今年の運勢『最凶』につき

「一ノ瀬くん!!一ノ瀬くん!!」
「貴方は!?お連れ様ですか!?」
「一ノ瀬くんお願い!!起きて!!」
 耳の奥が何やら騒がしい。誰かが俺の体をゆさゆさと揺すっている。
 俺は寝転んでいるのかな、立っているのかな。
 上下左右の感覚が掴めない。
 俺の名前を誰かがしきりに呼んでいる気がする。

 俺は今まで何をしていたんだっけ?曖昧な記憶の中を最初から順追って思い出して行く。
 朝起きて、歯を磨いて、服に着替えて。朝ごはんを食べて。それから家を出た。夏休みにはすっかり慣習になっていた朝の勉強は今日はしなかった。土曜日の今日はは学校がないから誰かと遊びに行く予定があったんだ。

 誰と遊びに行くんだったっけ?
 どこに遊びに行く予定だったんだっけ?

 何か、とても大事な事を思い出せていない気がする。
 一緒に学校に通う友達がいた。
 休みの日にも一緒に遊ぶ友達がいた。
 でもその友達には秘密があった。
 それでも俺はその子が大好きだった。

「……九十九。」
 瞼が、ゆっくりと開く。目の周りは涙でベタベタに濡れていて、視界がぼやける。俺の顔を覗き込んでいた誰かが、甲高い叫び声を上げた。
「一ノ瀬くん!!大丈夫!?」
「九十九!!」
 途端に、俺は大声を上げ、体を勢いよく跳ね起こした。驚いて、俺を囲んでいた複数人が思わず後ろへと仰反る。
「九十九は……九十九はどこだ!?」
 辺りは先程見た夕陽が嘘みたいに真っ暗だった。俺を囲んでいるのは遊園地の係員らしき人達、そして遊園地の客と思わしき私服姿の大人達だった。誰もが俺を心配そうに俺を見下ろしていたが、そのどこにも九十九の姿はない。混乱しながら人混みを掻き分けようとする俺を、千堂さんが俺の腰に抱き付いて全身で止めてくる。
「待って!!一ノ瀬くん!!」
 
 その時、見覚えのある係員さんが人混みの隙間から顔を出した。それは九十九と一緒に観覧車に乗った時、誘導をして扉を閉めてくれた人だった。俺の顔を見るなり、「ああよかった。」と呟き、目の前へと割って入る。俺を見下ろしていた大人達は俺の意識が戻ったのを見て安心した表情を浮かべながら次々に立ち去って行った。
 俺は訳がわからずに、地面に尻餅をついたまま呆気に取られていた。
「名前、言える?」
 そう、係員さんはメモを片手に尋ねてくる。
「一ノ瀬……一です。」
「一ノ瀬一くん、ね。この子とお友達?」
 係員さんは腰に腕を巻回す千堂さんをペンで指した。千堂さんがうんうん、強くと頷いたので俺も頷く。係員さんは何やら素早くメモを書き記すと、頷きながらまるで子供に諭すような口調で話しかけて来る。

「君さ、なんでこんなに人に囲まれてるかわかる?」
 わからない。俺は観覧車に乗っていただけのはずだから。
 俺は首を横に振る。
「君、ゴンドラの中で倒れてたんだよ?元々貧血か何かの持病があるのかな?そのせいで一旦観覧車を止めたから、こんな騒動になってるの。」
 淡々とした説明だったが、俺を責め立てる言い方だった。

「もしこれから観覧車に乗るなら彼女さんと一緒に。――一人では乗らないでね、危ないから。」
「え?いや、俺は……。」
 一人じゃ、ない。俺は九十九と一緒に観覧車に乗っていた。観覧車が降りて来る前に九十九がいないなんて事ありえない。
 その時、千堂さんの力がより一層強くなった。どうしたんだと後ろに視線を送ると、千堂さんが唇の前に人差し指を立てている。係員さんは面倒くさそうに頭を掻いた。

「念の為病院には行っておいた方が良いよ。呼吸も意識もあったから救急車は呼ばなかったけど。どうする?君達の親御さんに迎えに来てもらう?」
 俺の表情が強張る。今親を呼ばれたら、怒られる所で済む訳がない。勉強をしに行くと嘘を吐いて、挙句果てに観覧車の中で倒れたとなれば母親は卒倒するだろう。俺の強張った表情に気付いたのか、千堂さんは抱き付いていた片腕を外し、耳の上に恐る恐る上げる。
「私が家まで送って行きます。家近いんで安心してください。」
「はあ……そんなにラブラブならなんで一人で観覧車なんか乗ったのさ。」
「痴話喧嘩してたんです。彼が私の浮気を急に疑ったりなんかするからあ。」
「もう遊園地でそんな面倒臭い事しないでね。」
 俺と話していた係員さんが立ち上がると、他の係員さんも一礼をして各自の場所へと散らばって行く。敷地内は蛍の光がゆったりと流れていた。幾つかのアトラクションの入り口にはシャッターが下ろされ、地面に置かれていた看板やぬいぐるみが次々に施設の中へと運び込まれていく。
「行くよ、一ノ瀬くん。」
 呆然としていた俺の体を、千堂さんが持ち上げる様に上へと引っ張った。
「ちょ、ちょっと!!」
「話は私の家でしよう。」
 なんだかこの強引さは九十九にも似ている。混乱を整理しきれないまま、俺は千堂さんに引きずられながら遊園地を出た。正門の前につけてあった黒塗りの高級車。千堂さんはその扉を引き開けると、半ば強引に俺の体を押し込んだ。
「ええっ!?」
 見た目が完全に誘拐だ。説明をするのが煩わしいのか黙って俺を後部座席に詰め込むと、強い力で扉を閉める。そして自身は助手席に乗り込み、運転席に座っていた中年の女性に手で合図をした。
「英ヒルズに向かおう。既に他の祓い屋が捜索を始めてる。」
 その言葉は明らかに俺に向けられたものではなかったが、耳に残る。
 探すって、何を?九十九は一体どこに行ったんだ?
 むず痒い気持ちで、発信した車の座席にもたれかかる。焦りや疑問が次々に沸き起こっていた。今何かを尋ねても、きっと何も答えてくれない。それくらい緊迫した車内の雰囲気に俺は黙るしかなかった。そして、今もこうして大きな音を立てながら動く心臓の上にそっと手を当てる。

 ……生きている。
 九十九は、俺を殺さなかった。その代わりに、どこかへ消えた。
 祓われた訳ではない気がした。千堂さんの表情は到底、作戦大成功なんてものじゃない。俺は少しだけ安堵する。

 何気なく、スマホを起動した。
 母親からの連絡が気になったからだ。時刻は六時を回ったところで、図書館で勉強するのであれば不自然な時間ではない。特に連絡は来ていないものの、どうやって言い訳をしようかと思案する。
「……あれ?」
 過去のメッセージの記録。それを下にスワイプして遡ってみる。おかしい。
「九十九がいない……?」
 交換したはずのメッセージ。つい今朝も集合時間の連絡を送ったばかりだった。
 見落とした?いや、そんな筈はない。九十九以外に連絡先を交換するような知人というのは限られて来る。大して数のない履歴を遡るのは簡単だ。
「あれ、なんで?消された?」

 さようなら。
 九十九の最後の言葉にぞわりと鳥肌が立つ。まさか、いやそんな。


「神木九十九が消えた。」
 千堂さんが低く吐き捨てる。
「逃げたんじゃない。この世界から存在が、消えた。」

「もう私達以外に九十九くんの事を覚えている人はいないよ。」
 スマホが車の床へと滑り落ちた。


***

「ダメ。完全に気配が消えた。足跡代わりになるようなものも何一つ残ってない。」
 苦々しげに千堂さんは頭を抱える。ローテーブルには千堂さんの私物と思わしきノートパソコンが数台。それを器用に操作していた。
「結局、捕まえて話を聞く事は出来なかった、か。本当に惜しい。一体九十九くんは何処からやって来て何処へ行ったの……?ああ、それさえわかれば!!」
 ソファから立ち上がり、ぶつぶつと独り言を呟きながら腕を組んで部屋中を歩き回る。一方で脱力し切った俺は考える気力もなくソファに座り込んでいた。

「でも」
 千堂さんは突如眉を下げ、優しい表情になる。ソファに座る俺の斜め前に立ち、綺麗な角度で頭を下げる。
「一ノ瀬くん、本当に協力ありがとう。……捕まえる事は出来なかったけど、九十九くんという悪霊は居なくなった。元凶が過ぎ去ればもう悪霊に襲われる心配はないよ、もう不運に苦しむ事もないんだよ。」

 嬉しい事の筈なのに、微塵も嬉しいと思えない。
 疑問は解消するどころか新たな疑問を巻き込んで複雑に絡まるだけだ。

「一ノ瀬くんが九十九くんに会った時のこと……教えてくれないかな。」
 千堂さんの懇願するような声に、俺は顔を上げる。心配そうに俺を覗き込んでくる彼女を見ると胸が痛んだ。
 彼女の事もまた、九十九の前で裏切ろうとしてしまった。千堂さんは悪くないと言っておきながら、何一つ彼女の為になることを出来なかった。
 また涙が溢れそうだったけど、なんとか唇をきつく噛み締めて耐える。
「……わかった。」
 テーブルの上の暖かいダージリンティーを啜ると、冷え切った体に熱が灯った。ふう、と息をひとつ吐く。そこから俺は、時折感情が昂って話を途切れさせながらも九十九と俺の間で起きた事について隠す事なく全て話した。


「……死のうとしてたの?」
 真っ先に千堂さんはその部分を尋ねて来る。少しの間猶予を持たせた後、突っ込まれた質問に俺は咄嗟の返事ができない。
「九十九くんを逃そうとしてたって事?」
「それは、違う。」
「別に責めてないよ。」
「本当に違うんだ。」
 俺は精一杯に首を横に振る。

「九十九を逃そうとしていたんじゃない。俺はただ……俺自身が許せなかった。九十九を騙して、九十九を疑って。それなら、九十九と同じく罰を受けるべきだと思ったんだ。」
「でも話をしてみてわかったんだ。九十九は嘘なんかついてない。俺と九十九は友達だし、九十九は俺を殺しに来たんじゃない。もっと他に別の理由があって来たんだよ。」
「その理由は?」
「理由なんてない。俺と九十九の関係だからわかるんだ。」
 呆れが混じった溜息が千堂さんの口から漏れる。
「なるほど……ね。」

 馬鹿らしいと千堂さんには思われたかもしれない。
 それでもやっぱり、九十九の言葉が嘘だとは思えなかった。

「まあ、どちらにせよもう関係はない。……私と一ノ瀬くんのこの関係も、もう終わりだね。」
「えっ。」
「だってそうでしょ?一ノ瀬くんが普通の人間に戻れば祓い屋の私は用無しだもん。それと、私この街から出て行くの。」
 こちらが驚く事を、千堂さんは飄々といくつも同時に言ってのける。
「祓い屋は本来普通の人間が関わるべき人間じゃない。一ノ瀬くんもこれからは祓い屋のことを忘れて生きて貰わないといけないからね。」
 そうか。九十九がやんわりと言っていた事が妙に鮮明に思い出された。
 一年を経てばここから離れる。
 九十九は最初から遅かれ早かれ、今の様に俺の元から立ち去る予定だったんじゃないだろうか?
 今は十月。それが、俺が九十九の秘密を知ってしまったせいで二ヶ月程早まっただけに過ぎない。

 ただし、納得のいく答えが出ても「なぜ?」の部分は決して紐解かれる事はない。
 何故俺なのか。
 何故九十九はやってきたのか。
 何故祓い屋のふりをしてまで俺に接近したのか。
 

 答えは出ない気がしたし、もう考えるべきではない様な気もした。
 だって、祓い屋の中でも今回の件は済んだことになっている。俺はまた、以前と変わらない生活に戻って良いんだ。
「うちの人が一ノ瀬くんを家まで送ってくれるって。お母さんへの適当な言い訳も準備しといてあげる。」
 部屋の奥へ一瞬姿を消していた千堂さんが、木製の重厚な扉の隙間から顔を覗かせる。
 申し訳なさで顔が赤くなる。両親が厳しい事を九十九以外の人言ったのは初めてだった。特に目立った反応を千堂さんがする事もなかったが、しっかり覚えている事を再確認されるとそれはそれで複雑だった。
 コートを肩に羽織り、いつもとは違う通路を案内されて外に出る。二人で車を待っている時も、頭の中には九十九がいた。

「二度と、会えないのかな。……覚悟はしてたけど。」
「それもまた、人生だよ。別れがあるから出会いもある。でも敢えて女子高生・千堂百華として進言するならば……ある意味二人にとってのハッピーエンドだったんじゃないかなあ。」
 ハッピーエンド。
 本当に?
「これからはさ、自分の事をちゃんと考えて生きてあげて。一ノ瀬くん、ちょっと自責思考が強すぎる気がするから。」
 俺の中から九十九が消え去るなんて事あり得るのだろうか。
 でも、目の前に広がる現実が段々と俺を侵食していた。もう九十九の事を考える必要はない。以前の様に勉強をして、一人で学校生活を送って、何も変わらない日常に戻るだけ。
 前を向かなきゃいけない。
「ありがとう……千堂さん。」

 生きていて欲しい。
 九十九がそう言ってくれたから。生きるしかない。

 けど俺は――どうやって生きていけばいいんだっけ?

 突然ずっしりと、心が水を含んだみたいに重くなる。やりたい事、将来の事なんて俺にはあったかな?俺は九十九に出会うまでどうやって生きて来たんだっけ?
 ぼうっと暗闇の一点を見つめる俺を、千堂さんは含みを持たせた愉快そうな表情でふふっと笑った。


***
 私、千堂百華は、一ノ瀬一を送り届けた帰りの車で大きなあくびを一つした。千堂家のレディたる者、祓い屋たる者、いつ何時も男性が見ている場で気を抜いてはいけない。幼い頃から厳しく躾けられ、自由はなかった。転校を何度も繰り返し、親友と呼べる様な友達は今も一人もいない。泣き喚いても怒っても、一度祓い屋だと知られた人間とは縁を切る。情を持つな、関わるな。こちらがまるで異質な怪物なのではないかとまで思わせられた。
「お疲れ様です、百華様。」
 今まで一言も口を聞かなかった使用人が、車を運転しながら助手席の自分に声をかける。一ノ瀬一と別れて気が緩んでいた私は「適当に走って。」と夜のドライブを提案した。使用人はイエスともノーとも言わず、黙って帰路とは離れた方向へ車を加速させる。高速道路へ入り、一定の速度で車が進み始めた時、使用人はようやく口を開いた。
「お疲れ様でした。良い、仕事振りだったとおもいます。クラスメイトの――一ノ瀬様にも。」
 敢えて使用人は彼の名前を口にした。
 
 ――守護対象に情を持ってはいけない。
 ただ、人間に定められた人生を侵害するものにだけ罰を与える。そうでなければなにもしない。それが私の祓い屋という仕事だ。

 一ノ瀬一の人生は最初から決まっていた。
 彼が神木九十九と出会う事なく人生を過ごす事も、進路に悩み、成績が低迷して行く事も、両親からの圧に耐えられなくなって行く事も、そしてそれらを吐き出す相手がおらず、孤独になる事も。




 一ノ瀬一は――自殺する。
 十二月三十一日の深夜に。


 その未来は例え彼にとっては不正解の人生でも、第三者である私が止めて良いものでは決してなかった。
 悪霊というのは自身が悪事を行う事は許せても、他人が行う事は咎める生き物だ。だから、神木九十九以外の悪霊達は一ノ瀬一の人生が変わろうとしている事に凶暴化し、襲いかかった。神木九十九という人間を拠点にし、一ノ瀬一を殺そうとしていた。でもそれももう終わり。今度は一ノ瀬くんはラスボスである自分の人生と戦い、負ける事になる。

 さようなら、一ノ瀬一くん。神木九十九は貴方の人生を変えきる事はできなかった。
 だから、私はあの時一生という言葉を使った。

 私は、シーラカンスの頭部を被り、占いを行った時のことを思い出す。
 君にとっての一年とは、君にとっての一生と同じだった。だから、言葉の意味自体に大きな違いはなかったのに、君は大きな反応をした。これはまずいと思った。あの時の君はまだ、未来を夢見ていたから。
 一ノ瀬一は自分の将来のことが自分で決められない。
 幼い頃の決められたルートを辿っていた筈が、大人になるにつれ見える景色が変わってくるとそのルートを迷い始めてしまう。そして君は未来なんて言葉を信じられなくなり、死ぬ。

 神木九十九が本当に一ノ瀬一の人生を変えに来たのかはわからない。
 ただの偶然かもしれない。

 でも、これ以上は足を踏み入れたくなかった。
「少し、悲しいですか。」
 一ノ瀬くんの事を言っている。
「さあ。」
 言葉を濁した。

 次、私が君に会うのは君のお葬式なのだろうか。
 転校する学校から次々に連絡が来ていた。コスプレかと錯覚する程に私の部屋には学校の制服が増えた。どれも私の中に思い出があるものばかりで捨てられない。次から、私は新しい学校の制服に袖を通し、今の制服は私のコレクションとなる。

「さようなら、一ノ瀬くん。……楽しかったよ。」
 瞼が重くなる。疲労が溜まっていた。使用人はそれを見て何も言わなかった。
 少し、眠ろう。

 前方の車のテールライトがぼやけて歪む。そのまま私は重力に任せ、重たい瞼をそっと下ろした。


***

「誰、あの子。」
 今日の事について嘘を交えながら千堂さんが説明してくれた後、二人きりになった玄関で母親は冷たく言い放った。納得した様に愛想を振り向いていた母親の変わりように俺はやばい、と思う。
「……千堂さん。もうすぐ転校するんだ。」
「一に人に構っている時間なんてないでしょう?勉強を教えてた?女の子にデレデレして馬鹿みたい。」
 そんな風に言わなくたっていいだろ、と腹が立つ。別にあんたみたいに子供がいるわけでも相手がいるわけでもない。多感な高校生でしかないのに。反論は、こちらが疲れるのでしない。以前の様に嫌な空気になりたくなかったからだ。

「……俺さ。」
 妙な勇気が俺を突き動かしていた。母親に、俺の将来について話題を振ってみる。真剣に将来の話を自分からしたのなんて、小学生振りだ。
「俺……医学部以外にも考えてみたい。他の理系学部も見てみたいんだ。」
「はあ?」
 案の定、鋭い声が飛ぶ。母親は全身で息を吐き、リビングに戻って行く。
「やっぱり何か吹き込まれてるじゃない。だから公立は嫌なのよ。だからあんたには私立に行って欲しかったのに……あんたが受験に落ちるから。」
「千堂さんは、みんなは関係ないよ。俺自身で考えたんだ。」
 ズキズキと胸が痛む。高校受験の時の記憶が蘇った。

 俺は、あろう事か受験に遅刻した。
 結局時間ギリギリでテスト自体は受けられたものの、時間が足りるはずもない。得意だった数学の回答用紙が見た事もない程空欄を残して回収されて行くのをやるせない思いで俺は見つめていた。進学校だから、どの教科も九割近くの得点率を維持していないとパスできない。模試の予想を遥かに下回る得点率が自己採点から割り出された時の両親の落胆振りは忘れられなかった。

「理学部とか工学部とか、他にも選択肢を増やしてみたいんだ。そうすれば……。」
「逃げるの?」
 言いかけていたところで、食器を洗おうとしていた母親の手が止まる。「え。」と声が漏れた。
「一がやりたい事は何なの?お医者さんになる事でしょう?……別に自分の人生なんだから自分で選べばいい。けど今のは何?一は他の人が選んでいる選択肢をみて不安に駆られて、ただ目の前に並べているだけでしょう?本気で興味があるとは思えない。」

「一、あんたはどうしたいの?自分だけの気持ちで、誰の考えにも影響されないで、自分の人生を決めなさいよ。」

 わからない。
 わからないから、困ってるんだ。

 何も言い返す事が出来なかった。力無くリビングから出て行くと、俺は自身の写真フォルダを開いてみる。
 そこに映る自分自身の人生。誰かが映り込んだ写真なんて一枚もなく、風景や参考書の写真が並べられている。――確か、数枚程度九十九の写真があった筈。
 数度スワイプしてみて指が止まる。

 どこにも、ない。
 九十九がこの世から消えた。死んだんじゃない、生きていたわけでもない。
 クラゲみたいに水に溶けて、俺には見えない深海の闇と同化する。



 次の日、目が覚めた俺はいつも通り、顔を洗い、歯磨きをして朝ごはんを食べる。母親はいつも通りだったが、家を出て行く間際にちくりと胸の痛む事を言った。
「そろそろ、夏休み明けの模試の結果が出るでしょう。」
 気象予報士の様に半分断定的な言い方をされる。俺はむず痒くて早く家を出て行きたくなる。

 そうだ、こんな日でも九十九は迎えに来てくれる。今日は何を話そうかな、学校のこと?勉強のこと?また悪霊に出会うのは嫌だなあ。
 浮き足立っていた気持ちは、ドアを開けた瞬間に終わる。

「……あ。」
 深い絶望が静かに押し寄せる。
 改めて、自分がした事への後悔が迫り上がってきた。

「九十九……もういないんだった。」
 静かにそう言って、学校までの道のりを歩く。長い長い、通学路。いつまで経っても学校に着かない。
 学校に着いたら、どうしよう。九十九がいないのなら、どうしよう。千堂さんはいるのかな。
「はは……馬鹿だなあ。」
 目の奥が熱くなる。こんなに辛い思いをするくらいなら、生きて欲しいと願うくらいなら――いっそ同じ場所に連れて行ってくれたらよかったのに。

「九十九……寂しいよ。」
 本音と涙が、堰き止めていたダムが壊れる様に溢れ出す。
 自分自身が下した決断。それはあまりにも重すぎたのかもしれない。





 その日、俺は生まれて初めて遅刻をした。
 九十九と一緒に遅刻しそうになって走った日々が忘れられない。何をしていても、一つ一つの出来事が九十九との思い出に結びついてしまい、ふとした瞬間に動きが止まった。俺はぼんやりと時計を眺めて過ごす。ノートにシャープペンシルの芯が擦れる音だけが静かに響いていた。陽の傾き始めた午後の教室で、俺以外の全員が黙々とペンを走らせていた。
 すると突然、教室の静けさはマッチャンの大声で解かれる。
「はい!みんないいか?解けたかな?……じゃあ、この問題は難しいから……一!解いてくれ。」
 名前を呼ばれ、俺の肩が震えた。慌てて目線を上にやると、マッチャンが黒板に書かれた問題を指差していた。
「一、大問五番の三。お前なら解けてるんじゃないかと思ったんだが……どうだ?」
 俺はすぐに自分のノートを確認する。しかし、両開きのノートには今日の日付以外何も書かれていない。授業は間も無く終わりを迎える。俺は一体この一時間何をやっていたのだろう。大問五はかなり応用の問題になっていて、途中式などの過程を経なければ、今すぐに答えが言える代物ではない。俺は身を縮こませた。

「すみ、ません。……解けて、ません。」
 誰かが「ええ。」と驚いた声を上げる。
「一ノ瀬解けないんじゃ誰も解けねえよ!!なんて問題出してんだマッチャン!!」
「ええ?でもこれ入試では頻出だぞ?お前は解けたのか?」
「解けてるわけねえだろ!!」
 教室中が笑いの渦に包まれる。俺の失敗なんてなかったかの様に笑ってくれるクラスメイトに少しだけ心が軽くなった。頭を掻きながら何故か申し訳なさそうな表情をしていたマッチャンは、チョークを手に取り、問題の解説を始めた。

 こんな事、初めてだった。
 何だか自分が変わってしまった様で、怖くなる。授業終わり、そそくさと教室を出て行こうとしていた俺を、マッチャンが引き留めた。
「一。」
 後ろから聞こえたマッチャンの声は、どこかいつもと違う。落ち着いていて、相手を気遣っているような余裕があった。いつもグイグイと来た態度が嘘みたいで逆に奇妙とさえ思える。
「はい。」
「お前、あんまり無理すんなよ。」
 心の中を見透かされた様な台詞に、思わず俺は叫んでいた。

「あのっ!!」
「ん?何だ?」
「神木九十九って……知りませんか?」
 教室に入れば、九十九の話題を口に出す子もいなければ、九十九の置いていた荷物から机までが全て、跡形もなく消えていた。それだけではない。千堂さんも、朝のホームルームで突然転校が告げられたかと思うと、もう千堂さんがいたという証拠はどこにもなかった。
 上目遣いで恐る恐るマッチャンの顔色を確認する。

「んー、ごめん。知らないな、知り合いか?」
 マッチャンの答えは予想出来たとはいえ、俺は落胆する。
「俺が言いたいのはな、焦りは禁物って事だ。どれだけ完璧な人間でも落ち込む事もあれば動けなくなる日もある。だから、気を強く持ってくれ。」
 そう言うと、マッチャンは痛いくらい強く俺の背中を叩くと、そのまま職員室へと戻って行った。
 その言葉の意味はすぐに理解する事になる。

 夏休み直後の模試が、返却されたのだ。


「なんだ、これ……。」
 明朝体の文字で淡々と印字された順位と点数。その無機質さに死刑宣告を受けた様な気になる。
 高校二年の二学期は今後の伸びを図る上で最も大事だと誰が言っていただろうか。目の前が真っ暗になる。手探りに、無意識に、俺は採点された回答用紙を隅から隅まで読み漁る。

 ……ダメだ。ここも、ここも、問題を根本から間違えていた。
 解いた時にはあれ程自信があって、もしかしてA判定も余裕で取れるかも、なんて浮かれていた自分が恨めしい。いくつも、いくつもピンばかりが揃う回答用紙。
 模試の結果は惨敗、と言う他なかった。

 総合的に見て九割の得点率を取れていなければいけない模試が八割を切っていた。
 逆に一番懸念していた国語の点数が高く見えてくる程に他の教科の点数は悪い。正答率が七十%を超えている様な問題でも、俺は頭を抱えたくなる様な計算ミスを勃発させていた。

「そんな……。」
 凡ミスとか、体調が悪かった、とか。何も思いつく言い訳はなかった。全力でやって、全力で取り組んで、この点数。
 全てが甘かった。
 些細な引っ掛けの部分にすら簡単に引っ掛かり、頭では理解しつつも、次この問題が入試で出されてしまったらと考えると背筋が凍る。生物も、化学も、英語も、目を逸らしたくなる。そして、この模試で俺は初めて――校内順位一位から陥落したのだ。

 初めて見る、三位の文字。
 見たことのない数字に見間違いかと何度も疑った。数字が現実味を増していくに連れて俺の体温は著しく下がっていく。
「っしゃあ!!模試の判定上がった!!」
「嘘お、俺勘で書いたところ全部間違えてる。最悪。」

 うるさいよ、みんなうるさい。

「一!」
 なんで、あんなに努力したのに。あんなにみんなが遊んでいる横で勉強してきたのに。
 何で俺だけがこんな結果を受け入れないといけないんだろう。
「一!」
 もしかして、俺は、母親に提示された道すら進むことができない?俺の努力は?何のために小学校から今まで頑張ってきたんだ?
 耳鳴りがした。
 
 突如、目の前で誰かが両手を叩いた。
 パンっという乾いた音共に俺の意識が引き戻される。周りのクラスメイトが驚いた目で俺を見ていた。
「……一、お前やっぱり体調悪いだろ。」
 マッチャンが心配そうに俺を見下ろしていた。驚きで声を上げる間も無く、俺の前にあった机がマッチャンの方へ引かれる。
「少し、外に出よう。」
 体調はどこも悪くない。ただ、心がしんどいだけで。

 マッチャンに手を引かれる俺に――クラスメイトの視線が集中した。

 あ、嫌だ。これ。

 そう身構えた瞬間、俺に投げかけられたのは温かい言葉だった。
「一ノ瀬くん大丈夫?今日元気なかったもんね。」
「大丈夫ー?俺美味いお菓子持ってるけど、いる?」
「ほら、マッチャンが数学で無理させるから!」

 あれ、いつの間に俺は。
 
 九十九の姿が思い浮かんだ。九十九はいつも、俺を話に巻き込んできた。誰と話していても、どこにいても、そのせいでクラスメイト達と関わる時間は一年生の頃と比べると格段に増えた。次第に緊張は解れ、知らぬ間に関係が出来ていた。
「一ノ瀬くん、最近明るくなって話してくれる様になったもんね。」
「そうそう、時々出る棘が面白いんだよ〜。」
「無理しすぎる性格だったんだな。」

 俺はいつの間に――みんなの視線が怖くなくなったんだろう。

「一……。大丈夫か?」
 誰もいない廊下に出て初めて、マッチャンは俺の手を離した。
「俺はお前が頑張ってることよく知ってるよ。今回はただお前の中のお前が一旦休憩しているだけだ。ほら……どんな主人公も途中で一度挫折するだろう?それと同じだっ!!」
 そう言いながら、マッチャンは巨体を俺に目線を合わせて膝を曲げる。マッチャンの顔が綻んだ。
「なんだ、顔色、良くなってるじゃないか。……一、良く笑う様になったな。」
 恐らく、みんなの記憶に九十九という人間が俺の隣にいた事は誰も知らない。
 俺一人が勝手に成長して、話しかけて、自分で変わった。そう思われているだろう。

「……ありがとうございます。」
 今にも溢れ出しそうな思いを胸に、俺は頭を下げた。
 俺の周りには、こんなにも俺を見てくれる人達がいる。もう、一人じゃない。九十九がいなくなっても孤独じゃない。
 みんなの視線はもう怖くない。

 ホームルームを終えた他のクラスの生徒が次々に教室から飛び出してくる。
「……一旦保健室で心を休ませに行っておいで。教室はうるさいだろう?一の荷物は教室の隅に置いておくから、ちゃんと気分が落ち着いたら取りにおいで。」
 あんなに苦手意識のあったマッチャンは、今は凄く大人に見えた。
 子供っぽく、うざったく思えたのは、それがマッチャンは生徒に対して全力だったからだ。俺から離れたマッチャンはすぐに他の生徒達に囲まれていく。俺はそっと、その場を後にした。


***

 季節は移ろう。お正月に着ていた防寒具をもう一度出す時がやってきた。
 紺色のマフラーを箪笥から取り出して、そっと匂いを嗅ぐ。あの時の衝撃、恐怖、困惑。その全てが物語の様に順々に思い起こされる。
 コートに袖を通し、マフラーを首に巻いた。そして、鞄を肩にかけて家を出る。
 ふと、郵便受けに刺さっている水色の封筒が目に留まった。

『一ノ瀬一様。』
 紛れもなく俺宛のそれにハテナが浮かんだ。
 何か懸賞でも申し込んだだろうか?それとも勉強に関する何かだろうか?
 不思議に思って封筒の裏を見る。

「えっ。」
 切手は貼られていない。差出人の名前と住所だけが丁寧に書き記されている。

『神木十色』
 神木という苗字。聞き覚えのない訳がない。慌てて俺はそれを鞄の中に詰め込んだ。

 十二月、今年最後の月がやって来た。