寮の除霊騒動の翌日、目を覚ました頃には霊障の影響はすっかり消えていた。むしろ、ここしばらく感じていた不調が嘘のように身体が軽い。久しぶりにゆっくり朝まで熟睡することができたようで、頭もスッキリしていた。
……うん。信じるよ、もう。助けてもらっておいて、今さらオカルトだインチキだというのは失礼だろう。それに、なんとなく、福田さんのことを知れてよかったと思う。そのおかげで、俺はこの寮での暮らしを、これまでよりも少しだけ好きになれそうな気がしている。
いつも通り身支度をして、大学へ向かう。教室へ到着すると、入り口近くに座っていた学生が顔を上げた。
「……あ」
サナギだった。目があって、真顔のままじっと見つめ返される。昨日の今日でいきなり会っちゃったよ。まあ、同じ学部同じ学年ならある程度授業が被るのは仕方ないんだけど。
これだけガッツリ目があったのにわざわざ遠くの席に座るのは避けてるみたいで感じが悪いかと思い、俺はそのままサナギの隣に腰を下ろした。
「お前もこの授業取ってたんだな」
「ああ。あれから体調はどうだ」
「もうなんともない。むしろいいくらいだよ」
「そうか」
会話が途切れる。もうお前と話すことはないと言わんばかりに、サナギは広げていた本に視線を戻した。こいつにも俺の体調を気にするくらいの社会性はあるらしいが、その心配や気遣いを言葉と表情に乗せるのは絶望的に下手だ。
やがて教室に教授が現れて授業が始まると、さらに目を疑う光景が広がった。この男、一文字もノートを取る気がない。机の上に筆箱さえ出していない。マジか。でも不真面目なわけではなく、その横顔は真剣に話を聞いているように見える。「一度聞いたら覚えられる」みたいな天才タイプなのか?
ちらちらと隣のサナギに集中を邪魔されながら、だけどそういえば、大学に入ってから知り合いと隣同士で一緒に授業を受けたのはこれがはじめてだったと気がついた。それは少し、……わりと、俺にとっても嬉しい出来事だった。たとえ相手がサナギであっても。
「お前、ノート取らないのか?」
授業が終わると、俺はずっと気になっていたことを早速尋ねてみた。サナギがきょとん顔になったので、俺はその時点でまともな回答が得られないことを察した。
「なぜ取る必要がある」
「テスト前に困るだろ」
「特に困ったことはない。俺はテストには興味がない」
「興味がなくてもテスト勉強はしないとダメだろ」
「どうしてダメなんだ」
……なんか、これあれだな。なんでなんでって無限に聞いてくる幼児と喋ってるみたいだ。ただ幼児と違うところは、こいつはムスッとしたでかい男で、かわいげもまるでないってことだ。
「……まあいいや。とりあえず俺は混み出す前に学食に行く。お前は昼どうするんだよ」
「俺も普段は学食を利用しているが」
「なら続きは食いながら聞くよ」
俺が鞄をもって先に歩き出すと、サナギは戸惑いながらも後ろをついてきた。
飯誘われるのも初めてって反応だな。まあ俺も積極的に一緒に食べたいわけじゃなかったけど、さっきの話の続きは気になる。
こいつ、単位とかちゃんと取れてるのか? 一応進級してるんだし、最低限はやることやってはいるんだろうけど……。
スタートダッシュが遅れた俺たちはやはり学食の席取りに苦戦することになったが、なんとか席を確保して食事にありつけた。
うちの学食は安くてうまいと評判で、いつも学生でごった返している。リーズナブルなお値段でボリュームもそこそこあるのが、貧乏学生には嬉しいところだ。今日の日替わりはハンバーグだった。この学食、俺的にはハンバーグとカレーが特にうまい。今日は大当たりの日だ。
手を合わせてからふと顔を上げると、正面に座ったサナギの仏頂面がほんのり機嫌よさげに見えた。サナギの注文は俺と同じ、日替わり定食だ。
「それ、好きなのか?」
「ああ。ここはカレーとハンバーグがうまい」
……へえ、分かってるじゃん。
俺も早速ハンバーグを一口頬張った。うん。やっぱりうまい。
「なあ、お前さっきテストは興味ないとかいってたけど、単位はちゃんと取れてんのかよ」
食べながら気になっていたことを聞いてみる。サナギの咀嚼を待つ間、どんなビックリ回答が飛び出すのかと身構えた。
「俺の実家は、除霊を家業としていると話したが」
「うん? うん」
俺の質問の回答として、その導入は合ってるのか……? こいつ、ちゃんと人の話聞いてんのかな……。
「それゆえ、怪異に関する貴重な文献を数多く所有している。研究協力として、危険なフィールドワークに家から同行者を出すこともある」
「まあ、それはありそうだな」
俺たちの専攻は文化人類学・民俗学だ。俺は俺で自分の体質に違和感をもって、霊や呪いについてもっと知りたいと思っていたし、サナギは俺なんかよりよほどこういう分野に近いところで生きてきたんだろう。同じ学部と知ったときは奇遇だと思ったけど、もしかしたら俺たちが同じものに興味を持つのはある種必然だったのかもしれない。
土地に根付く信仰や呪術的なものは、この分野においてはドンピシャの研究対象だ。由緒ある除霊師の家系なら、研究と密接に関わっていてもおかしくない。……でも、やっぱりそれがさっきの質問とどう関係してくるのか、いまいち話が読めずにいた。
「恐らく、母が教授陣に口添えしているんだろう。研究を続けられなくなるリスクを犯してまで、俺の単位を落としたい教授はいないらしい」
「…………!」
想像もしないサナギの言葉に、俺は唖然として黙り込んでしまった。なんでもないことのように語られたその話は俺の常識を軽く踏み越えていた。思わず箸を置いて、サナギの言葉を反芻する。
母親が、教授に口添え……? 由緒ある除霊師一族の立場を盾にして、息子の単位をよろしく頼むと言い含めてるってことかよ?
「ただし中国語基礎は今年で再々履だ。第二外国語の教授までは実家の威光も届かなかったらしいな」
サナギは淡々とそこまで話すと、ミニトマトを口に放り込んだ。
そして、この悪びれなさだ。サナギ自身は本当にテストにも単位にも興味がないんだろう。どうせ単位がもらえるからサボってもいいやと思っている感じにも見えない。
「……というか。それって最早授業来なくてもいいってことか? 逆になんのために出席してんだよ」
「授業は自分に興味のある内容だから聞きに来ている。メモを取らずとも、印象的な話や自分に有用な内容は記憶に残るだろう。それで十分だ」
……オーケーオーケー。よく分かった。
蛙の子は蛙、子供がこれなら親もヤバいに決まってるんだ。立場を使って教授を脅すとか、どんな過保護だよ。こっちはこの二年間、必死で仕事と学業を両立してなんとか単位取ってきたのに、馬鹿みたいじゃねえかよ。
でも、サナギ母が手をまわしていなければ、この男テストも受けずただ単位を落として留年し続けていたに違いない。ヤバい息子をもった親の苦労を思うと、それもそれで責めづらい。
「……それより、今度の週末だが、付き合ってもらえないか」
「…………はあ、お前ってほんと」
俺がお前の衝撃告白に動揺して頭抱えてんのが見えてないのか? その流れでなんで普通に誘えるんだよ。
「用事があるなら無理にとは言わないが」
「……別にねえよ。行くよ」
サナギにとっては、授業も単位も母親の不正も些末なこと。隠すつもりも悪びれるつもりもないのだろう。あまりの価値観の違いに愕然としてしまう。会話が成り立たない徒労感で、なんだかどっと疲れた。
それから、改めてサナギと週末の約束を結んで、食堂を出たところで俺たちは別れた。三限に向かいながら、俺はまた無意識に大きなため息をついていた。
ーーそして今、俺たちは居酒屋にいる。
約束の週末、霊が出ると噂の廃病院で一悶着あった帰り道だ。
店員が俺たちの前に注文の品を並べて素早く立ち去る。レモンサワー、生ビール、枝豆、梅水晶。それらしいものが机に並んで、一気に雰囲気が出てきた。互いにこういう場所には不慣れで、とりあえずの作法をなぞるように俺たちは無言でグラスを軽くぶつけた。
廃病院の帰り道、安いチェーン居酒屋に寄って帰ろうと提案したのは俺だった。新聞奨学生時代は早朝から毎日原付で配達にいく生活で、基本的に酒が飲めなかった。三年になって是非ともやってみたかったことのひとつが、こうした学生らしい飲み会だったというわけだ。
一仕事終えたあとのお酒はうまいと聞くし、一人ではなかなかこういうところには来る勇気も出ない。ずっと憧れてきた経験のためなら、相手はこの際サナギでもいい。
「うん。うまい」
飲みやすさを重視してレモンサワーを選んだのは正解だった。レモンの甘さと爽やかさはジュースのようで、飲み慣れない俺の舌にも馴染む。
「お前はビールが好きなのか? というか、酒はよく飲むほうなのかよ」
今のところ、ビールは苦いというかなり大雑把な知識しかないので、初手でビールを注文しただけで既に俺からしたらそれなりに心得のあるやつに見えている。
「除霊の中には日本酒を用いる手法もある。酒類には邪気を祓う力のあるものが多いんだ。だから除霊の後は大抵、家で一人で飲む」
「じゃあ日本酒頼んだ方がよかったんじゃないのか」
「ビールの方が味が良い」
「へえ」
当たり前だけど、こいつにも好き嫌いがあるんだよな。ハンバーグとカレーもそうだけど。みえるとかみえないとかの前に、サナギも人間なんだもんな。
「酒好きなら、こういう店に来ることもあるのか?」
「ないな。騒がしいのは苦手なんだ」
「そりゃあ付き合わせて悪かったな」
おお。梅水晶ってこんな食感なのか。これはうまい。
やがてグラスが空になり、互いに同じ飲み物を頼んだ。炭火焼き鳥盛り合わせと唐揚げが飲み物と一緒に運ばれてきた。
「……そういえば、今日のアレ、お前はじめから分かってたんだろ」
二杯目に口をつけたところで、なんとなく身体がぽかぽかとあたたかくなってきた。心なしか口の滑りもなめらかだ。これが酔うってことなのか。ちょっと楽しくなってきた。
話題にあげたのは、今日の廃病院でのこと。医療過誤で亡くなった幽霊を除霊しにいくと聞いていたのに、実際いってみると廃病院は幽霊の温床で、俺は目的の幽霊を見つける頃には後ろに幽霊の大行列を引き連れていたらしい。
「ああ、あの大名行列か」
毎度その微妙にイラッとする例えはなんなんだ。
「そんなにたくさんいるなんて聞いてなかったぞ」
「どうせ見えないなら一人も大勢も同じだろう」
「こっちにも心の準備とか、色々あるんだよ。そもそもお前、はじめから全員対処するつもりで俺を連れていったんだろ」
「そうだな。あそこは六階建てで建物も広いからな。いちいち探して除霊するのは手間がかかる。病院なんてのは死者の多い場所だから、霊の数も多い」
「へいへい。どうせ俺は磁石ですよ」
憎まれ口を叩きつつも、大名行列の一行も含めてサナギが丁寧に成仏させてくれたので俺も基本的に文句はない。まあ次からはできればどれくらいの数がいる場所なのか事前に正確に教えてほしい。
これまでのサナギなら「まとめて消滅!」と殴りかかっていたのかもしれないけど、そういうやり方を選ばなかったところを見るに、サナギなりに俺の反応を気にしたのかもしれない。こいつだって、なにも考えてないわけじゃないんだよな。
グラスの残りを飲み干すと、カランと氷が鳴った。途端、ぐらりと視界が歪む。そういえば、なんとなく頭痛がしていることに気づく。
「あれ……なんか、酔ったかも……」
もしかして俺って想像してたより酒弱いのか? まだレモンサワーを二杯飲んだだけだぞ。適度につまみも食べてるし……。
「それは霊障だ。酒は関係ない」
「え」
「お前のまわり、また集まってるぞ。この居酒屋にいた酒好きの霊が」
サナギの視線が俺の背後に向けられる。おいおい。話が違うだろそれは。
「酒は霊を祓うんじゃなかったのかよ」
「酒は邪気を祓うものだ。無邪気な酔っぱらいの霊に効果はない」
「なんだその言葉遊び!?」
「酒好きは死んでも酒場に集まる。だから最初に言っただろう。『騒がしいところは苦手だ』と」
……言ってたな、そういえば! でも騒がしいの主語は普通に人間だと思うだろ……。
サナギはぶつぶつと背後の霊と会話をはじめて、俺はあっという間に置いてけぼりになる。手持ち無沙汰に最後に残った唐揚げを自分の皿に乗せた。冷めた唐揚げを頬張りながら、ぼんやりサナギに目をやる。そこに何かいると聞きはしたけど、客観的には虚空に向かって独り言を言ってるようにしか見えない。端からみたら、サナギのこういう行動はかなり不審だよなあ。この性格でなくても、人付き合いに苦労することは想像に難くない。
やがて霊たちと話をつけたらしいサナギが、俺の方を向き直った。
「彼らは初めて酒を飲むお前を冷やかしているだけで、お前に害なす気はなさそうだ。もともとこの店に居着いていて、ここを離れる気もないらしい」
「……つまり?」
「店を出よう」
そうして、俺とサナギのはじめての飲み会はお開きとなったのだった。
店を出ると嘘のように頭痛もめまいも収まったので、本当にさっきのはただの霊障だったらしい。
「初めての酒はどうだったんだ」
「美味かった。霊さえいなければ最高だったのに」
「居酒屋はどこもだいたいこんな感じだ」
「それは知りたくなかったな……」
居酒屋の賑やかな雰囲気も好きだったけど、入る度に酔っぱらい幽霊に絡まれるのは勘弁だ。
「でも、お前はそれなりに強いんじゃないか」
「そうなのか?」
「俺と同じペースで飲んでいたのに、まだ余裕がありそうに見える。それなりにいける口だということだ」
「へえ」
それはいいことを知った。自然とサナギのペースにつられていたけど、あれってハイペースな方だったのか。
どうやら俺にはそこそこ酒を楽しむ才能があるらしい。それを知れただけで、今日はよしとしよう。
そうして、サナギとの日々はゆるやかに俺の日常を変えていった。ライフワークであるという除霊だが、そう頻繁に行っているものでもないらしく、呼び出しは週に一度あるかないかだった。俺も週に四日はバイトのシフトをいれているので、この呼び出し間隔はちょうどよかった。乱暴にしないという制約でどのくらいサナギが動きにくくなっているのかは分からないが、今のところそれを押しても俺を連れていきたいと思う程度には、俺の「磁石体質」はサナギの役に立っているらしい。
それよりも、最近の俺たちが顔を合わせるのはもっぱら大学だった。蓋を開けてみたら、なんと週に三日も授業の被っている日があって、そういう日は流れで昼飯も一緒に食べるのが毎度のお決まりになりつつある。
サナギは相変わらずノートを取らないスタイルで、それを見ているとなんとも言えない気持ちになるものだけど。ただ、授業を聞いているサナギの横顔はいつも教室にいる誰より真剣で、時折頷きながら教授の話に耳を傾けていた。こいつはテストのためでも単位のためでもなく、ただ純粋な興味関心で授業を受けている。それって、むしろ学問としては純粋で、あるべき姿だったりして。そう思うとなんとなく、サナギにそれ以上何か言うことはできなかった。
水曜日はニ限も三限もサナギと授業が被っていて、間に昼休みも挟むので、一週間で一番長く一緒に過ごす日だった。ニ限の教室に着くと、いつもの席にはもうサナギの姿があった。声をかけながら隣の席に鞄を置くと、はらりと視界の端で何かが舞った気がした。
「あれ、なんか落としたか?」
屈んで机の下に手を伸ばす。地面には小さな紙が落ちていた。
「ああ、駅前で配っていた券だな。もらったのを忘れていた」
よく見れば、それは駅の近くにあるラーメン屋の割引券だった。通りがかりに渡されて反射的に受け取ってしまったらしい。
「ここ、いつもすごい行列してるよな。ずっと食べてみたいと思ってたけど、三限間に合わなくなるから行ったことないんだよなあ」
ずいぶん前に一度だけ並んでみたら、昼休みの一時間では店に入ることもできず、そのまま諦めざるを得なかった。遠方からわざわざ並びに来る人もいるという有名店で、学生の間でもかなり人気の店だ。味はもちろん、大盛り無料で学生の財布にも優しいらしい。
「行きたいなら、その券はお前にやる」
「話聞いてたか? 俺の時間割じゃいけないんだっての。お前も今日の三限、同じ講義とってんだろ。残念だけどその割引券は使えなそうだな」
割引券には本日限定と大きく書かれている。でもまあ、こういう割引券は定期的に配布されているようだから、次のチャンスもきっとあるはずだ。
「でも、気になるよなあ。あんなに並ぶなんてさぞうまいんだろうなあ……」
三年の後期こそは、三限に空きコマをつくって是非ともそのラーメンを味わってみたい。名残惜しさから、割引券をくるくると弄んでいると。
「なら、行ったらいいんじゃないのか。一度くらい授業に出なくても問題ない」
サナギは真顔でキッパリと言い放った。
「あるだろ、問題は。……お前は違うのかもしれないけどさ」
思わず、視線を逸らす。嫌な言い方をしてしまったと、言ってからすぐに後悔した。でも、サナギは何も気にしていない様子で淡々と話を続けた。
「出席も足りているし、普段真面目に講義を受けているのだから、一度休んだくらいで内容が分からなくなるわけではないだろう」
「それは……そう、だけど。……ダメだろ。サボったら」
語気が弱まったのが自分でも分かった。今、正しいことを言っているのは俺なはずなのに、サナギの言葉はそれを押し退けてしまいそうなほどに合理的だ。
「初めて会った時もそうだったが、お前は時々真面目すぎて正当性を欠く。それが俺には理解できない」
「…………分かってるよ」
……サナギの癖に、的を射たことを言いやがる。
それは、たしかに俺の短所のひとつなんだろう。分かっているけど、今さらどうにもできない。染み付いてしまったこれはもう性分だ。
教授が立ち上がってマイクの電源を入れたので、ここで会話は打ち止めになった。サナギの指摘が頭の中をちらついて、その日は授業の間じゅうなんとなく気持ちが沈んでいた。
真面目は美徳と言うけれど、俺は進んで真面目を選んだわけじゃない。これしか選べなかっただけだ。だから、俺は……本当は、そんな自分が心底嫌なんだ。軽やかに常識を飛び越えて自分の思うまま振る舞うお前が、俺は少しだけ羨ましいのかもしれない。
授業の後、教室を出てしばらくしたところでサナギがあっと足を止めた。視線の先には幽霊……ではなく、普通に人間がいた。というか、あれ三限の教授だ。この先が大学事務所だから、そっちに用事でもあったのかもしれない。
ふと、隣に目をやると、サナギが教授に手のひらを向けていた。嫌な予感が背中を走る。咄嗟にその手首を掴んでいた。
「おい。いま何した」
焦りで声が曇る。嫌に鼓動が急いていた。
「まだ何も」
「何しようとしたんだよ!」
ぴくりとサナギの肩が揺れる。じっとその目を睨み付けたけど、サナギはただ俺の怒りに困惑している様子だった。
「霊をおろしてあいつに一時的に憑かせれば、霊障で休講にできるかもしれない。そうすればお前も、授業をサボらずにラーメンが食べられる」
「っ……!」
「本当は食べに行きたかったんだろう。あの店のラーメン」
サナギがじっとこちらを見ている。悪びれた様子は少しもない。掴んだままの手に力がこもる。
「……お前がサボれないなら、別の方法でラーメンを食べに行けないかと考えただけだ」
「……あるよ。食べる方法なら」
深く息を吐いて、静かに覚悟を決めた。俺は、サナギにこんなことをさせたかったわけじゃない。俺の弱さでこういうことが起きるなら、俺のやるべきことはひとつだ。
「サボろう。今日の昼飯はラーメンだ」
サナギ以外にも割引券を受け取った人たちがたくさんいたようで、ラーメン屋はいつにも増して長蛇の列だった。二人で列の後ろについたはいいものの、さっきのやり取りの後でなんとなく気まずい。それに、病欠以外で授業を休むのは初めてで、背徳感と罪悪感で落ち着かない気持ちだった。
「山藤。その、俺が一緒に食べる必要はあったのか」
「あるよ。その割引券、『一グループ四人まで適用』なんだから、一人で使ったらもったいないだろ。まあ、俺の代わりにお前がノート取ってくれるなら授業出てもらう意味もあるけど、お前ノートもペンも持ってないだろうが」
「……そうか」
また沈黙が訪れる。表情が変わらないから、サナギが何考えてるかなんて全然分からない。どうせ次に口を開けば、幼児のように「なんでなんで」と言い出すんだろうと思っていた。
「……はじめて、なんだ。こうやって、人と関われたのは」
ーーだから、予想外の言葉が飛び出して少し面食らった。言葉を探している沈黙なのだと、遅れて理解した。
「そういう相手には、なにかしたいと思った。お前が喜ぶことを」
「……!」
授業をサボるのを躊躇ったくそ真面目の俺が、本当は食べたくて我慢していたラーメンを食べられるように。あのときのサナギには、本当にそれしか見えていなかったのだ。教授への迷惑とか、善悪の区別もなく、ただ俺を喜ばせるための最短経路を突き進もうとした。
……なんだよ。なんなんだよ、クソ。ズルいだろ、これは。さっきまでの怒りのエネルギーが霧散していっぺんに感情が迷子だ。
「だったら、他人に何かするのはもうやめてくれ。前にも言った通り、人に迷惑かけるのはなしだ」
「そうか」
サナギは反省しているのか、肩をすぼめて小さくなっている。きっと、何がいけなかったのか分かってないんだろう。ただ、俺が喜ばなかったからこいつにとっては失敗なんだ。
「……お前、鬱陶しくないのかよ。俺にあれもダメこれもダメとか言われるの」
俯くサナギに、思わず訪ねていた。
除霊に関しては俺も一応役に立っているらしいから、制約とトレードオフなのかもしれないが、大学生活に関して俺はただ口うるさくてお節介なだけだ。サナギが俺の言うことを聞く謂われもない。
「……鬱陶しいとは思わない。俺はずっと、人と相容れなかった。お前の言葉が俺を……人にしてくれる気がしている。それは俺にとっても心地いいことだ」
ゆっくりと、迷いながらサナギは言葉を紡いだ。初夏の風が俺たちの髪を柔らかく揺らした。肺が膨らんで、胸がいっぱいになる。
「他に、俺にできることはあるのか。なにか、除霊以外で」
サナギが、俺たちの世界に歩み寄ろうとしている。ここに留まろうとしてくれている。その願いがあるなら、きっと、繋ぎ止められる。
「……それなら、俺とテスト勉強をしないか。たとえお前には必要ないことでも、俺はお前と対等でありたい。だから、お前もちゃんと単位取ってみるのはどうだ」
やがて列は進み、俺はサナギとカウンターに隣り合わせでラーメンを食べた。ガッツリ濃厚な家系ラーメンは五臓六腑に染み渡る美味しさで、連日の行列も頷けた。
それから俺たちは大学生協に行って、サナギの新しいノートを買った。この日のラーメンの味を、俺はきっと忘れないだろう。
それから一月ばかりが過ぎて、間もなく一学期の期末テストが訪れようとしていた。今日は二人でテスト勉強及びレポート課題に取り組むため、二十四時間営業のファミレスに来ている。徹夜で勉強する時は、家よりもこういう場所の方が眠くならずに集中できると俺が提案した。ドリンクバーのコーヒーをお供に、俺はノートパソコンに、サナギはノートと教科書に向かっている。
「四声とピンインはちゃんと押さえとけよ。絶対テスト出るから」
「……外国語にはあまり興味がない」
「興味がなくてもやるんだよ。必修科目なんだから、ちゃんと単位とらないと卒業できないんだっての」
残念ながら、サナギは中国語基礎の再々履クラスにほとんど出席していないようなので、今回も単位が来るかはちょっと怪しい。でも、中国語の先生はあまり出席を重視しない人だったし、きちんとテストで点を取れればチャンスはある。
それに、俺が貸した一年の時のノートは我ながら要点がまとまっていてめちゃくちゃ見やすいはずだ。これを一通り真面目に勉強していけば、望みはあると思う。若干記憶は薄れているけど、分からないところがあれば俺がある程度の質問にも答えられる。同じ言語選択でよかった。
一方俺はというと、今は「呪術と文化」という科目のレポートを作成しているところだ。俺たちの学科はこういう授業が結構多い。サナギに同行した除霊をフィールドワークということにしてレポートにまとめているので、行き詰まったらサナギに質問させてもらうつもりでいる。
「コーヒー取ってくるけど、お前もいる?」
「ああ」
立ち上がった時、ちょうど席の横を通るところだったウェイターさんとぶつかりそうになった。
「あっ、すみません」
俺たちがいるのは一番手前の席だから、ここより奥の席に配膳するには必ず通る場所だ。深夜でお客さんは多くないとはいえ、意外と人の行き来があるんだな。気を付けないと。
コーヒーを二人分注いで戻ってくると、一番奥の席がちらっと目に入った。さっきぶつかりそうになったウェイターさんが、ちょうど料理を配膳しているところだった。
……一人で来てる女性客か。にしては、よく食べるんだな。
女性の前には、二人がけのテーブルに収まりきらないほどの皿が並んでいる。細身に見えるのに、本当にあんなに食べきれるんだろうか。
「どうかしたのか」
「ああ、いや。なんでもない」
サナギの前にカップを差し出して、俺も自分の席に腰をおろした。レポートの締め切りは明日の昼十二時。今夜のうちになんとか仕上げて提出したいところだ。
淹れてきたばかりのコーヒーを一口飲んで、気持ちを切り替える。目の前のレポートに意識を集中して、キーボードに指を走らせた。
「ミックスピザと明太クリームパスタでございます」
しばらく経った頃、ふと聞こえてきた店員さんの声で集中が途切れた。ちょうどレポートはキリのいいところで、コーヒーのおかわりも取りに行きたい頃合いだった。何の気なしに、声のした方に目をやると、さっきの女性のところにまた新しい料理が運ばれてきていた。
まじか。まだ食べるのかよ……?
「お前も気づいたのか」
そちらをちらちら気にしていたら、サナギに声をかけられた。
「ああ、あの大食いの女の人? お前も気になってたのか?」
「違う。あれは貪魔だ」
どんま……? 頭の中で、刃物が鈍る「鈍磨」という変換が浮かんだけど、この状況には合わない。
「あれは怪異、妖怪の類いだ。人に取り憑いて己の欲を満たす。貪る魔物と書いて貪魔だ」
「……!」
つまり、あの女の人はその貪魔とかいう魔物に取り憑かれてひたすら食べてるってことか?
……いや、待て。今日はそのつもりで来たわけじゃないぞ。そもそもこの店を指定したのは俺だ。心霊現象の噂なんて聞いたこともなかったし……。
というか、妖怪だって?
「お前、そういうのも相手にしてるわけ? 幽霊専門じゃないのかよ?」
「幽霊専門などと言った覚えはない」
「いや、そうだけど……これまで二ヶ月くらいずっと、除霊といえば幽霊だっただろ」
「当たり前だ。幽霊の方が圧倒的に数が多い。ここは人の世だからな。怪異も元は人間だったものがほとんどだ」
「へえ……」
サナギによれば、人でないものは普通隠世と呼ばれるここではない世界に住んでいるらしい。人の世は彼らには住みづらく、それゆえ数も多くないのだという。
「だが、それでも人の世を好む者はいる。人を食らう者や、人を誑かす者たちだ。そういう奴らは人の近くで暮らしている。それを祓うのも除霊師の役割だ」
サナギは話しながらも、息をひそめてじっと女性の様子を窺っていた。
「どうにかできるのか」
「霊と違って、あれらには悪意がある。お前の好む解決方法は取れない」
「ああ……まあ、それは仕方ない」
俺だって、そこまでお人好しじゃない。人ではない、人に仇なす存在なら、人を守るために攻撃する必要があるのも理解できる。
「あの人は、自分の意思で食べてるわけじゃないんだよな」
「そうだな。貪魔は取り憑いた器の限界を越えても自分の欲のままに食べ続ける。行き過ぎれば器が危険に晒されることもある」
真顔で黙々と食事を続ける女性は狂気的に見えた。……止めないと。
「サナギ。俺は、あれを惹き付けられると思うか?」
じっとサナギの目を見据える。相手が幽霊じゃなくても、俺にできることはあるのか。
サナギが瞬きとともに小さく頷く。
「ならあれを俺に移して、お前が祓えばいい。そうしたら、あの人は助かるし、除霊にも巻き込まずに済むんじゃないのか」
「それは……そう、だが。お前はいいのか」
「今更だろ。お前は俺を便利に使えよ。それで誰かが助かるなら俺も嬉しいから」
「分かった」
サナギは真剣な顔つきになって、俺に作戦を伝えた。これまでの平和的な除霊とは違う。これから起きるのは人の理を外れた化け物との戦いだ。緊張感でじっとり手のひらに汗をかいていた。
ゆっくり立ち上がり、作戦通りに女性の席に近づく。
「……何か?」
女性がこちらを見上げて、不思議そうに俺に声をかけてきた。普通だ。この人の中に何かが入り込んでいるなんてとても見えない。だけど、サナギに言われた通り、その瞳の奥を見透かすようにじっと覗き込んだ。
「貪魔。いるのは分かってんだよ。俺が器になってやる。来い」
女性の瞳からすっと光が消えた。次の瞬間、頭のてっぺんからさあっと血の気が引く感覚がして、思わずたたらを踏んだ。
「……え? あれ……?」
目の前の女性客は自我を取り戻したようで、戸惑ったようにあたりを見回している。もしかしたら、店に入る前から取り憑かれていて、自分がいまなぜファミレスにいるのかさえ理解できていないのかもしれない。
「ッ、す、すみません……!」
かと思うと、女性は口許を手で押さえて慌てたように俺の横を駆けていった。……あれだけ食べたら、そりゃあそうなるよな。もっと早く気づいて、助けてあげられればよかった。
身体がじっとりと熱を持ち始めている。頭がぼんやりして、気が遠くなりそうだった。内側に侵入した「何か」が、俺の意識と混ざりあって、境界を曖昧にしようとしている。
身体の自由が効かなくなる前に、作戦をやり遂げないと。俺はゆっくりとサナギの元へ向かって歩き出した。
狭い喫煙ルームに着くと、サナギが小さく頷いた。よくやったと言われた気がした。もうほとんど頭は回らなくなっていた。
それよりも、身体中を駆けずり回るこの渇き。飢え。耐え難い飢餓感。苦しい。腹が減った。足りない。もっと食べたい。足りない。足りない。
「山藤。聞こえているなら歯を食い縛れ」
サナギの声。何て言ったのかよく聞こえなかった。自分の身体じゃないみたいに、手足がうまく動かせなくなっている。乗っ取られるーー。
「……ゥグッ、」
刹那、鳩尾に走った衝撃で、それまで感じていたことが全部吹き飛んだ。たまらず腹を抱えて踞る。
えっ……今俺めちゃくちゃ普通に殴られたんだけど!? 痛すぎる。冗談じゃない。
その時、パチン、と強く手を打つ音がした。近くで何かが弾けたような錯覚に襲われる。見上げると、サナギは神社でそうするように手を合わせて何もない場所を睨み付けていた。
「終わったぞ」
「…………ああ、そう」
「なんだ、その反応は」
サナギは俺を心配するでも、殴ったことを謝るでもなく、きょとんとして首をかしげていた。俺はまだ鳩尾が痛くて立ち上がれないまま、目だけでじっとサナギを睨み付ける。
「めちゃくちゃ痛いんだけど。なんで俺ぶん殴られてんだよ」
「貪魔をお前の中から引きずり出すためだ。そう説明しただろう」
「されてねえよ」
だって、俺が事前に聞いてた作戦ってこれだぞ。
①俺の中に貪魔を移す
②俺の意識があるうちに二人きりになれる場所につれていく。この店内なら喫煙所が最適
③サナギが貪魔を俺の中から引きずり出す
④サナギが貪魔を祓う
いつもの霊障くらいは覚悟していたけど、まさかいきなり殴られるとは思わなかった。
「他にやりようなかったのかよ」
「冷水を浴びせるか、火で炙るのも効果的だ」
「じゃあ殴られるのが一番マシだったわ……」
「そうか。ならよかった」
「……よくねーよ」
俺の呟きは、たぶんサナギには届いていない。
喫煙所を出て席に戻ると、女性は奥の席に戻っていた。さっきは青ざめていた顔色も、少し落ち着いたように見える。とりあえずは一件落着と言っていいのかな。
安心したらどっと疲れを自覚してしまった。いや、ただの気疲れじゃない。この倦怠感と吐き気は……もしかして。
「霊障……?」
「いや、違う。それは貪魔を移した後遺症みたいなものだ」
なにそれ。それも聞いてないんですけど?
「お前は貪魔を煽って取り憑かせたのだから、相手はあの短時間でも全力でお前を害したはずだ。まあ、一眠りすれば治ると思うが」
「一眠りしたらレポート間に合わないんですけど……」
「……そうか。ならば今すぐにはどうにもならない」
「…………」
結局、その日俺は夜通し吐きそうになりながら死ぬ気でレポートを終わらせた。家に帰って一眠りしたら本当に体調は戻った。
妖怪とか、隠世とか、さらにスケールの違う話に戸惑いはしたけど、もう二ヶ月もサナギの除霊に付き合ってきたあとではそのどれも否定する気にもならなかった。
……そういえば。「一緒に連れていってくれる"何か"を探している」とサナギは言った。あいつが「どこに」とは言わなかったのは、それが隠世かもしれないと思っていたからなんじゃないか。連れていってくれる相手は幽霊か、妖怪か分からないけど。連れていかれる先はあの世か、隠世か、とにかくここでないどこかへ一緒に行きたい、と。そういうことだったのかもしれない。
あの世へ行くことが「死」だとするなら、隠世へ行くことはなんなんだろう。神隠しーー行方不明、とかなんだろうか。
たしか、失踪して七年間が経つと、死亡と見なされると聞いたことがある。つまり、それはゆっくり死んでいくことと同じなんじゃないか。
だったらやっぱり、俺はそれを受け入れたくない。だって、一緒に授業受けて、出掛けて、飲みに行って、ラーメン食べて、テスト勉強して。そういう相手が死ぬのはさ。もう寝覚めが悪いとか、そういう話じゃなくて。普通に……嫌、だろ。
ついに、前期の全科目のテストが終了した。俺たちは無事の完走を祝した打ち上げのために集まっている。ちなみに、場所は俺の寮だ。居酒屋は霊の温床だと知ってしまって、もう行く気がしない。
缶のお酒で乾杯して、つまみに買ってきた菓子類を大胆に広げた。
「はあー、なんとか無事に夏休みを迎えられるな」
レモンサワーを傾けながら、ほっと息をつく。仕事と両立しながらだった去年までに比べればずいぶんゆとりはあったとはいえ、やっぱりテスト期間には独特の緊張感があった。
「結果はいつ分かるんだ」
「だいたい毎年八月の半ばくらいだな。科目登録のページから成績も見られようになるんだよ」
「なら、まだ無事かどうかは分からないんじゃないのか」
「嫌なこと言うなあお前。そんなこと考えてたら夏休みを楽しめないだろ。こういうのはやるだけやったら、あとは一旦忘れるもんなんだよ。覚えとけ」
「そうか」
まあ、サナギが単位を落とす心配はあまりないのかもしれないんだけど。とはいえ、今回は一緒に勉強した中国語基礎が無事に取れているといいな。
取り留めもない話をするうち、テーブルに広げた菓子が少しずつなくなってきた。床には潰れた空き缶が数本転がっている。
サナギはザルで全然酔わないらしいけど、俺はこれだけ量を飲むとさすがにだんだん酔いがまわってきたらしい。心地よい浮遊感と包み込まれるような眠気で目蓋がとろんとしてきた。
「……俺にも、見えたらよかったのにな」
半ば無意識に、口が動いている。頭がまわらない。
「自分が何かを寄せ付けてるかもしれないって、小学生くらいでもう薄々気づいてたよ。見えないから確信は持てないし、何が憑いてるのかも分からなくて、怖かったなあ……」
取り憑いた何かに呪われたり、祟られたりするんじゃないかって、ずっと思ってた。風邪で寝込むだけでも、俺はこのままおばけに殺されるかもしれないと怯えた。
「…………なあ、サナギ。俺は、呪われてると思うか?」
考え続けて、もう七年になる。だから、俺に見えない何かがお前に見えているなら、どうか教えてほしい。
七年前、中学二年の夏だ。年の離れた妹の美和はその時小学三年生だった。両親の運転する車で、俺たちは海に向かっていた。美和がどうしても海に行きたいとねだったからだ。美和はわがままで甘えん坊のお姫様で、手がかかる分誰からもかわいがられていた。俺は思春期真っ盛りで、家族で出掛けるなんてと渋い反応をしたけど、「お兄ちゃんも一緒じゃないとイヤだ」と騒がれて根負けした。
懐かしい、とても夏らしく、爽やかな暑い日だった。
母さんと一緒にトランクに浮き輪やパラソルを詰めていると、美和が父さんに肩車されて玄関から出てきた。視界の高さにはしゃいで、キャーキャーと楽しそうに騒いでいる。
「はい、到着~!」
父さんは美和をひょいと抱き上げ、後部座席のジュニアシートに座らせた。カチッとシートベルトの音が軽やかに鳴る。
俺も荷物を積み終えると、後部座席の反対側に乗り込んだ。
「海、どのくらいで着くの」
「三十分ぐらいだよ。まだ眠いのか?」
「そうじゃないけど」
「ねえねえ、お菓子食べていい?」
「まだ出たばっかりでしょ。もう少ししたらね」
美和がやれしりとりしようだの、隣の車に犬が乗っていただのとひっきりなしに喋り続けるので、車の中はずっと騒がしかった。
夏休みの海なんて、人が多そうでイヤだなあ。同級生とか、もし来てたら家族と来てるところ見られたくないなあ。今日は日射しが強かったし、海の家でかき氷でも買ってパラソルの下で食べようかなあ。
「ほら、海が見えてきたぞ」
ぼんやり一人で考え事をしていたら、運転席の父さんが朗らかに笑った。助手席の母さんがわっと歓声をあげた。つられて俺も窓の外を見た。
「! 綺麗……」
水面に太陽が降り注いで、キラキラ輝いていた。一面の青が窓の外に広がっていた。
ーーどくん。
不意に胸騒ぎがした。なぜだか俺はきょろきょろとあたりを見回していた。
なんだろう。いま、何か……。
「っ…………!」
そのとき、真っ黒い影が迫って、鼓膜が引きちぎれそうなほどの衝撃音に突き上げられた。何が起きたのか理解する前にふわっと身体が宙に投げ出されて、次の瞬間俺はアスファルトに叩きつけられていた。
「ーーッ!!!」
痛い。やばい。痛すぎて、息が吸えない。痛いーー。
おそらく、そこから数分の間俺は意識を飛ばしていて、次にはっと目を開けた瞬間、また身体を引き裂くような痛みで頭が真っ白になった。
ぼやけた視界の向こう、遠くに横転した車が見えた。助手席側が潰れて変形している。俺がいた後部座席のドアはなくなっていた。必死に周囲を見回しても、家族の姿はなかった。なら、みんな車の中にーー。
ボッと聞いたことのない音がした。それから、車が一瞬で炎に包まれた。
お父さん。お母さん。美和。必死に呼ぼうとしたけど、声がでなかった。身体もピクリとも動かせなかった。
火はしばらく燃え続けた。俺は地面に倒れたまま、ただ目の前で家族が焼かれていくのを見ていることしかできなかった。
話の区切りに顔を上げると、サナギは神妙な顔でじっとこちらを見ていた。相変わらず、何を考えているのかよく分からない。手に持っていたレモンサワーを飲み干した。
「そのあと、俺は救急車で運ばれてなんとか生き残ったけど、家族は全員助からなかった。交差点でトラックが突っ込んできたんだってあとから聞いた。『信号を見落とした』ってさ」
それが運悪く燃料を積んだトラックだったせいで、ガソリンに引火して車は炎上した。
「その頃って、まだ後部座席のシートベルトはちょっとなあなあだっただろ。たしか、法律ができてまだ数年でさ……だから俺、シートベルトしてなかったんだ。おかげで俺だけ外に吹っ飛ばされた」
打ち所が悪ければ俺も死んでた。助かってよかった、奇跡だって言われたけど、俺は喜べなかった。だって、どうしても考えてしまうから。
「……俺のせいなんじゃないか、って」
自分は、目に見えない何かを寄せ付けてしまう体質かもしれない。いつかそれに呪われるかもしれないとずっと恐れていた。
あの時、俺は説明できない何かを感じてた。事故の後のカウンセリングで、大きな事故の前にそういう第六感みたいなものが働くことはよくあるんだと言われたけど、どうしてもそうは思えなかった。
「俺に憑いた何かが、あの日ついに俺や家族を呪ったんじゃないか。俺がいなければ、あの事故は起きなかったんじゃないか」
……それなら、俺は生き残るべきじゃなかったんじゃないか。
何度考えたか分からない。だけど、俺には何も見えないから、いつまで経っても答えは出ない。
サナギが手に持っていた缶をそっと机に置いた。俺の方をじっと見て、数秒。それから、顔色を変えないまま口を開く。
「これまでお前に惹かれた怪異は小物ばかりだっただろう。事故を起こして人を殺すなんて、そんな大層なことができる大物はお前になど興味を持たない。思い上がるな」
「はっ。なんだよそれ」
「つまり……お前のせいじゃない」
「! …………そう、か」
うまく言葉が出てこなかった。ずっと求めてきた答えを、突然ぽんと目の前に差し出されたら、人はうまく受け取れないのだと分かった。
ーーお前のせいじゃない。
ずっと、誰かにそう言ってほしかった。…………そっか。俺のせいじゃないんだ。……よかった。
やっとうまく息が吸えた気がした。それは、俺の人生をまるごと救ってしまうほど特別な言葉だった。
肩が軽い気がする。ああ、俺はずっとこの「罪悪感」に取り憑かれてたのか。でももう、そろそろおろしてもいいのかな。そうしたらきっと、俺は俺が生きてることを肯定できる気がする。その先には、やっと俺の人生が待っているようなーー。
手にした希望は大きすぎて、まだ少し落ち着かない。だけど。
大学三年の夏休み。俺の未来は、きっとここから始まるんだ。
……うん。信じるよ、もう。助けてもらっておいて、今さらオカルトだインチキだというのは失礼だろう。それに、なんとなく、福田さんのことを知れてよかったと思う。そのおかげで、俺はこの寮での暮らしを、これまでよりも少しだけ好きになれそうな気がしている。
いつも通り身支度をして、大学へ向かう。教室へ到着すると、入り口近くに座っていた学生が顔を上げた。
「……あ」
サナギだった。目があって、真顔のままじっと見つめ返される。昨日の今日でいきなり会っちゃったよ。まあ、同じ学部同じ学年ならある程度授業が被るのは仕方ないんだけど。
これだけガッツリ目があったのにわざわざ遠くの席に座るのは避けてるみたいで感じが悪いかと思い、俺はそのままサナギの隣に腰を下ろした。
「お前もこの授業取ってたんだな」
「ああ。あれから体調はどうだ」
「もうなんともない。むしろいいくらいだよ」
「そうか」
会話が途切れる。もうお前と話すことはないと言わんばかりに、サナギは広げていた本に視線を戻した。こいつにも俺の体調を気にするくらいの社会性はあるらしいが、その心配や気遣いを言葉と表情に乗せるのは絶望的に下手だ。
やがて教室に教授が現れて授業が始まると、さらに目を疑う光景が広がった。この男、一文字もノートを取る気がない。机の上に筆箱さえ出していない。マジか。でも不真面目なわけではなく、その横顔は真剣に話を聞いているように見える。「一度聞いたら覚えられる」みたいな天才タイプなのか?
ちらちらと隣のサナギに集中を邪魔されながら、だけどそういえば、大学に入ってから知り合いと隣同士で一緒に授業を受けたのはこれがはじめてだったと気がついた。それは少し、……わりと、俺にとっても嬉しい出来事だった。たとえ相手がサナギであっても。
「お前、ノート取らないのか?」
授業が終わると、俺はずっと気になっていたことを早速尋ねてみた。サナギがきょとん顔になったので、俺はその時点でまともな回答が得られないことを察した。
「なぜ取る必要がある」
「テスト前に困るだろ」
「特に困ったことはない。俺はテストには興味がない」
「興味がなくてもテスト勉強はしないとダメだろ」
「どうしてダメなんだ」
……なんか、これあれだな。なんでなんでって無限に聞いてくる幼児と喋ってるみたいだ。ただ幼児と違うところは、こいつはムスッとしたでかい男で、かわいげもまるでないってことだ。
「……まあいいや。とりあえず俺は混み出す前に学食に行く。お前は昼どうするんだよ」
「俺も普段は学食を利用しているが」
「なら続きは食いながら聞くよ」
俺が鞄をもって先に歩き出すと、サナギは戸惑いながらも後ろをついてきた。
飯誘われるのも初めてって反応だな。まあ俺も積極的に一緒に食べたいわけじゃなかったけど、さっきの話の続きは気になる。
こいつ、単位とかちゃんと取れてるのか? 一応進級してるんだし、最低限はやることやってはいるんだろうけど……。
スタートダッシュが遅れた俺たちはやはり学食の席取りに苦戦することになったが、なんとか席を確保して食事にありつけた。
うちの学食は安くてうまいと評判で、いつも学生でごった返している。リーズナブルなお値段でボリュームもそこそこあるのが、貧乏学生には嬉しいところだ。今日の日替わりはハンバーグだった。この学食、俺的にはハンバーグとカレーが特にうまい。今日は大当たりの日だ。
手を合わせてからふと顔を上げると、正面に座ったサナギの仏頂面がほんのり機嫌よさげに見えた。サナギの注文は俺と同じ、日替わり定食だ。
「それ、好きなのか?」
「ああ。ここはカレーとハンバーグがうまい」
……へえ、分かってるじゃん。
俺も早速ハンバーグを一口頬張った。うん。やっぱりうまい。
「なあ、お前さっきテストは興味ないとかいってたけど、単位はちゃんと取れてんのかよ」
食べながら気になっていたことを聞いてみる。サナギの咀嚼を待つ間、どんなビックリ回答が飛び出すのかと身構えた。
「俺の実家は、除霊を家業としていると話したが」
「うん? うん」
俺の質問の回答として、その導入は合ってるのか……? こいつ、ちゃんと人の話聞いてんのかな……。
「それゆえ、怪異に関する貴重な文献を数多く所有している。研究協力として、危険なフィールドワークに家から同行者を出すこともある」
「まあ、それはありそうだな」
俺たちの専攻は文化人類学・民俗学だ。俺は俺で自分の体質に違和感をもって、霊や呪いについてもっと知りたいと思っていたし、サナギは俺なんかよりよほどこういう分野に近いところで生きてきたんだろう。同じ学部と知ったときは奇遇だと思ったけど、もしかしたら俺たちが同じものに興味を持つのはある種必然だったのかもしれない。
土地に根付く信仰や呪術的なものは、この分野においてはドンピシャの研究対象だ。由緒ある除霊師の家系なら、研究と密接に関わっていてもおかしくない。……でも、やっぱりそれがさっきの質問とどう関係してくるのか、いまいち話が読めずにいた。
「恐らく、母が教授陣に口添えしているんだろう。研究を続けられなくなるリスクを犯してまで、俺の単位を落としたい教授はいないらしい」
「…………!」
想像もしないサナギの言葉に、俺は唖然として黙り込んでしまった。なんでもないことのように語られたその話は俺の常識を軽く踏み越えていた。思わず箸を置いて、サナギの言葉を反芻する。
母親が、教授に口添え……? 由緒ある除霊師一族の立場を盾にして、息子の単位をよろしく頼むと言い含めてるってことかよ?
「ただし中国語基礎は今年で再々履だ。第二外国語の教授までは実家の威光も届かなかったらしいな」
サナギは淡々とそこまで話すと、ミニトマトを口に放り込んだ。
そして、この悪びれなさだ。サナギ自身は本当にテストにも単位にも興味がないんだろう。どうせ単位がもらえるからサボってもいいやと思っている感じにも見えない。
「……というか。それって最早授業来なくてもいいってことか? 逆になんのために出席してんだよ」
「授業は自分に興味のある内容だから聞きに来ている。メモを取らずとも、印象的な話や自分に有用な内容は記憶に残るだろう。それで十分だ」
……オーケーオーケー。よく分かった。
蛙の子は蛙、子供がこれなら親もヤバいに決まってるんだ。立場を使って教授を脅すとか、どんな過保護だよ。こっちはこの二年間、必死で仕事と学業を両立してなんとか単位取ってきたのに、馬鹿みたいじゃねえかよ。
でも、サナギ母が手をまわしていなければ、この男テストも受けずただ単位を落として留年し続けていたに違いない。ヤバい息子をもった親の苦労を思うと、それもそれで責めづらい。
「……それより、今度の週末だが、付き合ってもらえないか」
「…………はあ、お前ってほんと」
俺がお前の衝撃告白に動揺して頭抱えてんのが見えてないのか? その流れでなんで普通に誘えるんだよ。
「用事があるなら無理にとは言わないが」
「……別にねえよ。行くよ」
サナギにとっては、授業も単位も母親の不正も些末なこと。隠すつもりも悪びれるつもりもないのだろう。あまりの価値観の違いに愕然としてしまう。会話が成り立たない徒労感で、なんだかどっと疲れた。
それから、改めてサナギと週末の約束を結んで、食堂を出たところで俺たちは別れた。三限に向かいながら、俺はまた無意識に大きなため息をついていた。
ーーそして今、俺たちは居酒屋にいる。
約束の週末、霊が出ると噂の廃病院で一悶着あった帰り道だ。
店員が俺たちの前に注文の品を並べて素早く立ち去る。レモンサワー、生ビール、枝豆、梅水晶。それらしいものが机に並んで、一気に雰囲気が出てきた。互いにこういう場所には不慣れで、とりあえずの作法をなぞるように俺たちは無言でグラスを軽くぶつけた。
廃病院の帰り道、安いチェーン居酒屋に寄って帰ろうと提案したのは俺だった。新聞奨学生時代は早朝から毎日原付で配達にいく生活で、基本的に酒が飲めなかった。三年になって是非ともやってみたかったことのひとつが、こうした学生らしい飲み会だったというわけだ。
一仕事終えたあとのお酒はうまいと聞くし、一人ではなかなかこういうところには来る勇気も出ない。ずっと憧れてきた経験のためなら、相手はこの際サナギでもいい。
「うん。うまい」
飲みやすさを重視してレモンサワーを選んだのは正解だった。レモンの甘さと爽やかさはジュースのようで、飲み慣れない俺の舌にも馴染む。
「お前はビールが好きなのか? というか、酒はよく飲むほうなのかよ」
今のところ、ビールは苦いというかなり大雑把な知識しかないので、初手でビールを注文しただけで既に俺からしたらそれなりに心得のあるやつに見えている。
「除霊の中には日本酒を用いる手法もある。酒類には邪気を祓う力のあるものが多いんだ。だから除霊の後は大抵、家で一人で飲む」
「じゃあ日本酒頼んだ方がよかったんじゃないのか」
「ビールの方が味が良い」
「へえ」
当たり前だけど、こいつにも好き嫌いがあるんだよな。ハンバーグとカレーもそうだけど。みえるとかみえないとかの前に、サナギも人間なんだもんな。
「酒好きなら、こういう店に来ることもあるのか?」
「ないな。騒がしいのは苦手なんだ」
「そりゃあ付き合わせて悪かったな」
おお。梅水晶ってこんな食感なのか。これはうまい。
やがてグラスが空になり、互いに同じ飲み物を頼んだ。炭火焼き鳥盛り合わせと唐揚げが飲み物と一緒に運ばれてきた。
「……そういえば、今日のアレ、お前はじめから分かってたんだろ」
二杯目に口をつけたところで、なんとなく身体がぽかぽかとあたたかくなってきた。心なしか口の滑りもなめらかだ。これが酔うってことなのか。ちょっと楽しくなってきた。
話題にあげたのは、今日の廃病院でのこと。医療過誤で亡くなった幽霊を除霊しにいくと聞いていたのに、実際いってみると廃病院は幽霊の温床で、俺は目的の幽霊を見つける頃には後ろに幽霊の大行列を引き連れていたらしい。
「ああ、あの大名行列か」
毎度その微妙にイラッとする例えはなんなんだ。
「そんなにたくさんいるなんて聞いてなかったぞ」
「どうせ見えないなら一人も大勢も同じだろう」
「こっちにも心の準備とか、色々あるんだよ。そもそもお前、はじめから全員対処するつもりで俺を連れていったんだろ」
「そうだな。あそこは六階建てで建物も広いからな。いちいち探して除霊するのは手間がかかる。病院なんてのは死者の多い場所だから、霊の数も多い」
「へいへい。どうせ俺は磁石ですよ」
憎まれ口を叩きつつも、大名行列の一行も含めてサナギが丁寧に成仏させてくれたので俺も基本的に文句はない。まあ次からはできればどれくらいの数がいる場所なのか事前に正確に教えてほしい。
これまでのサナギなら「まとめて消滅!」と殴りかかっていたのかもしれないけど、そういうやり方を選ばなかったところを見るに、サナギなりに俺の反応を気にしたのかもしれない。こいつだって、なにも考えてないわけじゃないんだよな。
グラスの残りを飲み干すと、カランと氷が鳴った。途端、ぐらりと視界が歪む。そういえば、なんとなく頭痛がしていることに気づく。
「あれ……なんか、酔ったかも……」
もしかして俺って想像してたより酒弱いのか? まだレモンサワーを二杯飲んだだけだぞ。適度につまみも食べてるし……。
「それは霊障だ。酒は関係ない」
「え」
「お前のまわり、また集まってるぞ。この居酒屋にいた酒好きの霊が」
サナギの視線が俺の背後に向けられる。おいおい。話が違うだろそれは。
「酒は霊を祓うんじゃなかったのかよ」
「酒は邪気を祓うものだ。無邪気な酔っぱらいの霊に効果はない」
「なんだその言葉遊び!?」
「酒好きは死んでも酒場に集まる。だから最初に言っただろう。『騒がしいところは苦手だ』と」
……言ってたな、そういえば! でも騒がしいの主語は普通に人間だと思うだろ……。
サナギはぶつぶつと背後の霊と会話をはじめて、俺はあっという間に置いてけぼりになる。手持ち無沙汰に最後に残った唐揚げを自分の皿に乗せた。冷めた唐揚げを頬張りながら、ぼんやりサナギに目をやる。そこに何かいると聞きはしたけど、客観的には虚空に向かって独り言を言ってるようにしか見えない。端からみたら、サナギのこういう行動はかなり不審だよなあ。この性格でなくても、人付き合いに苦労することは想像に難くない。
やがて霊たちと話をつけたらしいサナギが、俺の方を向き直った。
「彼らは初めて酒を飲むお前を冷やかしているだけで、お前に害なす気はなさそうだ。もともとこの店に居着いていて、ここを離れる気もないらしい」
「……つまり?」
「店を出よう」
そうして、俺とサナギのはじめての飲み会はお開きとなったのだった。
店を出ると嘘のように頭痛もめまいも収まったので、本当にさっきのはただの霊障だったらしい。
「初めての酒はどうだったんだ」
「美味かった。霊さえいなければ最高だったのに」
「居酒屋はどこもだいたいこんな感じだ」
「それは知りたくなかったな……」
居酒屋の賑やかな雰囲気も好きだったけど、入る度に酔っぱらい幽霊に絡まれるのは勘弁だ。
「でも、お前はそれなりに強いんじゃないか」
「そうなのか?」
「俺と同じペースで飲んでいたのに、まだ余裕がありそうに見える。それなりにいける口だということだ」
「へえ」
それはいいことを知った。自然とサナギのペースにつられていたけど、あれってハイペースな方だったのか。
どうやら俺にはそこそこ酒を楽しむ才能があるらしい。それを知れただけで、今日はよしとしよう。
そうして、サナギとの日々はゆるやかに俺の日常を変えていった。ライフワークであるという除霊だが、そう頻繁に行っているものでもないらしく、呼び出しは週に一度あるかないかだった。俺も週に四日はバイトのシフトをいれているので、この呼び出し間隔はちょうどよかった。乱暴にしないという制約でどのくらいサナギが動きにくくなっているのかは分からないが、今のところそれを押しても俺を連れていきたいと思う程度には、俺の「磁石体質」はサナギの役に立っているらしい。
それよりも、最近の俺たちが顔を合わせるのはもっぱら大学だった。蓋を開けてみたら、なんと週に三日も授業の被っている日があって、そういう日は流れで昼飯も一緒に食べるのが毎度のお決まりになりつつある。
サナギは相変わらずノートを取らないスタイルで、それを見ているとなんとも言えない気持ちになるものだけど。ただ、授業を聞いているサナギの横顔はいつも教室にいる誰より真剣で、時折頷きながら教授の話に耳を傾けていた。こいつはテストのためでも単位のためでもなく、ただ純粋な興味関心で授業を受けている。それって、むしろ学問としては純粋で、あるべき姿だったりして。そう思うとなんとなく、サナギにそれ以上何か言うことはできなかった。
水曜日はニ限も三限もサナギと授業が被っていて、間に昼休みも挟むので、一週間で一番長く一緒に過ごす日だった。ニ限の教室に着くと、いつもの席にはもうサナギの姿があった。声をかけながら隣の席に鞄を置くと、はらりと視界の端で何かが舞った気がした。
「あれ、なんか落としたか?」
屈んで机の下に手を伸ばす。地面には小さな紙が落ちていた。
「ああ、駅前で配っていた券だな。もらったのを忘れていた」
よく見れば、それは駅の近くにあるラーメン屋の割引券だった。通りがかりに渡されて反射的に受け取ってしまったらしい。
「ここ、いつもすごい行列してるよな。ずっと食べてみたいと思ってたけど、三限間に合わなくなるから行ったことないんだよなあ」
ずいぶん前に一度だけ並んでみたら、昼休みの一時間では店に入ることもできず、そのまま諦めざるを得なかった。遠方からわざわざ並びに来る人もいるという有名店で、学生の間でもかなり人気の店だ。味はもちろん、大盛り無料で学生の財布にも優しいらしい。
「行きたいなら、その券はお前にやる」
「話聞いてたか? 俺の時間割じゃいけないんだっての。お前も今日の三限、同じ講義とってんだろ。残念だけどその割引券は使えなそうだな」
割引券には本日限定と大きく書かれている。でもまあ、こういう割引券は定期的に配布されているようだから、次のチャンスもきっとあるはずだ。
「でも、気になるよなあ。あんなに並ぶなんてさぞうまいんだろうなあ……」
三年の後期こそは、三限に空きコマをつくって是非ともそのラーメンを味わってみたい。名残惜しさから、割引券をくるくると弄んでいると。
「なら、行ったらいいんじゃないのか。一度くらい授業に出なくても問題ない」
サナギは真顔でキッパリと言い放った。
「あるだろ、問題は。……お前は違うのかもしれないけどさ」
思わず、視線を逸らす。嫌な言い方をしてしまったと、言ってからすぐに後悔した。でも、サナギは何も気にしていない様子で淡々と話を続けた。
「出席も足りているし、普段真面目に講義を受けているのだから、一度休んだくらいで内容が分からなくなるわけではないだろう」
「それは……そう、だけど。……ダメだろ。サボったら」
語気が弱まったのが自分でも分かった。今、正しいことを言っているのは俺なはずなのに、サナギの言葉はそれを押し退けてしまいそうなほどに合理的だ。
「初めて会った時もそうだったが、お前は時々真面目すぎて正当性を欠く。それが俺には理解できない」
「…………分かってるよ」
……サナギの癖に、的を射たことを言いやがる。
それは、たしかに俺の短所のひとつなんだろう。分かっているけど、今さらどうにもできない。染み付いてしまったこれはもう性分だ。
教授が立ち上がってマイクの電源を入れたので、ここで会話は打ち止めになった。サナギの指摘が頭の中をちらついて、その日は授業の間じゅうなんとなく気持ちが沈んでいた。
真面目は美徳と言うけれど、俺は進んで真面目を選んだわけじゃない。これしか選べなかっただけだ。だから、俺は……本当は、そんな自分が心底嫌なんだ。軽やかに常識を飛び越えて自分の思うまま振る舞うお前が、俺は少しだけ羨ましいのかもしれない。
授業の後、教室を出てしばらくしたところでサナギがあっと足を止めた。視線の先には幽霊……ではなく、普通に人間がいた。というか、あれ三限の教授だ。この先が大学事務所だから、そっちに用事でもあったのかもしれない。
ふと、隣に目をやると、サナギが教授に手のひらを向けていた。嫌な予感が背中を走る。咄嗟にその手首を掴んでいた。
「おい。いま何した」
焦りで声が曇る。嫌に鼓動が急いていた。
「まだ何も」
「何しようとしたんだよ!」
ぴくりとサナギの肩が揺れる。じっとその目を睨み付けたけど、サナギはただ俺の怒りに困惑している様子だった。
「霊をおろしてあいつに一時的に憑かせれば、霊障で休講にできるかもしれない。そうすればお前も、授業をサボらずにラーメンが食べられる」
「っ……!」
「本当は食べに行きたかったんだろう。あの店のラーメン」
サナギがじっとこちらを見ている。悪びれた様子は少しもない。掴んだままの手に力がこもる。
「……お前がサボれないなら、別の方法でラーメンを食べに行けないかと考えただけだ」
「……あるよ。食べる方法なら」
深く息を吐いて、静かに覚悟を決めた。俺は、サナギにこんなことをさせたかったわけじゃない。俺の弱さでこういうことが起きるなら、俺のやるべきことはひとつだ。
「サボろう。今日の昼飯はラーメンだ」
サナギ以外にも割引券を受け取った人たちがたくさんいたようで、ラーメン屋はいつにも増して長蛇の列だった。二人で列の後ろについたはいいものの、さっきのやり取りの後でなんとなく気まずい。それに、病欠以外で授業を休むのは初めてで、背徳感と罪悪感で落ち着かない気持ちだった。
「山藤。その、俺が一緒に食べる必要はあったのか」
「あるよ。その割引券、『一グループ四人まで適用』なんだから、一人で使ったらもったいないだろ。まあ、俺の代わりにお前がノート取ってくれるなら授業出てもらう意味もあるけど、お前ノートもペンも持ってないだろうが」
「……そうか」
また沈黙が訪れる。表情が変わらないから、サナギが何考えてるかなんて全然分からない。どうせ次に口を開けば、幼児のように「なんでなんで」と言い出すんだろうと思っていた。
「……はじめて、なんだ。こうやって、人と関われたのは」
ーーだから、予想外の言葉が飛び出して少し面食らった。言葉を探している沈黙なのだと、遅れて理解した。
「そういう相手には、なにかしたいと思った。お前が喜ぶことを」
「……!」
授業をサボるのを躊躇ったくそ真面目の俺が、本当は食べたくて我慢していたラーメンを食べられるように。あのときのサナギには、本当にそれしか見えていなかったのだ。教授への迷惑とか、善悪の区別もなく、ただ俺を喜ばせるための最短経路を突き進もうとした。
……なんだよ。なんなんだよ、クソ。ズルいだろ、これは。さっきまでの怒りのエネルギーが霧散していっぺんに感情が迷子だ。
「だったら、他人に何かするのはもうやめてくれ。前にも言った通り、人に迷惑かけるのはなしだ」
「そうか」
サナギは反省しているのか、肩をすぼめて小さくなっている。きっと、何がいけなかったのか分かってないんだろう。ただ、俺が喜ばなかったからこいつにとっては失敗なんだ。
「……お前、鬱陶しくないのかよ。俺にあれもダメこれもダメとか言われるの」
俯くサナギに、思わず訪ねていた。
除霊に関しては俺も一応役に立っているらしいから、制約とトレードオフなのかもしれないが、大学生活に関して俺はただ口うるさくてお節介なだけだ。サナギが俺の言うことを聞く謂われもない。
「……鬱陶しいとは思わない。俺はずっと、人と相容れなかった。お前の言葉が俺を……人にしてくれる気がしている。それは俺にとっても心地いいことだ」
ゆっくりと、迷いながらサナギは言葉を紡いだ。初夏の風が俺たちの髪を柔らかく揺らした。肺が膨らんで、胸がいっぱいになる。
「他に、俺にできることはあるのか。なにか、除霊以外で」
サナギが、俺たちの世界に歩み寄ろうとしている。ここに留まろうとしてくれている。その願いがあるなら、きっと、繋ぎ止められる。
「……それなら、俺とテスト勉強をしないか。たとえお前には必要ないことでも、俺はお前と対等でありたい。だから、お前もちゃんと単位取ってみるのはどうだ」
やがて列は進み、俺はサナギとカウンターに隣り合わせでラーメンを食べた。ガッツリ濃厚な家系ラーメンは五臓六腑に染み渡る美味しさで、連日の行列も頷けた。
それから俺たちは大学生協に行って、サナギの新しいノートを買った。この日のラーメンの味を、俺はきっと忘れないだろう。
それから一月ばかりが過ぎて、間もなく一学期の期末テストが訪れようとしていた。今日は二人でテスト勉強及びレポート課題に取り組むため、二十四時間営業のファミレスに来ている。徹夜で勉強する時は、家よりもこういう場所の方が眠くならずに集中できると俺が提案した。ドリンクバーのコーヒーをお供に、俺はノートパソコンに、サナギはノートと教科書に向かっている。
「四声とピンインはちゃんと押さえとけよ。絶対テスト出るから」
「……外国語にはあまり興味がない」
「興味がなくてもやるんだよ。必修科目なんだから、ちゃんと単位とらないと卒業できないんだっての」
残念ながら、サナギは中国語基礎の再々履クラスにほとんど出席していないようなので、今回も単位が来るかはちょっと怪しい。でも、中国語の先生はあまり出席を重視しない人だったし、きちんとテストで点を取れればチャンスはある。
それに、俺が貸した一年の時のノートは我ながら要点がまとまっていてめちゃくちゃ見やすいはずだ。これを一通り真面目に勉強していけば、望みはあると思う。若干記憶は薄れているけど、分からないところがあれば俺がある程度の質問にも答えられる。同じ言語選択でよかった。
一方俺はというと、今は「呪術と文化」という科目のレポートを作成しているところだ。俺たちの学科はこういう授業が結構多い。サナギに同行した除霊をフィールドワークということにしてレポートにまとめているので、行き詰まったらサナギに質問させてもらうつもりでいる。
「コーヒー取ってくるけど、お前もいる?」
「ああ」
立ち上がった時、ちょうど席の横を通るところだったウェイターさんとぶつかりそうになった。
「あっ、すみません」
俺たちがいるのは一番手前の席だから、ここより奥の席に配膳するには必ず通る場所だ。深夜でお客さんは多くないとはいえ、意外と人の行き来があるんだな。気を付けないと。
コーヒーを二人分注いで戻ってくると、一番奥の席がちらっと目に入った。さっきぶつかりそうになったウェイターさんが、ちょうど料理を配膳しているところだった。
……一人で来てる女性客か。にしては、よく食べるんだな。
女性の前には、二人がけのテーブルに収まりきらないほどの皿が並んでいる。細身に見えるのに、本当にあんなに食べきれるんだろうか。
「どうかしたのか」
「ああ、いや。なんでもない」
サナギの前にカップを差し出して、俺も自分の席に腰をおろした。レポートの締め切りは明日の昼十二時。今夜のうちになんとか仕上げて提出したいところだ。
淹れてきたばかりのコーヒーを一口飲んで、気持ちを切り替える。目の前のレポートに意識を集中して、キーボードに指を走らせた。
「ミックスピザと明太クリームパスタでございます」
しばらく経った頃、ふと聞こえてきた店員さんの声で集中が途切れた。ちょうどレポートはキリのいいところで、コーヒーのおかわりも取りに行きたい頃合いだった。何の気なしに、声のした方に目をやると、さっきの女性のところにまた新しい料理が運ばれてきていた。
まじか。まだ食べるのかよ……?
「お前も気づいたのか」
そちらをちらちら気にしていたら、サナギに声をかけられた。
「ああ、あの大食いの女の人? お前も気になってたのか?」
「違う。あれは貪魔だ」
どんま……? 頭の中で、刃物が鈍る「鈍磨」という変換が浮かんだけど、この状況には合わない。
「あれは怪異、妖怪の類いだ。人に取り憑いて己の欲を満たす。貪る魔物と書いて貪魔だ」
「……!」
つまり、あの女の人はその貪魔とかいう魔物に取り憑かれてひたすら食べてるってことか?
……いや、待て。今日はそのつもりで来たわけじゃないぞ。そもそもこの店を指定したのは俺だ。心霊現象の噂なんて聞いたこともなかったし……。
というか、妖怪だって?
「お前、そういうのも相手にしてるわけ? 幽霊専門じゃないのかよ?」
「幽霊専門などと言った覚えはない」
「いや、そうだけど……これまで二ヶ月くらいずっと、除霊といえば幽霊だっただろ」
「当たり前だ。幽霊の方が圧倒的に数が多い。ここは人の世だからな。怪異も元は人間だったものがほとんどだ」
「へえ……」
サナギによれば、人でないものは普通隠世と呼ばれるここではない世界に住んでいるらしい。人の世は彼らには住みづらく、それゆえ数も多くないのだという。
「だが、それでも人の世を好む者はいる。人を食らう者や、人を誑かす者たちだ。そういう奴らは人の近くで暮らしている。それを祓うのも除霊師の役割だ」
サナギは話しながらも、息をひそめてじっと女性の様子を窺っていた。
「どうにかできるのか」
「霊と違って、あれらには悪意がある。お前の好む解決方法は取れない」
「ああ……まあ、それは仕方ない」
俺だって、そこまでお人好しじゃない。人ではない、人に仇なす存在なら、人を守るために攻撃する必要があるのも理解できる。
「あの人は、自分の意思で食べてるわけじゃないんだよな」
「そうだな。貪魔は取り憑いた器の限界を越えても自分の欲のままに食べ続ける。行き過ぎれば器が危険に晒されることもある」
真顔で黙々と食事を続ける女性は狂気的に見えた。……止めないと。
「サナギ。俺は、あれを惹き付けられると思うか?」
じっとサナギの目を見据える。相手が幽霊じゃなくても、俺にできることはあるのか。
サナギが瞬きとともに小さく頷く。
「ならあれを俺に移して、お前が祓えばいい。そうしたら、あの人は助かるし、除霊にも巻き込まずに済むんじゃないのか」
「それは……そう、だが。お前はいいのか」
「今更だろ。お前は俺を便利に使えよ。それで誰かが助かるなら俺も嬉しいから」
「分かった」
サナギは真剣な顔つきになって、俺に作戦を伝えた。これまでの平和的な除霊とは違う。これから起きるのは人の理を外れた化け物との戦いだ。緊張感でじっとり手のひらに汗をかいていた。
ゆっくり立ち上がり、作戦通りに女性の席に近づく。
「……何か?」
女性がこちらを見上げて、不思議そうに俺に声をかけてきた。普通だ。この人の中に何かが入り込んでいるなんてとても見えない。だけど、サナギに言われた通り、その瞳の奥を見透かすようにじっと覗き込んだ。
「貪魔。いるのは分かってんだよ。俺が器になってやる。来い」
女性の瞳からすっと光が消えた。次の瞬間、頭のてっぺんからさあっと血の気が引く感覚がして、思わずたたらを踏んだ。
「……え? あれ……?」
目の前の女性客は自我を取り戻したようで、戸惑ったようにあたりを見回している。もしかしたら、店に入る前から取り憑かれていて、自分がいまなぜファミレスにいるのかさえ理解できていないのかもしれない。
「ッ、す、すみません……!」
かと思うと、女性は口許を手で押さえて慌てたように俺の横を駆けていった。……あれだけ食べたら、そりゃあそうなるよな。もっと早く気づいて、助けてあげられればよかった。
身体がじっとりと熱を持ち始めている。頭がぼんやりして、気が遠くなりそうだった。内側に侵入した「何か」が、俺の意識と混ざりあって、境界を曖昧にしようとしている。
身体の自由が効かなくなる前に、作戦をやり遂げないと。俺はゆっくりとサナギの元へ向かって歩き出した。
狭い喫煙ルームに着くと、サナギが小さく頷いた。よくやったと言われた気がした。もうほとんど頭は回らなくなっていた。
それよりも、身体中を駆けずり回るこの渇き。飢え。耐え難い飢餓感。苦しい。腹が減った。足りない。もっと食べたい。足りない。足りない。
「山藤。聞こえているなら歯を食い縛れ」
サナギの声。何て言ったのかよく聞こえなかった。自分の身体じゃないみたいに、手足がうまく動かせなくなっている。乗っ取られるーー。
「……ゥグッ、」
刹那、鳩尾に走った衝撃で、それまで感じていたことが全部吹き飛んだ。たまらず腹を抱えて踞る。
えっ……今俺めちゃくちゃ普通に殴られたんだけど!? 痛すぎる。冗談じゃない。
その時、パチン、と強く手を打つ音がした。近くで何かが弾けたような錯覚に襲われる。見上げると、サナギは神社でそうするように手を合わせて何もない場所を睨み付けていた。
「終わったぞ」
「…………ああ、そう」
「なんだ、その反応は」
サナギは俺を心配するでも、殴ったことを謝るでもなく、きょとんとして首をかしげていた。俺はまだ鳩尾が痛くて立ち上がれないまま、目だけでじっとサナギを睨み付ける。
「めちゃくちゃ痛いんだけど。なんで俺ぶん殴られてんだよ」
「貪魔をお前の中から引きずり出すためだ。そう説明しただろう」
「されてねえよ」
だって、俺が事前に聞いてた作戦ってこれだぞ。
①俺の中に貪魔を移す
②俺の意識があるうちに二人きりになれる場所につれていく。この店内なら喫煙所が最適
③サナギが貪魔を俺の中から引きずり出す
④サナギが貪魔を祓う
いつもの霊障くらいは覚悟していたけど、まさかいきなり殴られるとは思わなかった。
「他にやりようなかったのかよ」
「冷水を浴びせるか、火で炙るのも効果的だ」
「じゃあ殴られるのが一番マシだったわ……」
「そうか。ならよかった」
「……よくねーよ」
俺の呟きは、たぶんサナギには届いていない。
喫煙所を出て席に戻ると、女性は奥の席に戻っていた。さっきは青ざめていた顔色も、少し落ち着いたように見える。とりあえずは一件落着と言っていいのかな。
安心したらどっと疲れを自覚してしまった。いや、ただの気疲れじゃない。この倦怠感と吐き気は……もしかして。
「霊障……?」
「いや、違う。それは貪魔を移した後遺症みたいなものだ」
なにそれ。それも聞いてないんですけど?
「お前は貪魔を煽って取り憑かせたのだから、相手はあの短時間でも全力でお前を害したはずだ。まあ、一眠りすれば治ると思うが」
「一眠りしたらレポート間に合わないんですけど……」
「……そうか。ならば今すぐにはどうにもならない」
「…………」
結局、その日俺は夜通し吐きそうになりながら死ぬ気でレポートを終わらせた。家に帰って一眠りしたら本当に体調は戻った。
妖怪とか、隠世とか、さらにスケールの違う話に戸惑いはしたけど、もう二ヶ月もサナギの除霊に付き合ってきたあとではそのどれも否定する気にもならなかった。
……そういえば。「一緒に連れていってくれる"何か"を探している」とサナギは言った。あいつが「どこに」とは言わなかったのは、それが隠世かもしれないと思っていたからなんじゃないか。連れていってくれる相手は幽霊か、妖怪か分からないけど。連れていかれる先はあの世か、隠世か、とにかくここでないどこかへ一緒に行きたい、と。そういうことだったのかもしれない。
あの世へ行くことが「死」だとするなら、隠世へ行くことはなんなんだろう。神隠しーー行方不明、とかなんだろうか。
たしか、失踪して七年間が経つと、死亡と見なされると聞いたことがある。つまり、それはゆっくり死んでいくことと同じなんじゃないか。
だったらやっぱり、俺はそれを受け入れたくない。だって、一緒に授業受けて、出掛けて、飲みに行って、ラーメン食べて、テスト勉強して。そういう相手が死ぬのはさ。もう寝覚めが悪いとか、そういう話じゃなくて。普通に……嫌、だろ。
ついに、前期の全科目のテストが終了した。俺たちは無事の完走を祝した打ち上げのために集まっている。ちなみに、場所は俺の寮だ。居酒屋は霊の温床だと知ってしまって、もう行く気がしない。
缶のお酒で乾杯して、つまみに買ってきた菓子類を大胆に広げた。
「はあー、なんとか無事に夏休みを迎えられるな」
レモンサワーを傾けながら、ほっと息をつく。仕事と両立しながらだった去年までに比べればずいぶんゆとりはあったとはいえ、やっぱりテスト期間には独特の緊張感があった。
「結果はいつ分かるんだ」
「だいたい毎年八月の半ばくらいだな。科目登録のページから成績も見られようになるんだよ」
「なら、まだ無事かどうかは分からないんじゃないのか」
「嫌なこと言うなあお前。そんなこと考えてたら夏休みを楽しめないだろ。こういうのはやるだけやったら、あとは一旦忘れるもんなんだよ。覚えとけ」
「そうか」
まあ、サナギが単位を落とす心配はあまりないのかもしれないんだけど。とはいえ、今回は一緒に勉強した中国語基礎が無事に取れているといいな。
取り留めもない話をするうち、テーブルに広げた菓子が少しずつなくなってきた。床には潰れた空き缶が数本転がっている。
サナギはザルで全然酔わないらしいけど、俺はこれだけ量を飲むとさすがにだんだん酔いがまわってきたらしい。心地よい浮遊感と包み込まれるような眠気で目蓋がとろんとしてきた。
「……俺にも、見えたらよかったのにな」
半ば無意識に、口が動いている。頭がまわらない。
「自分が何かを寄せ付けてるかもしれないって、小学生くらいでもう薄々気づいてたよ。見えないから確信は持てないし、何が憑いてるのかも分からなくて、怖かったなあ……」
取り憑いた何かに呪われたり、祟られたりするんじゃないかって、ずっと思ってた。風邪で寝込むだけでも、俺はこのままおばけに殺されるかもしれないと怯えた。
「…………なあ、サナギ。俺は、呪われてると思うか?」
考え続けて、もう七年になる。だから、俺に見えない何かがお前に見えているなら、どうか教えてほしい。
七年前、中学二年の夏だ。年の離れた妹の美和はその時小学三年生だった。両親の運転する車で、俺たちは海に向かっていた。美和がどうしても海に行きたいとねだったからだ。美和はわがままで甘えん坊のお姫様で、手がかかる分誰からもかわいがられていた。俺は思春期真っ盛りで、家族で出掛けるなんてと渋い反応をしたけど、「お兄ちゃんも一緒じゃないとイヤだ」と騒がれて根負けした。
懐かしい、とても夏らしく、爽やかな暑い日だった。
母さんと一緒にトランクに浮き輪やパラソルを詰めていると、美和が父さんに肩車されて玄関から出てきた。視界の高さにはしゃいで、キャーキャーと楽しそうに騒いでいる。
「はい、到着~!」
父さんは美和をひょいと抱き上げ、後部座席のジュニアシートに座らせた。カチッとシートベルトの音が軽やかに鳴る。
俺も荷物を積み終えると、後部座席の反対側に乗り込んだ。
「海、どのくらいで着くの」
「三十分ぐらいだよ。まだ眠いのか?」
「そうじゃないけど」
「ねえねえ、お菓子食べていい?」
「まだ出たばっかりでしょ。もう少ししたらね」
美和がやれしりとりしようだの、隣の車に犬が乗っていただのとひっきりなしに喋り続けるので、車の中はずっと騒がしかった。
夏休みの海なんて、人が多そうでイヤだなあ。同級生とか、もし来てたら家族と来てるところ見られたくないなあ。今日は日射しが強かったし、海の家でかき氷でも買ってパラソルの下で食べようかなあ。
「ほら、海が見えてきたぞ」
ぼんやり一人で考え事をしていたら、運転席の父さんが朗らかに笑った。助手席の母さんがわっと歓声をあげた。つられて俺も窓の外を見た。
「! 綺麗……」
水面に太陽が降り注いで、キラキラ輝いていた。一面の青が窓の外に広がっていた。
ーーどくん。
不意に胸騒ぎがした。なぜだか俺はきょろきょろとあたりを見回していた。
なんだろう。いま、何か……。
「っ…………!」
そのとき、真っ黒い影が迫って、鼓膜が引きちぎれそうなほどの衝撃音に突き上げられた。何が起きたのか理解する前にふわっと身体が宙に投げ出されて、次の瞬間俺はアスファルトに叩きつけられていた。
「ーーッ!!!」
痛い。やばい。痛すぎて、息が吸えない。痛いーー。
おそらく、そこから数分の間俺は意識を飛ばしていて、次にはっと目を開けた瞬間、また身体を引き裂くような痛みで頭が真っ白になった。
ぼやけた視界の向こう、遠くに横転した車が見えた。助手席側が潰れて変形している。俺がいた後部座席のドアはなくなっていた。必死に周囲を見回しても、家族の姿はなかった。なら、みんな車の中にーー。
ボッと聞いたことのない音がした。それから、車が一瞬で炎に包まれた。
お父さん。お母さん。美和。必死に呼ぼうとしたけど、声がでなかった。身体もピクリとも動かせなかった。
火はしばらく燃え続けた。俺は地面に倒れたまま、ただ目の前で家族が焼かれていくのを見ていることしかできなかった。
話の区切りに顔を上げると、サナギは神妙な顔でじっとこちらを見ていた。相変わらず、何を考えているのかよく分からない。手に持っていたレモンサワーを飲み干した。
「そのあと、俺は救急車で運ばれてなんとか生き残ったけど、家族は全員助からなかった。交差点でトラックが突っ込んできたんだってあとから聞いた。『信号を見落とした』ってさ」
それが運悪く燃料を積んだトラックだったせいで、ガソリンに引火して車は炎上した。
「その頃って、まだ後部座席のシートベルトはちょっとなあなあだっただろ。たしか、法律ができてまだ数年でさ……だから俺、シートベルトしてなかったんだ。おかげで俺だけ外に吹っ飛ばされた」
打ち所が悪ければ俺も死んでた。助かってよかった、奇跡だって言われたけど、俺は喜べなかった。だって、どうしても考えてしまうから。
「……俺のせいなんじゃないか、って」
自分は、目に見えない何かを寄せ付けてしまう体質かもしれない。いつかそれに呪われるかもしれないとずっと恐れていた。
あの時、俺は説明できない何かを感じてた。事故の後のカウンセリングで、大きな事故の前にそういう第六感みたいなものが働くことはよくあるんだと言われたけど、どうしてもそうは思えなかった。
「俺に憑いた何かが、あの日ついに俺や家族を呪ったんじゃないか。俺がいなければ、あの事故は起きなかったんじゃないか」
……それなら、俺は生き残るべきじゃなかったんじゃないか。
何度考えたか分からない。だけど、俺には何も見えないから、いつまで経っても答えは出ない。
サナギが手に持っていた缶をそっと机に置いた。俺の方をじっと見て、数秒。それから、顔色を変えないまま口を開く。
「これまでお前に惹かれた怪異は小物ばかりだっただろう。事故を起こして人を殺すなんて、そんな大層なことができる大物はお前になど興味を持たない。思い上がるな」
「はっ。なんだよそれ」
「つまり……お前のせいじゃない」
「! …………そう、か」
うまく言葉が出てこなかった。ずっと求めてきた答えを、突然ぽんと目の前に差し出されたら、人はうまく受け取れないのだと分かった。
ーーお前のせいじゃない。
ずっと、誰かにそう言ってほしかった。…………そっか。俺のせいじゃないんだ。……よかった。
やっとうまく息が吸えた気がした。それは、俺の人生をまるごと救ってしまうほど特別な言葉だった。
肩が軽い気がする。ああ、俺はずっとこの「罪悪感」に取り憑かれてたのか。でももう、そろそろおろしてもいいのかな。そうしたらきっと、俺は俺が生きてることを肯定できる気がする。その先には、やっと俺の人生が待っているようなーー。
手にした希望は大きすぎて、まだ少し落ち着かない。だけど。
大学三年の夏休み。俺の未来は、きっとここから始まるんだ。
