指定された住所にはとても見覚えがあった。
まだ太陽が煌々と照り付けていた真夏の頃。俺はそこへ足を踏み入れた。
九十九が信じられなくて、そこで初めて俺は事実を目の当たりにした。
混乱して、誰かにぶつかって。そこで出会った少年が――
今、目の前にいる。
神木十色、と少年は名乗った。前と同じ応接間に通されて、温かい緑茶を差し出された。
体は然程大きくないのに、自分と同じくらいの歳の様な余裕と気遣いを感じる。九十九と瓜二つの容姿に動揺しない訳がない。十色くんは自分の手元のコップにも緑茶を注ぐと俺の正面に座る。
「一ノ瀬……一さん。」
「はい。」
「この度は……不躾なお手紙を寄越してしまい、大変申し訳ございません。」
丁寧な言葉で頭を下げる。俺は慌てて両手を振った。
「や、やめてください。こちらこそ……連絡をいただいて、凄く嬉しかったです。本当に先日はすみません。きちんとした謝罪もできなくて。」
十色くんは顔を上げつつも申し訳なさそうな表情は崩さない。そして、改めて俺に向き直ると胸に手を当てて自己紹介する。
「改めまして。……僕は神木十色と申します。中学一年生です。一ノ瀬さんが仲良くしてくださった……九十九の弟です。」
仲良くしてくださった、という言葉に引っ掛かりを覚える。
というより、この手紙を受け取った時からこの疑問はずっと頭に浮かんで残っていた。
「あの、俺実は九十九くん?と中学の時に会った事なくて……。それで。」
悪霊、なんて言える訳がない。俯く俺に、十色くんは衝撃的なことを言ってのける。
「……大体の事は祖父から聞いた話を元に想像がついています。勿論、貴方が兄と過ごしたこの一年弱は誰も覚えていないかもしれない。けどそれ以前に――貴方は兄と会っているんです。貴方はきっと覚えていないと思いますが。」
「え?」
「『この世界』の神木九十九は悪霊としてではなく、人間として貴方と出会っています。今日はそれをお伝えしたかったんです。」
学校に着いて、誰にも見られない様に封筒を取り出す。
手紙を開いて、そこに書いてある文字をじっくりと読み進めていく。
綺麗な字で書き連ねてあったそれを見て俺は唖然とした。そこに書かれていた内容。それは紛れもなく、九十九に関する事だった。
自分は九十九の弟である事、神社の神主である祖父から悪霊についての話を聞いた事、自分に渡したいものがある事。
そして――一度会って話をしたいという事。
無断で九十九の中に立ち入った代償が、この、一年が経つ前の別れだった。
もう、過去の九十九に触れてはいけない、掘り起こしてはいけない。勝手にタブー視して見ないふりをして来たものが今、眼前に突き付けられていた。
「少し……兄の人生について聞いていただけますか。」
向き合わなければ、いけない。
俺はゆっくりと――頷いた。
「兄は……生まれつき、体が弱かったんです。赤ちゃんの頃から入退院を繰り返していて、僕が小さかった頃にも兄と遊んだ記憶は殆どありません。いつも兄は病院のベッドで眠っていて、そばに居る母は……いつも疲れていました。」
「母は僕が生まれた直後に父とは離婚しました。なので、ずっと兄は僕と母の三人家族で暮らして来ました。それでも、幼い僕を育てる事と、病気の兄の面倒を見る事。そして生活費を稼ぐために働く事。母は人に頼りたくないと思って必死に頑張っていました。寝ている時がないくらい、毎日、毎日。貧乏なアパートで、時々大家さんが家賃をせびりにくるような暮らしぶりだった。それでも、僕は兄に会いにいく時や僕と話す時に作ってくれる母の笑顔が大好きでした。その筈だったんです。」
十色くんが目を伏せる。
「母はある日突然、自殺しました。遠方に住む両親――一ノ瀬さんが出会った神主が僕の祖父であり、母の父親に当たる人物です。彼らに僕らの事を頼むとだけ書き残して、母は首を吊りました。後から思い返せば、とてつもない心労だったと思います。我が子がいつ死んでもおかしくないと言われている状況、まだ発語もなく目を離せばすぐに何処かへ行ってしまうような年齢だった僕。稼がなければいけない生活費と医療費。兄は物心がついた時にそれを知って――苦しむようになりました。」
「自分の病気のせいで母が死んでしまった。自分が母を苦しめた。兄は本音を顔に出さない人でしたが、人の感情に誰よりも敏感で、誰よりも重く考える人でした。だから、ずっとずっと、兄は自分自身を悔やんでいた。それは体調が成長とともに少しずつ改善して来てもずっと兄を苦しめ続けていた。」
「兄は綺麗な顔立ちだったから――中学生になってからは、人の醜さに触れるようになりました。妬みや嫉妬が自分を台風の目のようにして広がっていく。酷い嫌がらせがあちこちで起きて、それの原因が自分だと知る。兄は、それを死んだ母と重ね合わせていました。自分のせいで誰かが不幸になる。こんな人間に生きている価値はない。何故……大切な人たちが、笑っていて欲しい人たちが苦しまないといけないのかって。」
「兄の心労は体調にまで影響し始めていました。中学校に入ってからマシになったと思われていた病気が再発のような形で兄に襲いかかったんです。兄は高校受験を控えていて、更にその後に大きな手術を控えていました。せめて、遠い場所に行きたい。兄の願いで、兄は……とある私立高校を受験しました。」
突然、十色くんの瞳がじっと俺を凝視する。
九十九によく似た、明るい瞳。ここからが重要だと言わんばかりにじっと、目を逸らそうとはしない。
「兄は、私立の受験をした頃には体力が限界に近かったと思います。ただ、手術さえすればまたいつもの生活に戻れる、とは言われていた。兄はそれを信じて、全日制の高校を受験したんです。凄く頭の良い高校でしたが、当日、兄は全員に心配されながらも受験会場へと向かいました。――そこで、兄の体調に変化が起きたんです。」
あれ、この話。
「兄は突然心臓が苦しくなって、受験会場で倒れてしまったんです。周りには試験官のような大人はいなくて、同じように高校を受験する生徒ばかりでした。……頭の良い高校で、しかも倍率は何倍にもなります。一年以上前から準備を重ねて来た生徒が必死に望んで掴み取った受験。周りの人間が倒れようが、構っている暇がないのは当然のことだと思います。」
もがき苦しむような声が、自分の真下から聞こえる。通り過ぎる受験生が、心配そうな表情を一瞬だけした後に直ぐに手元の参考書へ視線を移す。
自然と、俺はその場にしゃがみ込んでいた。どこからともなく試験の五分前を示すアナウンスが聞こえてくる。誰も、足を止める人は他にいなかった。
受験生にしては珍しい、私服。明るい茶髪が汗で濡れていて、目元はよく見えない。
「大丈夫!?……動ける?」
俺は――手を差し伸べた。
「肩を……借してほしい。」
目の前の青年は高い声で、そう言った。そして――俺の手を取った。
「わかった。」
俺は躊躇いなく青年の肩を掴む。そして腕をもう片方の手で掴むと、ゆっくりと廊下を歩く。
「大丈夫!?本当に歩ける!?」
「歩……ける。立ってた方が、楽。」
「わかった。」
試験はもう始まっている気がしたけど、どうでも良かった。
目の前の青年の体調が心配で仕方がなくて、俺は必死に足を動かす。青年の口から、何か液体がポタポタと垂れるのが見えた。それは俺の制服のジャケットにもこびり付き、俺は何かわからないまま青年にハンカチを差し出した。
「なっ……。」
真っ赤に染まる白いハンカチ。血液とは思わなくて、俺の頭は真っ白になる。どう見たってただの風邪なんかじゃない。もしかして、相当体調が悪いのではないだろうか。
「だっ!誰か!!」
試験中だということも忘れて、俺は大声を上げていた。そのまま踏ん張っていると、声を聞きつけた大人達が駆け寄って来てくれた。高校の保健室に二人とも運び込まれると、血で汚れた制服を洗わせてもらう。
「君、名前聞いておいても良い?」
青年を救護していた女性が、切羽詰まったように俺の名前を聞く。
「一ノ瀬一、です。」
青年のぐったりとした体が僅かに動いた気がした。女性が俺の名前を他の教師らしき人達に伝える。するとすぐに俺の受験番号を確認し始めてくれるのがわかった。
その後、一時間目の数学を諦めていた俺だったが、急遽教室に入れて貰える事になり、短時間ではあるがテストを受けた。
案の定、試験には落ちたのだが。
「それが……。」
「それが……一ノ瀬さんに助けてもらったのが。――兄なんです。」
「兄は、その事をずっと覚えていました。そして一ノ瀬一さんという、朧げな意識の中で聞いた名前も。それでも、自分のせいで貴方が受験をし損ねた事を物凄く後悔していた。どうにか貴方に恩返しをしたい。元気になって彼にもう一度会いたい、友達になりたいと。ずっとずっと、受験の後、僕に話してくれました。」
「その後、公立高校の受験を何事もなく受験して、兄は合格を勝ち取りました。生憎、一ノ瀬さんが何処の高校に行くのかはわからなかったけど、入学直前に届いた入学者名簿で、兄は――一ノ瀬さんの名前を見つけたんです。」
「まさか。」
「はい。兄は、一ノ瀬さんが今通ってらっしゃる高校に通う予定でした。」
俺は息を呑む。
「兄はみるみるうちに活力を取り戻して、絶対に高校に通うと息巻いていました。入院生活が始まっても、かつてない程に兄は幸せそうだった。それでも……何事にも絶対は、ない。兄は貴方のことを知った次の日、手術が失敗して……亡くなりました。」
涙が一筋、頬を伝う。
そうだったんだ、と目を瞑る。そこからとめどなく涙が溢れ出して、俺は思わず顔を覆った。
出会ってたんだな、俺とお前。
悪霊なんかじゃなく、お前はやっぱり俺と友達でいたいと思ってくれていたんだ。
ずっと、忘れててごめん。思い出せなくて、ごめん。疑って、ごめん。
「ごめん……ごめんよ、九十九……!!許してくれ……!!」
九十九の前で流したぶりの涙が溢れ出る。
お前がこんなにも苦しんでいたのに、俺はのうのうと生きていた。何もわかってあげられなくて、ごめん。
「僕は……祖父から聞いた話も、祓い屋を名乗る人々から尋ねられた時に聞いた話もにわかには信じられませんでした。まさか、兄が悪霊になっていただなんて。」
「……!!十色くん。」
知っていたのか。
いつ、聞いたのだろう。
九十九が消えたあの日、車の中で千堂さんが運転手にかけていた言葉を思い出す。あの時には既に、裏で様々な調査が進んでいたのだろう。
「若い女の人が、何か接触を試みてくることはなかったかと聞いて来ました。無論、兄には会っていませんし、その話を聞いたのもその時が初めてでした。夜中に押しかけて来て、なんだか気味が悪かったです。話半分に聞いていましたが、気になって……僕は兄の自室を少し漁ったんです。」
そう言って、十色くんはファイルから短冊状になった事務的な封筒を取り出した。
「これ、祓い屋さん達にお渡しするのがきっと正しかったんでしょうけど、祖父が保管していたものなんです。どんな力もこの封筒を持ち去らないように、大事に神社の中で守っていました。……一ノ瀬さん。」
俺は、涙で濡れた顔を上げ、封筒と十色くんを交互に見る。
「パラレルワールドって、ご存知ですか。この『手紙』の内容が本当ならば……兄は、そこから来たんだと思うんです。この世界の分岐したあたらしい世界。兄の――手術が成功した世界から。」
十色くんは封筒を裏返す。
見間違えるはずがない。
九十九の字で、そこには「一くんへ」と書いてあった。
「兄が着るはずだった高校の制服のジャケット。そこに入っていたと聞きました。恐らく、この事態を予期して兄が忍び込んで、中に入れたんだと思います。僕達に気づいてもらうために――貴方に渡して貰えるように。」
俺は、封筒をゆっくりと手に取った。
すべすべとした髪の質感が手に触れ、糊付けされていない封筒の口へと指を近付ける。
手紙は便箋数枚程で、簡潔に九十九の触れて来た出来事が書かれてあった。
どれくらいの時間が過ぎただろう。
俺が読む様子を身動き一つせずに、十色くんは見つめていた。
手紙を読み終え、そっと机の上に置いた俺を見て、十色くんは何か言いたげな表情を浮かべる。
「そう……だったんだな。」
「そこに書いてあることが本当なら……一ノ瀬さんは。」
言いかけて、そこで止まる。
「会いに行こうか。……九十九に。」
このままでなんて、絶対に終われない。
***
かみさまが言ったんだ。
僕に特別な力を一年間だけあげるって。
かみさまが言ったんだ。
守れなかった命を守って見せろって。
かみさまが言ったんだ。
例え一くんに嫌われる事になったとしてもって。
葬式というのは雨の印象が強い。
でも、俺が人生で二度目に行ったお葬式は、他の人間はみんな浮かれムードの楽しい日だった。
空はよく晴れて、凧揚げやバトミントンをしている子供達が目の前の公園で遊んでいる。平日の昼間から子供が自由に遊んでいるのは――正月だからだ。
そんな事をぼんやりと考えていた。葬式会場の中に数珠を持って入ると、同じ世界とは思えないくらい重たい世界が広がっていた。
「……それじゃあ、みんな。一列に並んで……ご焼香をあげよう。」
マッチャンが目を真っ赤にして、鼻を啜りながら僕達を誘導してくれる。僕もそれに混じって、鉛のような足を引き摺りながら列に並ぶ。
念仏が、唱えられていた。お坊さんの真正面には、中学の卒業アルバムできりりと口元を引き結んだ一くんの写真が飾られていた。
ああ、あの時の顔だ、と思った。
僕が――神木九十九が初めて君に出会った時。君は同じ制服に身を包んで、キツくしまった口元を緩ませて、僕に手を差し伸べてくれたんだ。
あの時の優しさを、僕は一度だって忘れたことはない。一くんが困っていたら一番に手を差し伸べてあげたい。
そう思っていたのに。
突如、慟哭が会場内を包んだ。誰もが驚いて声のする方向を向く。そこにいたのは中年の、痩せ気味な女性だった。僕達の姿を見るなり、床に崩れ落ち、その場にいた男性に支えられる。……男性の方も、拭いきれないほどの涙がぼたぼたと頬を伝っていた。
女性は、厳しそうな顔立ちで、到底今のように感情を表に出すようには見えなかった。そんな大の大人が声をあげて泣いている様子を見て、僕は思わず怯んだ。
「ほら、あの方達が……一くんのご両親よね。」
近くにいた女性達がひそひそと噂をしているのが耳に飛び込んでくる。両親、という単語を聞いて一くんの言葉がふいに頭をよぎった。
「あ、はは。親ちょっと、そういうの厳しいから。」
深く踏み込ませないような雰囲気に、誰も触れる事はできなかった。一くんも、その一瞬の気まずい空気に小さく、なる。あそこで僕が少しでも明るく接することができていたら、未来は変わったのだろうか。
二○二六年十二月三十一日。二十時三十七分。
一くんは、歩道橋の上から道幅の広い道路へと落下し、そのままトラックに跳ねられて死んだ。
周囲の防犯カメラには一くんが一人で歩道橋に向かい、橋の柵を乗り越え、一人で落下する光景がまるまる残されていた。
自殺以外の何でもない。
その知らせがクラス全体に駆け巡った時、僕は息ができなかった。嘘だと思った。
高校に入学してから、僕は一くんとクラスメイト以下の関係しか築く事ができなかった。
彼と僕では住む世界が違う。馬鹿騒ぎをする様な奴らと比べてみたら、一くんは未来に向かって努力している素敵な子だった。そんな一くんの邪魔をしてはいけない。俺は見守っているだけで良い。
……違う、踏み込む事が怖かったのだ。
僕は高校入学当初からうんざりする程人に声をかけられた。
まるで自分から話しかける事が許されないかのように、一くんと関わる事を阻むかの様に纏わり付いてくる人達を見て正直嫌気が差していた。しかし、それも今思い返せばただの言い訳に過ぎなかった。あの日、人を掻き分けてでも強引に一くんに話しかければよかったんだ。クラスが違ったとか、タイミングを見計らってたとか、どう考えても言い訳でしかないのはわかっていたのに。
私立高校を受験した時に、君に助けてもらったんだ。
本当にありがとう、君と友達になりたい。
たった二言。それを言う機会に恵まれたのは、入学してから半年以上が経過した頃だった。
「え?一ノ瀬?クラスに確かにいるけど……二人は知り合いなの?」
「知り合い、じゃないけど……。」
「まあいいや……。一ノ瀬ーー!!九十九が呼んでる!!」
大声に一くんの肩がびくんと震えた。頭が良いのは入学当初から有名だったが、昼休みの今もなお、一人で黙々と勉強をしていた様だった。こちらをチラリと見た一くんの視線に心臓が跳ねる。
やばい、どうしよう。何から話そう。
耳にカアっと熱が集まり、一くんがこちらへとやって来る。
オドオドとしている一くんと、目が合わない。
「どうしました……か?」
初めて、目が合う。その瞳を見て愕然とする。
一くんの中には――僕に対するあからさまな恐怖があった。
クラスも違う、話したこともない、一くんが僕の名前を知っているのかすら知らない。あの日手を差し伸べてくれた一くんとは違う、こちらを怪しむ様な目。思わず言葉が詰まった。
「おいおい九十九、どうした!?一くんを揶揄いに来たんじゃないのかよ!!」
余計な事を、と思った瞬間、一くんは両手を握りしめ、深くお辞儀をした。
「ごめん。俺やることあるので。」
そう言って何も言えない僕を残して、一くんはこちらに背中を向ける。
伸ばしかけた手はあっという間に引っ込んだ。
「ぎゃははは!!九十九、お前なんであんな奴に話しかけてんの?見るからに根暗じゃん。勉強しかできないし。」
「そうそう、九十九とは対応が違うだろ!!」
「そうだよ〜。……そうだ、今度遊びに行く話、考えてくれた?」
耳にキンキンと周りの声が響く。顔を僅かに顰めると、びっくりした様に周りの数人が「え、ごめん……。」と謝ってくる。違う、顰めたいのは自分に対してだ。
俺は一体何をしているんだろう。一くんをあんなに怖がらせて、最初から性格の向き不向きは人にある。
無理に詰め寄ろうとして、挙げ句の果てに助けてくれてありがとうなんて、言えたものじゃない。
きっと、一くんは優しいから。人を助けることなんて日常茶飯事すぎて、僕の事を覚えてはいない。
今更そんな事を言われても気持ち悪いに決まっている。
そう言って、僕はそこから何度も逃げ続けた。
一年が経っても、僕と一くんは顔見知りだった。
偶然同じクラスになって、以前より会話をする事が多くなっても二人の距離感は以前のままだった。
……僕にも、大切な壊したくない関係が増えていたから。
「一ノ瀬くん、数学のノート回収して良い?テスト終わったから。」
「うん。」
敬語は抜けても、一ノ瀬くんは基本的に誰とも喋らない。俺の持つノートの山に自身のノートを重ねると、突然、俺の持っていたノートの半分を抱えた。
「えっ。」
「ノートの回収係、一人今日休みだから。」
「いいよいいよ!そんな事しなくて!!」
気遣いのつもりで言ったあの言葉。あれも……一くんの優しさを否定して、壁を増やしていたのかもしれない。
「……そう。」
一くんは一瞬上げていた顔を再び参考書に戻し、次はもう二度と上げてくれなくなる。
やっぱり、一くんは優しい。呑気にそんな事を考えていた僕は本当に何もわかっていなかった。
彼が陰で苦しんでいた事、それに直接触れようとも見ようともしなかった。
「成績の低迷を苦に自殺……ですって。」
「親御さん厳しかったものね。小さい頃から。」
「話せる相手もいなかったんじゃないかしら、可哀想に。」
そこで初めて僕は気が付いた。
一人が好きなんだと思っていた一くん。
例えそうだとしても、孤独が好きな人は何処にもいない。
辛くて苦しい経験は、誰かが支えてくれるからこそ乗り越えられる。試験会場で倒れた自分も、一くんが支えてくれたから歩き出せた
それなのに。
焼香の順番がやってくる。目の前に一くんが収められた棺があった。首から下は損傷が激しかったと聞いたが、棺の小窓から花に囲まれて、一くんは微笑んでいた。
眠っているみたい。
よく聞く言葉がよぎる。
こんな笑顔、一度も見た事がないな。痛かっただろうに、自分で死を選ぶのは辛かっただろうに。
その時、溢れんばかりの感情が押し寄せ、目頭が熱くなる。
「っ!!」
「九十九!?」
後ろに並んでいた友達を背に、僕は全速力で葬式会場を駆け抜けた。ぶつかった人が驚いた声を上げるのも構わず、外に出てもなお、僕は走った。
走って、走って、ぜえぜえと汗か涙かわからないものが顔から吹き出す。母の笑顔と、一くんの最期の笑顔が、重なった。
一くんは自分を犠牲にしてまで僕を助けてくれたのに。
なんで僕は、一くんのSOSにも気付くことが出来なかった!!!!
どうして、どうして、手を差し伸べなかったんだ!!!!
物凄い速さで、家の中に駆け込む。乱暴に自室の襖を開け放ち、そのまま床に座り込んだまま、ベッドに顔を埋める。
「うああああああああああ!!!!」
拳で何度も、何度も、ベッドを殴る。俺は絶叫した。
全部全部、同じじゃないか。
何年経っても僕は人一人を助けることもできない。
母がくれた優しさも救われた命も、全部仇で返している。
誰よりも僕は一くんの優しさを知っていたんじゃないのか。
誰よりも彼の魅力をわかってあげられたんじゃないのか。
臆病で、惨めで、疫病神で。
一くんは自分とは違うと勝手に境界線を引いて勝手に納得している。
こんな人間が生きて――なんで必死に頑張ってた一くんが死ななきゃいけないんだ。
ジンジンと拳が痛む。
なんのために、ここにいるんだ。なんのために、手術をして、生きているんだ。
口の中に溜まっていた唾が気管に入って、僕は激しく咳き込む。どれだけ手を伸ばしても、どれだけ後悔しても一くんは帰って来ない。
何故なら、彼が自分自身の決断で、この世界の全てからお別れする事を選んだんだから。
「かみさま……。」
夕暮れが近付いていた。逢魔が時とも言う。
いつまで顔をベッドに伏せていたかはわからない。西陽が差し込み、僕の涙でドロドロになった顔が橙に照らし出される。
「お願いします。僕の命なんていりません、地獄へ行っても構いません。どんな罰を受けたって良い。だから、だから……。」
「一くんを……一ノ瀬一くんを、助けたい。」
僕の意識は、そこで途絶えた。
気が付けば僕は悪霊になっていて、正月ムードの街中に一人で立ち尽くしていた。至る所に書かれた「ニ○ニ六」という看板に目を疑った。僕がいたのはニ○ニ七年。過去に戻ったと歓喜したのも束の間、この世界に僕は存在していなかった。
手術が失敗して、神木九十九が死んだ世界線。
僕が放り投げられたのは、そんな世界。
僕のせいで、悪霊達が一くんに襲いかかる。
だから、それをなんとしてでも食い止めなければいけない。
打ちのめされていた心に火が灯る。夢でも良い、一年が経てば元の世界に戻ることになっても良い。一くんの為ならば何でもする。
だから――今度は一くんの手を、僕が取ってあげたい。
***
十二月三十一日。二十時三分。
僕の姿はあの場所――一くんが飛び降りた歩道橋にあった。
もう、二度とこちらの世界には来ないつもりで居た。
一くんと遊園地で別れてからというもの、俺の意識は元いる世界に飛ばされていた。意識がない中、病院独特の機械音だけが耳に入ってくる。意識があるはずなのに、ない。両手両足が自分の体ではないかの様に動かせない。そんな状態で僕はこの二ヶ月を過ごした。どうやら、病院に担ぎ込まれているのだから良くない状態であるというのはわかる。もしかして、一年が経てば僕はこのまま死んじゃうのかな、とも思う。それでもそんな事はどうでも良かった。
一くんには沢山の嘘を吐いた。嘘を吐いて、ガワだけ取り繕って、一くんのために、と何でもした。
でも、一くんはその嘘を拒んだ。
当たり前だ。隠し事ばかりの関係なんて長く続くはずがない。
一くんが千堂さんに相談を持ちかけている時も、敢えて止めないでおいた。
一くんが人生を楽しいと感じてくれているのなら、僕はもう祓われて地獄に行ったって良かったからだ。僕じゃなくて、千堂さんを信頼してくれれば良い。そうして、仲間を増やして、僕から離れていってほしい。嘘つきの僕なんて。
そう思っているのに、胸が痛む。一くんのそばで、何の隔たりもない友達として生きていたい。そう思ってしまった。
遊園地に行こうと言われた時から、限界だな。と思っていた。
これ以上一くんの側にいることは、逆に一くんを傷付けてしまう。だって、もう一くんは僕の助けがなくても生きていける。取った僕の手を離して歩いていけるから。
だから、さようならをした。
歩道橋を、後ろで腕を組んで歩く。満点の夜空が綺麗で、思わず空を見上げた。
今頃、一くんは何をしているだろう。両親と仲良くご飯を食べているのかな。
どちらにせよ、一くんがこの場所に来ることは決してない。
そう、決して。
もやりと黒い靄が心で渦巻く。大丈夫だと言い聞かせているのに、不安が拭えない。
もし、何処かでまた死のうとしていたら、どうしよう。家から出ていたら、どうしよう。
「大丈夫、大丈夫……。」
必死に、自分に言い聞かせる。言葉とは反対に、俺の顔は段々と歪んでいく。
これで、本当にお別れ。
僕の世界に一くんはもういない。その事実は変わらない。それでも、また別の世界で、一くんが楽しく生きてくれたら。
その瞬間。
「……九十九?」
聞き馴染みのある、間の抜けた声。
全身から血の気が引いていく。
なんで
君が、ここにいるんだ。
「九十九……会いたかった!!」
「来るな!!!!」
後ろから近付いていた足音が、ぴたりと止む。念の為持っていたお札を取り出して、脅す。
「来るな……来たら、お前を攻撃する。」
「九十九、もういいよ。全部聞いた、全部知ってる。お前が丁寧に書き残してくれたんだろ?」
ぴらぴらと、紙の様なものを振る音がする。
「来るなって、書いていたはずだ。」
「……俺は死にに来たんじゃないもん。九十九に会いに来たんだよ。」
後ろで、一くんが静かに言った。
「どれだけ九十九の事見てきたと思ってんの?心配性拗らせて、ここで俺が来ないか見張ってる事なんてお見通しだっての。」
少し、声が近くなった気がした。
今すぐ、振り返りたい。
居なくなってごめんねって、駆けつけたい。
さようならって、ちゃんともう一度言いたい。
僕は頭を振る。
「僕は……悪霊だよ。それに間違いはない。祓い屋に祓われるべき存在なんだ。僕は……怖くて、一くんに何も出来なかった。沢山嘘を吐いて、危険な目に遭わせて。」
「最後に会う権利なんて、僕にはない。お願い、僕のことなんて忘れて。僕の事は放っておいて。そして……今すぐここから出て行って。」
「そんな事、言うなよ。」
一くんの声が震えていた。
「俺は……実は九十九が居なくなった直後はまだ死んでも良いって思ってた。未来は……変わってなかったんだ。けど、九十九が俺を変えてくれたから、俺は……自分で未来を変えようって思えた。……九十九が居ない世界でも、ちゃんと自分の道で生きていきたいって。」
「なら。」
「でも!!」
ゴクリと唾を飲み込む音が響いた。
「俺、まだ出来てないことがある。これから生きていくために……ちゃんと、こんな歪な関係を終わらせなきゃ。」
その時だった。後ろで、ガコン、と手すりに鈍いものがぶつかる音がする。
「うわっ!!」
一くんの――大きな声が響いた。
「一くん!!!!」
まさか
また、不運が。
僕は――振り返ってしまった。
それとほぼ同時に、僕の体に一くんが飛びついてくる。首に腕が巻きつき、直に肩から啜り泣く声が聞こえた。じんわりとした体温が触れた部分から伝わってきて、気持ちが良い。
――抱きしめられた。
一くんは、俺の背中を拳で殴る。鈍い痛みに、全身が震え、目頭が熱くなった。
言葉が出なかった。ただ、ポロポロと涙が溢れ、一くんのマフラーを濡らす。
「馬鹿だなあ……。俺がピンチになったかもって思ったら、すぐ自分の意思を無視して突っ走るんだから。」
「最悪……騙したね。」
「へへへ。勝手に居なくなったんだからおあいこだろ。」
一くんは僕の肩から離れると、そっと両手で肩を掴んだ。観覧車よりももっと近い距離で、僕たちは向き直る。
「九十九……俺の人生を変えにきてくれて、ありがとう。」
「俺と……友達になってください。」
***
ふはっと、九十九から息が漏れた。顔を隠して、九十九が肩を震わせる。
「もーー!!絶対笑うと思った!!わかってた!!」
「はは……ごめん……。」
「気恥ずかしい事言わせやがって!!」
「ごめんごめん。抱きついた時も、僕の方が身長高いもんね。」
「言うな!まだ成長期!!」
そう反論して、また笑う。
寒さなんて吹き飛ばすくらい、腹の底から感情が湧き出してくる。
「……ありがとう。」
ポツリと、ひとしきり笑い終わった後に九十九が漏らす。
「最後に……会えて良かった。帰れなんて言ったけど、やっぱり会いたかった。」
「嘘つきめ。」
「一くんに言われたくない。」
顔を見合わせて、また笑いが漏れる。
「俺さあ。将来の夢決まったんだ。」
「そう、なの?新しい事見つけた?」
「ううん、俺――医者になる。」
堂々と言い切ったはずが、九十九はきょとんとしている。
「確信できたんだ。俺は医者になりたいって。ずっとずっと、自分の進んでいくこの道が本当に正しいのか、本当に自分がやりたい事なのかわからなかった。けど、ようやく確信できたんだ。俺は……医者になりたい。九十九みたいに、体の弱い子供も、その家族もみーんな、幸せにしたい。……小児科医になりたい。」
九十九の瞳が煌めいた。やっぱりアイドルみたいに明るい笑顔をしてる、お前が一番良い。
「九十九は?将来の夢は何かある?」
「えっ。」
突然のことに戸惑いを隠せていない。「えっと。」と頭を掻いていた。
「僕さ……多分、死ぬ気がする。ここに来る前、僕は命と引き換えに一くんを助けたいって願ったんだ。だから、もう。」
「お前、人に生きろとか言うくせに自分は死ぬのか?」
「ご、ごめん。」
「九十九は……死なない。絶対に死なない!死んだら今度は俺がそっちに行って九十九を叩き起こす。そうでなくとも……九十九は、生きられる。もう悪霊なんてならないで。」
最後の言葉が涙で途切れる。九十九の顔がぼやけた。
「一くん……泣き虫だなあ。」
「お前もだろっ!!」
「そうだよ。」
涙声で、九十九は断言する。そして――俺を強く抱きしめた。
「だって、どうなっても一くんにはもう二度と会えない。永遠にさようならだ。そんなの嫌だ。」
「……九十九、俺まだ返事もらってないんだけど。」
九十九が一気に腑抜けた表情になる。
「友達になれば、俺たちを繋ぐものには『友達』という関係性がある。けどどうだ?友達じゃないなら……永遠に他人のままだ。神木九十九の友達・一ノ瀬一はちゃんと生きている。……ずっとそう思って、生きて行ってくれよ。」
「そう……だね。」
俺は九十九を優しく抱きしめ返す。
「友達に、なりたい。僕と友達になろう、一くん。」
満点の夜空が二人を包む。
どれだけ離れても、二度と会えなくても、決して壊れない「最強」の友情。
君との繋がりがあるから、僕はまた、生きていける。
まだ太陽が煌々と照り付けていた真夏の頃。俺はそこへ足を踏み入れた。
九十九が信じられなくて、そこで初めて俺は事実を目の当たりにした。
混乱して、誰かにぶつかって。そこで出会った少年が――
今、目の前にいる。
神木十色、と少年は名乗った。前と同じ応接間に通されて、温かい緑茶を差し出された。
体は然程大きくないのに、自分と同じくらいの歳の様な余裕と気遣いを感じる。九十九と瓜二つの容姿に動揺しない訳がない。十色くんは自分の手元のコップにも緑茶を注ぐと俺の正面に座る。
「一ノ瀬……一さん。」
「はい。」
「この度は……不躾なお手紙を寄越してしまい、大変申し訳ございません。」
丁寧な言葉で頭を下げる。俺は慌てて両手を振った。
「や、やめてください。こちらこそ……連絡をいただいて、凄く嬉しかったです。本当に先日はすみません。きちんとした謝罪もできなくて。」
十色くんは顔を上げつつも申し訳なさそうな表情は崩さない。そして、改めて俺に向き直ると胸に手を当てて自己紹介する。
「改めまして。……僕は神木十色と申します。中学一年生です。一ノ瀬さんが仲良くしてくださった……九十九の弟です。」
仲良くしてくださった、という言葉に引っ掛かりを覚える。
というより、この手紙を受け取った時からこの疑問はずっと頭に浮かんで残っていた。
「あの、俺実は九十九くん?と中学の時に会った事なくて……。それで。」
悪霊、なんて言える訳がない。俯く俺に、十色くんは衝撃的なことを言ってのける。
「……大体の事は祖父から聞いた話を元に想像がついています。勿論、貴方が兄と過ごしたこの一年弱は誰も覚えていないかもしれない。けどそれ以前に――貴方は兄と会っているんです。貴方はきっと覚えていないと思いますが。」
「え?」
「『この世界』の神木九十九は悪霊としてではなく、人間として貴方と出会っています。今日はそれをお伝えしたかったんです。」
学校に着いて、誰にも見られない様に封筒を取り出す。
手紙を開いて、そこに書いてある文字をじっくりと読み進めていく。
綺麗な字で書き連ねてあったそれを見て俺は唖然とした。そこに書かれていた内容。それは紛れもなく、九十九に関する事だった。
自分は九十九の弟である事、神社の神主である祖父から悪霊についての話を聞いた事、自分に渡したいものがある事。
そして――一度会って話をしたいという事。
無断で九十九の中に立ち入った代償が、この、一年が経つ前の別れだった。
もう、過去の九十九に触れてはいけない、掘り起こしてはいけない。勝手にタブー視して見ないふりをして来たものが今、眼前に突き付けられていた。
「少し……兄の人生について聞いていただけますか。」
向き合わなければ、いけない。
俺はゆっくりと――頷いた。
「兄は……生まれつき、体が弱かったんです。赤ちゃんの頃から入退院を繰り返していて、僕が小さかった頃にも兄と遊んだ記憶は殆どありません。いつも兄は病院のベッドで眠っていて、そばに居る母は……いつも疲れていました。」
「母は僕が生まれた直後に父とは離婚しました。なので、ずっと兄は僕と母の三人家族で暮らして来ました。それでも、幼い僕を育てる事と、病気の兄の面倒を見る事。そして生活費を稼ぐために働く事。母は人に頼りたくないと思って必死に頑張っていました。寝ている時がないくらい、毎日、毎日。貧乏なアパートで、時々大家さんが家賃をせびりにくるような暮らしぶりだった。それでも、僕は兄に会いにいく時や僕と話す時に作ってくれる母の笑顔が大好きでした。その筈だったんです。」
十色くんが目を伏せる。
「母はある日突然、自殺しました。遠方に住む両親――一ノ瀬さんが出会った神主が僕の祖父であり、母の父親に当たる人物です。彼らに僕らの事を頼むとだけ書き残して、母は首を吊りました。後から思い返せば、とてつもない心労だったと思います。我が子がいつ死んでもおかしくないと言われている状況、まだ発語もなく目を離せばすぐに何処かへ行ってしまうような年齢だった僕。稼がなければいけない生活費と医療費。兄は物心がついた時にそれを知って――苦しむようになりました。」
「自分の病気のせいで母が死んでしまった。自分が母を苦しめた。兄は本音を顔に出さない人でしたが、人の感情に誰よりも敏感で、誰よりも重く考える人でした。だから、ずっとずっと、兄は自分自身を悔やんでいた。それは体調が成長とともに少しずつ改善して来てもずっと兄を苦しめ続けていた。」
「兄は綺麗な顔立ちだったから――中学生になってからは、人の醜さに触れるようになりました。妬みや嫉妬が自分を台風の目のようにして広がっていく。酷い嫌がらせがあちこちで起きて、それの原因が自分だと知る。兄は、それを死んだ母と重ね合わせていました。自分のせいで誰かが不幸になる。こんな人間に生きている価値はない。何故……大切な人たちが、笑っていて欲しい人たちが苦しまないといけないのかって。」
「兄の心労は体調にまで影響し始めていました。中学校に入ってからマシになったと思われていた病気が再発のような形で兄に襲いかかったんです。兄は高校受験を控えていて、更にその後に大きな手術を控えていました。せめて、遠い場所に行きたい。兄の願いで、兄は……とある私立高校を受験しました。」
突然、十色くんの瞳がじっと俺を凝視する。
九十九によく似た、明るい瞳。ここからが重要だと言わんばかりにじっと、目を逸らそうとはしない。
「兄は、私立の受験をした頃には体力が限界に近かったと思います。ただ、手術さえすればまたいつもの生活に戻れる、とは言われていた。兄はそれを信じて、全日制の高校を受験したんです。凄く頭の良い高校でしたが、当日、兄は全員に心配されながらも受験会場へと向かいました。――そこで、兄の体調に変化が起きたんです。」
あれ、この話。
「兄は突然心臓が苦しくなって、受験会場で倒れてしまったんです。周りには試験官のような大人はいなくて、同じように高校を受験する生徒ばかりでした。……頭の良い高校で、しかも倍率は何倍にもなります。一年以上前から準備を重ねて来た生徒が必死に望んで掴み取った受験。周りの人間が倒れようが、構っている暇がないのは当然のことだと思います。」
もがき苦しむような声が、自分の真下から聞こえる。通り過ぎる受験生が、心配そうな表情を一瞬だけした後に直ぐに手元の参考書へ視線を移す。
自然と、俺はその場にしゃがみ込んでいた。どこからともなく試験の五分前を示すアナウンスが聞こえてくる。誰も、足を止める人は他にいなかった。
受験生にしては珍しい、私服。明るい茶髪が汗で濡れていて、目元はよく見えない。
「大丈夫!?……動ける?」
俺は――手を差し伸べた。
「肩を……借してほしい。」
目の前の青年は高い声で、そう言った。そして――俺の手を取った。
「わかった。」
俺は躊躇いなく青年の肩を掴む。そして腕をもう片方の手で掴むと、ゆっくりと廊下を歩く。
「大丈夫!?本当に歩ける!?」
「歩……ける。立ってた方が、楽。」
「わかった。」
試験はもう始まっている気がしたけど、どうでも良かった。
目の前の青年の体調が心配で仕方がなくて、俺は必死に足を動かす。青年の口から、何か液体がポタポタと垂れるのが見えた。それは俺の制服のジャケットにもこびり付き、俺は何かわからないまま青年にハンカチを差し出した。
「なっ……。」
真っ赤に染まる白いハンカチ。血液とは思わなくて、俺の頭は真っ白になる。どう見たってただの風邪なんかじゃない。もしかして、相当体調が悪いのではないだろうか。
「だっ!誰か!!」
試験中だということも忘れて、俺は大声を上げていた。そのまま踏ん張っていると、声を聞きつけた大人達が駆け寄って来てくれた。高校の保健室に二人とも運び込まれると、血で汚れた制服を洗わせてもらう。
「君、名前聞いておいても良い?」
青年を救護していた女性が、切羽詰まったように俺の名前を聞く。
「一ノ瀬一、です。」
青年のぐったりとした体が僅かに動いた気がした。女性が俺の名前を他の教師らしき人達に伝える。するとすぐに俺の受験番号を確認し始めてくれるのがわかった。
その後、一時間目の数学を諦めていた俺だったが、急遽教室に入れて貰える事になり、短時間ではあるがテストを受けた。
案の定、試験には落ちたのだが。
「それが……。」
「それが……一ノ瀬さんに助けてもらったのが。――兄なんです。」
「兄は、その事をずっと覚えていました。そして一ノ瀬一さんという、朧げな意識の中で聞いた名前も。それでも、自分のせいで貴方が受験をし損ねた事を物凄く後悔していた。どうにか貴方に恩返しをしたい。元気になって彼にもう一度会いたい、友達になりたいと。ずっとずっと、受験の後、僕に話してくれました。」
「その後、公立高校の受験を何事もなく受験して、兄は合格を勝ち取りました。生憎、一ノ瀬さんが何処の高校に行くのかはわからなかったけど、入学直前に届いた入学者名簿で、兄は――一ノ瀬さんの名前を見つけたんです。」
「まさか。」
「はい。兄は、一ノ瀬さんが今通ってらっしゃる高校に通う予定でした。」
俺は息を呑む。
「兄はみるみるうちに活力を取り戻して、絶対に高校に通うと息巻いていました。入院生活が始まっても、かつてない程に兄は幸せそうだった。それでも……何事にも絶対は、ない。兄は貴方のことを知った次の日、手術が失敗して……亡くなりました。」
涙が一筋、頬を伝う。
そうだったんだ、と目を瞑る。そこからとめどなく涙が溢れ出して、俺は思わず顔を覆った。
出会ってたんだな、俺とお前。
悪霊なんかじゃなく、お前はやっぱり俺と友達でいたいと思ってくれていたんだ。
ずっと、忘れててごめん。思い出せなくて、ごめん。疑って、ごめん。
「ごめん……ごめんよ、九十九……!!許してくれ……!!」
九十九の前で流したぶりの涙が溢れ出る。
お前がこんなにも苦しんでいたのに、俺はのうのうと生きていた。何もわかってあげられなくて、ごめん。
「僕は……祖父から聞いた話も、祓い屋を名乗る人々から尋ねられた時に聞いた話もにわかには信じられませんでした。まさか、兄が悪霊になっていただなんて。」
「……!!十色くん。」
知っていたのか。
いつ、聞いたのだろう。
九十九が消えたあの日、車の中で千堂さんが運転手にかけていた言葉を思い出す。あの時には既に、裏で様々な調査が進んでいたのだろう。
「若い女の人が、何か接触を試みてくることはなかったかと聞いて来ました。無論、兄には会っていませんし、その話を聞いたのもその時が初めてでした。夜中に押しかけて来て、なんだか気味が悪かったです。話半分に聞いていましたが、気になって……僕は兄の自室を少し漁ったんです。」
そう言って、十色くんはファイルから短冊状になった事務的な封筒を取り出した。
「これ、祓い屋さん達にお渡しするのがきっと正しかったんでしょうけど、祖父が保管していたものなんです。どんな力もこの封筒を持ち去らないように、大事に神社の中で守っていました。……一ノ瀬さん。」
俺は、涙で濡れた顔を上げ、封筒と十色くんを交互に見る。
「パラレルワールドって、ご存知ですか。この『手紙』の内容が本当ならば……兄は、そこから来たんだと思うんです。この世界の分岐したあたらしい世界。兄の――手術が成功した世界から。」
十色くんは封筒を裏返す。
見間違えるはずがない。
九十九の字で、そこには「一くんへ」と書いてあった。
「兄が着るはずだった高校の制服のジャケット。そこに入っていたと聞きました。恐らく、この事態を予期して兄が忍び込んで、中に入れたんだと思います。僕達に気づいてもらうために――貴方に渡して貰えるように。」
俺は、封筒をゆっくりと手に取った。
すべすべとした髪の質感が手に触れ、糊付けされていない封筒の口へと指を近付ける。
手紙は便箋数枚程で、簡潔に九十九の触れて来た出来事が書かれてあった。
どれくらいの時間が過ぎただろう。
俺が読む様子を身動き一つせずに、十色くんは見つめていた。
手紙を読み終え、そっと机の上に置いた俺を見て、十色くんは何か言いたげな表情を浮かべる。
「そう……だったんだな。」
「そこに書いてあることが本当なら……一ノ瀬さんは。」
言いかけて、そこで止まる。
「会いに行こうか。……九十九に。」
このままでなんて、絶対に終われない。
***
かみさまが言ったんだ。
僕に特別な力を一年間だけあげるって。
かみさまが言ったんだ。
守れなかった命を守って見せろって。
かみさまが言ったんだ。
例え一くんに嫌われる事になったとしてもって。
葬式というのは雨の印象が強い。
でも、俺が人生で二度目に行ったお葬式は、他の人間はみんな浮かれムードの楽しい日だった。
空はよく晴れて、凧揚げやバトミントンをしている子供達が目の前の公園で遊んでいる。平日の昼間から子供が自由に遊んでいるのは――正月だからだ。
そんな事をぼんやりと考えていた。葬式会場の中に数珠を持って入ると、同じ世界とは思えないくらい重たい世界が広がっていた。
「……それじゃあ、みんな。一列に並んで……ご焼香をあげよう。」
マッチャンが目を真っ赤にして、鼻を啜りながら僕達を誘導してくれる。僕もそれに混じって、鉛のような足を引き摺りながら列に並ぶ。
念仏が、唱えられていた。お坊さんの真正面には、中学の卒業アルバムできりりと口元を引き結んだ一くんの写真が飾られていた。
ああ、あの時の顔だ、と思った。
僕が――神木九十九が初めて君に出会った時。君は同じ制服に身を包んで、キツくしまった口元を緩ませて、僕に手を差し伸べてくれたんだ。
あの時の優しさを、僕は一度だって忘れたことはない。一くんが困っていたら一番に手を差し伸べてあげたい。
そう思っていたのに。
突如、慟哭が会場内を包んだ。誰もが驚いて声のする方向を向く。そこにいたのは中年の、痩せ気味な女性だった。僕達の姿を見るなり、床に崩れ落ち、その場にいた男性に支えられる。……男性の方も、拭いきれないほどの涙がぼたぼたと頬を伝っていた。
女性は、厳しそうな顔立ちで、到底今のように感情を表に出すようには見えなかった。そんな大の大人が声をあげて泣いている様子を見て、僕は思わず怯んだ。
「ほら、あの方達が……一くんのご両親よね。」
近くにいた女性達がひそひそと噂をしているのが耳に飛び込んでくる。両親、という単語を聞いて一くんの言葉がふいに頭をよぎった。
「あ、はは。親ちょっと、そういうの厳しいから。」
深く踏み込ませないような雰囲気に、誰も触れる事はできなかった。一くんも、その一瞬の気まずい空気に小さく、なる。あそこで僕が少しでも明るく接することができていたら、未来は変わったのだろうか。
二○二六年十二月三十一日。二十時三十七分。
一くんは、歩道橋の上から道幅の広い道路へと落下し、そのままトラックに跳ねられて死んだ。
周囲の防犯カメラには一くんが一人で歩道橋に向かい、橋の柵を乗り越え、一人で落下する光景がまるまる残されていた。
自殺以外の何でもない。
その知らせがクラス全体に駆け巡った時、僕は息ができなかった。嘘だと思った。
高校に入学してから、僕は一くんとクラスメイト以下の関係しか築く事ができなかった。
彼と僕では住む世界が違う。馬鹿騒ぎをする様な奴らと比べてみたら、一くんは未来に向かって努力している素敵な子だった。そんな一くんの邪魔をしてはいけない。俺は見守っているだけで良い。
……違う、踏み込む事が怖かったのだ。
僕は高校入学当初からうんざりする程人に声をかけられた。
まるで自分から話しかける事が許されないかのように、一くんと関わる事を阻むかの様に纏わり付いてくる人達を見て正直嫌気が差していた。しかし、それも今思い返せばただの言い訳に過ぎなかった。あの日、人を掻き分けてでも強引に一くんに話しかければよかったんだ。クラスが違ったとか、タイミングを見計らってたとか、どう考えても言い訳でしかないのはわかっていたのに。
私立高校を受験した時に、君に助けてもらったんだ。
本当にありがとう、君と友達になりたい。
たった二言。それを言う機会に恵まれたのは、入学してから半年以上が経過した頃だった。
「え?一ノ瀬?クラスに確かにいるけど……二人は知り合いなの?」
「知り合い、じゃないけど……。」
「まあいいや……。一ノ瀬ーー!!九十九が呼んでる!!」
大声に一くんの肩がびくんと震えた。頭が良いのは入学当初から有名だったが、昼休みの今もなお、一人で黙々と勉強をしていた様だった。こちらをチラリと見た一くんの視線に心臓が跳ねる。
やばい、どうしよう。何から話そう。
耳にカアっと熱が集まり、一くんがこちらへとやって来る。
オドオドとしている一くんと、目が合わない。
「どうしました……か?」
初めて、目が合う。その瞳を見て愕然とする。
一くんの中には――僕に対するあからさまな恐怖があった。
クラスも違う、話したこともない、一くんが僕の名前を知っているのかすら知らない。あの日手を差し伸べてくれた一くんとは違う、こちらを怪しむ様な目。思わず言葉が詰まった。
「おいおい九十九、どうした!?一くんを揶揄いに来たんじゃないのかよ!!」
余計な事を、と思った瞬間、一くんは両手を握りしめ、深くお辞儀をした。
「ごめん。俺やることあるので。」
そう言って何も言えない僕を残して、一くんはこちらに背中を向ける。
伸ばしかけた手はあっという間に引っ込んだ。
「ぎゃははは!!九十九、お前なんであんな奴に話しかけてんの?見るからに根暗じゃん。勉強しかできないし。」
「そうそう、九十九とは対応が違うだろ!!」
「そうだよ〜。……そうだ、今度遊びに行く話、考えてくれた?」
耳にキンキンと周りの声が響く。顔を僅かに顰めると、びっくりした様に周りの数人が「え、ごめん……。」と謝ってくる。違う、顰めたいのは自分に対してだ。
俺は一体何をしているんだろう。一くんをあんなに怖がらせて、最初から性格の向き不向きは人にある。
無理に詰め寄ろうとして、挙げ句の果てに助けてくれてありがとうなんて、言えたものじゃない。
きっと、一くんは優しいから。人を助けることなんて日常茶飯事すぎて、僕の事を覚えてはいない。
今更そんな事を言われても気持ち悪いに決まっている。
そう言って、僕はそこから何度も逃げ続けた。
一年が経っても、僕と一くんは顔見知りだった。
偶然同じクラスになって、以前より会話をする事が多くなっても二人の距離感は以前のままだった。
……僕にも、大切な壊したくない関係が増えていたから。
「一ノ瀬くん、数学のノート回収して良い?テスト終わったから。」
「うん。」
敬語は抜けても、一ノ瀬くんは基本的に誰とも喋らない。俺の持つノートの山に自身のノートを重ねると、突然、俺の持っていたノートの半分を抱えた。
「えっ。」
「ノートの回収係、一人今日休みだから。」
「いいよいいよ!そんな事しなくて!!」
気遣いのつもりで言ったあの言葉。あれも……一くんの優しさを否定して、壁を増やしていたのかもしれない。
「……そう。」
一くんは一瞬上げていた顔を再び参考書に戻し、次はもう二度と上げてくれなくなる。
やっぱり、一くんは優しい。呑気にそんな事を考えていた僕は本当に何もわかっていなかった。
彼が陰で苦しんでいた事、それに直接触れようとも見ようともしなかった。
「成績の低迷を苦に自殺……ですって。」
「親御さん厳しかったものね。小さい頃から。」
「話せる相手もいなかったんじゃないかしら、可哀想に。」
そこで初めて僕は気が付いた。
一人が好きなんだと思っていた一くん。
例えそうだとしても、孤独が好きな人は何処にもいない。
辛くて苦しい経験は、誰かが支えてくれるからこそ乗り越えられる。試験会場で倒れた自分も、一くんが支えてくれたから歩き出せた
それなのに。
焼香の順番がやってくる。目の前に一くんが収められた棺があった。首から下は損傷が激しかったと聞いたが、棺の小窓から花に囲まれて、一くんは微笑んでいた。
眠っているみたい。
よく聞く言葉がよぎる。
こんな笑顔、一度も見た事がないな。痛かっただろうに、自分で死を選ぶのは辛かっただろうに。
その時、溢れんばかりの感情が押し寄せ、目頭が熱くなる。
「っ!!」
「九十九!?」
後ろに並んでいた友達を背に、僕は全速力で葬式会場を駆け抜けた。ぶつかった人が驚いた声を上げるのも構わず、外に出てもなお、僕は走った。
走って、走って、ぜえぜえと汗か涙かわからないものが顔から吹き出す。母の笑顔と、一くんの最期の笑顔が、重なった。
一くんは自分を犠牲にしてまで僕を助けてくれたのに。
なんで僕は、一くんのSOSにも気付くことが出来なかった!!!!
どうして、どうして、手を差し伸べなかったんだ!!!!
物凄い速さで、家の中に駆け込む。乱暴に自室の襖を開け放ち、そのまま床に座り込んだまま、ベッドに顔を埋める。
「うああああああああああ!!!!」
拳で何度も、何度も、ベッドを殴る。俺は絶叫した。
全部全部、同じじゃないか。
何年経っても僕は人一人を助けることもできない。
母がくれた優しさも救われた命も、全部仇で返している。
誰よりも僕は一くんの優しさを知っていたんじゃないのか。
誰よりも彼の魅力をわかってあげられたんじゃないのか。
臆病で、惨めで、疫病神で。
一くんは自分とは違うと勝手に境界線を引いて勝手に納得している。
こんな人間が生きて――なんで必死に頑張ってた一くんが死ななきゃいけないんだ。
ジンジンと拳が痛む。
なんのために、ここにいるんだ。なんのために、手術をして、生きているんだ。
口の中に溜まっていた唾が気管に入って、僕は激しく咳き込む。どれだけ手を伸ばしても、どれだけ後悔しても一くんは帰って来ない。
何故なら、彼が自分自身の決断で、この世界の全てからお別れする事を選んだんだから。
「かみさま……。」
夕暮れが近付いていた。逢魔が時とも言う。
いつまで顔をベッドに伏せていたかはわからない。西陽が差し込み、僕の涙でドロドロになった顔が橙に照らし出される。
「お願いします。僕の命なんていりません、地獄へ行っても構いません。どんな罰を受けたって良い。だから、だから……。」
「一くんを……一ノ瀬一くんを、助けたい。」
僕の意識は、そこで途絶えた。
気が付けば僕は悪霊になっていて、正月ムードの街中に一人で立ち尽くしていた。至る所に書かれた「ニ○ニ六」という看板に目を疑った。僕がいたのはニ○ニ七年。過去に戻ったと歓喜したのも束の間、この世界に僕は存在していなかった。
手術が失敗して、神木九十九が死んだ世界線。
僕が放り投げられたのは、そんな世界。
僕のせいで、悪霊達が一くんに襲いかかる。
だから、それをなんとしてでも食い止めなければいけない。
打ちのめされていた心に火が灯る。夢でも良い、一年が経てば元の世界に戻ることになっても良い。一くんの為ならば何でもする。
だから――今度は一くんの手を、僕が取ってあげたい。
***
十二月三十一日。二十時三分。
僕の姿はあの場所――一くんが飛び降りた歩道橋にあった。
もう、二度とこちらの世界には来ないつもりで居た。
一くんと遊園地で別れてからというもの、俺の意識は元いる世界に飛ばされていた。意識がない中、病院独特の機械音だけが耳に入ってくる。意識があるはずなのに、ない。両手両足が自分の体ではないかの様に動かせない。そんな状態で僕はこの二ヶ月を過ごした。どうやら、病院に担ぎ込まれているのだから良くない状態であるというのはわかる。もしかして、一年が経てば僕はこのまま死んじゃうのかな、とも思う。それでもそんな事はどうでも良かった。
一くんには沢山の嘘を吐いた。嘘を吐いて、ガワだけ取り繕って、一くんのために、と何でもした。
でも、一くんはその嘘を拒んだ。
当たり前だ。隠し事ばかりの関係なんて長く続くはずがない。
一くんが千堂さんに相談を持ちかけている時も、敢えて止めないでおいた。
一くんが人生を楽しいと感じてくれているのなら、僕はもう祓われて地獄に行ったって良かったからだ。僕じゃなくて、千堂さんを信頼してくれれば良い。そうして、仲間を増やして、僕から離れていってほしい。嘘つきの僕なんて。
そう思っているのに、胸が痛む。一くんのそばで、何の隔たりもない友達として生きていたい。そう思ってしまった。
遊園地に行こうと言われた時から、限界だな。と思っていた。
これ以上一くんの側にいることは、逆に一くんを傷付けてしまう。だって、もう一くんは僕の助けがなくても生きていける。取った僕の手を離して歩いていけるから。
だから、さようならをした。
歩道橋を、後ろで腕を組んで歩く。満点の夜空が綺麗で、思わず空を見上げた。
今頃、一くんは何をしているだろう。両親と仲良くご飯を食べているのかな。
どちらにせよ、一くんがこの場所に来ることは決してない。
そう、決して。
もやりと黒い靄が心で渦巻く。大丈夫だと言い聞かせているのに、不安が拭えない。
もし、何処かでまた死のうとしていたら、どうしよう。家から出ていたら、どうしよう。
「大丈夫、大丈夫……。」
必死に、自分に言い聞かせる。言葉とは反対に、俺の顔は段々と歪んでいく。
これで、本当にお別れ。
僕の世界に一くんはもういない。その事実は変わらない。それでも、また別の世界で、一くんが楽しく生きてくれたら。
その瞬間。
「……九十九?」
聞き馴染みのある、間の抜けた声。
全身から血の気が引いていく。
なんで
君が、ここにいるんだ。
「九十九……会いたかった!!」
「来るな!!!!」
後ろから近付いていた足音が、ぴたりと止む。念の為持っていたお札を取り出して、脅す。
「来るな……来たら、お前を攻撃する。」
「九十九、もういいよ。全部聞いた、全部知ってる。お前が丁寧に書き残してくれたんだろ?」
ぴらぴらと、紙の様なものを振る音がする。
「来るなって、書いていたはずだ。」
「……俺は死にに来たんじゃないもん。九十九に会いに来たんだよ。」
後ろで、一くんが静かに言った。
「どれだけ九十九の事見てきたと思ってんの?心配性拗らせて、ここで俺が来ないか見張ってる事なんてお見通しだっての。」
少し、声が近くなった気がした。
今すぐ、振り返りたい。
居なくなってごめんねって、駆けつけたい。
さようならって、ちゃんともう一度言いたい。
僕は頭を振る。
「僕は……悪霊だよ。それに間違いはない。祓い屋に祓われるべき存在なんだ。僕は……怖くて、一くんに何も出来なかった。沢山嘘を吐いて、危険な目に遭わせて。」
「最後に会う権利なんて、僕にはない。お願い、僕のことなんて忘れて。僕の事は放っておいて。そして……今すぐここから出て行って。」
「そんな事、言うなよ。」
一くんの声が震えていた。
「俺は……実は九十九が居なくなった直後はまだ死んでも良いって思ってた。未来は……変わってなかったんだ。けど、九十九が俺を変えてくれたから、俺は……自分で未来を変えようって思えた。……九十九が居ない世界でも、ちゃんと自分の道で生きていきたいって。」
「なら。」
「でも!!」
ゴクリと唾を飲み込む音が響いた。
「俺、まだ出来てないことがある。これから生きていくために……ちゃんと、こんな歪な関係を終わらせなきゃ。」
その時だった。後ろで、ガコン、と手すりに鈍いものがぶつかる音がする。
「うわっ!!」
一くんの――大きな声が響いた。
「一くん!!!!」
まさか
また、不運が。
僕は――振り返ってしまった。
それとほぼ同時に、僕の体に一くんが飛びついてくる。首に腕が巻きつき、直に肩から啜り泣く声が聞こえた。じんわりとした体温が触れた部分から伝わってきて、気持ちが良い。
――抱きしめられた。
一くんは、俺の背中を拳で殴る。鈍い痛みに、全身が震え、目頭が熱くなった。
言葉が出なかった。ただ、ポロポロと涙が溢れ、一くんのマフラーを濡らす。
「馬鹿だなあ……。俺がピンチになったかもって思ったら、すぐ自分の意思を無視して突っ走るんだから。」
「最悪……騙したね。」
「へへへ。勝手に居なくなったんだからおあいこだろ。」
一くんは僕の肩から離れると、そっと両手で肩を掴んだ。観覧車よりももっと近い距離で、僕たちは向き直る。
「九十九……俺の人生を変えにきてくれて、ありがとう。」
「俺と……友達になってください。」
***
ふはっと、九十九から息が漏れた。顔を隠して、九十九が肩を震わせる。
「もーー!!絶対笑うと思った!!わかってた!!」
「はは……ごめん……。」
「気恥ずかしい事言わせやがって!!」
「ごめんごめん。抱きついた時も、僕の方が身長高いもんね。」
「言うな!まだ成長期!!」
そう反論して、また笑う。
寒さなんて吹き飛ばすくらい、腹の底から感情が湧き出してくる。
「……ありがとう。」
ポツリと、ひとしきり笑い終わった後に九十九が漏らす。
「最後に……会えて良かった。帰れなんて言ったけど、やっぱり会いたかった。」
「嘘つきめ。」
「一くんに言われたくない。」
顔を見合わせて、また笑いが漏れる。
「俺さあ。将来の夢決まったんだ。」
「そう、なの?新しい事見つけた?」
「ううん、俺――医者になる。」
堂々と言い切ったはずが、九十九はきょとんとしている。
「確信できたんだ。俺は医者になりたいって。ずっとずっと、自分の進んでいくこの道が本当に正しいのか、本当に自分がやりたい事なのかわからなかった。けど、ようやく確信できたんだ。俺は……医者になりたい。九十九みたいに、体の弱い子供も、その家族もみーんな、幸せにしたい。……小児科医になりたい。」
九十九の瞳が煌めいた。やっぱりアイドルみたいに明るい笑顔をしてる、お前が一番良い。
「九十九は?将来の夢は何かある?」
「えっ。」
突然のことに戸惑いを隠せていない。「えっと。」と頭を掻いていた。
「僕さ……多分、死ぬ気がする。ここに来る前、僕は命と引き換えに一くんを助けたいって願ったんだ。だから、もう。」
「お前、人に生きろとか言うくせに自分は死ぬのか?」
「ご、ごめん。」
「九十九は……死なない。絶対に死なない!死んだら今度は俺がそっちに行って九十九を叩き起こす。そうでなくとも……九十九は、生きられる。もう悪霊なんてならないで。」
最後の言葉が涙で途切れる。九十九の顔がぼやけた。
「一くん……泣き虫だなあ。」
「お前もだろっ!!」
「そうだよ。」
涙声で、九十九は断言する。そして――俺を強く抱きしめた。
「だって、どうなっても一くんにはもう二度と会えない。永遠にさようならだ。そんなの嫌だ。」
「……九十九、俺まだ返事もらってないんだけど。」
九十九が一気に腑抜けた表情になる。
「友達になれば、俺たちを繋ぐものには『友達』という関係性がある。けどどうだ?友達じゃないなら……永遠に他人のままだ。神木九十九の友達・一ノ瀬一はちゃんと生きている。……ずっとそう思って、生きて行ってくれよ。」
「そう……だね。」
俺は九十九を優しく抱きしめ返す。
「友達に、なりたい。僕と友達になろう、一くん。」
満点の夜空が二人を包む。
どれだけ離れても、二度と会えなくても、決して壊れない「最強」の友情。
君との繋がりがあるから、僕はまた、生きていける。

