあり、ここがいわく付きの宿であることを忘れそうになる。
「こちらのお部屋をお使いください。ごゆっくり」
案内されたのは桔梗の間。旅費が惜しかったため残念ながら二人で相部屋だ。歴史ある旅館の一泊料金はなかなか馬鹿にならない。まあ、その分客室はそれなりに広さがあるから、蒲団は少し離して敷けそうだ。
温泉は別棟に大浴場があるそうで、部屋には簡易な洗面所とトイレしかなかった。食事は時間になったら食堂に行って食べるみたいだけど、それまでまだかなり時間がある。せっかくだから、早速温泉にでもいってみようか。肩凝りなんかはたちまち治ってしまうという触れ込みだったので、万年取り憑かれ体質の俺としてはぜひ効果のほどを確かめてみたい。
タオルや着替えをひとしきり用意して部屋の出口へ向かおうとした時、ふと洗面所の鏡が目に入った。……そういえば。口コミでは、この鏡に何か映ったとか書いてあったんだっけ……。
近づいてそっと鏡面に触れてみる。別に普通だ。鏡越しの自分の像と目が合った。
「あいつの言葉は真実か?」
「うわあ!?」
鏡の像の口が動いた。驚いて尻餅をついてしまう。鏡の中の俺は微動だにしない。ただじっと無様に転げた俺を見下ろしている。
「『お前のせいじゃない』」
「え……」
一瞬、鏡の像が歪んで、サナギの姿が見えた。その像も曖昧にぼやけて、再び俺の虚像が浮かび上がる。
「あいつは嘘をついているんじゃないか」
そんなわけない。と、咄嗟に俺の心が否定する。俺はサナギのあの言葉で、やっと人生の重荷をおろせたんだ。だからーー。
「お前の中に、何かいるぞ」
「……!」
鏡の中の俺の後ろに、黒いもやのようなものが見えた。そのもやに塗りつぶされるように、気づけば像は消えていた。
ごくりと唾を飲み込む。鏡に言われた言葉が脳を揺らしている。鼓動が速い。
サナギが、嘘をついてる……?
もう一度鏡の中をみる。そこには、呆然とした俺の顔があるだけだった。それなのに、あの黒いもやが俺のまわりに映って見えた気がして、慌てて目を擦った。
……もう一度鏡をみるのが怖い。だってあれは、俺の内側から出てきて、俺に纏わりついているものだった。
じゃあ、やっぱりあの事故は俺のーー。
「山藤! どうかしたのか」
サナギが洗面所に飛び込んできた。俺の声や物音を聞いて駆けつけてくれたらしい。
「あ……いま、鏡が」
「出たのか」
「そう、みたいで……」
鏡の像が突然語りかけてきたと説明すると、サナギはなるほどと小さく呟いた。
「惑喰だな」
「……ワクバミ」
また聞き慣れない単語が飛び出して、思わずおうむ返ししていた。
「惑わして喰らうと書く。幻覚を見せて人の心を暴く怪異だ」
「喰らう、って、人を?」
「そうだ」
貪魔に会った時も恐ろしいと思ったけど、今回の相手はその比じゃない。そんな怪異が目の前で俺に語りかけてきたと思うと、改めてゾッとした。
「正確には、奴らは人の魂を喰らう。心を暴かれると人は脆くなる。術にかけやすく、操りやすくなるんだ。そうすれば、容易に補食できる」
「それって……死ぬのか。喰われたら」
「魂は一部でも欠ければ人格に影響を及ぼす。喰らい尽くされれば空っぽの肉体は二度と目覚めない」
「……」
「お前も気を付けろ」
淡々と、サナギが付け加えた。返事をしようとしたけど、うまく声がでなかった。
心を暴く、とサナギは言った。それに、語りかけてきたのは俺の像だ。ならあの鏡は、俺自身の心を映していたんじゃないのか?
俺は、サナギの言葉をどこかで疑ってたんだろうか。だけど考えたくなくて、……サナギの言葉に縋りたくて、見ないようにしてたのか。
俺の中に何かいる、か。……それが、あの事故を引き起こした怪異だったとしたら。サナギはどうしてそれを俺に言わなかったんだろう。
「おい、山藤」
「……!」
強く名前を呼ばれて、ハッとした。目の前でサナギが眉間に皺を寄せて俺の顔を覗き込んでいた。
「惑喰に何か言われたのか」
「いや……特になにも」
「……そうか。ならよかった」
サナギの顔がほっとしたようにかすかに和らいだ。
……なんで、そんな顔するんだよ? もしかして、俺に嘘がバレなくてほっとしてるんじゃないのか?
途端、サナギのことが疑わしく思えてくる。
「……なんだ」
無意識にじっと見ていたようで、サナギは戸惑ったように目を逸らした。なんだよその反応。ますます怪しく見える。
「……風呂行ってくる」
少し、一人で考えたくて。俺はそれだけ言って早足に部屋を出た。
風呂の中でも惑喰の言葉がぐるぐる頭の中を巡って、せっかくの温泉を全然楽しめなかった。
それほど長風呂したつもりはなかったのに、考え事をしていたせいかひどくのぼせてしまった。気づいた頃には吐き気と頭痛で動くのもやっとになっていて、俺はなんとか脱衣所に転がり出た。何度も何度も手を止めながら、気が遠くなるほどの時間をかけてゆっくり服を着た。髪を乾かすのは諦めて、のろのろと部屋に向かう。
頭が割れそうに痛い。脱水症状かもしれない。でもいま飲み物を口にしたら吐くかも。まずは寝よう。横になっていればたぶんマシになるはず。あー、夕食食べれる気しないな。もったいねえ……。
ーー海沿いの道を見下ろしている。これは夢だとすぐに気がついた。
見慣れた白い車があの交差点に向かって走っていく。もう何度もみたあの日の夢だ。だけど、こんな視点からみているのは初めてだった。
目を凝らすと、車の中から何か黒いもやが漏れ出ていることに気がついた。それはあっという間に車を覆って、眩しい白を塗りつぶしてしまう。
なんだよあれ。……やばい。もうすぐ、あの交差点だ。向こうからトラックが走ってくる。車が交差点に入ると、黒いもやはいっそう大きくなって信号機を覆い隠してしまった。
あっ、と思った次の瞬間、トラックが車の脇腹に激突した。吹き上げられるような衝撃波と轟音で頭が真っ白になってーー。
「……!!」
飛び起きて、ぎゅっと目をつぶった。まだ、あの事故の瞬間が脳裏に焼き付いている。残念ながら吐き気も頭痛も治っていない。悪夢のせいか悪化している気さえした。
やっぱり、あの事故は俺のせいーー。
そう聞こえた気がしたけど、それが自分の作り出した幻聴か、惑喰の幻術か判断できない。
信号を見落とした、とトラック運転手は証言した。でも、居眠りでも酒気帯びでもなく、持病もない、日頃から勤務態度も良好なベテラン運転手にそんなことがあるんだろうか。あの人がまさかこんな事故を起こすなんて、とトラック会社の同僚や上司たちも口々に言っていた。
あの夢で起きていたように、もしそれが俺に憑いた何かのせいだったなら、その違和感にも説明がつく。
……雨の音がする。いつの間に降り始めていたんだろう。日も暮れて窓の外はすっかり暗くなっている。やっぱり夕食は食べ損ねたらしい。
「事故はお前のせいで起きた」
窓に映った自分が、俺と乖離してにやりと笑う。今度ははっきりと声が聞こえた。
「お前は何を知ってる。なぜそう言い切れるんだ」
つい、話しかけていた。答えが欲しい。
「一緒に来た男に聞けばいい。でもお前はそうできない。なぜならお前はその男を本当の意味では信じきれていないからだ」
「……」
否定できなかった。その事実こそが、俺がサナギを疑っている証拠だった。
「裏山の一番高い木を探せ。そこで真実を教えてやる」
窓に映る俺は再び怪しげに口角をあげ、次に気づいた時には消えていた。そこにはなんの気配もなく、ただ俺の姿が反射しているだけ。
ーー行かなきゃ。
静かに立ち上がり、そっと部屋を後にする。扉を閉める間際、一瞬サナギの顔が浮かんだ。あいつに何か声をかけた方がいいだろうか。だけど、ばたんと扉の音がそれを打ち消した。
先に嘘をついたのはあいつなんだ。俺は、ただ真実が知りたいだけ。何をあいつに断る必要があるんだ。これから生きていくため、前を向くためにも、俺は知らなきゃいけない。だから、行かないと。
夕食を終えて部屋に戻ると、山藤の姿がなくなっていた。濃い怪異の気配が残っている。どうやらあれはまた憑かれたらしい。
山藤を誘き寄せたということは、そこに惑喰の本体がいるのだろう。これで探す手間が省けた。やはり、山藤を連れてきて正解だった。
「……さて」
俺が文明の利器を使いこなすことを、あいつは意外そうにしていた。だが、除霊にもテクノロジーは必要だ。あいつが風呂に行っている間にあいつのスマホを拝借して、俺の端末から位置情報が分かるようにしておいた。山中を住みかとする怪異となると、こういう事態は想定の範囲内だった。
早速アプリを開いて確かめる。……宿の外に出たのか。
窓を叩く雨の音が聞こえている。嫌な感じの空だ。
宿を出ようとしたところで、女将さんに声をかけられた。
「いま外に出るのはやめておいた方がいいですよ。この辺りは地面がぬかるみやすくて、こういう雨だと滑りやすくなるから」
「……」
ここへ来る道中を思い出す。舗装もなく歩きにくい山道だった。確かに危ないかもしれない。
「忠告ありがたいが、連れが外へ出てしまったようなので探しに行ってくる」
「あっ! ちょっと、お客さん……!」
女将の制止を振り切り、俺は宿の外へ出た。傘を叩く雨粒は大きくて激しい。あいつは傘をもって出ただろうか。
GPSを辿りながら進んでいくと、ようやく遠くに山藤の姿を見つけた。道を外れて森の中へ進んでいく、その後ろ姿には違和感があった。
やけに頭がフラフラと揺れている。自分の意思で歩いているようには見えない。操られているのか。
山藤と距離を縮めながら、ふとスマホの地図に視線を落とす。
……その先、崖じゃないか?
考えるより先、身体が走り出していた。
「山藤! 止まれ! 山藤!」
聞こえていないか。まずい。間に合わないーー。
「……ロク!」
ようやく、足が止まった。ゆっくりとこちらを振り返り、目が合った、と思った次の瞬間。
「危ない……!」
ぬかるみに足をとられたのか、その身体は大きく後ろに傾いた。駆け寄って必死に手を掴む。
「っ……」
伸ばした手はなんとか手首を掴んだが、俺もぬかるんだ足元で踏ん張りがきかず、そのまま俺たちは宙に投げ出された。二人して数メートル先の崖下に転がり落ちる。
落下の余韻でしばらく身動きがとれなかった。ようやく身体を起こすと、隣で山藤が倒れていた。どうやら意識がないようだが、見た目には大きな怪我はなさそうに見える。自分自身も擦り傷や打撲程度で済んだようだ。落ちたところが落ち葉の柔らかい地面で助かった。
目の前には、立派な大木が聳え立っていた。むせ返るほどの濃い霊力が漂っている。良く見れば、木には封印術が施されているようだが、相当昔に行われたもののようで、木の幹に巻かれた縄が経年劣化していた。
つまり、古い時代に惑喰はこの木に封じられたが、封印が緩んだことで再び活動を始めたのだろう。本体は封印の名残でこの場所から動けなかったため、補食対象をこの場所に誘導していたと考えると合点が行く。人を喰って力を増して、いずれ封印を完全に解くつもりだったに違いない。
ーー惑喰。俺はお前が嫌いなようだ。山藤に余計なことを吹き込んだこと、俺は許さない。
身体の感覚が遠い。ただ、内側で二つの声が木霊しているのが聞こえていた。ピクリとも動けず、目を開けることも声を出すこともできないまま、ただその声に耳を傾ける。それが人でないことは、俺にも何となく理解できた。
「やっぱり先客がいたか。どうりで容易く操れたわけだ」
「これは俺のものだよ。出ていって」
「俺だって命が惜しい。あんたと戦うのは御免だね」
一つの声が遠退く。もしかして、あれは惑喰だったんじゃないか。
だとしたら、もう一つの声は……誰?
山藤の身体から抜け出てきた気配が実態を帯び、異形の化け物が形を為す。ぎょろりとした大きな目玉と歪な歯の並ぶ口が一つずつ。感情の読めないその表情は見ていると嫌に心がざわついた。
「お前、除霊師だな」
「そうだ」
「せっかく封印が解けそうなんだ。こんなところで除霊されてたまるか」
「封印なんて優しいことはしない。俺はお前を祓う……ッ!」
攻撃を繰り出すも、惑喰は俺を嘲笑うようにそれを躱す。それから、ひたすら攻撃を躱される消耗戦が始まった。自在に変形する身体はまるで気体のようで、衝き出した拳は幾度となく空を切った。
惑喰は物理的な攻撃を仕掛けてくるタイプではないが、一度幻術に捕まれば一気にこちらが不利になる。相手に仕掛けさせずになんとか終わらせたいところだ。
背中に庇った山藤の姿をちらりと確認する。その時、視界の端が白く光った。
「見えたぞ、お前の心」
惑喰がニヤリと嫌な笑みを浮かべる。
「お前は俺を殴ることを躊躇っている」
「……!」
覗かれた。焦りで嫌な汗が伝う。その通りだった。
惑わされぬよう、ぐっと奥歯を食い縛る。
「やめよう。戦う必要なんてないんだから。人間と相容れないお前は怪異とばかり関わってきた。だから怪異をいたぶるのは性に合わないんだ」
ぐわんぐわんと耳鳴りのように惑喰の声は歪んで聞こえた。……いや。聞こえた、というよりも、言葉が脳に直接降り注いでいるみたいだ。
「……!」
一瞬の隙をついて、いつの間にか間合いに入られていた。惑喰の目玉がぐんと迫り、大きな黒目に俺自身が反射する。その像がゆっくりと口を開いた。
「お前は人でなしの半端者だ。怪異にもなりきれず力を振りかざすことしかできない」
惑喰の声が脳髄に木霊する。
瞳の中の俺が笑った。
「……不正解だ」
「ゥグッ……!?」
俺の虚像に拳を叩き込み、素早く術を結ぶ。吹き飛ばされ身動きを封じられた惑喰が恨めしそうにこちらを睨んだ。
「なぜ、効かない……」
幻覚などではない。笑ったのは俺自身だった。奴の瞳はそれを正しく映していただけだ。
「それは、お前の言葉が的外れだったからだ。俺は確かに人でなしの半端者だが、今の俺の心はそこにはない」
霊力を右手に集めて、腰を落として拳を構える。性に合わない? 馬鹿を言うな。俺はずっとこのやり方で除霊をしてきたんだ。ーーこいつに会うまでは。
「拳を振りかざせば山藤は怒るかもしれない。だからこいつに見られたくなかった。それが、俺の躊躇いの理由だ」
だから、山藤が目を覚ます前に終わらせるーー。
拳を衝き出して、霊力を解き放つ。力に押された惑喰の身体がばらばらの光の粒になって霧散していく。惑喰が悲鳴をあげたが、それもやがて遠退いてふつっと途切れた。
あとには何も残らなかった。
肩の力を抜き、呼吸を整える。惑喰は心を暴く怪異だが、あれは全てを見透かすわけではなかったのだな。人の心の断片を感じとり、その不安を的確に読み取って人を惑わす言葉を使う。それは、とても……俺には、できそうもないことだと思った。
ともあれ、山藤に先ほどの戦いを見られなくてよかった。倒れたままの山藤に駆け寄り、そっと肩を揺らした。
名前を呼ばれていた。揺さぶられる感覚が意識を揺り起こして、目を開けるとそこにはサナギの顔があった。その上には真っ暗な空があって、大粒の雨が俺の顔を濡らし続けている。
「惑喰は祓った。もう心配ない」
「……ああ、うん」
うまく笑えない。刺々した気持ちが、サナギの言葉の裏を勝手に想像してしまう。
心配ないってなんだよ。それも嘘か?
俺の中にはまだ「何か」がいるんだろ。なんで何も言わないんだよ?
目を逸らしたままのろのろと身体を起こす。全身がびしょ濡れで、夏だというのに身体が冷えきっていた。髪から滴る水滴が目にかかって、払い除けるように軽く頭を振った。
「……怪我、してる」
サナギの袖に血が滲んでいるのが見えた。
「ただの擦り傷だ。お前とここに落ちた時に」
「……!」
サナギの視線を辿って、ハッと息を飲む。聳え立つ崖は決して低くはない。あそこから、落ちたのか。
言われてみれば、俺も足や脇腹がじんじんしていた。捻挫や骨折ではなさそうだけど、打撲だろうが擦り傷だろうが痛いものは痛い。
あそこまで自力で登るのは無理だろう。打ち所が悪ければ死んでたんじゃないかという高さだ。つまり、この雨の中俺たちは遭難した。
……ああ、そうか。もう分かったよ。十分だ。
「……やっぱり」
「……山藤?」
「全部、俺のせいじゃねえかよ!」
色々なことが腑に落ちた。あの日の事故も、家族の死も、全部、俺が引き起こしたことだった。俺さえいなければこんなことにはならなかった。
「落ち着け。お前のせいじゃない」
「落ち着けるかよ! だって、今のこれだって全部俺のせいだろ!」
二人して大雨の中遭難して、身体中傷だらけ。俺が惑喰に取り憑かれたから。俺がこんな体質だから。俺がいたから、こんなことになったんじゃないか。
サナギを睨み付ける。震える唇をぎゅっと噛み締めた。悲しみ、怒り、悔しさ、様々な感情が爆発して制御できなくなっていた。
「……お前、俺に何か隠してるんだろ」
「っ……」
「本当は事故のことだって、俺のせいなんじゃないのかよ!」
「…………!」
サナギの動揺は分かりやすかった。この男がうまく嘘なんかつけるはずないんだ。都合のいい言葉を信じたくて、鵜呑みにしようとした俺が馬鹿だった。
なんと答えればいいかわからない時、サナギは口から出任せを言うことができずにただ黙ってしまう。この沈黙こそが、サナギの嘘の証明に他ならなかった。
力が抜けて、乾いた笑いが漏れた。……馬鹿みたいだ。
「お前を死なせたくないとか言って……お前を危険にさらしてるのは、俺だったのかよ」
サナギを繋ぎ止めている気になって、思い上がってた。実際には、俺こそが疫病神だったのに。
俺がサナギを連れてきた場所は、こんな崖の下だった。何かが違えば、俺自身がサナギを殺していてもおかしくなかったんだ。俺の、家族のように。
「……それは、」
サナギが何かを言いかけて、そのまま言葉を飲み込む。それから、サナギが言葉をみつけられないでいる間、俺たちの間には冷たい沈黙が降りた。尚も激しく打ち付ける雨が静寂を掻き消してくれる。
雨でよかった。自己嫌悪で泣きそうだ。
その時、崖の上がにわかに騒がしくなり、ぽつぽつといくつも明かりが見え始めた。
「おーい、この下だ! 見つけたぞ!」
一人が叫ぶと、崖の上にわっと人が集まった。この雨の中、戻らない俺たちを心配して宿の人たちが探してくれていたらしい。
「やっぱり落ちてたか。救助を呼んだ方がいいな」
「二人とも無事か?」
「大丈夫だ。二人とも大した怪我もない」
サナギが答えると、崖の上に安堵の声が広がった。
身体が冷えきって、頭がガンガンする。風邪でも引いたのかもしれない。
心底嫌な気分だ。もうなにも考えたくない。
夜が明ける前に俺たちは救助され、念のため病院へ搬送された。幸い怪我は軽かったが、冬場なら低体温症でもっと危険な状態になっていただろうと釘を刺された。
さらに、警察から事情を聞かれることになり、山藤は「宿から野生動物が走っていくのが見えて追いかけてしまった」と話して警察官を困惑させていた。俺はありのまま話して構わないと思っていたが、山藤から怪異のことは黙っておけと念押されたので話を合わせた。
とにかく、事件性はないということで二時間足らずで聴取は終了し、明け方頃には宿へ戻ることができた。山藤は疲れたから休みたいと言って、チェックアウトまでずっと布団で横になっていた。
帰りのバスや電車に至るまで、俺たちの間に会話はなかった。
そして、あれから数日。スマホを確認するが、相変わらず山藤からは何の返事も来ていない。メッセージを見た形跡すらないということは、連絡自体をブロックされているのかもしれない。
……静かだ。
久しぶりに、一人になったことを実感している。山藤に出会うまではこれが当たり前だったのに、今はやけに退屈に感じる。せめて授業があればよかったのに、今は夏休みだ。去年まで、俺は何をして夏を過ごしていただろうか。少しも思い出せない。きっと思い出に残るほどのことを、何一つしてこなかったせいだ。
これだけ時間があるのなら、また除霊にでも出掛けようか。……けれどそれも、一人では何となく気乗りしなくて、結局自宅のソファで無為に天井を眺めている。
ーー山藤に嘘をついていた。
そのせいで、俺は相当山藤を怒らせてしまったらしい。たしかに、山藤の中に「何か」はいた。やっぱり、人間とうまく関係を育むのは容易ではない。そんなこと、俺には無理だったのかもしれないな。
……一人の人生に戻ろう。俺は、人でなしの、半端者なのだから。
考え事をしながら、また指先が無意識に山藤とのチャット画面を開いていた。宿から帰って数日。山藤と連絡がとれなくなって、数日。
ふと、別れ際の山藤のことを思い出した。バスでも電車でもしかめ面で黙り込んで、会話を拒むようにじっと目を閉じていた。宿でもひたすらこちらに背を向けて布団で横になっていた。怒っているのだと思って、俺は遠巻きにあまり話しかけないようにしていた。だけど、考え直してみると、あれはもしかして体調が悪かったのではないか。
そういえば、山藤は宿についてすぐ、温泉でのぼせたと言って寝込んでいた。あの時はまだ、山藤から惑喰の気配はほとんど感じなかった。もしもあれが霊的な力によって起こされた不調だとしたら、原因は惑喰ではなかったということになる。
すなわちーー山藤の中にいた「何か」が、山藤に影響を与えていたとは考えられないか。
人の負の感情で育つ怪異は多くいる。山藤の中にいるのも、そういう種類の怪異だったとしたら。あの時、惑喰の幻術で、山藤の中にあった俺に対する疑いの心が一気に膨れ上がったはずだ。それを餌に、山藤に取り憑く怪異が力を増していたとしたら。あの崖下で俺の嘘を確信した山藤は、さらに負の感情を増幅させただろう。
……もしかして。山藤から何の連絡もないのは、怪異の影響下にあって身動きがとれないからなんじゃないか? もし、それほどまでに内なる怪異が強大化しているとしたら、山藤はーー。
ハッとして立ち上がった後で、ふと冷静になる。もう一度ソファに座り直し、じっと思考を巡らせた。
なぜ、俺は山藤の元へ行こうとしているんだ?
俺は山藤に嘘をついていた。山藤はそれにとても怒っていたから、もう許してはもらえないかもしれない。山藤を助けたからって、これから先も山藤とまた過ごせる保証はない。ならば助けに行く理由なんてないんじゃないのか?
じっと目を閉じて考える。自分がどうしたいのか、どうするべきなのか。
声をかけたのはたまたまだった。キャンパス内で霊障で座り込む人間を見たのは初めてで、気まぐれに助けた。山藤の体質は除霊に便利だった。何度も一緒に除霊に出掛けた。たまには遠出をして、大仕事の後はあいつの部屋で酒を飲んだ。
それだけじゃない。一緒に受けた授業。学食。ラーメン。そしてテスト。山藤と出会って、俺の学生生活は別物になった。人間とこんなに一緒にいられたのは初めてだった。
山藤といる時、俺は人間でいられる気がしていた。
……それも、もう、ここまで。俺は嫌われて、山藤は「何か」に脅かされている。だから、どうしようもない。仕方ない。…………本当に?
山藤は俺を許さないかもしれない。それはたしかに、俺にはどうにもできないことだ。だけど「何か」は、どうにかできる。
それに、あいつが俺から離れていくならまだしも、怪異にあいつを取られるのは気分が悪い。ーーそれなら。
ソファから立ち上がり、ポキポキと指を鳴らす。
……取り返しに行こう。そして、これからのことは、あいつの判断に委ねよう。それなら俺も納得できる。
部屋を出た俺は、気づけば走り出していた。いつの間にか日が傾いて、足元には長い影が伸びていた。
宿から帰宅する道すがら、どんどん体調が悪化していくのを感じていた。帰宅してベッドに倒れ込んだときには、もう起き上がれないほどに身体が重くて、そのまま眠るように意識を手放した。
それからどれくらいの時間が経ったのか、次に気がついた時には、もうまったく身動きが取れなくなっていた。目を開けることも、指先を動かすことさえもできない。自分の身体が自分の物でないような強烈な違和感と、変わらぬ身体のだるさにひたすら混乱した。
何かの病気かとも思ったが、次第にそうじゃないと確信した。俺の内側にある「何か」が、少しずつ存在感を増していくような感覚があったからだ。これがきっと、サナギが俺に隠していた「何か」。俺を呪い、家族を殺した怪異なんだろう。
サナギの顔が浮かぶ。散々キレて当たったくせに、いまさら助けてほしいなんて虫のいい話だ。
だんだんと思考が鈍っていく。眠気とは違う、自我が遠退いていく感覚だった。雪山で遭難した人よろしく、きっとこれは「一度意識を手放したらおしまい」な状況に違いないと直感した。
俺、どうなるんだろう。このままどうにかなって、呪い殺されるのか? ……怖い。けど……死にたくない、とか、そんなこと思う資格、俺にはない。
きっと、バチが当たったんだ。
これでよかった。また、俺のせいで誰かが死ぬくらいなら。このまま、ひとりで。
ガシャン! バタン! と一際大きな音がして、沈んでいた思考がぴしゃりと途絶えた。
なんだいまの。何の音だ?
混乱していると、迷いのない声が凛と響いた。
「その男から離れろ」
……サナギだ。サナギが来たんだ。
ん。待てよ。じゃあさっきのガシャンって……嘘だろ。まさかあいつ、寮の部屋のドア壊した!? やばいだろそれは。他にもっとなんか……ああ、くそ。もう感情ぐちゃぐちゃだ。
なんでこんなとこ来てるんだよ。俺のせいでお前、死ぬかもしれないのにさ。
部屋に入ってすぐ、異様な気配に背筋が粟立った。山藤はベッドに横たわっていたが、意識はないようだった。その背中には根のようなものが張り巡らされ、そこから化け物の身体が生えていた。
「……盗器(トウキ)か」
「当たり。でも、ちょっと遅かったんじゃない?」
盗器は器となる人間に寄生する怪異だ。不安定な心を養分に力を蓄え、最後には器の主に成り代わる。
……どこまで深く根が張っているのか、一見しただけでは分からない。表層だけならなんとかなるが、体内に深く張り巡らされた根は取り除くのが難しい。
盗器の身体がすっと山藤の背に吸い込まれて消えた。力なく横たわっていた山藤が静かに目を開け、ゆっくりと身体を起こす。
「うん。よく馴染むよ。いい器だ」
確かめるように手足を動かしながら、山藤ーー盗器が笑った。
顔も声も、山藤そのものだった。……これが、盗器の成り代わり。盗器は器を得ると、その人間としてそのまま生き続けると言われている。周囲に気取られることのないよう、その人間を完璧に模倣するのだ。見据えた敵が守るべき相手の形をしていて、混乱で身体が固くなる。
「この器、お前と戦うにはちょうどよさそうだね」
「ッ……!」
盗器の攻撃は見えていたのに、咄嗟に動けなかった。強烈な拳を脇腹に叩き込まれ、堪らず後退った。
ーー山藤に、殴られた。脳がその情報を処理できず、体勢をうまく立て直せない。
「こいつ、人に手をあげるようなやつじゃないもんね! そりゃあ、びっくりしちゃうよね!」
会話の合間にも執拗な攻撃が続き、あっという間に防戦一方になる。怪異相手にこんなに不利な戦いを強いられたのは初めてだった。
息を整えながら、じっと盗器を睨み返す。
「……お前に、こいつの何が分かる」
「分かるよ。お前よりよほど長い時間こいつのことをみてきたんだから。完璧に人格を模倣できるくらいにね!」
「グ……ッ、ハッ……」
力一杯に蹴り飛ばされ、背中を壁に打ち付けた。うまく受け身が取れず、一瞬呼吸ができなくなる。
「もしかしてお前、この器を攻撃できないの? へえ……俺って本当に運がいいなあ!」
壁際に追い詰められ、さらに数発の拳を食らった。口の中に鉄の味が広がる。それをみて盗器はいっそう笑みを深めた。
「ああ、力が漲る。お前がここに来てくれてよかった。おかげで予想以上に早くこいつとひとつになれそうだ」
「……!」
盗器の纏う霊力の気配が濃くなった。盗器はさらに俺を痛めつけようと、無邪気に肩をまわしている。
ーーそうか。まだ、聞こえているんだな。
この戦況に、山藤の心が揺れ動いている。それが盗器に力を与えるなら、逆もできるはずだ。
狭くなっていた視界が広がって、ようやく肺がうまく膨らんだ気がする。
そうだ。やっぱり除霊をするなら、お前と二人がかりがいい。
「何にやにやしてるんだよ。気持ち悪いな。本当に人間じゃないみたいだ」
盗器が力一杯に振るった拳を、手のひらで受け止めた。……捕まえた。
「よく聞け。こんな攻撃では俺は死なない。お前の力など大したことはない。……これは、嘘じゃない」
盗器の顔がみるみる怒りに歪んでいく。力の込められた拳を力一杯に握り返して、瞳の奥を見据える。
「今回、先に殴ったのは盗器だ。つまり、これは暴力ではなく正当防衛だ」
「ッ……!?」
盗器の頬を思いきり殴り飛ばすと、盗器はバランスを崩して後ろに倒れ込んだ。すぐに飛び付いて馬乗りになり、背中から肩を床に押さえつける。
「ッ、クソ、どけよ……!」
「悪いが、今回ばかりはこうするしかなかった。……から、あまり、怒るな」
「……うわあ!?」
盗器が声をあげた次の瞬間、ミシミシと軋むような音が聞こえて、山藤の背中から木の枝のようなものが飛び出してきた。背中に張った根が再び可視化される。
山藤だ。盗器の主導権が弱まって、身体を制御できなくなったんだ。
「上出来だ」
枝の根本を掴み、ぐっと手に力をこめた。ありったけの霊力を集めて送り込む。
盗器。お前を許さない。俺は山藤に怒られ、嫌われ、山藤の前で暴力も振るわざるを得なくなった。これでまた嫌われて、お前を祓ってももう山藤は一緒にいてくれないかもしれない。
「全部、お前のせいだ。……盗器」
バキッという音ともに枝は折れ、張り巡らされた木の根がさらさらと消えていった。
握り潰されたそれは砂粒のように、俺の手からこぼれ落ちていく。指先をなでていく気配の中には、盗器の思念が残っていた。
ーー路上に倒れた少年が、炎上した車を呆然と見つめる姿がぼんやりと浮かび上がる。その背中には、小さな木の芽が宿っていた。
目を開けるとすぐに、サナギのほっとした顔が見えた。けれど、何を気まずく思ったのか、サナギはすぐに顔を背けて目を泳がせた。
殴られた右頬が痛い。でも、サナギの方がもっとボロボロだ。こんなにやられてるところ、初めて見た。
「……悪かった」
「……! ……どれがだよ」
殴ったこと。ドアを壊したこと。それともーー。
「嘘をついて……悪かった」
「……」
「お前を喜ばせることを言いたかったんだ。……大切な話を、打ち明けてもらったから」
……そんな理由かよ。怒りづらいな。クソ。
「……もういいよ」
「最後に、盗器の思念が見えた。あの事故の時、確かに盗器はすでにお前に憑いていた。だが、それはまだほんの小さな芽だった。大きな事故を起こせたとは思わない」
「……!」
「盗器が力を持つようになったのは、それより後だ。事故が自分のせいかもしれないと疑ったお前の心が、盗器を育てたんだ。だから」
ーーお前のせいじゃない。
もう一度、はっきりとサナギは断言した。嘘じゃないことなんて、言わなくても分かった。
「……ただ、もう一つお前に謝ることがある」
「……なんだよ」
「盗器を完全に祓うことはできなかった」
「……!」
「ほとんど力のない、例えるなら『種』のようなものが残った。それほどお前の中に張った盗器の根が深かったということだ」
無意識に、自分の胸に手を当てていた。この中にはまだ、怪異がいる。いつかまたそばにいる誰かを危険に晒して、不幸を呼んでしまうかもしれない。
それに、サナギの言葉が事実なら、あの事故の時すでに盗器は俺に取り憑いていた。その力が本当に取るに足らないものだったかは、もう誰にも証明しようのないことだ。サナギの言葉は嘘じゃないけど、きっと真実である確証もない。
「俺の考えは伝えた通りだ。あとは……お前が決めたことに従う」
サナギはそれだけ言うと、神妙な顔で黙り込んでしまった。伝えた通りだって? 馬鹿言うなよ、口下手が。正当防衛だとかなんとか、言い訳ばっかりしてたくせに。
助けてもらっておいて、文句言うほど俺は恩知らずじゃねえよ。
そんな恩人に、俺からできることは一つだけだ。
俺は、お前とはもう、関わらないーー。
ーーこんな攻撃では俺は死なない。
ーーお前の力など大したことはない。
ぎゅっと目を閉じて、その言葉を反芻した。本当は死にたがりのくせに、そんなところだけ妙に生命力を感じさせてくるから厄介だ。俺は、盗器の呪いよりも、……お前のことを、信じたいよ。
「……お前、俺がいないと『一緒に連れていってくれ』とか言い出すんだろ。なら、止める役が必要だよな」
「……!」
「お前のそばで、俺がお前をこの世に繋ぎ止め続けてやる。お前が隣で生きている限り、俺は自分が呪われていないと自分に証明できる」
「…………そうか」
サナギの顔が綻んだ。こんな柔らかい顔もできたんだな。……いや、出会った時よりずっと、豊かになったと思う。これも俺のおかげだって、少しは思い上がってもいいんだろうか。
「山藤」
「……禄でいい。お前、俺のことそう呼んだだろ」
「……聞こえてたのか」
記憶も曖昧で、ほとんど意識もなかったはずなのに、不思議とそれだけはハッキリ聞こえた。
「ならば……ロク。本当に、怒ってないのか」
「お前は俺のことなんだと思ってるんだよ。怒ってねえよ」
「だが、暴力は嫌いなんだろう」
「そりゃ好きじゃないけど、使うしかない場面だったってことくらい分かるよ」
守るための暴力まで咎めるつもりはない。そういう機微を、サナギはとことん理解できないらしいけど、そんなのはこれからまた一つずつ説明していけばいい。この先も変わらない日々が続いていくのだから。
「……そうか。それならよかった。ドアも、早く直るといいな」
「……あっ!」
慌てて見に行ってみれば、ドアノブごと鍵が外れて床に転がっていた。
「他に中に入る方法がなかった。ドアを蹴破るよりは、鍵だけ壊した方がいいかと思ったが、違ったか」
「…………」
使うしかない場面での暴力は咎めない。舌の根も乾かぬうちに、俺は自分の発言を後悔している。……いや、でもまあ、ドアを蹴破られるよりは、全然ましか……。
「違ってない。お前が正しいよ……」
鍵とドアノブの修理は五万もかかった。貧乏学生には痛い出費だが、命には変えられない。
とはいえ、サナギが繋ぎ止めた俺の命は、しばらくはシフトを増やしたバイトに消費されることになりそうだ。
