「っ……!!」
息があがっている。心臓は早鐘を打って、まだ春先だというのに背中にはぐっしょりと嫌な汗をかいていた。
どんな夢を見ていたんだっけ。記憶と痛みがぐちゃぐちゃに混ざったような、気分の悪さだけが後を引いている。まだ息も整わない。
ぼんやりと夢現の寝ぼけ眼で辺りを見回す。
六畳一間の個室に備え付けのベッド、ミニキッチンとユニットバス。未だに見慣れないーーけど、ここはたしかに俺の部屋だ。
この春から俺は、斎玉大学の学生寮で暮らしはじめた。大学まで徒歩十分の好立地で、都心の一角にありながら家賃は月四万円。その破格の安さを思えば、建物の古さや個室の狭さはたいして気にならない。
何より、安い学生寮となると相部屋なところも多いと聞くが、ここは俺ひとりだけの空間だ。
ーーその、はずなのに。
ここに住み始めてからずっと、じっとりとこびりつくような視線をどこからか感じている。それで参ってしまっているのか、ここ数日は毎日悪夢で飛び起きる。
日当たりが悪く、薄ら寒い空気のせいだろうか。今日も、頭が痛い。
目覚ましに熱いシャワーを浴びて、適当な服に着替えた。あまり食欲がないから、朝食はコーヒーだけでいいか。
寮を出ると、入り口近くで寮母さんが佇んでいた。大きな麦わら帽子に軍手をしていて、庭仕事の最中だったと見受けられるが、妙に眉の下がった困り顔だった。
「おはようございます。どうしたんですか?」
「ああ、おはよう山藤くん。実は、寮の前で猫が亡くなってるのよ」
「え……」
視線の先をみると、たしかに道路の真ん中にぽつんと何かが横たわっているのが見えた。車に轢かれたのか。ずんと心臓が重くなる。
「役所に連絡したらすぐ引き取りに来てくれるって話だったんだけど、朝からちょっと嫌な気持ちよね」
「……」
たしかに、嫌な気持ちだ。この辺りはあまり街灯もないし、夜は視界が悪くて、小さな猫までは見落としてしまったのかもしれない。痛くて苦しくて、呆気ない最期だっただろうな。
「……軍手、もらえませんか」
「え……ああ、いいけど、どうするの?」
別に、どうにもできない。生き返らせてやることも、墓をつくってやることも。
「……あそこじゃ、これからくる車にも轢かれるだろうから」
手を合わせて、静かに目をつぶる。無力でごめんな。どうか、安らかに。
冷たくなった猫の身体を道の脇に寄せた。寮の庭の桜が風に揺れて、小さな白い花びらが赤茶の毛並みの上に静かに舞った。
「……じゃあ、いってきます」
少しギリギリになってしまったが、遅刻するほどでもない。キャンパスは授業に向かう人で賑わっていた。
……なんか、今吐きそう。やばい。軍手越しとはいえ猫の死骸触ったし、何か感染したとか? 考えているうちにどんどん足が重くなってくる。気持ち悪い。
「……っ」
不意にぐわんと視界が大きく歪んだ。直後、キンと甲高い音が耳から脳を貫くような錯覚に襲われた。閉塞感のある耳鳴りのせいで、世界から切り離されたような気分になる。身体が重い。そういえば、朝起きたときよりも頭痛がずいぶん酷くなっている。
気持ち悪い。……寒い。
立っていられなくて、半ば縋りつくようにそばのベンチに腰を下ろした。顔を上げられない。どうしよう。なんだこれ。目が回るーー。
「……!」
トン、と何かが肩に触れた。あたたかい。人の手だった。誰かが目の前に立っている。
「え……」
すっと波が引くように、耳鳴りが止んで目眩や吐き気が治まった。なんで、急に……。
そっと顔を上げると、見慣れない男が仏頂面でじっと俺を見下ろしていた。銀色の細い髪が陽光を浴びてきらきらと光って見える。
「猫」
「……!」
唐突に、今朝の出来事を言い当てられたようで驚いた。何かみてたのか? もしかして寮生だろうか。
「飼ってたのか」
「え? あ、いや……」
「そうか」
会話が途切れる。朝のやり取りをみてたわけじゃないのか? あのシチュエーションであれが俺の飼い猫に見えることがあるだろうか?
でも、だとしたらなんで猫のこと知って……。
「憑いてたぞ。お前の肩に」
「は……」
「もう成仏させた」
何を言ってるんだ、こいつは……?
返す言葉を失っていると、不意に男の鞄にぶら下がる定期入れが目に入った。ICカードには駅名の印字がされている。てことは、通学定期券だ。寮生じゃない。駅の方から来たのなら、寮の近くも通らないはずだ。なら、どうして。
「顔色が悪いな。猫だけじゃないらしい」
「何の話だ」
「霊障だよ」
聞き慣れない言葉だった。その男によれば、術や呪いの類いではなく、ただ霊が近くにいることによって起きる心身の不調をそう呼ぶらしい。
つまり、俺には今朝の猫の霊が憑いていたと、そのせいで体調がおかしかったんだと、こいつは本気で言ってるのか? 信じられない。けど……たしかにこいつに触れられた瞬間、嘘のように不調が消えた。猫のことを言い当てられたのも気味が悪い。もし感染症や何かの病気だったとしたら、肩に触れられただけでこんな風に症状が消えるはずはない。
まさか……本当、なのか……?
「おい。聞いてるのか」
「え、ああ……悪い。聞いてる」
「それで、お前のその霊障だが、猫以外に心当たりはないのか」
まずい。俺は今、突然話しかけてきた男のオカルト話を真に受けようとしている。だって、俺には"心当たりがある"。
墓の前を通ると、いつも身体が重くなる。肝試しをすると、一人だけ必ず体調を崩した。事故の多い交差点や病院も苦手だった。だから。
「たぶん……取り憑かれやすい体質、なんだと思う」
「みえるのか」
「いや、まったく。なんとなく嫌な感じがするって程度だ。でも、今まで何度も似たようなことはあったからな。さすがにそうじゃないかって疑ってた」
「そうか」
馬鹿にはしないのか、こんな話。……いや、こいつが先に成仏とか心霊とか言い出したんだった。それで、つい。
初めてこんなこと、人に話してしまった。
「最近、学生寮に入った。体調がおかしくなったのはそれからだ」
「なら、寮に案内しろ。除霊してやる」
「なんの押し売りだよ。そんな金ねえよ」
除霊の相場なんて想像もつかないけど、たぶん一万くらいはするんじゃないか。悪いが俺にそんな金はない。
「金は取らない。除霊は俺のライフワークだ」
「はあ……? だとしても、それよりまず授業だろ」
いや待て。なんで部屋に連れていく感じで返事してるんだよ、俺。
「それならもう始まってる。遅刻も欠席も似たようなものだ」
「……」
ああもう、調子狂うな。なんなんだこいつ。
というか、ライフワーク? なんだそれ。意味が分からない。だいたい、俺の不調をみかねて善意で言ってるにしても、傍若無人過ぎるだろ。あと遅刻と欠席は大違いだ。
「……せめて、授業の後にしてくれ。今日は三限で終わりだから」
「仕方ないな。なら三限のあとここで待ち合わせよう。お前、名前は」
「……山藤禄」
「山藤。俺は冴凪だ」
サナギ……? 変わった名前だな。というか、お前はフルネーム名乗らないのかよ。まあ、どっちでもいいけど。
それから、小走りに教室に向かいながら、俺はぐるぐるとさっきまでの時間を反芻していた。
なんだったんだ、あれは。だけど、身体は嘘のようにもうなんともない。あいつに触れられる前は、立ち上がれないほどだったのに。……本当なのか。本当に俺は、あいつを部屋に上げるつもりなのか。
取り憑かれやすい体質。それも、本当だったのか。じゃあ、やっぱり……。
ーーああ、嫌なことを考えた。朝から轢かれた猫なんて、見てしまったせいかもしれない。
そうして、三限を終えた昼下がり、俺は寮までの道を歩いていた。隣には銀髪の男ーーサナギが無愛想に眉間に皺を寄せている。
オカルト話を信じてよく知らない男を部屋に招くなんて、俺はどうかしてしまったんだろうか。……違う。俺は、知りたいんだ。寮に何がいるのか、そして、自分に何が起きているのかを。
「寮にはこの春から住んでるのか」
「ああ、そうだな」
「なら、一年か」
「いや、三年だよ。この二年間は新聞奨学生だったんだ」
入学から二年間、俺は新聞販売店の用意してくれた部屋に住んでいた。授業以外は朝から晩まで仕事漬けの毎日で、本当に多忙だったけど、他のことを考える暇がない生活も悪くはなかった。そして、二年間で学費を稼ぎ終え、この春からようやく俺の普通の学生生活が始まったのだった。
そして、話してみるとなんと、サナギも同じ学年、しかも同じ学部だったことが分かった。まあ、同じ学部とはいっても千人近くいるわけで、面識がなくても仕方がない。正直サナギが大学でまともに友人関係を築いてきたとは思えないし、俺もこの二年は生活に必死で友達づくりどころの話ではなかった。
「で、お前の住みはじめた寮には霊がいるのか」
「知らねえよ。俺は見えないんだって。でも、そういう噂は昔からあるらしい」
夜中に白い影をみたとか、変な物音を聞いたとか、そんな話が何年も語り継がれているようで、寮の口コミにも幽霊が出ると書かれていた。
「なら、いるんだろうな。火の無い所に煙は立たない。何もいないところに心霊の噂は立たない」
「ほんとかよ」
「本当だ。噂のある場所には大抵なにかしらの怪異が憑いている。俺はその除霊をライフワークにしている」
「なあ、さっきも行ってたけどそのライフワークってなんなんだよ? てか、そもそも除霊ってなんなんだ?」
なんとなく当たり障りない雑談をしてしまったが、一番聞きたいのはどう考えてもそれだった。こいつの学年とか学部なんて、冷静に考えると全然興味なかった。
「除霊は霊を除くと書く。成仏させること、脅威を消し去ること、どちらも除霊に含まれる」
脅威を消し去る、って、悪い化け物を倒してやっつける的な話か? 除霊というと祈祷やお払い的なものを想像するが、そういう妖怪大戦的なバトルもそのライフワークとやらに含まれているってことだろうか。
「なんで除霊なんてしようと思ったんだ? 霊が見えるからか?」
「いや、そうじゃない。除霊は家業だ。血筋の者はみえる者ばかりだった」
なるほど。まあたしかに、漫画なんかでもそういうオカルト職業は世襲制というか、代々家業として続いているパターンが多い気がする。いきなり思い立って除霊師を志して、一代で事業を起こす人は稀なのかもしれない。除霊師のなり方なんて、ネットで調べても出てこなさそうだし、大学のキャリアセンターで「除霊師になりたい」なんて口走れば笑い者だろう。
「幼い頃から除霊術を教えられてきたから、俺にとってはこの生き方が自然なんだ。報酬を得ているわけではないから仕事とは違うし、楽しくてしているわけではないから趣味とも違う。ただ、やらずに生きていく方法が分からない。一番しっくり来る言葉が『ライフワーク』だった」
ああ、はいはい。このあたりの価値観はたぶん凡人には理解不能なやつだ。なんとなく言いたいことはわかったからよしとしよう。
そうして話しているうちに、あっという間に寮の前に着いてしまった。
「あ……」
「なにかいたのか」
「いや……」
今朝の猫は、もういなくなっていた。そうか、役所の人が引き取っていったんだな。それなら、少しは落ち着けただろうか。できれば静かに眠れていたらいい。サナギが成仏させたとも言っていたしな。こいつの話がオカルトじみた眉唾でも、それだけは俺も信じていたい。
部屋に入ると、サナギはきょろきょろと部屋の中を見回してほうと息を漏らした。やっぱり、どこか空気がどんよりしている気がする。帰ってきた途端にツキリと頭痛がぶり返す。気休めに窓を開けて部屋を換気した。
「なんだよ。ほんとに何かいたのか」
「いる……というか、これは」
サナギの視線の先には何もない。
「満員電車みたいだな」
「……は?」
「この寮に憑いた霊の類いがこの部屋に集まってすし詰めになってる。すごいな」
頭の中で、狭い部屋にぎゅうぎゅう詰めの幽霊を想像してしまう。なんだそれ。なんかすごく嫌だ。
「悪意のない地縛霊や思念の塊ばかりだが、これだけ数がいれば身体に影響も出るだろうな」
「つまり、そのすし詰め満員電車を、俺が引き寄せたってことか……?」
「そうだ。磁石みたいで便利だな」
クッッソ。危ない、舌打ちしそうになった。何が便利だ。さらっと言いやがって。脳裏に磁石を使って砂場で砂鉄を集める光景が思い浮かんで、何か無性にイラッとした。
話しながら、サナギは何かを部屋に撒いた。途端、すっと空気の澱みが軽くなる。胸のつかえが急に取れたみたいに、息苦しさが緩和された。
「な、にしたんだよ、それ」
「清めた塩だ。これだけで思念の吹き溜まりやなんかは大抵浄化できる。……さて、これでようやく顔が見えたな」
サナギが何もない空間に向かって言い放つ。そこにはたしかに、何かの気配が揺れていた。
ターミナル駅で、満員電車からごっそり人が降りた時に似ている。うるさいほどのざわめきが落ち着いて、がらんとした部屋にはいくつかの気配だけが残された。その中心で、男の姿をした霊がじっと座ってこちらを見ている。
「地縛霊か」
「ああ。俺は福田だ。あんたは陰陽師か何かか」
「除霊師だ。その男の霊障を解消しに来た」
「つまり、あんたは俺をどうにかしに来たってわけだ。はあ、そうか。ついに俺にもこういう日が来るんだな」
地縛霊はすっと目を細めて淡く微笑んだ。敵意は感じない。
「おい、俺を置いて霊と話すな。ちゃんと解説しろ」
横から山藤が茶々を入れてくる。これだけ霊を引き寄せていながら、本当に何も見えていないのか。まあ、見えていたらあんな部屋ではとても生活できなかったか。知らぬが仏ということもある。
「思念の塊が消えて視界がクリアになった。残ったのはたぶん全員地縛霊だ」
「それと話せるのか」
「話せるのは一人だな。あとは人型を保てるほどの力がないようだ。ただ、数が多い。まだ十近くはいる」
山藤が分かりやすく顔をしかめた。見えない人間からすると、「この部屋は霊が満員御礼状態だ」と言われるより、「この部屋には十人ほど地縛霊がいる」と言われる方が具体的で嫌悪感があるのかもしれない。
「寮で火事があったのは知ってるか。ここにいるのは全員その時死んだ奴らだよ」
地縛霊の福田が懐かしむように口を挟む。
「寮の火事……山藤、ここでは過去に火災があったのか」
「ああ、ずいぶん昔のことだろ。聞いたことあるよ。火災で当時の寮が全焼して、その時建て替えられたのが今の寮だって」
「昭和五十三年だよ。その火事で俺を含めて九人が死んだ」
火災の死者は地縛霊になりやすいという。建物に閉じ込められ、逃げ遅れて亡くなることが多いからだ。
「その地縛霊ってのは、どんな見た目なんだ」
「ほとんど人間と変わらないが、纏う空気が少しだけ違う。この福田という地縛霊は、長い髪に丸眼鏡をかけている、髭の生えた男だ。昭和五十三年に死んだと言っているから、服はその時代のファッションなんだろう。年は三十前後に見える」
「失礼だな。享年二十四だよ俺は」
「享年二十四歳だと訂正された」
「二十四ってことは、死んだ時はもう寮生じゃなかったのか?」
「いいや、俺は一浪二留の四年生だったんだ。当時から一番の古株だったよ」
「一浪二留の四年生で古株だったそうだ」
「なるほど」
こうして会話をしていても、福田たちから山藤を脅かす意思は感じられない。むしろ友好的な空気すら感じる。山藤に惹かれて集まっていたのだから、もともと山藤と話をしてみたかったのかもしれない。それでも、彼らの意思とは関係なく、霊がこうして集まれば人間の身体には影響が出る。
「それで、こっからどうするんだよ。お祓いでもするのか」
「必要ない。こいつらは悪意のない地縛霊だ。力も弱い。お前の不調はこいつらを全員引き寄せて一ヶ所に集めたことが原因だ。分散すれば大したことは起きないだろう」
除霊をするよりも手っ取り早い。最も合理的な解決策だ。
「全員よく聞け。今後、霊は一部屋に一人までだ。それが守れるならむやみにお前たちを除霊したりはしない」
「おいおいおい、ちょっと待て。お前除霊しに来たんじゃないのかよ」
俺の呼び掛けに、山藤が焦ったように俺の腕を掴んできた。顔には分かりやすく苛立ちと焦りが見える。声のトーンも低くなった。
「必要ないと言ってる。除霊をしなくてもお前の霊障は治る」
「そうじゃない。俺の不調をなくすために、地縛霊を他の部屋の住人のところへやるなんて気乗りしないって言ってるんだよ。他人を巻き込むなんて御免だ」
「……なぜだ?」
「……は?」
なぜ、こいつは怒っているんだ。
「弱い地縛霊が一人くらい部屋にいたって大したことは起こらない。たまにラップ音が鳴るとか、少し夢見が悪くなるくらいだ。それに、どうせ誰にも見えやしない。合理的だろう」
「そんなもん関係あるか。こっちは理屈じゃなくて感情の話をしてんだよ。他人に霊を押し付けるような真似はしたくない」
同じ言語を介しているはずなのに、山藤の話す言葉の意味が理解できなかった。
「噛み合わないなあ、あんたら。でも、俺はそっちの兄ちゃんの言い分も分かるよ。例えばさあ、誰にもバレなかったとしても、ゴミをそこらにポイ捨てしたら、自分の中で確実になんか損なわれた気がするんだよな。こりゃそういう話だろ」
福田は可笑しそうに俺たちのやり取りを眺めている。俺だけが二人ともと言葉を交わしているのに、俺だけが蚊帳の外にいるみたいだ。
「……とにかく、分かった。つまり、お前はこいつらの除霊を望んでるんだな」
それならばと、両手を構えて少し腰を落とした。九人まとめて吹き飛ばすとなると、出力は高めがいいだろう。
「待て待て待て。なにしてんだよ」
「……? 除霊をしてほしいんだろう」
「ちげえよ。なんで臨戦態勢なんだよ」
「これが一番手っ取り早く除霊できるからだ」
「…………。はあ…………」
山藤が盛大なため息と共に座り込んだ。頭を抱えて唸っているところを見るに、何か俺はまた間違えたらしい。隣で福田がケタケタと笑っている。周囲の曖昧な地縛霊たちにもうっすら馬鹿にされている気がしてくる。
「お前、除霊はライフワークだとか言ってたけど」
山藤が顔をあげないままに話し始める。
「いつもこんなことしてるのかよ」
「こんなこと、とは何だ」
「他人に幽霊を取り憑かせるとか、何かあっちゃ殴って解決みたいなことだよ」
「まあ、そうだな。それが最適であればそうする」
山藤は何かを言いかけて、ぐっと言葉を飲み込むような仕草をした。山藤が何を言いたかったのか、俺には想像できない。
それから、山藤はひどく疲れたような顔で、やっとこちらを見上げた。
「……猫は。どうしたんだよ」
「言った通りだ。成仏させた」
「その時はさっきみたいな構えで殴ったわけじゃなかっただろ」
「ああ、そうだな」
猫に施したのは簡単な浄化術だった。分かりやすく言うなら、道に迷って混乱して気が立っていたところを、気持ちを落ち着かせてそっと正しい道へ促した。
「地縛霊は同じようにはできないのか」
「状況が違う。同じ術ではこいつらには効果がない」
「荒っぽい手段以外はないってことか」
「なくはない」
「じゃあ、それにしてくれ」
「どうしてだ」
再び、山藤が黙り込む。
「さっき、お前はその人の容姿を俺に説明したよな。それは俺からすれば人間そのもののように聞こえた」
「まあ、見た目にはほとんど差はないな」
「だから、殴ったり蔑ろにするのは抵抗があるんだよ。話の通じない怪物じゃないなら、人同士のように話し合って解決したい」
「……」
「勝手に他人を巻き込むな。安易に暴力を振るうな。……俺、なにか変なこと言ってるか?」
「それは……俺には、分からない」
ちらりと福田に視線をやれば、福田は肩を竦めて小さく口許を緩ませた。好きにしろと言っているように見えた。
山藤の言葉を無視して、無理やり除霊を進めることもできる。けれど、そもそもここに来たのは山藤の問題を解決するため、人助けのためだ。俺の考えたやり方では恐らく、山藤は救われないのだろう。それでは本末転倒のように思えた。ならば、取るべき方法はひとつだ。
「お前たちを、全員成仏させる」
俺の言葉に、山藤はほっとしたように肩の力を抜いた。福田はベッドに腰掛けて、他人事のようにうんと身体を伸ばしていた。
「それで、成仏ってのはどうやってさせるんだよ」
「いろいろやり方はあるが、今回のような地縛霊には『心残りを解消する』というのが一番穏便だろうな。しかし九人もいるとなるとかなり骨が折れる。特に、福田以外の八人とは意思の疎通も難しい」
「ああ、それなら大丈夫だよ」
思案していると、福田がひょいと片手をあげた。
「こいつらは俺のツレだ。俺がいつまでも残ってるからって、一緒になって留まらせちまってるだけなんだよ。俺が成仏できりゃ、俺が責任もってこいつらも一緒に連れていく」
なるほど、そういうことならば、これは想像したよりもずっと楽な除霊になるかもしれない。とはいえ、心残りがどんなものかによっては、解消が難しい場合もある。その不確実性からも、俺はこれがあまりいい手段だとは思わない。
「それで、お前の心残りはなんなんだ」
「……煙草だ。最後に、煙草を一本吸いたいんだ」
昭和五十三年、冬。その日、珍しいほどにツキのよかった俺は、賭け麻雀で大勝してまとまった金を手に入れた。酒の抜けきらない身体で歩いた帰り道、興奮の余韻のせいか朝日が妙に眩しく感じたものだった。
歓楽街を抜けた先、路地裏の電気屋の一角に面白いものを見つけた。ビデオデッキの中古品だ。ビデオデッキといえば、当時まだ世に出たばかりで、学生にはとても手の届かない高級品だった。それが、相場の半額以下で電気屋の店頭に並んでいたのだ。
これはとんでもない掘り出し物だ。早速いい金の使い道を見つけたぞ。こんなところまで今日の俺はツイてる。寮に持って帰ったらあいつらどんな顔して喜ぶだろうな。
ずるずると大学に居座るうち、気づけば寮の最年長になっていた。当時の寮は風呂トイレ共同、食事付きの男子寮だった。狭い個室の他に、食堂代わりの共同の和室があって、多くの寮生が毎夜集まっては酒盛りをしていたものだ。俺にとっては第二の我が家のようなものだった。あの場所が好きだったんだ。
和室にあるテレビは寮生みんなの共同の娯楽だが、だからこそ見たかった番組を見逃して嘆くなんてのは日常茶飯事だった。ビデオデッキの録画機能はそんな俺たちにとっての革命になるだろう。
親には苦労かけてばかりのろくでなしの息子だが、こんな俺でも寮生たちはみんなかわいい弟のように思っている。せっかくこんなでかい金が入ったなら、慕ってくれるあいつらのためにパーっと使いたい。
俺は胸を踊らせながら、そのビデオデッキを寮に持ち帰った。なんと、電気屋の親父が気を利かせて、デッキのおまけにダビングしたビデオも譲ってくれた。あいつらと見るのが楽しみでたまらなかった。
寮内はむさ苦しい男臭さと、視界が霞むほどの煙草の煙がいつも充満していた。俺が扉を開ける音で、和室に集まっていた数人がこちらを振り返る。
「あれ、福田さん。なんすかそのでかいの」
「これな。すげえの手に入れてきたぞ。おい、他の奴らも呼んでこいよ」
「うわ、これビデオデッキじゃないすか!」
「あっ。お前また勝手に開けて……」
思わず苦笑したが、ビデオデッキと聞き付けてわらわらと他の寮生たちも集まってきた。これは呼びに行くまでもなかったか。
「え、ビデオデッキ!?」
「すげえ、本物だ」
目を輝かせて飛び付く様子を見て、思わず口角が上がる。いかつい見た目のでかい機械はなんとも男心をくすぐるものだ。やっぱり、買ってきてよかったな。
「これ、どうやって使うんだよ」
「テレビに繋げればいいんじゃないのか。そこら辺のコード、どれか使えるだろ」
「おい、これどれが抜いていいやつだ?」
すぐに数人がビデオデッキの配線に取りかかる。俺は気分をよくしながら、テレビの前に腰を下ろしてセッタに火をつけた。甘苦い煙を深く吸い込んで、ゆっくりと天井に向かって吐き出す。
そして、ああでもないこうでもないと言い合いながら配線に奮闘することしばらくーー。
「映った!!」
どっと歓声があがる。流れ始めたのは、先週放送されていたテレビ番組だった。すごい。これが録画機能なのか。
「おい、巻き戻ししてみろよ」
「おおお、本当に戻ったぞ!」
「くそ、触るなよ。早く続きを見せろ」
大の男どもがテレビにかじりついて早速喧嘩を始めた。その光景に気分がよくなって、俺は次のセッタに火をつけながら声をあげて笑った。
それから俺たちは連日連夜ビデオデッキに夢中になった。和室のテレビの前には毎日大勢の寮生が団子になってたものだ。あの頃は大抵のやつが煙草好きで、和室の天井あたりにはいつも白い煙が燻っていた。
人生で一番の高い買い物だったが、十分に元を取ったと思えるほどに俺たちは新しいおもちゃを使い倒した。
それから一月ほど経ったある夜。
その頃、ビデオデッキの電源コードが熱を持つことがよくあった。でも録画や再生には問題がなくて、俺たちは気にしなかった。
その夜はやけに焦げ臭い匂いがしていたが、それも誰かが煙草の灰を落としたせいだと思い込んだ。
不意にチリチリ、パチパチと弾けるような音が聞こえて、テレビの画面にノイズが走った。かと思うと、ぷつんと画面が真っ黒になって、床の隅から細い煙があがってるのが見えた。あっと思った次の瞬間、火種がふすまに燃え移って一気に炎が広がった。
「おい、風呂場から水もってこい!」
俺が咄嗟に声をかけると、その場にいた奴らはすぐに風呂場に駆け出した。俺も後輩たちと共に駆けずり回って、必死で消火を試みた。けれど、古い木造の寮はあっという間に火の海になって、入り口が焼け落ちたことで俺たちは完全に逃げ道を塞がれてしまった。
多くの寮生が火の手に気づいてすぐに建物の外へ逃げた中、部屋に残って消火を試みた者は俺を含めて九人いた。その全員が、あの遠く懐かしい旧寮舎と共に炭になったのだった。
福田の語った死の記憶に、思わずじっと黙り込んだ。
「当時の捜査でも、一番焼損が激しかった和室のテレビ周りが出火元だってことまでは分かったみたいだが、デッキは原型を留めないほどに焼けちまって、配線周りも完全に炭になってた。それに、寮生のほとんどは喫煙者で、あの和室にもいくつも灰皿が転がってた。結局、『電気火災の可能性もあるが断定はできない』ってことで、火事の原因は煙草の不始末が原因である可能性が高いって結論に落ち着いたんだ。本当の原因はあのビデオデッキの電源コードだったのにな」
その結果、新しく作られた寮では、煙草の持ち込み厳禁、見つかれば罰金の上即刻退寮という厳しいルールが設けられたのだという。
「俺は本当に、ただ新しい寮の完成を見届けて、あとは一本煙草を吸ったらもう思い残すことはないって思ってたんだよ。それなのに、新しい寮じゃ誰も煙草を持ってなかった。実際のとこ、煙草はなんも悪くねえのに、ひでえ話だよ」
福田はひときわ深いため息で話を結んだ。聞いた話を山藤に伝えると、山藤も神妙な顔になってじっと目を伏せた。まるで旧知の友人をたった今亡くしたように、山藤は唇の端を震わせている。
繊細なんだなと思った。それに、怪異どもが磁石のように山藤に惹かれた理由も分かった気がする。
山藤はゆっくりと時間をかけて聞いた話を飲み込み、それからようやく口を開いた。
「今のルールでは、もう煙草の持ち込み厳禁ってわけじゃないはずだ。福田さんのために俺が煙草を買ってきたとしても問題にはならない」
時代と共に煙草に対する価値観も大きく変化している。喫煙者自体が減り、屋内禁煙が当たり前になった昨今では、最早厳格な取り締まりは必要なくなったのだろう。ただ、問題はそれだけではない。
「煙草を持ち込めたとしても、こいつはそれに触れられない。現実に干渉するなら実体が必要だ」
「実体……って、つまり」
「福田を誰かに取り憑かせる必要があるということだ」
山藤の目が小さく見開かれる。
「それは……なにか、危険があることなのか」
「霊障は避けられないだろうな。多くの場合は目眩や頭痛、吐き気を感じる。霊が離れてからも、しばらくは倦怠感が残るかもしれない」
「そういうことなら、俺がやるよ」
なぜだか、山藤はほっとしているように見えた。他人に霊を憑かせると言ったらあれだけ激昂していた男が、自分に霊を憑かせるとなるとやけにあっさり引き受けるのだな。しかも、前者はほとんどなんの影響もないもので、後者は身体に不調を来すものだと説明しているのに。
「他人を巻き込むのは論外。ならここには俺とお前しかいない。霊に対処できるのはお前だけなんだから、器は俺がなるべきだ。簡単な話だろ?」
山藤はあっさりと言いきり、煙草を買いに行くと言って寮を出ていった。後には、俺と福田と、曖昧な地縛霊たちだけが残される。
「あんたら、面白いコンビだな。あんたはうるさく思ってるかもしれないが、あれはいい友達だぞ。大事にしろよ」
「友達じゃない。コンビになった覚えもない」
「はは、そうかよ。冷たいな」
そうだろうか。俺たちは価値観が大きく異なっているようだったし、あまり相性が良いとは思えない。そもそも、俺はまともに人間と付き合えたことだって一度もないのだ。まして誰かと友情を育むなど、とてもできそうもない。
福田に何かを尋ねたい気がしたが、何を聞けばいいのか分からなかった。俺はそれほどまでに友達というものを何一つ分かっていないのだった。
まもなく山藤が帰宅した。片手に提げた小さなビニール袋から、セブンスターと安いライターが取り出される。
「これで合ってるか」
「ああ、それだ。懐かしいな。パッケージもずいぶん変わっちまった」
福田が煙草に飛び付くようにして、俺の横をすり抜けた。
「それで間違いないそうだ」
「それならよかった。じゃあ、はじめてくれ」
「……いいんだな」
「ああ。問題ない」
山藤の目には覚悟が浮かんでいた。胸の端で言葉にならない違和感を覚えたが、本人がいいと言っているのだから俺に言えることはもう何もない。力のない地縛霊が短時間身体に入り込むだけだ。体調は崩すだろうが、死ぬわけじゃない。
「……だそうだ」
「じゃ、遠慮なく」
視線を寄越すと、福田はにっと歯を見せてから山藤に歩み寄り、そっと背中に手を重ねた。二人の境目が曖昧になり、福田の姿が見えなくなる。
山藤は電源が切れたようにしばらく固まってから、静かに目を開けた。
もうそこに山藤の気配はなかった。
「うまく入り込めたのか」
「まあ、一応なんとかな」
山藤の声が答える。けれど纏う雰囲気は別物だ。取り憑く、とりわけ身体を乗っ取る行為は、大きく分けて二種類ある。ひとつは完全にその身体の主体を奪う方法。もうひとつは表層の意識を交代する方法。福田が行っているのは後者で、力の弱い霊でも比較的簡単に行えるものだ。山藤の意思は深層で眠っているだけで、福田が身体を明け渡せばすぐにもとに戻る。
「なあ、陰陽師さんよ。俺がもし悪い幽霊だったら、このままこいつの身体を乗っ取ろうとかしたんじゃねえのか」
「残念だがそれはできない。その身体はお前の意識を異物と認識している。長く身体に留まろうとしても、自然に押し出されるだけだ。それと、俺は陰陽師ではなく除霊師だ」
「へえ。それじゃ追い出される前にありがたく一服させてもらわねえとな」
福田がテーブルの上の煙草とライターに手を伸ばす。箱をそっと撫でた後、形を確かめるように何度か握り込む、その所作のひとつひとつに、あたたかな懐古の念が滲んでいた。
「屋内は禁煙だ。ベランダに出ろ」
「分かってるよ、ったく。せっかくだから、あんたも付き合えよ」
「俺は煙草は吸わない」
「いいんだよ。とりあえず隣にいてくれ」
ベランダに出ると、気づけば空は橙に染まっていた。日の落ちかけたところに春の風が吹いて、ほんのりと肌寒く感じさせる。
じゅっと隣で紙の焼ける音がした。福田が煙草に火をつけたところだった。それを一口吸い込んだ途端、激しく噎せて咳き込む。
「大丈夫か」
「ああ、この身体、煙草に全然慣れてねえな。初めてじゃないのか、これ」
「そうなんだろうな」
今度は慎重に、ゆっくりと煙を口に含んだ後、味わうように深く肺にいれた。目を閉じたままゆっくりと吐き出された煙が、ゆるゆると空に昇っていく。
「ずいぶん軽くなったな。これが時代ってやつなのか」
福田の呟きが、俺たちの間にぽつりと落ちた。沈黙の合間に、福田の呼吸の音が静かに横たわっている。
「……あの時、『逃げろ』と言えばよかったんだ」
しばらくして、福田が小さく口を開いた。
「俺のあの一言で、八人も一緒に死なせてしまった。『逃げろ』と言えていたら、きっと未来は違ってただろうな」
静かな後悔が、煙と共に吐き出される。寮と後輩たちを何より大切にしていた男は、大切なものを両方守れずに命を落とした。後悔は心を縛り、魂を彷徨わせる。
「それがお前の後悔なら、煙草は関係ないんじゃないのか」
「いいや、そんなことはないさ」
長くなった灰が崩れ落ちた。少しずつ煙草が短くなっていく。それはこの男に残された時間を示しているようだった。
「この甘ったるい焦げ臭さ、舌に残る苦味、喉の重たい熱さ、揺れる煙の白さ、紙の焼ける音。あいつらとここで過ごした日々が、そのすべてに結び付いてる。俺はただ、もう一度あいつらのことを思い出して、ゆっくり懐かしみたかったんだよ」
「……そういうものか」
煙草を吸わない俺には、分からない感覚なのかもしれない。隣にいてくれと言われたが、いい話し相手になれている気はしなかった。
「……あのビデオデッキな、安すぎたよな。あんな値段で売ってるなんておかしいって、思えたらよかったのにな」
脈絡なく呟いて、福田が笑う。
走馬灯をみているみたいだ。その灯りはもしかしたら、煙草の先の小さな赤い火のことだったのかもしれない。
「あんたが現れた時、俺は少しほっとしたよ。あんたは俺たちを消さずに留まらせようとしてくれてたんだろうけどな。俺はこれでよかったと思ってる」
「……それなら、よかった」
「これでやっとあいつらを解放してやれる。……ありがとな」
福田の手から煙草の吸い殻が溢れ落ちた。すっかり短くなって、火も自然に消えたようだった。
地縛霊たちの気配もなくなった。あれらは本当に福田を待っていたのか。こんなことになっても、お前は後輩たちに慕われていたんだな。
なあ、それなら、俺も。……最後に礼を言ってくれるなら、変わりに俺の願いを聞いてくれてもよかったのに。
「お前も俺を連れていってはくれないんだな」
ふっと意識が浮上して、そばでサナギの呟きが聞こえた。驚いて目を開ければ、サナギは空を見上げて悲しげに目を細めていた。茜色の隙間に、微かに紫煙の残り香が揺れている。
「連れていくって、何だよ?」
反射的に尋ねていた。ここまで何度もこいつの言動を疑い、イライラさせられてきたが、きっとこれが一番相容れない言葉であると直感した。
「ずっと探してるんだ」
「……何を」
「俺を一緒に連れていってくれる、"何か"を」
……なんだよそれ。お前は福田さんを成仏させたんだろ。なら一緒に行きたいって、つまり。
「……死にたいってことかよ」
怒りのようなものが沸き上がり、反射的にサナギの襟元を掴みかかろうとしていた。が、身体に力が入らず、俺はサナギの胸元に縋りついただけだった。身体が重い。サナギを突き飛ばして、怒鳴って出ていきたい気分だったのに、ひどい倦怠感のせいで立ち上がることもできそうにない。悔しいけれど、サナギが俺の身体を受け止めていなければそのまま倒れ込んでいたと思う。
「大丈夫か」
「……あまり」
「話していた通り、しばらくは霊障が続くと思え。ただ、この寮に憑いていた霊はすべて成仏させた。今の症状が治まれば、お前の体調不良は解消するはずだ」
成仏できたのか。改めてそう聞いてほっとした。体調は最悪だけど、俺のしたことにも意味はあったみたいだ。
部屋に入って横になると、気分の悪さが少しはましになった気がした。この状態の俺を置いて帰るのは忍びないのか、サナギは俺の横で困ったように立ち尽くしている。
こいつのことがなんとなく分かってきた。たぶん悪いやつじゃない。ただ、とてつもなく不器用で、危うい価値観を持っているだけで。
ーー朝、抱き上げた猫の冷たい身体が頭に過る。
勘弁してくれ。俺は知り合いの訃報なんて御免なんだよ。こうして言葉を交わして、名前と人となりを知ってしまったら、もう他人面はできない。お前の危うさを垣間見た上で、もし俺がこのままなにもせず、結果的にお前が死ぬことになったら。そんなの、寝覚めが悪すぎるだろ。
「サナギ。さっき、俺の体質が便利だとか言ってたよな」
「……ああ。そうだったな」
一瞬間があった。こいつ忘れてたな。俺は根に持ってるぞ。
「お前の除霊に、俺の体質は役に立つのか」
「それは、まあそうだな。お前がいると勝手に霊が寄ってくる。探す手間が省けて便利そうだ」
相変わらずの磁石扱いか。まあ、それでもいい。見えない俺でも、お前の役に立てることがあるなら。
「それなら、これからも身体くらいは貸してやる。だからお前の除霊に俺も同行させてくれないか」
「…………どうして。……お前に、なんのメリットがある」
「監視のためだよ。お前が人様に迷惑かけたりしないように。……それと、お前が死なないように」
サナギが動揺している。今日一日を通して、こんな風に分かりやすく感情が表出したところは初めて見た。
「それは、お前のメリットとは言わないんじゃないのか」
「そうでもねえよ。お前に死なれたら気分が悪い。これは俺が気分よく過ごすための提案ってことだ」
人助けのためとか、そんな高尚な理由じゃない。俺は、人の死を背負うのが怖い。その点、損得なしに人助けしてるお前の「ライフワーク」の方がよっぽど立派かもしれないな。
サナギは口をつぐんでしばらく考え込み、やがてゆっくりと顔を上げた。
「そういうことなら、その身体、使わせてもらう。改めて、これからよろしく頼む」
「おう」
こうして、俺はサナギの除霊のパートナーになることになったのだった。
大学三年、春。俺にとってのモラトリアムがようやく始まろうとしていた。
息があがっている。心臓は早鐘を打って、まだ春先だというのに背中にはぐっしょりと嫌な汗をかいていた。
どんな夢を見ていたんだっけ。記憶と痛みがぐちゃぐちゃに混ざったような、気分の悪さだけが後を引いている。まだ息も整わない。
ぼんやりと夢現の寝ぼけ眼で辺りを見回す。
六畳一間の個室に備え付けのベッド、ミニキッチンとユニットバス。未だに見慣れないーーけど、ここはたしかに俺の部屋だ。
この春から俺は、斎玉大学の学生寮で暮らしはじめた。大学まで徒歩十分の好立地で、都心の一角にありながら家賃は月四万円。その破格の安さを思えば、建物の古さや個室の狭さはたいして気にならない。
何より、安い学生寮となると相部屋なところも多いと聞くが、ここは俺ひとりだけの空間だ。
ーーその、はずなのに。
ここに住み始めてからずっと、じっとりとこびりつくような視線をどこからか感じている。それで参ってしまっているのか、ここ数日は毎日悪夢で飛び起きる。
日当たりが悪く、薄ら寒い空気のせいだろうか。今日も、頭が痛い。
目覚ましに熱いシャワーを浴びて、適当な服に着替えた。あまり食欲がないから、朝食はコーヒーだけでいいか。
寮を出ると、入り口近くで寮母さんが佇んでいた。大きな麦わら帽子に軍手をしていて、庭仕事の最中だったと見受けられるが、妙に眉の下がった困り顔だった。
「おはようございます。どうしたんですか?」
「ああ、おはよう山藤くん。実は、寮の前で猫が亡くなってるのよ」
「え……」
視線の先をみると、たしかに道路の真ん中にぽつんと何かが横たわっているのが見えた。車に轢かれたのか。ずんと心臓が重くなる。
「役所に連絡したらすぐ引き取りに来てくれるって話だったんだけど、朝からちょっと嫌な気持ちよね」
「……」
たしかに、嫌な気持ちだ。この辺りはあまり街灯もないし、夜は視界が悪くて、小さな猫までは見落としてしまったのかもしれない。痛くて苦しくて、呆気ない最期だっただろうな。
「……軍手、もらえませんか」
「え……ああ、いいけど、どうするの?」
別に、どうにもできない。生き返らせてやることも、墓をつくってやることも。
「……あそこじゃ、これからくる車にも轢かれるだろうから」
手を合わせて、静かに目をつぶる。無力でごめんな。どうか、安らかに。
冷たくなった猫の身体を道の脇に寄せた。寮の庭の桜が風に揺れて、小さな白い花びらが赤茶の毛並みの上に静かに舞った。
「……じゃあ、いってきます」
少しギリギリになってしまったが、遅刻するほどでもない。キャンパスは授業に向かう人で賑わっていた。
……なんか、今吐きそう。やばい。軍手越しとはいえ猫の死骸触ったし、何か感染したとか? 考えているうちにどんどん足が重くなってくる。気持ち悪い。
「……っ」
不意にぐわんと視界が大きく歪んだ。直後、キンと甲高い音が耳から脳を貫くような錯覚に襲われた。閉塞感のある耳鳴りのせいで、世界から切り離されたような気分になる。身体が重い。そういえば、朝起きたときよりも頭痛がずいぶん酷くなっている。
気持ち悪い。……寒い。
立っていられなくて、半ば縋りつくようにそばのベンチに腰を下ろした。顔を上げられない。どうしよう。なんだこれ。目が回るーー。
「……!」
トン、と何かが肩に触れた。あたたかい。人の手だった。誰かが目の前に立っている。
「え……」
すっと波が引くように、耳鳴りが止んで目眩や吐き気が治まった。なんで、急に……。
そっと顔を上げると、見慣れない男が仏頂面でじっと俺を見下ろしていた。銀色の細い髪が陽光を浴びてきらきらと光って見える。
「猫」
「……!」
唐突に、今朝の出来事を言い当てられたようで驚いた。何かみてたのか? もしかして寮生だろうか。
「飼ってたのか」
「え? あ、いや……」
「そうか」
会話が途切れる。朝のやり取りをみてたわけじゃないのか? あのシチュエーションであれが俺の飼い猫に見えることがあるだろうか?
でも、だとしたらなんで猫のこと知って……。
「憑いてたぞ。お前の肩に」
「は……」
「もう成仏させた」
何を言ってるんだ、こいつは……?
返す言葉を失っていると、不意に男の鞄にぶら下がる定期入れが目に入った。ICカードには駅名の印字がされている。てことは、通学定期券だ。寮生じゃない。駅の方から来たのなら、寮の近くも通らないはずだ。なら、どうして。
「顔色が悪いな。猫だけじゃないらしい」
「何の話だ」
「霊障だよ」
聞き慣れない言葉だった。その男によれば、術や呪いの類いではなく、ただ霊が近くにいることによって起きる心身の不調をそう呼ぶらしい。
つまり、俺には今朝の猫の霊が憑いていたと、そのせいで体調がおかしかったんだと、こいつは本気で言ってるのか? 信じられない。けど……たしかにこいつに触れられた瞬間、嘘のように不調が消えた。猫のことを言い当てられたのも気味が悪い。もし感染症や何かの病気だったとしたら、肩に触れられただけでこんな風に症状が消えるはずはない。
まさか……本当、なのか……?
「おい。聞いてるのか」
「え、ああ……悪い。聞いてる」
「それで、お前のその霊障だが、猫以外に心当たりはないのか」
まずい。俺は今、突然話しかけてきた男のオカルト話を真に受けようとしている。だって、俺には"心当たりがある"。
墓の前を通ると、いつも身体が重くなる。肝試しをすると、一人だけ必ず体調を崩した。事故の多い交差点や病院も苦手だった。だから。
「たぶん……取り憑かれやすい体質、なんだと思う」
「みえるのか」
「いや、まったく。なんとなく嫌な感じがするって程度だ。でも、今まで何度も似たようなことはあったからな。さすがにそうじゃないかって疑ってた」
「そうか」
馬鹿にはしないのか、こんな話。……いや、こいつが先に成仏とか心霊とか言い出したんだった。それで、つい。
初めてこんなこと、人に話してしまった。
「最近、学生寮に入った。体調がおかしくなったのはそれからだ」
「なら、寮に案内しろ。除霊してやる」
「なんの押し売りだよ。そんな金ねえよ」
除霊の相場なんて想像もつかないけど、たぶん一万くらいはするんじゃないか。悪いが俺にそんな金はない。
「金は取らない。除霊は俺のライフワークだ」
「はあ……? だとしても、それよりまず授業だろ」
いや待て。なんで部屋に連れていく感じで返事してるんだよ、俺。
「それならもう始まってる。遅刻も欠席も似たようなものだ」
「……」
ああもう、調子狂うな。なんなんだこいつ。
というか、ライフワーク? なんだそれ。意味が分からない。だいたい、俺の不調をみかねて善意で言ってるにしても、傍若無人過ぎるだろ。あと遅刻と欠席は大違いだ。
「……せめて、授業の後にしてくれ。今日は三限で終わりだから」
「仕方ないな。なら三限のあとここで待ち合わせよう。お前、名前は」
「……山藤禄」
「山藤。俺は冴凪だ」
サナギ……? 変わった名前だな。というか、お前はフルネーム名乗らないのかよ。まあ、どっちでもいいけど。
それから、小走りに教室に向かいながら、俺はぐるぐるとさっきまでの時間を反芻していた。
なんだったんだ、あれは。だけど、身体は嘘のようにもうなんともない。あいつに触れられる前は、立ち上がれないほどだったのに。……本当なのか。本当に俺は、あいつを部屋に上げるつもりなのか。
取り憑かれやすい体質。それも、本当だったのか。じゃあ、やっぱり……。
ーーああ、嫌なことを考えた。朝から轢かれた猫なんて、見てしまったせいかもしれない。
そうして、三限を終えた昼下がり、俺は寮までの道を歩いていた。隣には銀髪の男ーーサナギが無愛想に眉間に皺を寄せている。
オカルト話を信じてよく知らない男を部屋に招くなんて、俺はどうかしてしまったんだろうか。……違う。俺は、知りたいんだ。寮に何がいるのか、そして、自分に何が起きているのかを。
「寮にはこの春から住んでるのか」
「ああ、そうだな」
「なら、一年か」
「いや、三年だよ。この二年間は新聞奨学生だったんだ」
入学から二年間、俺は新聞販売店の用意してくれた部屋に住んでいた。授業以外は朝から晩まで仕事漬けの毎日で、本当に多忙だったけど、他のことを考える暇がない生活も悪くはなかった。そして、二年間で学費を稼ぎ終え、この春からようやく俺の普通の学生生活が始まったのだった。
そして、話してみるとなんと、サナギも同じ学年、しかも同じ学部だったことが分かった。まあ、同じ学部とはいっても千人近くいるわけで、面識がなくても仕方がない。正直サナギが大学でまともに友人関係を築いてきたとは思えないし、俺もこの二年は生活に必死で友達づくりどころの話ではなかった。
「で、お前の住みはじめた寮には霊がいるのか」
「知らねえよ。俺は見えないんだって。でも、そういう噂は昔からあるらしい」
夜中に白い影をみたとか、変な物音を聞いたとか、そんな話が何年も語り継がれているようで、寮の口コミにも幽霊が出ると書かれていた。
「なら、いるんだろうな。火の無い所に煙は立たない。何もいないところに心霊の噂は立たない」
「ほんとかよ」
「本当だ。噂のある場所には大抵なにかしらの怪異が憑いている。俺はその除霊をライフワークにしている」
「なあ、さっきも行ってたけどそのライフワークってなんなんだよ? てか、そもそも除霊ってなんなんだ?」
なんとなく当たり障りない雑談をしてしまったが、一番聞きたいのはどう考えてもそれだった。こいつの学年とか学部なんて、冷静に考えると全然興味なかった。
「除霊は霊を除くと書く。成仏させること、脅威を消し去ること、どちらも除霊に含まれる」
脅威を消し去る、って、悪い化け物を倒してやっつける的な話か? 除霊というと祈祷やお払い的なものを想像するが、そういう妖怪大戦的なバトルもそのライフワークとやらに含まれているってことだろうか。
「なんで除霊なんてしようと思ったんだ? 霊が見えるからか?」
「いや、そうじゃない。除霊は家業だ。血筋の者はみえる者ばかりだった」
なるほど。まあたしかに、漫画なんかでもそういうオカルト職業は世襲制というか、代々家業として続いているパターンが多い気がする。いきなり思い立って除霊師を志して、一代で事業を起こす人は稀なのかもしれない。除霊師のなり方なんて、ネットで調べても出てこなさそうだし、大学のキャリアセンターで「除霊師になりたい」なんて口走れば笑い者だろう。
「幼い頃から除霊術を教えられてきたから、俺にとってはこの生き方が自然なんだ。報酬を得ているわけではないから仕事とは違うし、楽しくてしているわけではないから趣味とも違う。ただ、やらずに生きていく方法が分からない。一番しっくり来る言葉が『ライフワーク』だった」
ああ、はいはい。このあたりの価値観はたぶん凡人には理解不能なやつだ。なんとなく言いたいことはわかったからよしとしよう。
そうして話しているうちに、あっという間に寮の前に着いてしまった。
「あ……」
「なにかいたのか」
「いや……」
今朝の猫は、もういなくなっていた。そうか、役所の人が引き取っていったんだな。それなら、少しは落ち着けただろうか。できれば静かに眠れていたらいい。サナギが成仏させたとも言っていたしな。こいつの話がオカルトじみた眉唾でも、それだけは俺も信じていたい。
部屋に入ると、サナギはきょろきょろと部屋の中を見回してほうと息を漏らした。やっぱり、どこか空気がどんよりしている気がする。帰ってきた途端にツキリと頭痛がぶり返す。気休めに窓を開けて部屋を換気した。
「なんだよ。ほんとに何かいたのか」
「いる……というか、これは」
サナギの視線の先には何もない。
「満員電車みたいだな」
「……は?」
「この寮に憑いた霊の類いがこの部屋に集まってすし詰めになってる。すごいな」
頭の中で、狭い部屋にぎゅうぎゅう詰めの幽霊を想像してしまう。なんだそれ。なんかすごく嫌だ。
「悪意のない地縛霊や思念の塊ばかりだが、これだけ数がいれば身体に影響も出るだろうな」
「つまり、そのすし詰め満員電車を、俺が引き寄せたってことか……?」
「そうだ。磁石みたいで便利だな」
クッッソ。危ない、舌打ちしそうになった。何が便利だ。さらっと言いやがって。脳裏に磁石を使って砂場で砂鉄を集める光景が思い浮かんで、何か無性にイラッとした。
話しながら、サナギは何かを部屋に撒いた。途端、すっと空気の澱みが軽くなる。胸のつかえが急に取れたみたいに、息苦しさが緩和された。
「な、にしたんだよ、それ」
「清めた塩だ。これだけで思念の吹き溜まりやなんかは大抵浄化できる。……さて、これでようやく顔が見えたな」
サナギが何もない空間に向かって言い放つ。そこにはたしかに、何かの気配が揺れていた。
ターミナル駅で、満員電車からごっそり人が降りた時に似ている。うるさいほどのざわめきが落ち着いて、がらんとした部屋にはいくつかの気配だけが残された。その中心で、男の姿をした霊がじっと座ってこちらを見ている。
「地縛霊か」
「ああ。俺は福田だ。あんたは陰陽師か何かか」
「除霊師だ。その男の霊障を解消しに来た」
「つまり、あんたは俺をどうにかしに来たってわけだ。はあ、そうか。ついに俺にもこういう日が来るんだな」
地縛霊はすっと目を細めて淡く微笑んだ。敵意は感じない。
「おい、俺を置いて霊と話すな。ちゃんと解説しろ」
横から山藤が茶々を入れてくる。これだけ霊を引き寄せていながら、本当に何も見えていないのか。まあ、見えていたらあんな部屋ではとても生活できなかったか。知らぬが仏ということもある。
「思念の塊が消えて視界がクリアになった。残ったのはたぶん全員地縛霊だ」
「それと話せるのか」
「話せるのは一人だな。あとは人型を保てるほどの力がないようだ。ただ、数が多い。まだ十近くはいる」
山藤が分かりやすく顔をしかめた。見えない人間からすると、「この部屋は霊が満員御礼状態だ」と言われるより、「この部屋には十人ほど地縛霊がいる」と言われる方が具体的で嫌悪感があるのかもしれない。
「寮で火事があったのは知ってるか。ここにいるのは全員その時死んだ奴らだよ」
地縛霊の福田が懐かしむように口を挟む。
「寮の火事……山藤、ここでは過去に火災があったのか」
「ああ、ずいぶん昔のことだろ。聞いたことあるよ。火災で当時の寮が全焼して、その時建て替えられたのが今の寮だって」
「昭和五十三年だよ。その火事で俺を含めて九人が死んだ」
火災の死者は地縛霊になりやすいという。建物に閉じ込められ、逃げ遅れて亡くなることが多いからだ。
「その地縛霊ってのは、どんな見た目なんだ」
「ほとんど人間と変わらないが、纏う空気が少しだけ違う。この福田という地縛霊は、長い髪に丸眼鏡をかけている、髭の生えた男だ。昭和五十三年に死んだと言っているから、服はその時代のファッションなんだろう。年は三十前後に見える」
「失礼だな。享年二十四だよ俺は」
「享年二十四歳だと訂正された」
「二十四ってことは、死んだ時はもう寮生じゃなかったのか?」
「いいや、俺は一浪二留の四年生だったんだ。当時から一番の古株だったよ」
「一浪二留の四年生で古株だったそうだ」
「なるほど」
こうして会話をしていても、福田たちから山藤を脅かす意思は感じられない。むしろ友好的な空気すら感じる。山藤に惹かれて集まっていたのだから、もともと山藤と話をしてみたかったのかもしれない。それでも、彼らの意思とは関係なく、霊がこうして集まれば人間の身体には影響が出る。
「それで、こっからどうするんだよ。お祓いでもするのか」
「必要ない。こいつらは悪意のない地縛霊だ。力も弱い。お前の不調はこいつらを全員引き寄せて一ヶ所に集めたことが原因だ。分散すれば大したことは起きないだろう」
除霊をするよりも手っ取り早い。最も合理的な解決策だ。
「全員よく聞け。今後、霊は一部屋に一人までだ。それが守れるならむやみにお前たちを除霊したりはしない」
「おいおいおい、ちょっと待て。お前除霊しに来たんじゃないのかよ」
俺の呼び掛けに、山藤が焦ったように俺の腕を掴んできた。顔には分かりやすく苛立ちと焦りが見える。声のトーンも低くなった。
「必要ないと言ってる。除霊をしなくてもお前の霊障は治る」
「そうじゃない。俺の不調をなくすために、地縛霊を他の部屋の住人のところへやるなんて気乗りしないって言ってるんだよ。他人を巻き込むなんて御免だ」
「……なぜだ?」
「……は?」
なぜ、こいつは怒っているんだ。
「弱い地縛霊が一人くらい部屋にいたって大したことは起こらない。たまにラップ音が鳴るとか、少し夢見が悪くなるくらいだ。それに、どうせ誰にも見えやしない。合理的だろう」
「そんなもん関係あるか。こっちは理屈じゃなくて感情の話をしてんだよ。他人に霊を押し付けるような真似はしたくない」
同じ言語を介しているはずなのに、山藤の話す言葉の意味が理解できなかった。
「噛み合わないなあ、あんたら。でも、俺はそっちの兄ちゃんの言い分も分かるよ。例えばさあ、誰にもバレなかったとしても、ゴミをそこらにポイ捨てしたら、自分の中で確実になんか損なわれた気がするんだよな。こりゃそういう話だろ」
福田は可笑しそうに俺たちのやり取りを眺めている。俺だけが二人ともと言葉を交わしているのに、俺だけが蚊帳の外にいるみたいだ。
「……とにかく、分かった。つまり、お前はこいつらの除霊を望んでるんだな」
それならばと、両手を構えて少し腰を落とした。九人まとめて吹き飛ばすとなると、出力は高めがいいだろう。
「待て待て待て。なにしてんだよ」
「……? 除霊をしてほしいんだろう」
「ちげえよ。なんで臨戦態勢なんだよ」
「これが一番手っ取り早く除霊できるからだ」
「…………。はあ…………」
山藤が盛大なため息と共に座り込んだ。頭を抱えて唸っているところを見るに、何か俺はまた間違えたらしい。隣で福田がケタケタと笑っている。周囲の曖昧な地縛霊たちにもうっすら馬鹿にされている気がしてくる。
「お前、除霊はライフワークだとか言ってたけど」
山藤が顔をあげないままに話し始める。
「いつもこんなことしてるのかよ」
「こんなこと、とは何だ」
「他人に幽霊を取り憑かせるとか、何かあっちゃ殴って解決みたいなことだよ」
「まあ、そうだな。それが最適であればそうする」
山藤は何かを言いかけて、ぐっと言葉を飲み込むような仕草をした。山藤が何を言いたかったのか、俺には想像できない。
それから、山藤はひどく疲れたような顔で、やっとこちらを見上げた。
「……猫は。どうしたんだよ」
「言った通りだ。成仏させた」
「その時はさっきみたいな構えで殴ったわけじゃなかっただろ」
「ああ、そうだな」
猫に施したのは簡単な浄化術だった。分かりやすく言うなら、道に迷って混乱して気が立っていたところを、気持ちを落ち着かせてそっと正しい道へ促した。
「地縛霊は同じようにはできないのか」
「状況が違う。同じ術ではこいつらには効果がない」
「荒っぽい手段以外はないってことか」
「なくはない」
「じゃあ、それにしてくれ」
「どうしてだ」
再び、山藤が黙り込む。
「さっき、お前はその人の容姿を俺に説明したよな。それは俺からすれば人間そのもののように聞こえた」
「まあ、見た目にはほとんど差はないな」
「だから、殴ったり蔑ろにするのは抵抗があるんだよ。話の通じない怪物じゃないなら、人同士のように話し合って解決したい」
「……」
「勝手に他人を巻き込むな。安易に暴力を振るうな。……俺、なにか変なこと言ってるか?」
「それは……俺には、分からない」
ちらりと福田に視線をやれば、福田は肩を竦めて小さく口許を緩ませた。好きにしろと言っているように見えた。
山藤の言葉を無視して、無理やり除霊を進めることもできる。けれど、そもそもここに来たのは山藤の問題を解決するため、人助けのためだ。俺の考えたやり方では恐らく、山藤は救われないのだろう。それでは本末転倒のように思えた。ならば、取るべき方法はひとつだ。
「お前たちを、全員成仏させる」
俺の言葉に、山藤はほっとしたように肩の力を抜いた。福田はベッドに腰掛けて、他人事のようにうんと身体を伸ばしていた。
「それで、成仏ってのはどうやってさせるんだよ」
「いろいろやり方はあるが、今回のような地縛霊には『心残りを解消する』というのが一番穏便だろうな。しかし九人もいるとなるとかなり骨が折れる。特に、福田以外の八人とは意思の疎通も難しい」
「ああ、それなら大丈夫だよ」
思案していると、福田がひょいと片手をあげた。
「こいつらは俺のツレだ。俺がいつまでも残ってるからって、一緒になって留まらせちまってるだけなんだよ。俺が成仏できりゃ、俺が責任もってこいつらも一緒に連れていく」
なるほど、そういうことならば、これは想像したよりもずっと楽な除霊になるかもしれない。とはいえ、心残りがどんなものかによっては、解消が難しい場合もある。その不確実性からも、俺はこれがあまりいい手段だとは思わない。
「それで、お前の心残りはなんなんだ」
「……煙草だ。最後に、煙草を一本吸いたいんだ」
昭和五十三年、冬。その日、珍しいほどにツキのよかった俺は、賭け麻雀で大勝してまとまった金を手に入れた。酒の抜けきらない身体で歩いた帰り道、興奮の余韻のせいか朝日が妙に眩しく感じたものだった。
歓楽街を抜けた先、路地裏の電気屋の一角に面白いものを見つけた。ビデオデッキの中古品だ。ビデオデッキといえば、当時まだ世に出たばかりで、学生にはとても手の届かない高級品だった。それが、相場の半額以下で電気屋の店頭に並んでいたのだ。
これはとんでもない掘り出し物だ。早速いい金の使い道を見つけたぞ。こんなところまで今日の俺はツイてる。寮に持って帰ったらあいつらどんな顔して喜ぶだろうな。
ずるずると大学に居座るうち、気づけば寮の最年長になっていた。当時の寮は風呂トイレ共同、食事付きの男子寮だった。狭い個室の他に、食堂代わりの共同の和室があって、多くの寮生が毎夜集まっては酒盛りをしていたものだ。俺にとっては第二の我が家のようなものだった。あの場所が好きだったんだ。
和室にあるテレビは寮生みんなの共同の娯楽だが、だからこそ見たかった番組を見逃して嘆くなんてのは日常茶飯事だった。ビデオデッキの録画機能はそんな俺たちにとっての革命になるだろう。
親には苦労かけてばかりのろくでなしの息子だが、こんな俺でも寮生たちはみんなかわいい弟のように思っている。せっかくこんなでかい金が入ったなら、慕ってくれるあいつらのためにパーっと使いたい。
俺は胸を踊らせながら、そのビデオデッキを寮に持ち帰った。なんと、電気屋の親父が気を利かせて、デッキのおまけにダビングしたビデオも譲ってくれた。あいつらと見るのが楽しみでたまらなかった。
寮内はむさ苦しい男臭さと、視界が霞むほどの煙草の煙がいつも充満していた。俺が扉を開ける音で、和室に集まっていた数人がこちらを振り返る。
「あれ、福田さん。なんすかそのでかいの」
「これな。すげえの手に入れてきたぞ。おい、他の奴らも呼んでこいよ」
「うわ、これビデオデッキじゃないすか!」
「あっ。お前また勝手に開けて……」
思わず苦笑したが、ビデオデッキと聞き付けてわらわらと他の寮生たちも集まってきた。これは呼びに行くまでもなかったか。
「え、ビデオデッキ!?」
「すげえ、本物だ」
目を輝かせて飛び付く様子を見て、思わず口角が上がる。いかつい見た目のでかい機械はなんとも男心をくすぐるものだ。やっぱり、買ってきてよかったな。
「これ、どうやって使うんだよ」
「テレビに繋げればいいんじゃないのか。そこら辺のコード、どれか使えるだろ」
「おい、これどれが抜いていいやつだ?」
すぐに数人がビデオデッキの配線に取りかかる。俺は気分をよくしながら、テレビの前に腰を下ろしてセッタに火をつけた。甘苦い煙を深く吸い込んで、ゆっくりと天井に向かって吐き出す。
そして、ああでもないこうでもないと言い合いながら配線に奮闘することしばらくーー。
「映った!!」
どっと歓声があがる。流れ始めたのは、先週放送されていたテレビ番組だった。すごい。これが録画機能なのか。
「おい、巻き戻ししてみろよ」
「おおお、本当に戻ったぞ!」
「くそ、触るなよ。早く続きを見せろ」
大の男どもがテレビにかじりついて早速喧嘩を始めた。その光景に気分がよくなって、俺は次のセッタに火をつけながら声をあげて笑った。
それから俺たちは連日連夜ビデオデッキに夢中になった。和室のテレビの前には毎日大勢の寮生が団子になってたものだ。あの頃は大抵のやつが煙草好きで、和室の天井あたりにはいつも白い煙が燻っていた。
人生で一番の高い買い物だったが、十分に元を取ったと思えるほどに俺たちは新しいおもちゃを使い倒した。
それから一月ほど経ったある夜。
その頃、ビデオデッキの電源コードが熱を持つことがよくあった。でも録画や再生には問題がなくて、俺たちは気にしなかった。
その夜はやけに焦げ臭い匂いがしていたが、それも誰かが煙草の灰を落としたせいだと思い込んだ。
不意にチリチリ、パチパチと弾けるような音が聞こえて、テレビの画面にノイズが走った。かと思うと、ぷつんと画面が真っ黒になって、床の隅から細い煙があがってるのが見えた。あっと思った次の瞬間、火種がふすまに燃え移って一気に炎が広がった。
「おい、風呂場から水もってこい!」
俺が咄嗟に声をかけると、その場にいた奴らはすぐに風呂場に駆け出した。俺も後輩たちと共に駆けずり回って、必死で消火を試みた。けれど、古い木造の寮はあっという間に火の海になって、入り口が焼け落ちたことで俺たちは完全に逃げ道を塞がれてしまった。
多くの寮生が火の手に気づいてすぐに建物の外へ逃げた中、部屋に残って消火を試みた者は俺を含めて九人いた。その全員が、あの遠く懐かしい旧寮舎と共に炭になったのだった。
福田の語った死の記憶に、思わずじっと黙り込んだ。
「当時の捜査でも、一番焼損が激しかった和室のテレビ周りが出火元だってことまでは分かったみたいだが、デッキは原型を留めないほどに焼けちまって、配線周りも完全に炭になってた。それに、寮生のほとんどは喫煙者で、あの和室にもいくつも灰皿が転がってた。結局、『電気火災の可能性もあるが断定はできない』ってことで、火事の原因は煙草の不始末が原因である可能性が高いって結論に落ち着いたんだ。本当の原因はあのビデオデッキの電源コードだったのにな」
その結果、新しく作られた寮では、煙草の持ち込み厳禁、見つかれば罰金の上即刻退寮という厳しいルールが設けられたのだという。
「俺は本当に、ただ新しい寮の完成を見届けて、あとは一本煙草を吸ったらもう思い残すことはないって思ってたんだよ。それなのに、新しい寮じゃ誰も煙草を持ってなかった。実際のとこ、煙草はなんも悪くねえのに、ひでえ話だよ」
福田はひときわ深いため息で話を結んだ。聞いた話を山藤に伝えると、山藤も神妙な顔になってじっと目を伏せた。まるで旧知の友人をたった今亡くしたように、山藤は唇の端を震わせている。
繊細なんだなと思った。それに、怪異どもが磁石のように山藤に惹かれた理由も分かった気がする。
山藤はゆっくりと時間をかけて聞いた話を飲み込み、それからようやく口を開いた。
「今のルールでは、もう煙草の持ち込み厳禁ってわけじゃないはずだ。福田さんのために俺が煙草を買ってきたとしても問題にはならない」
時代と共に煙草に対する価値観も大きく変化している。喫煙者自体が減り、屋内禁煙が当たり前になった昨今では、最早厳格な取り締まりは必要なくなったのだろう。ただ、問題はそれだけではない。
「煙草を持ち込めたとしても、こいつはそれに触れられない。現実に干渉するなら実体が必要だ」
「実体……って、つまり」
「福田を誰かに取り憑かせる必要があるということだ」
山藤の目が小さく見開かれる。
「それは……なにか、危険があることなのか」
「霊障は避けられないだろうな。多くの場合は目眩や頭痛、吐き気を感じる。霊が離れてからも、しばらくは倦怠感が残るかもしれない」
「そういうことなら、俺がやるよ」
なぜだか、山藤はほっとしているように見えた。他人に霊を憑かせると言ったらあれだけ激昂していた男が、自分に霊を憑かせるとなるとやけにあっさり引き受けるのだな。しかも、前者はほとんどなんの影響もないもので、後者は身体に不調を来すものだと説明しているのに。
「他人を巻き込むのは論外。ならここには俺とお前しかいない。霊に対処できるのはお前だけなんだから、器は俺がなるべきだ。簡単な話だろ?」
山藤はあっさりと言いきり、煙草を買いに行くと言って寮を出ていった。後には、俺と福田と、曖昧な地縛霊たちだけが残される。
「あんたら、面白いコンビだな。あんたはうるさく思ってるかもしれないが、あれはいい友達だぞ。大事にしろよ」
「友達じゃない。コンビになった覚えもない」
「はは、そうかよ。冷たいな」
そうだろうか。俺たちは価値観が大きく異なっているようだったし、あまり相性が良いとは思えない。そもそも、俺はまともに人間と付き合えたことだって一度もないのだ。まして誰かと友情を育むなど、とてもできそうもない。
福田に何かを尋ねたい気がしたが、何を聞けばいいのか分からなかった。俺はそれほどまでに友達というものを何一つ分かっていないのだった。
まもなく山藤が帰宅した。片手に提げた小さなビニール袋から、セブンスターと安いライターが取り出される。
「これで合ってるか」
「ああ、それだ。懐かしいな。パッケージもずいぶん変わっちまった」
福田が煙草に飛び付くようにして、俺の横をすり抜けた。
「それで間違いないそうだ」
「それならよかった。じゃあ、はじめてくれ」
「……いいんだな」
「ああ。問題ない」
山藤の目には覚悟が浮かんでいた。胸の端で言葉にならない違和感を覚えたが、本人がいいと言っているのだから俺に言えることはもう何もない。力のない地縛霊が短時間身体に入り込むだけだ。体調は崩すだろうが、死ぬわけじゃない。
「……だそうだ」
「じゃ、遠慮なく」
視線を寄越すと、福田はにっと歯を見せてから山藤に歩み寄り、そっと背中に手を重ねた。二人の境目が曖昧になり、福田の姿が見えなくなる。
山藤は電源が切れたようにしばらく固まってから、静かに目を開けた。
もうそこに山藤の気配はなかった。
「うまく入り込めたのか」
「まあ、一応なんとかな」
山藤の声が答える。けれど纏う雰囲気は別物だ。取り憑く、とりわけ身体を乗っ取る行為は、大きく分けて二種類ある。ひとつは完全にその身体の主体を奪う方法。もうひとつは表層の意識を交代する方法。福田が行っているのは後者で、力の弱い霊でも比較的簡単に行えるものだ。山藤の意思は深層で眠っているだけで、福田が身体を明け渡せばすぐにもとに戻る。
「なあ、陰陽師さんよ。俺がもし悪い幽霊だったら、このままこいつの身体を乗っ取ろうとかしたんじゃねえのか」
「残念だがそれはできない。その身体はお前の意識を異物と認識している。長く身体に留まろうとしても、自然に押し出されるだけだ。それと、俺は陰陽師ではなく除霊師だ」
「へえ。それじゃ追い出される前にありがたく一服させてもらわねえとな」
福田がテーブルの上の煙草とライターに手を伸ばす。箱をそっと撫でた後、形を確かめるように何度か握り込む、その所作のひとつひとつに、あたたかな懐古の念が滲んでいた。
「屋内は禁煙だ。ベランダに出ろ」
「分かってるよ、ったく。せっかくだから、あんたも付き合えよ」
「俺は煙草は吸わない」
「いいんだよ。とりあえず隣にいてくれ」
ベランダに出ると、気づけば空は橙に染まっていた。日の落ちかけたところに春の風が吹いて、ほんのりと肌寒く感じさせる。
じゅっと隣で紙の焼ける音がした。福田が煙草に火をつけたところだった。それを一口吸い込んだ途端、激しく噎せて咳き込む。
「大丈夫か」
「ああ、この身体、煙草に全然慣れてねえな。初めてじゃないのか、これ」
「そうなんだろうな」
今度は慎重に、ゆっくりと煙を口に含んだ後、味わうように深く肺にいれた。目を閉じたままゆっくりと吐き出された煙が、ゆるゆると空に昇っていく。
「ずいぶん軽くなったな。これが時代ってやつなのか」
福田の呟きが、俺たちの間にぽつりと落ちた。沈黙の合間に、福田の呼吸の音が静かに横たわっている。
「……あの時、『逃げろ』と言えばよかったんだ」
しばらくして、福田が小さく口を開いた。
「俺のあの一言で、八人も一緒に死なせてしまった。『逃げろ』と言えていたら、きっと未来は違ってただろうな」
静かな後悔が、煙と共に吐き出される。寮と後輩たちを何より大切にしていた男は、大切なものを両方守れずに命を落とした。後悔は心を縛り、魂を彷徨わせる。
「それがお前の後悔なら、煙草は関係ないんじゃないのか」
「いいや、そんなことはないさ」
長くなった灰が崩れ落ちた。少しずつ煙草が短くなっていく。それはこの男に残された時間を示しているようだった。
「この甘ったるい焦げ臭さ、舌に残る苦味、喉の重たい熱さ、揺れる煙の白さ、紙の焼ける音。あいつらとここで過ごした日々が、そのすべてに結び付いてる。俺はただ、もう一度あいつらのことを思い出して、ゆっくり懐かしみたかったんだよ」
「……そういうものか」
煙草を吸わない俺には、分からない感覚なのかもしれない。隣にいてくれと言われたが、いい話し相手になれている気はしなかった。
「……あのビデオデッキな、安すぎたよな。あんな値段で売ってるなんておかしいって、思えたらよかったのにな」
脈絡なく呟いて、福田が笑う。
走馬灯をみているみたいだ。その灯りはもしかしたら、煙草の先の小さな赤い火のことだったのかもしれない。
「あんたが現れた時、俺は少しほっとしたよ。あんたは俺たちを消さずに留まらせようとしてくれてたんだろうけどな。俺はこれでよかったと思ってる」
「……それなら、よかった」
「これでやっとあいつらを解放してやれる。……ありがとな」
福田の手から煙草の吸い殻が溢れ落ちた。すっかり短くなって、火も自然に消えたようだった。
地縛霊たちの気配もなくなった。あれらは本当に福田を待っていたのか。こんなことになっても、お前は後輩たちに慕われていたんだな。
なあ、それなら、俺も。……最後に礼を言ってくれるなら、変わりに俺の願いを聞いてくれてもよかったのに。
「お前も俺を連れていってはくれないんだな」
ふっと意識が浮上して、そばでサナギの呟きが聞こえた。驚いて目を開ければ、サナギは空を見上げて悲しげに目を細めていた。茜色の隙間に、微かに紫煙の残り香が揺れている。
「連れていくって、何だよ?」
反射的に尋ねていた。ここまで何度もこいつの言動を疑い、イライラさせられてきたが、きっとこれが一番相容れない言葉であると直感した。
「ずっと探してるんだ」
「……何を」
「俺を一緒に連れていってくれる、"何か"を」
……なんだよそれ。お前は福田さんを成仏させたんだろ。なら一緒に行きたいって、つまり。
「……死にたいってことかよ」
怒りのようなものが沸き上がり、反射的にサナギの襟元を掴みかかろうとしていた。が、身体に力が入らず、俺はサナギの胸元に縋りついただけだった。身体が重い。サナギを突き飛ばして、怒鳴って出ていきたい気分だったのに、ひどい倦怠感のせいで立ち上がることもできそうにない。悔しいけれど、サナギが俺の身体を受け止めていなければそのまま倒れ込んでいたと思う。
「大丈夫か」
「……あまり」
「話していた通り、しばらくは霊障が続くと思え。ただ、この寮に憑いていた霊はすべて成仏させた。今の症状が治まれば、お前の体調不良は解消するはずだ」
成仏できたのか。改めてそう聞いてほっとした。体調は最悪だけど、俺のしたことにも意味はあったみたいだ。
部屋に入って横になると、気分の悪さが少しはましになった気がした。この状態の俺を置いて帰るのは忍びないのか、サナギは俺の横で困ったように立ち尽くしている。
こいつのことがなんとなく分かってきた。たぶん悪いやつじゃない。ただ、とてつもなく不器用で、危うい価値観を持っているだけで。
ーー朝、抱き上げた猫の冷たい身体が頭に過る。
勘弁してくれ。俺は知り合いの訃報なんて御免なんだよ。こうして言葉を交わして、名前と人となりを知ってしまったら、もう他人面はできない。お前の危うさを垣間見た上で、もし俺がこのままなにもせず、結果的にお前が死ぬことになったら。そんなの、寝覚めが悪すぎるだろ。
「サナギ。さっき、俺の体質が便利だとか言ってたよな」
「……ああ。そうだったな」
一瞬間があった。こいつ忘れてたな。俺は根に持ってるぞ。
「お前の除霊に、俺の体質は役に立つのか」
「それは、まあそうだな。お前がいると勝手に霊が寄ってくる。探す手間が省けて便利そうだ」
相変わらずの磁石扱いか。まあ、それでもいい。見えない俺でも、お前の役に立てることがあるなら。
「それなら、これからも身体くらいは貸してやる。だからお前の除霊に俺も同行させてくれないか」
「…………どうして。……お前に、なんのメリットがある」
「監視のためだよ。お前が人様に迷惑かけたりしないように。……それと、お前が死なないように」
サナギが動揺している。今日一日を通して、こんな風に分かりやすく感情が表出したところは初めて見た。
「それは、お前のメリットとは言わないんじゃないのか」
「そうでもねえよ。お前に死なれたら気分が悪い。これは俺が気分よく過ごすための提案ってことだ」
人助けのためとか、そんな高尚な理由じゃない。俺は、人の死を背負うのが怖い。その点、損得なしに人助けしてるお前の「ライフワーク」の方がよっぽど立派かもしれないな。
サナギは口をつぐんでしばらく考え込み、やがてゆっくりと顔を上げた。
「そういうことなら、その身体、使わせてもらう。改めて、これからよろしく頼む」
「おう」
こうして、俺はサナギの除霊のパートナーになることになったのだった。
大学三年、春。俺にとってのモラトリアムがようやく始まろうとしていた。
