今年の運勢『最凶』につき

 思えば、九十九の行動は全て「不自然」に塗れていたのかもしれない。

 俺が悪霊に出会う時。それは決まって九十九が近くにいるタイミングだった。
 
 例え九十九と一緒に行動をしていなくとも、九十九は何処からともなく俺を助けに来てくれる。
 最初はただの偶然だと思っていた。

「ありがとうございましたー。」
 コンビニの店員さんが気の抜けた挨拶を投げ掛ける。
 喉が異様に乾いて、ペットボトルのお茶をキャップを捻ってそのまま喉へ流し込む。夜の冷えた空気が丁度良くて、俺は重い足取りで道路の脇を進む。
 九十九のメッセージに返信する気は起きなかった。スマホの電源を切っているので今が何時かもわからない。母親はもう帰って来ているかもしれない。
 あの後、俺は碌なお礼も言わずに家を飛び出して来てしまった。九十九の弟を名乗る少年も終始混乱した様子で俺を見ていた。
 
 最初は五分。そこから十分、三十分、一時間、六時間、二十四時間。
 俺は九十九に頼りたくなかったから。それが九十九の為になると信じて疑わなかったから。だから段々と――一人で外出する時間を増やしていたのだ。
 近所のコンビニに出掛ける練習から、一人で電車に乗って遠くの海を見に行く事もあった。全部全部、九十九には秘密にしていた。
 
 一度も、悪霊には会わなかった。
 不運も、九十九がいる時と比べると明らかに減った。

 それが一度や二度ではなく、半年も続けば俺の疑念は確信に近付いていく。
 しかし、見つけた真実は――想像の何倍も残酷だった。
 
 涙が頬を伝う。
 歩きながら顔を伏せて、手の甲で涙を拭う。
 
 死んでるって、どういう事だよ。意味がわからない。
 中三の三月に死んだって。

 九十九に掴まれた手の温度が、涙で濡れた手の指先にじんわりと灯る。幽霊なんかじゃない。悪霊でもない。九十九はずっと俺の近くに人間としていてくれただろう。
 九十九だって、友達として俺の側にいてくれたんじゃないのか?
 楽しいって、一緒に水族館に行きたいって。そう言ってくれただろう?

「お前は……俺を殺しに来た悪霊なのか?」
 なら、なんであんなに俺を守ってくれたんだ?
「お前はずっと、俺に嘘をついていたのか?」
 俺がお前に、何かしたのか?
「九十九、お前……本当に死んでるのか?」
「お前が……全ての元凶なのか?」

 噛み締めた唇の隙間から漏れる嗚咽に、すれ違う人々が振り返る。顔を抑え、足元のアスファルトだけを頼りに帰路に着く。肩に誰かがぶつかって来て、舌打ちを一つして去っていく。空は真っ暗で、街明かりのせいで星一つも見えない。月すら姿を消していて、人工的な灯りが俺の泣き顔を覗き込む。――俺が家のインターホンを押した頃、時刻は既に夜の八時を回っていた。


「一!!!!」
 空気を切り裂く鋭い怒声が、玄関の扉を開けた瞬間に飛び込んでくる。母親は、俺を待ち構えていた。血相を変えて、呆れと怒りが混じった複雑な表情をしていた。腕を組み、射抜く様な視線をこちらに送ってくる。
「ただいま。」
「ただいま、じゃないでしょう!?今何時だと思ってるの!?」
 俺は不思議と冷静だった。九十九の事で頭が一杯で、親に怒られる事なんてどうでも良かったのだ。
 靴を脱ぎ、母親の傍を通って自室に入ろうとする。
「ちょっと!一!待ちなさい!」
 母親が俺の腕を掴む。
「出掛けるなら連絡を……ううん。一体勉強もせずに何処に行っていたの?最近、ずっとそうよね。親に何も告げずに何処かへ行って。」
「誰か、悪い子達とつるんでるんじゃないでしょうね?……受験に響くわよ、楽な方向にばかり逃げていたら碌な目に合わないんだから。」
「うるさい!」
 腹の奥から信じられない様な怒声が飛び出た。俺の声だった。
「うるさい!もう高校生なんだから、何をしようが俺の自由だろ!!」
 腕を強く、振り払う。母親の力は想像していたよりも弱くて、簡単に振り払えてしまった。
 母親の顔が見れずに、乱暴に自室の扉を開け、そのまま鍵をかける。母親は追いかけてくる事も、名前を呼んでくる事もなかった。俺は流れる様にベッドに倒れ込み、鞄を地面に落とした。
「はあ……。」
 何もかもがぐちゃぐちゃだった。
 九十九の事も、自分の事も、母親の事も。
 胸に巣食った靄が晴れなくて気分が悪い。

 そっと瞼が下がっていく。

 もういいよ。嘘でも良い。
 九十九が俺に話していることが全て嘘でも。
 どれだけ不運が襲いかかって来ても、二度と普通の生活に戻れなくても。


 ――俺はお前の嘘の中で生きていたい。




 夏休みが終わって、蝉のうるさい鳴き声も幾分かマシになった。
 九十九には会わなかった。
 家で勉強をしなければいけないから、と会う予定は全て断った。俺にも考える時間が欲しかったからだ。
 毎日毎日、参考書と見つめ合う日々。未来なんて考えはなくなっていた。

 母親はあの一件から随分と俺の事を監視する様になっていたが、突然人が変わった様に元通りになった自分を見て何も言わなくなった。俺はそれまで母親に強く当たる反抗期らしきものは経験した事がなかった。周囲からは大人びてるね、なんて言われているのを聞いた事があった。
 大人びてるんじゃない、考えが及ばない子供すぎたんだ。

「おはよう。久しぶり、一くん。」
 玄関の扉を開けると、そこに九十九がいた。夏休み前と大して変わらないはずなのに酷く懐かしく思えて、数年振りの再会みたいな気分だ。
「お、はよう。九十九。」
「あははっ、関係値戻ってない?」
 俺の余所余所しい態度を九十九は関係値と表した。俺が開けた扉を俺が出て来やすい様に右半身で支える。
「ほら、行こう。……まさか、夏休みの宿題終わってなくて行き渋り?」
「流石に終わってるよ。」
「あはははっ。」
 懐かしいやりとりに心が傷む。こうしている間も、九十九は俺に嘘を吐き続けている。
 お前、本当は死んでるんだろ?
 本当は祓い屋じゃないんだろ?
 
 言葉は何度も喉まで出かかって引っ込む。

 九十九が俺の手を掴む。
 九十九の大きな手は汗ばんでいて、人間の体温があった。俺は拒む事なくそれを受け入れる。

「行くか。」
 もう少し優しい夢を見ていたかった。



 学校に着いてからも、俺はぼんやりとしたまま授業に臨む。始業式が終わって、帰り際に九十九に声を掛けられる。
「今日の校長の話、後半何言ってるかわからなくなかった?もっとハキハキ喋って欲しいんだけど。」
「それな。俺殆ど聞いてなかったし。」
 
――課題テスト終了後。
「九十九〜。出来どうだった?」
「まあまあ、かな。一くんは?数問ミスあるかな、くらいでしょ。」
「あはは。そんな事ないよ。」

――昼休み。
「これ、あげる。」
「何これ。」
「母さんがくれたお菓子。九十九、甘いもの好きでしょ。」
「うわ、やった!五時間目の後食べよう。」

――放課後。
「一くん!一緒に帰ろう!」
「……ああ、九十九くん。一ノ瀬くん、今日用事あるから一緒に帰れないって。先に走って帰ってったよ。」
「え〜?マジか。」
「残念。先に予定は聞いときなよね。」
「……ありがとう、千堂さん。」
 
 九十九が教室から出て、足音が遠のいて行く。千堂さんは何事もなかったかの様に箒でゴミを集める。それを塵取りに纏めるとゴミ箱に乱雑に捨てた。そして、掃除用具入れに掃除道具を仕舞い込み、九十九の去っていった廊下の方向を確認する。
「行ったよ。九十九くん。」
 小声でそう、千堂さんは無人の教室に向かって言った。
 西陽が千堂さんの瞳を橙に染める。暫くの沈黙の後、黒板近くの教壇がガタガタと揺れる。
「あいてっ。」
 ゴン、と鈍い音と共に、俺は屈んでいた背を起こす。ぶつけた頭部をさすりながら、面白そうに微笑む千堂さんと目が合う。
「逃走成功、おめでとうございます。」
「そんなんじゃ無いけど……。」
 逃走、では無いと思う。ただ、少しだけでも良いから九十九と離れる時間が欲しかった。慌てて駆け込んだ教室に千堂さんがいたので、俺は慌てて嘘を吐いてもらう事にした。
 千堂さんは特に理由を深掘りする事もなく、掃除担当場所の教室を掃除していた。九十九にはもしかするとバレるかもしれないと思ったけど、杞憂だったらしい。
「なんか、今日余所余所しかったもんね。」
「誰が?」
「君が。」
 千堂さんは人差し指の先端を、まるで犯人を言い当てる様に俺に指し示す。
「九十九くんと話してる時、なんかいつもと違ったもん。」
「嘘!?」
 そんな事、俺は微塵も思わなかった。大きな反応をして初めて、俺は「あれ。」と思う。
「ハッタリ、じゃ無いよね。」
「違うよ。……だって、いつもならもう少し九十九くんに対して『愛のある棘』があるじゃない。今日はそれが無いと言うか、妙に気を遣った感じがしたと言うか。」
「……凄いな。」
 自信たっぷりな千堂さんの態度に俺は感服すると共に、知らず知らずのうちに態度を変えていた自分が怖くなる。
「九十九気付いてるかな?」
「さあ?私あの人の考えてる事よくわかんないもん。」
 千堂さんはケラケラと笑う。そして直ぐに、ふっと表情が消えたかと思うと、廊下の方へ視線をやる。
「……何か、腹黒いもの抱えてそう。」
 それは悪口では無いか?と思ったが口には出さない。腹黒、かはわからないが九十九が人とは違う大きなものを抱えているのは事実だ。教室の適当な机に腰掛け、脱力する。

「……何かあったの?」
 気を遣った優しい言葉遣いだった。千堂さんなら、少しくらい話を聞いてくれるだろうか。
「何かある、じゃないけど。」
 俺は太ももに膝をつき、両手を組む。
「千堂さんはさ……大好きな親友が実は裏で自分の悪口を言ってるって知ったら、どうする?」
「ええ?九十九くんそんな事は言わないと思うけど。」
「その、九十九じゃなくてさ。」
 俺は慌てて訂正する。
「千堂さんならどう思うか、だよ。」
「うーん。まず、理由を聞くかなあ。私の何がダメだったのか、何が気に食わないのか。話し合わなきゃ何も始まらないよね。」
「それで……理由を言えないとか、誤魔化されるとか、そういうのがあれば縁を切る。仕方ないよね、だってこちらは貴方と向き合いたいって思って勇気を出したのに。向こうがこちらの手を振り払うならもうダメだよ、さようなら。」
 千堂さんは微笑みながら、フリフリと片手を俺に向かって振る。
「それに……友情ってさ、代替可能なんだよね。」
「え?」
「別にその人の代わりなんていくらでも居るの。その人じゃなきゃいけない理由はどこにも無い。依存みたいにその人にばかり固執していたら本当の自分を見失っちゃう。自分がどうありたいか、どうなりたいか。その土台があるからこそ友情が作れるんだよ。」
 確かに、そうだと思った。
 自分があるからこそ他人を気遣う余裕が生まれるのであって、自分を擦り減らしてまで向き合うものでは無い。
 全ては自分のため。
 つまりこの先も九十九の秘密や嘘を受け入れ続けていても――俺が破滅するだけなんだ。

 でも、やっぱり。
「……千堂さん。」
「ん?」
「もし、もしもだよ?例え悪口を言われても良いから一緒にいたい。自分の悪評が広まっても、自分が破滅しても、それでも今一緒にいたい。……そう思ったら?」
 千堂さんの動きが止まる。俺は下を向く。
「それは……。」
 声が妙に低く聞こえた。

「おかしいよ。常軌を逸した感情。――今すぐそこから逃げて。」
 千堂さんの瞳は真剣だった。鋭く射抜く視線に俺は怯む。
 しかし直ぐに、千堂さんの表情は柔らかい元の表情に戻る。

「……いい?一ノ瀬くん。今から見せる言葉に大きな反応をしないでね。」
 そう言って、千堂さんはポケットからスマートフォンを取り出した。カタカタと音が響き、千堂さんは何かを打ち込んでいる。椅子から立ち上がり、俺の正面まで歩み寄ると、そっと目の前にスマホの画面を突き出した。


「……え。」





『私は貴方を助けに来た本物の祓い屋です。』
 
 千堂さんはそっと人差し指を俺の口元に当てる。そして周りから見れば誤解されるくらいに近い距離で、俺にだけ聞き取れるくらいの声で囁いた。

「今週の土曜日、私とデートしよう。」
 
――教室の外でじっと、静かに聞き耳を立てていた影がゆらりと揺れた。





 翌日になっても、金曜になっても、心臓はバクバクと音を立てていた。
 千堂さんが?祓い屋?本物の?
 無論、九十九の様な退魔具を持っている姿も、悪霊と戦っている姿も見たことはない。
 
 それにしても――いつから、俺達の事を知っていたんだろう。
 学校のみんながいる場所でそんな話をしたことは一度もない。ましてや悪霊に遭遇した時。悪霊は不思議なものでどうやら俺と九十九以外の人間には触れる事も何かの作用を及ぼす事もできないらしい。たとえ悪霊が暴れて近くにいる人間に触れたとしてもその人間は何も感じない。見えていないからだ。千堂さんがもし仮に悪霊の「見える」人間だとしたら、俺が悪霊と遭遇しているところを見られたのだろうか?
「一くん。」
 不意に肩を叩かれ、俺の体が跳ねる。物凄い音を立てて座っていた所の机に膝がぶつかり、俺は悶絶する。
「いったあ……。」
「なんか最近、そういうの多いね。一くん。鈍臭いキャラ確立しようとしてる?」
「してないけど……。」
 九十九の声が笑っている。その声を聞いてなんだか俺も笑みが溢れる。九十九の方へ顔を向けないまま、俺は次の授業の用意をしようと鞄を掴んだ。出来るだけ気丈に振る舞い、明るい口調でおどけて見せる。
「次の授業って英語だよな。文法書、持ってきてたかな。使わなさすぎて捨てちゃったかも。」
「一くん。」
 俺は漁っていた手を止める。その声がなんだか引き止める様な口調で、俺は九十九の顔が見れない。

「一くんさ……明日って時間ある?」
 明日。
 ドクンと心臓が脈打った。明日は、土曜日。千堂さんと約束をしている日だ。
 千堂さんは九十九には聞かれてはなんだから、と学校で一切その話をする事を禁止してきた。
 九十九に知られてはならない。
 物凄く危険なミッションをしているみたいで、全身がぞわりと粟立った。
「な、なんで?」
 声が一瞬詰まる。不自然に思われただろうか?

「一くんと遊びに行きたいと思ったんだ。」
 落ち着いた口調でそう言い切る。背を向けたまま俺は九十九の提案に答える。
「……ごめん。俺、明日は別の予定があってさ。」
「へえ。どこかに行くの?」
 間髪入れずに九十九が尋ねてくる。まるで尋問されているみたいだ。
 ぎゅっと心臓のあたりを力を入れて掴む。ガタガタと震える手をどうにか抑えた。
「まあ、ね。」
「誰と?」

 怖い。

 率直にそう感じた。
 千堂さん、と言ったら。お前はどんな反応をするだろう?
 お前は、千堂さんが祓い屋だってことを知っているのかな?

 知っているとしたら。

――意地でも阻止してくるのだろうか。

 水族館に行ったあの日、千堂さんの言いかけた言葉を遮った九十九を思い出す。俺の腕を掴んで、水族館に連れて行って。
 あれは俺を千堂さんから引き離そうとしたんじゃないのか?

「だ、誰とでも良いでしょ。」
 素直に両親、と言えば良いものを。俺に嘘は吐けない。

 僅かな沈黙が二人を包む。思わず目を瞑って、沈黙に耐える。
 九十九がふっ、と笑った。

「……ごめんね、深掘りして。悪霊が出ないか心配だっただけなんだ。」
 俺はゆっくりと、振り返る。
「楽しんできてね。」

 おかしい。
 いつもの九十九なら、ここで引き下がるわけがない。
 俺を守らなきゃいけないから、とか言って、持ち前の仕事馬鹿っぷりを発揮してくるはずなのに。
 椅子に座ったまま九十九を見上げる。
「なんて顔してんの?僕だって一くんのプライベートは尊重したいよ。」
「……家の直ぐ近くだから。そんなに長い時間じゃない。ご飯を食べるだけだから。」
「うん、わかった。」
 小さな子供を扱う様に、九十九は俺の頭を撫でる。精一杯の嘘を吐いた後、体から力が抜けて行くのを感じた。

「まさか、ね。」
 九十九は他の同級生の輪に入っていく。珍しく会話に入ってきた九十九に驚いたのか、クラスメイトが歓喜の声を上げていた。九十九も同様に、綺麗な王子様スマイルで対応する。何も変わらない、いつも通りの九十九。

 俺が抱えている疑念にも気付いていない、そんな訳あるのか?

 いや、まさか。でも、今の俺の言葉で誤魔化せたとは到底思えない。
 こちらが泳がされている様な気がして、どこまでも手の内にいる様な気がして背筋が凍る。

 全ての帳尻を合わせる時。
 それらが刻一刻と近付いている気がした。


***

『英ヒルズ三階三○六号室。その扉の前に来たら、適当なメッセージを送って。』
 次の日、俺は一睡もできないまま朝を迎えた。無理もなかった。目元にはくっきりとクマが出来ていて見目に関しては鏡の前に立つと目を覆いたくなるレベル。とてもデートなんて雰囲気ではないし、千堂さんも軽く茶化しただけで今回話すのは真剣な話だ。
 そう思っていたのに、千堂さんから指定された場所はとあるマンションの一室だった。
 
 年頃の交際していない男女が、とかなんの警戒もなく、とか。初心臭い考えは一旦隅に追いやる。
 念の為辺りを確認し、警戒しながら家を出る。母親には図書館に行ってくると適当な嘘をついて、帽子とマスクで顔を隠し、俺は街中にある一件のマンションの前に辿り着く。メッセージを見ながら部屋番号を打ち込むと、インターホンから千堂さんの声が聞こえた。
「おはよう、一ノ瀬くん。……うわあ、不審者かと思っちゃった。」
 わかってるよ。でも流石に失礼じゃない?
 悪態を心にしまっておくと、目の前の自動扉が開かれる。チラチラと後ろを見ながら扉の中に入ると、俺はそのままエレベーターに乗って三階に向かった。
 ベルがなり、三階に着くと扉の番号を確認しながら通路を歩いていく。
「ええっと、三○六……ここか。」
 何の変哲もないアパートの扉。俺はスマホを取り出してメッセージを送る。

『着いたよ。』
『ええとそれじゃあ、その扉を開けて中に入って。』
 俺は一瞬目を疑う。どうやら中から千堂さんが開けてくれるわけではないらしい。
 試しに恐る恐る、扉を掴んでみたところ、扉は最も容易く開いた。
 鍵はかかっていない。不用心にも程があるだろう。

 しかし、不自然な点がもう一つあった。
 家の中に人がいる気配が全くしないのだ。灯りはどこにもついておらず、カーテンが閉まっているのか昼間でも薄暗い。玄関も人が住んでいるとは思えない程殺風景で靴が一足も置かれていない。
『ねえ、本当に三○六号室で合ってる?何もないんだけど。』
『合ってるよ!いいから入って!入ったら扉を閉めて。鍵も閉めて。』
 言われるがままに家の中へと足を踏み入れてみる。
 パタン
 背中で扉が閉まり、薄暗くて蒸し暑い、静まり返った玄関で俺は立ち尽くした。古いチェーンの鍵をかけると今度は千堂さんの方からメッセージが届く。
『そのまま中を進んで。廊下の突き当たりにある扉があるから、そこを開けて。』
 確かに、俺の足元から伸びる廊下は突き当たりの扉にまで繋がっていた。両脇には他にも複数の扉があったがこれではないのだろう。困惑しつつも靴を脱ぎ、廊下を進む。
 扉の取手を掴んだ。そして「失礼します。」と言いながら引き開ける。

 ただのリビングルームだった。
 最低限のテーブル、椅子、そしてソファ。展示会の家の中みたいに整頓されていて、生活感がなくて気味が悪かった。
 本当に千堂さんはここにいるのか?
『入ったよ。』
『それじゃあ、リビングの机の下に潜って、その床にある四角い扉を引き開けて。』
『俺に一体何をさせてるの!?』
『いいから早く。』
 返信が面倒になったのか、千堂さんからの連絡が短文になった。リビングルームにある長いテーブル。その下には確かに、はめ込み型の取手がついた四角い扉らしきものがあった。こういうのは大抵が排水溝を点検するための扉だったりする。俺は諦めて机の下に潜り、扉をぐいと上に引いた。
「なん……だ、これ。」
 滑り台、だろうか。公園でよくある様な筒形の滑り台。それを思い出させるものがそこにはあった。
『中の滑り台を滑って。』
 やっぱり滑り台なんだ。これが、祓い屋の家。
 神主の言っていた「普通の人間が本来関わるべきではない。」という言葉が重くのしかかった。滑り台の奥は真っ暗でひんやりとしている。
「……どうにでもなれ!」
 俺は滑り台に腰掛け、両脇に手をついたまま中にずりずりと侵入する。そして、入ってきた扉を完全に閉め切った後、体を支えていた両手を離した。
「うぎゃあっ!!」
 情けない悲鳴を上げ、俺の体は落ちて行く。思わず目を瞑り、膝を抱えた。
 数秒後、ドスンと腰に鈍い衝撃が響いて俺の体は平らな地面に横たわる。閉じた目の奥が明るい。どこかに出たみたいだった。

「こんにちは、一ノ瀬くん。」
 耳の近くで、聞きなれた声が聞こえる。
「私の家へようこそ。」
 薄ら目を開けて辺りを確認した。
 どこかの宮殿を思わせる、豪華なシャンデリアが真っ先に飛び込んでくる。そして目の前には対になった豪奢なソファとローテーブル。中は外と比べ物にならないほど涼しくて、ようやく人が住んでいるとわかる部屋だった。
「千堂さん。」
 俺を覗き込んでいたのは――千堂さん本人だった。いつも制服を着ているせいで、白いお嬢様みたいなワンピースが見慣れない。少しドギマギしていると、千堂さんが俺に手を差し伸べた。
「どうぞ。」
「……どうも。」
 なんだか気恥ずかしいけど、俺は千堂さんの手を取る。そのままソファへと誘導され、俺の体は促されるがままにソファへと沈んだ。
「ようやく、二人で話せる時が来た。」
 千堂さんが俺の正面で足を組む。千堂さんはこちらに向かってニヤニヤとしている。なんだか緊張感がない。俺は目を逸らした。

「んー、それじゃあ。時間もないし簡潔に話を進めようか。」
 そう言うと、千堂さんはローテーブルの上にある四角いお菓子の空き箱から、見覚えのあるものを取り出した。
「……それ!」
「そう、退魔具。」
 丁寧に並べられたのは、九十九が持っていたものと同じ、退魔具。
 お札、鈴、それ以外にも見たことが無いものまでずらりと並べられて行く。そして最後に、千堂さんは免許証の様なものを取り出した。

「私は……千堂家六十七代目祓い屋の千堂百華。一ノ瀬くんを悪霊から守るために退魔局から派遣された祓い屋です。」
「君が……。」
 差し出された小さなカードには、千堂さんの写真と共にその証明となる様な文章が書き連ねてあった。
「九十九くんが、この証明書を出したことはある?」
「……ない。」
「だよね、祓い屋に男はいないもん。」
 聞き覚えのある言葉が千堂さんの口から飛び出る。
「いつから、知って……?」
「一ノ瀬くんが神社でおみくじを引く前から。年が変わる直前くらいに言われたのかな。一ノ瀬くんの生活圏内に住んでいた私がご指名を受けたんだよ。一ノ瀬くんを守る様にってね。……そうなる、筈だった。」
 千堂さんの表情が暗くなる。今気付いたが、千堂さんの目元には、俺と同じ様に薄らとクマが出来ていた。
「それは九十九の事……だよね?」
 千堂さんが小さく頷く。
「九十九は……九十九は、一体何者なの?なんで俺の元に……なんで俺に執着するんだ?」
 堪えていた言葉が滝の様に溢れ出す。苦しいもの全てを吐き出す俺を、千堂さんはじっと見守っていた。
「辛いんだ……友達だと思ってたのに。ずっと、ずっと……。もういっそ一思いに楽にしてくれたらまだ良かった。なんで何の変わりもなく友達として振る舞えるんだ、どうせ俺が不自然な行動してることも気付いているくせに。」
「最初に断っておくけど。」と千堂さんは静かに言った。
「一ノ瀬くんにはもう、選択肢はないよ。私と一ノ瀬くんが接触できた今、一ノ瀬くんは私に協力する義務がある。」
 最後の方が少し聞き取れなかった。選択肢?と僅かに首を傾げた時だった。
 千堂さんが、真剣な表情で、はっきりと言った。

「神木九十九は……祓い屋なんかじゃない。――悪霊だよ。」
 ビリビリと言葉が全身を駆け巡る。千堂さんはぽつりぽつりと、九十九の事を話し始めた。


***

 強大な霊がいる、という情報を耳にしたのは私の通う高校が三学期に入る直前だった。守護対象である一ノ瀬一。特に会話をした覚えはないけれど、私と同じ学校の同級生だった。
 パッとしない見た目と無口な性格。それらに反して成績は、どうしてこの学校に来たんだろうと思う程に良い。私もそこそこ勉強ができる方だと思っていたけど、どう足掻いても彼には一度も勝てた事がなかった。だから、話を聞いた時は「ああ、この人か。」とわかる程に意識はしていたと思う。

 悪霊の強さは、現代社会への溶け込み具合で変わる。
 弱すぎる霊は他人から視認する事も出来なければ影響を及ぼす事も出来ない。反対に、強すぎる霊は殆ど普通の人間達と変わらない暮らしを送る事ができる。それが、一番の問題なのだ。
 人の人生にはシナリオがある。どの様に生きてどの様に死ぬか。大まかな人生は全て決まっている。ただ、そこに悪霊という本来交わる事のない要素が加わることによって人の人生は大きく変える事が出来てしまう。
 例えば、一人の女性が悪霊に人生を変えられて死んでしまったら。その人が未来で結婚する予定だった人間は別の人間と結婚、もしくは独身を貫くことになり、未来が変わる。そうなれば、二人の間に将来生まれる予定だった子供はその人生を丸ごと奪い取られてしまう。シナリオは崩壊する。
 かと言って、生まれた時から祓い屋の仕事をしてきた私自身、それ程大きな影響を及ぼす場面に出くわした事は一度もなかった。祓い屋は警察、というよりも害獣を狩る猟師に近い。害をなす獣を被害が拡大する前に止める。猟師自身に危害が及ぶ様な巨大な害獣は人生の中で一体出会うか出会わないかくらいなのだ。

 そんな中、神木九十九は突然現れた。
 玄人ですら、悪霊か否かを見誤る程に神木九十九は私たちの学校生活に溶け込んだ。
「王子様みたい。」
「かっこいい上にとっても優しい。」
 周りの女の子達は黄色い声を上げて九十九を見ている。
 悪霊は本来、目立つ様な容姿をしている事は少ない。理由は単純、目立って良い事はないからだ。
 
 誰もが見惚れる綺麗な容姿。こちらへの宣戦布告の様にも思える。
 彼のターゲットは紛れもなく一ノ瀬一で、想像の何倍も早く、神木九十九は彼に接触していた。

 こちらが祓い屋である事を明かせば、間違いなく九十九はこちらを攻撃してくる。
 一ノ瀬一が九十九に絆される前に片をつけよう。最初はそう思っていた。

 違和感は、私の妹を一ノ瀬くんが探してくれた時からだった。あの時は私も動揺していたけれど、どうやら一ノ瀬くんは妹を探す傍らで九十九に接触していたらしい。電話越しに困惑の声が聞こえた時、「まずい」と血の気が引くのを感じた。
 人がいる場所には人が集まる様に、悪霊のいる場所には悪霊が集まる。九十九に吸い寄せられた悪霊が一ノ瀬くんに襲いかかったのだと知った時、己の失態を悔やんだ。
 妹を近くの人に預け、走って、走って、走って、校舎裏に駆け込んだ。


 その時、私は目を疑った。
 九十九が――悪霊が、悪霊を攻撃していた。今にも襲いかかりそうだった悪霊が塵となって消え、その場には地面に座り込む一ノ瀬くんと九十九だけが残される。

 水族館でも、そうだった。シーラカンスの着ぐるみを被った私は、影から九十九の姿を監視する。
 相当な数の悪霊。悪霊は単独行動が多いはずだからこれは珍しい。ゼエハアと息を乱しながら攻撃する九十九。何故それ程までに執着するのか、理解し難かった。
 
 悪霊に自発的な理性はない。
 誰かを守るとか誰かが大切とか、プラスになる様な感情はない。恨み、妬み、それらが合わさった苦しみだけが悪霊を動かしている。
 どこから来るのかも、どうして来るのかもわからない。謎だらけの存在、それが悪霊だった。



「だからさっき……どうして九十九くんが、一ノ瀬くんを攻撃せずに悪霊を攻撃するのかと言っていたけど……。それは私にもわからない。九十九くんに聞かなきゃ、わからない。」
 千堂さんは一つ一つの言葉を噛み締めて話す。
「一ノ瀬くんには、私の正体を言えなくて本当にごめん。けど、観察しなきゃいけないと思ったの。こんな悪霊は歴史的に見ても殆ど存在しないから。……もし、九十九くんから何かを聞き出せたら、悪霊によって未来を変えられる人が減るかもしれない。……一ノ瀬くんも、そうだよ。」
「あまり言っちゃいけない規則なんだけどね、一ノ瀬くんの未来……実は変わりかけているの。でも、今なら元に戻せる。」
 前のめりになっていた俺の手を、千堂さんが優しく包み込む。

「酷な事を言うね。けど……拒否権はないと思って欲しい。悪霊を――九十九くんを捕まえるのを、手伝って欲しいの。」
 俺は、物凄い速さで手を払い除けていた。パチン、と音がして、俺と千堂さんの手がぶつかる。
 呆気に取られる俺と、じっと俺を凝視する千堂さん。
「ご、ごめん。」
「……拒否権はないって言ったよね。」
 冷たい視線だった。
「九十九を捕まえるって、それは……他の悪霊達みたいに祓うって事?」
「……まずは、退魔局で九十九くんに聞き込みをする。」
「その後は殺すんだろ!!」
 悲鳴の様な怒声が喉から発される。
「俺の人生くらい、俺が決める。別に……九十九に変えられても良い。九十九は他の人と何も変わらない友達なんだ!!死んでようが、生きてようが、悪霊だろうが!!」
「一ノ瀬くん。」

「一ノ瀬くんと九十九くんはね、友達じゃないよ。」
 千堂さんの瞳から、光が消えた。口元だけが弧を描き、ゾッとする。
「一ノ瀬くんもわかってるんでしょ。この前私に相談してくれたじゃない。自分の悪口を言っている様な人間とは、話し合えないなら友達にはなれない。一方的ならそれは常軌を逸した感情だって。一ノ瀬くんは、九十九くんの何を知ってるの?」
「友達だって言われたかもしれない。そんなの口だけでしょ?九十九くんの家族は?住んでた場所は?中学は?苦手なものは?好きな人はいる?悪霊だとしても、こんなに一ノ瀬くんが受け入れてくれるというのなら全てを打ち明けたって良いよね。それでも何も言わないのはどうしてかな?どうして――九十九くんの執着が愛情だと本気で思えるの?」

「それならさ、その感情を九十九くんにありのままぶつけようよ。そうじゃなきゃ、一生辛いままだよ。友達になんて絶対になれない。友達なら、本当にその人の事が大切なら、正しい道に導いてあげるのが本当の友情じゃないの?」
「私……上の人に聞いてみる。九十九くんをどうにか天国に送ってあげられないか。私もこれだけ長い間付き合ってきたから、二人の関係にも情が湧いてるよ。天国で幸せに暮らしてもらおうよ。」
 最後の言葉は、俺への適当な慰めにも聞こえた。目元を抑えて俯く俺を、千堂さんが優しく撫でる。
「辛いよ……辛い。たまたま、友達だと思いたかった人がそうじゃなかっただけ。九十九くんと出会ってしまった一ノ瀬くんが――不運だっただけ。」

 本当、最悪な不運だな。
 ははっと、乾いた笑いが自然と漏れた。