本格的な、夏が来た。
アスファルトの地面に蜃気楼が揺らめき、テレビでは繰り返し熱中症に警戒する旨が呼び掛けられている。身体中の水分が一瞬にして抜き取られていく様な熱気に大抵の人は穏やかな気温の春が恋しくなってくる。
だが、俺にとっては何よりも都合が良い。夏休みが来るからだ。
カーテンの隙間から差し込む朝陽が熱い。きゅっと両目を瞑って寝返りを打ち、日陰で体を起こす。
七月二十五日。午前六時四十五分。
寝ぼけ眼でスマホのロック画面を確認すると、そのまま画面を枕に伏せる。一度部屋を出て洗面所で顔を洗った後は適当な部屋着に着替え、勉強机に向かう。外では蝉が鳴いていて、少し窓を開けるとその数倍にもなる大きな声が飛び込んできたので、直ぐに窓を閉める。
黙って数学の参考書を鞄から取り出した。適当なページを片手で捲り、肘を使ってノドを抑える。そのまま、俺は意識を机上のノートとペンに沈み込ませていった。
シャープペンシルの芯がノートと掠れる音が響き始めて数時間。集中の糸は一瞬を境にして断ち切られる。
ピロンッ
パキッ
二つの音が殆ど同時に、そしてシャープペンシルの芯が粉々に砕ける。ノートに散った黒い欠片を手で払いのけると、細かい数式の上に泥の様に黒が被さる。意識の外から聞こえてきた軽やかな音。その時ようやく俺の首がスッと持ち上がった。
椅子を引いて立ち上がり、枕元のスマホを手に取る。
七月二十五日。午前十一時三十七分。
『調子、どう?』
絵文字付きの好印象な短文。――九十九から送られてきたそれに、俺はできるだけ簡潔に返答する。
『問題なし。悪霊も不運もそれ程ない。』
『それはよかった。』
夏休みに入って良かった事、それは学校に通わなくても良い。即ち――外に出なくても良いという事だった。
『やっぱり家にいると悪霊には会わないし、不運に遭う回数もめっきり減った気がする。何でだろう?』
『最初に一くんが悪霊に出会ったのも学校だったもんね。』
ふと、今はもう遠い記憶を呼び起こす。千堂さんの妹に化けた悪霊。あの日から俺と九十九の関係は変わったんだ。
『家に居るのは良い事だけどさ、もう何日も家から出てないんじゃない?どうせ勉強ばかりしてるんでしょ?』
『一昨日。いや、その前には家を出た気がする。』
『不正解。一くんが最後に外に出たのは五日前です。』
俺は苦笑した。外に出れば悪霊に遭遇する確率が高くなるのだから、俺が家の外に出る時は逐一九十九に報告をしておかなければならない。九十九は相変わらず超がつくほどの仕事真面目で私情を抜きにしても、俺の警護に関しては徹底していた。ただでさえ高校生らしい事に無頓着(俺が言えたことではない)な九十九に少しでも肩の荷を降ろす暇があればと思っていたが、あまり良い配慮では無かったらしい。
なんだかお腹が空いてきた。朝ごはんも昼ごはんも食べていない。在宅勤務をしている筈の母親は今家に居るだろうか?
一度、スマホを机の上に置いて自室の壁を見やる。
小学三年生で塾に通い出した時から、壁には何枚もの紙やボードが貼られる様になっていた。全て俺が貼ったんじゃない、両親が貼ったのだ。
『○○大学医学部合格』
『日進月歩』
『七転び八起き』
その他にも、両親の心に響いた格言や応援の言葉が所狭しと貼られている。俺の承諾を得るまでもなく貼られていることもあり、気が付けば壁の余白が減っている。――その隅に、読むのが億劫なほどに歪な字で書かれた作文用紙が飾られていた。
『ぼくのゆめ 一ノせ一
ぼくのゆめは医者になることです。理ゆうは、びょうきでくるしんでいる人をたくさんたすけたいからです。このまえ、ころんだ友だちにバンソウコーをはってあげたら、ありがとうと言われました。うれしかったです。たくさんたくさん、べんきょうしなきゃいけないとお母さんからききました。がんばります。』
希望に満ち溢れている筈の文章が作文用紙数枚にわたって綴られている。それなのに、目を逸らしたくなる。
俺の夢は医者になる事。小さい頃からずっと、医者に興味があった。それは紛れもない事実だった。
いつからだろう、『夢』『未来』という言葉にまともに向き合えなくなったのは。
そうだ。変わっていく周りのみんなが怖くなって――
「将来やりたい事とかさ、ある?」
いつかの俺は、そんな話題を口にしていた。
「え〜。――ないな。」
記憶の中の誰かが鼻で笑う。
「正直さ昔の文集とか見ると恥ずかしくならねえ?純粋に何も知らずに、『宇宙飛行士になりたいです!』とか『アイドルになりたいです!』とか書いてさ。マジで黒歴史。」
「わかる〜。」と誰かが賛同した。
「お前頭悪いもんな。中学高校卒業したらどうすんの?進学?」
「え〜。適当な大学行って、遊び倒したいよな。そんで、適当な会社行ってさ。夢は――会社員?フツーの人生でいいよ。」
「お前、昔将来の夢医者とか言ってなかった?それどうしたの?」
「やめてやめて。とっくの昔に辞めてるから、そんなの。」
「小学生の夢なんて――見続けるだけ損だよな。」
そう、なんだろうか。
あの時、俺の将来という一本道が崩れた。無理やり千切られ、引き伸ばされた道が一本道にくっ付けられて、俺は元々歩いていた一本道を見失う。
こんな夢ばかり見続けて良いのだろうか?みんなみたいに、適当な大学に行って、適当に就職をして、考え過ぎているのは俺だけなんじゃないか?
小学生の頃から勉強ばかりしてきた。遊ぶ時間を割いて、校庭ではしゃぐみんなを横目に見て、塾の鞄ばかりが古くなった。もっと本当は違う道があって、友達もたくさん出来て、沢山の人の視線も苦手じゃなくなって。もっと好きになれる自分に会えたんじゃないか?
親も、俺も、小学生の頃の責任のない発言に固執して、側から見れば馬鹿みたいなんじゃないか?
そんな今でも、俺の頼りは勉強という一本の綱だ。何かが綱に引っ掛かって俺を正しい道へと導いてくれると信じて綱を編み続けている。
暗闇の中を編んだ綱が伸びていく。何年も昔に編んだ綱は知らないうちに腐り落ちているかもしれない。――それでも。
不安を掻き消したくて、俺は再び勉強に戻ろうと椅子を引く。
ピロン
――俺は再びスマホを手に取る。
『一くんの事だから俺に配慮して家から出てないんじゃない?たまには息抜きも大切だよ。』
九十九の優しさがじんわりと心に染み渡る。
「……ちょっと、出掛けてみるか。」
部屋の扉を開け、廊下に出るとムワリと熱気が侵入してきた。家の中は人の気配がなく、物音一つなく静まり返っていた。母がいる様にはどうにも思えない。
もしかして、と俺はリビングの扉を手前に引いた。
『昼前に出掛けます。夜まで戻りません。お昼は冷蔵庫の中に冷やし中華があるからそれを食べてください。
あと、〇〇大のパンフレットが届いていました。医学部のページに付箋を貼っています。見ておいてください。』
桃色のメモ書き、そして長方形のパンフレットが綺麗に並べて置かれている。
「……ちょうど良いじゃん。」
親が出かけているという事は、昼間に俺が単独で出掛けていても咎められる事がない。暗くなる前に帰ればいい。
そうと決まれば、と俺は九十九にメッセージを送る。
『俺、今からちょっと出掛ける。』
『へえ、どこに?』
『〇〇駅の辺り。』
『〇〇駅?あの辺り何かあったっけ?』
俺の指が止まる。
『知りたい事があるから。』
俺が九十九に伝えた場所は――あの神社がある場所の最寄駅だった。
そうと決まれば、俺はポケットにスマホを仕舞い込んで鞄を取りに行く。数千円の端金とスマホさえあればどうにかなる。護身用に傘も持って行く。
自分の部屋から戻ってきて、リビングを覗いた俺は――長方形のパンフレットを目にした。
「……。」
俺はそのまま、家を飛び出した。
***
「……ここだ。」
差し込む日差しが眩しくて、傘で影を作りながら俺は高く聳える鳥居を見上げた。
神社は相変わらずの荒れ具合だった。寧ろ一月に訪れた時よりも草木が伸び、神社に向かって差し込む光を遮るため、鳥居の奥は別世界の様に暗い。無数の蝉が繁茂する木々の隙間から鳴き声を轟かせていた。
唯一草の生えていない、石畳の参道を俺は傘を差しながら歩く。途端に頭上からぼたぼたと、待ってましたとばかりに鳥のフンが落ちてきて、安物の傘が白く染まる。
辺りを警戒しながら正面に待ち構える境内へと進んでいく。――一瞬視界が草木から開けたところで、俺は眉を顰めた。
「……ない?」
拝殿の隅。草木で立ち入ることのできない場所のすぐ側。あの日ひっそりと置かれていたそれは――どこにも見当たらなかった。
おかしいな。撤去されたのかな。
頭を掻いて、俺は辺りを見える範囲で隈なく探してみる。汗が一筋頬を滴って地面に落ちた。
暑い、早く帰りたい。けど、俺はこの最凶の不運について知りたい。
「せめて……。」
ある言葉を発そうとした瞬間――待ち構えていたようにその人物は現れた。
「あ!!お前!!」
俺は慌てて後ろを振り返る。それは想像よりも近い場所にいた。
農家の小屋みたいな社務所から、獣道に近い小道を一人のお爺さんが駆けてくる。暑苦しいのに、見覚えのある白い装束。蝉に負けないくらいの大きな声。
あの時は怖かったのに、今は寧ろ安堵する。
「お爺さん……!!」
「お前!!来るのが遅い!!」
開口一番に怒られた。ゼエハアと倒れてしまうんじゃないかと思うほど荒い息をして、お爺さんは俺の肩を物凄い握力で掴む。
「すみません……?」
なぜか、俺は謝る。
お爺さんはぶつぶつと何かを呟いて自分を落ち着かせていた。すると途端に穏やかに眉が下がり、慈しむ様な視線を向ける。
「よかった……悪霊に殺されていなくて。わし、心配してたんだからな。神主してる間もずっと、祓い屋がお前の元に来ていなかったらどうしようって。」
なんと、このお爺さんは祓い屋――つまり九十九の事も知っていた。
それならば、何故あの場所でその事を教えてくれなかったんだろう。
「お前が逃げたからじゃろ。」
どうやら口に出ていたらしい。俺は片手で口を覆った。不審者めいた言動をしてきたそちらにも……非はあると思う。
「すみません……。祓い屋の事、ご存知だったんですね。おかげさまで毎度、助けられています。ありがとうございます。」
「いいや、わしが派遣した訳ではないよ。礼を言われるほどの事じゃない。――あいつらは、元から悪霊の類が見える奴らだから。わしはそんなに見えるわけでもなければ退魔ができる訳でもない。」
神主はそっと俺の隣に立ち、社務所の方を指差して言った。
「ここでは暑いじゃろう。中に入りなさい。」
「社務所、ですか?」
表情が引き攣ったのがバレたのか、神主はふっと笑う。
「社務所の横にあるわしの家じゃ。別にわしは悪霊でもないし、安心せい。」
「え、えっとそれじゃ……お言葉に甘えて。」
俺は頭を下げると、そのまま神主の後ろについて歩いた。
***
神主の家は木々に囲まれてはいるものの、神社の古さとは相反する綺麗な日本家屋だった。中に入って、靴を脱ぐと真っ先に壁に掛けられた可愛らしい絵が目に入る。五歳くらいの子供がクレヨンで落書きした様な絵で、その下には『おじいちゃんお誕生日おめでとう』とパソコンの字で印刷されている。俺の視線の行先に気付いたのか、神主はボソリと呟いた。
「……わしの孫だよ。孫が小さい頃に貰ったものだ。今はお前さんと同い年くらいかもしれん。」
「僕は、高校二年生です。」
「同い年じゃないか。……今は、弟が二階にいるはずだ。」
そう言って、神主は家の奥へと進む。俺もまた、神主の姿を見失わない様に慌てて靴を揃える。玄関にはやけに引越し業者の段ボールが多かった。
誰かが家を出るのかもしれない。そう思っただけで何も聞く事はなかった。
「座りな。」
一般的な家庭の洋室。そこに佇む袴姿の神主はどうにも似合わない。促されるままに、俺は神主と反対側の椅子に恐る恐る座った。
「さて、何から話すかのう。……何か聞きたい事があるからこそ、ここに来たんじゃないのか?」
「そう、です。」
神主は「ふうん。」と言い、キッチンへ向かうと冷蔵庫から麦茶を取り出す。
「言ってみな。」
「悪霊って……何者、なんですか?」
「最初の質問がそれか。」
神主は鼻で笑う。
「人、だよ。この世に未練や恨みを持った人間が変化した姿だ。浮気をされて死んだとか、虐められて死んだとか、恨みを持って生きている人間って事もある。強い感情が悪霊となるんだ。人は成仏をして天国に行くのが常。でも、この世の理に違反した悪霊は全て地獄行きだ。この世から悪霊がいなくなる様に祓い屋は仕事をしているんだ。」
「なるほど……。」
うんうん、と神主は頷く。俺も、同様に首を縦に振る。
「ではもう一つ……俺は、あのおみくじを引いたから『最凶』の運勢になったんでしょうか?」
俺は続ける。
「神主さんは悪霊はそんなに見えないと仰ってましたけど、と言う事はあのおみくじ自体が『最凶』原因ではないという事なんですか?」
「まあ、そうだな。」
神主は俺の目の前に麦茶と海苔のついたおかきを差し出す。
「おみくじというのは『いい運勢を引き当てる』ものじゃない、『くじ引き』じゃない。今の自分の運勢を『紙に現す』儀式なんだ。勿論、イカサマの占いにそんな力はない。けど、正しい占い、おみくじを引けば結果は全て同じになる。だから……例えおみくじを引いていなくとも、お前は今の様に悪霊に襲われていただろうよ。」
「それなら……『最凶』の運勢はここでどうにか出来るものでもない、って事ですか?」
「だから祓い屋が来てくれたんだ。運勢はくじ引きではないと言っただろう。自分の人生の中での巡り合わせ。何かに合格するような大きな出来事から、朝ごはんを食べるくらいの小さな出来事まで、一つ一つが積み重なり、組み合わさる事で今があるんだ。わしらにも祓い屋にもどうにか出来るものじゃない。」
そう言って、神主はじっと、俺の瞳を覗き込む。
「変えられるとしたら……お前だけだ。」
「えっ。」
「人生を選択するのはお前だけで、人生を全て知っているのもお前だけ。なら――お前が自分で解決方法を見つけ出すしかない。」
「……変えられた人は、いるんですか?」
「知らん。別に『最凶』の運勢の人間が全員おみくじを引いている訳でもない。それに祓い屋なんて稼業は普通の人間が本来関わるべき人間達じゃない。仕事内容も対象者も全て厳格な守秘義務がある。」
「それじゃあ、あの日神主さんが『身近な人間に注意しろ』と言ったのは?何か心当たりがあるんじゃないですか?」
ガラスのコップを口元に運んでいた手が止まる。言ってしまって、俺は自分自身がカッとなり過ぎていた事に気が付く。
「す、すみません……。」
「いや、いい。……別に心当たりという程でもない。考えてみれば当たり前のことだ。」
「既に定まった未来を変える事は容易ではない。それは何故か?変える事ができない未来の原因はあまりにも密接すぎる場所にあるからだ。特に人間――自分に身近な人間だ。」
ドクンと心臓が跳ねる。踏み込んではいけない場所に踏み込む様な気がして、ぎゅっと膝の上で拳を握った。
「これは例えだが、今から母親と縁をすぐに切れと言っても切れないだろう。学校を辞めろと言っても辞められないだろう。原因が例え分かったとしてもどうしようもない。それくらいのものなんだよ、きっと。」
「それは……。」
「うん?」
「祓い屋が原因、という事はないですよね。」
ズキリ、ズキリ。
罪悪感に目を瞑った。また、俺は疑ってしまった。いや、信じたいからこそ考えてしまうんだ。
深刻な表情の俺に反して、神主は突然大声で笑った。目元にぎゅっと皺が寄り、喉仏が揺れる。
「な、なんですか!?」
「あっははは、これは面白い。――お前……惚れたな?祓い屋に。」
「はあ!?!?」
想像だにしていなかった発言に、俺の顔がみるみる赤くなるのがわかる。
確かに、九十九の事は家族ぐらい大事だと思う。でも――恋愛感情なんて一度も向けた覚えはない。
片手を顔の前で勢いよく横に振る。
「違います!!違いますから!!」
「よいよい。隠さなくても。ん―、まあ、今は祓い屋の一族も自由恋愛を推奨しているみたいだから後は向こうの気持ち次第だな。結婚式には呼んでくれよ。」
「できないわっ!!」
九十九は男だよ!!
いや、もしかしたら今後法律が変わって九十九と俺でも結婚は可能になるかもしれない。けど今はそんな話をしたいんじゃない。
「お前が『最凶』の不運になったから祓い屋が来てくれたんだろう。祓い屋が元凶でどうするんだ。」
今度は、別の意味で顔が熱くなる。
考えてみれば、そうだ。九十九を信じたいとか、友情だとか。そんな事を議論するまでもなく、九十九は俺が『最凶』の運勢だから駆けつけて来てくれたに過ぎない。
疑ってばかりで、空回りして、本当に馬鹿だ。
「まあ〜気持ちもわかるがな。わしも出会った事が数度あるが、みんな綺麗な女の子だった。」
「女しか祓い屋になれない、なんて難儀な職業だななんて最初は思ったけど、案外男には都合が良いのかもな。
「……え?」
今、なんて言った?
「女しか、祓い屋になれない?」
「あーそうだよ。巫女みたいなものだな。男には男の、女には女の特徴がある様に、祓い屋という職は女にだけ与えられたものだ。お前のところに来た子はどんな子だ?」
「……綺麗な、子です。」
「おー!そうか!!」
「少しお手洗いお借りしても大丈夫ですか。」
「いいよ。廊下出て左な。」
神主が廊下の外を指差す。
みんみんみんみん
祓い屋は、女しか、なれない?
そんな馬鹿な。あの人が勘違いしているだけだろう。
みんみんみんみん
俺は女でしたーとか、言ってくれるなよ、九十九。
みんみんみんみん
『今どこにいる?する事ないなら合流しようよ。』
みんみんみんみん
ドサッ
我に帰った。
冷房の効かない暑苦しい廊下。鞄を持って出て来ていたので、鞄から全てのものが床へと滑り落ちる。
暑いのに、寒かった。
半年分の違和感が纏めてのしかかって来る。冷や汗がじわりと滲んで力が抜ける。掴んでいたスマホも、床に落ちた。
みんみんみんみん
蝉が五月蝿い。
「大丈夫ですか?」
爽やかな、少年の声。こちらを気遣う、弱々しい声だった。
俺の顔はいつの間にか下を向いていて、声に答えるよりも先に、青年が俺の足元にしゃがみ込む。
「おじいちゃんの、お客さんですね。」
確認する様な口振りで青年は言った。地毛にしては明るい茶髪が目に映る。
同居しているという、お孫さん。
「そう、です。ありがとうございます……。」
慌てて俺もしゃがみ込み、物を拾おうとする。
ゴツン
急いでいたせいで二人の頭が互いに衝突する。
「痛っ!」
「すみません!」
二人とも、顔を上げる。その時初めて、俺は――青年の顔を見た。
そして――絶句する。
「は、え……九十九?」
青年は、キョトンとして目を丸くさせる。アイドルみたいな明るい茶髪。目はくっきりとした二重で色白。
けど違う。九十九じゃ、ない。
体は俺よりも小さかった。まだ小学校高学年か中学生くらいで顔には幼さが残っている。
それでも、どこからどう見ても――九十九と瓜二つだった。
九十九、という言葉に反応したのか、少年は前のめりに体を動かす。
「……知ってるんですか?――兄の事。」
兄、だと?
少年は、俺の足元に転がる高校の学生証を見て、信じられないと言った風に俺と学生証を交互に見る。
「いや、まさか。そんな……。」
まだ声変わり前の高い声が僅かに震えた。
「貴方――本当に一ノ瀬一さんですか!?」
質問の意味がわからない。それに九十九と瓜二つの少年がここにいる意味もわからない。
「お、俺は……一ノ瀬一、です。」
お互いの動きが止まる。だが、直ぐに体を起こし、俺は荷物を纏める。
「すみません!勝手にお邪魔して、勝手に物落として……。」
自分の思考と目の前の状況が混濁して頭が真っ白だった。
俺はどの部屋から出て来たかなんて深く考えもせず、荷物を奪い取る様にして近くの襖に手をかける。
「お邪魔しました!」
「一ノ瀬さん!!そっちは!!」
甲高い声が俺を引き止める。
スッと、襖が横にずれ、部屋の中が露わとなる。
熱気が押し寄せ、頬を撫でる。
「そっちは……兄の……部屋――だったところです。」
線香の香りが鼻をくすぐった。
脳が戻らなければと警鐘を鳴らすも、直ぐには反応ができなかった。
目の前で、九十九が笑っていた。暖かそうなニットを着て、カメラに向かってピースをしている。楽しそうに、幸せそうに。
――遺影の中で。
周りには沢山のお花やお菓子が飾られていて、簡易的なお仏壇が作られている。右手にある窓からは優しい風が吹いて来て、カーテンが揺れている。畳の独特の香りが線香の匂いと混じって鼻腔をくすぐる。
みんみんみんみん
「兄は……九十九は……。」
少年が、震える声で後ろから言った。
「亡くなったんです。――中学三年生の三月に。」
なあ、九十九。嫌な勘ってよく当たるんだな。
水族館に一緒に行ったあの日から、俺はお前への疑念ばかりで頭がおかしくなりそうだ。
疑えば疑うほど、そうじゃないと否定してくれる証明が欲しくて、また俺はお前を疑う材料を見つける。
お前は――
お前は、誰だ?
アスファルトの地面に蜃気楼が揺らめき、テレビでは繰り返し熱中症に警戒する旨が呼び掛けられている。身体中の水分が一瞬にして抜き取られていく様な熱気に大抵の人は穏やかな気温の春が恋しくなってくる。
だが、俺にとっては何よりも都合が良い。夏休みが来るからだ。
カーテンの隙間から差し込む朝陽が熱い。きゅっと両目を瞑って寝返りを打ち、日陰で体を起こす。
七月二十五日。午前六時四十五分。
寝ぼけ眼でスマホのロック画面を確認すると、そのまま画面を枕に伏せる。一度部屋を出て洗面所で顔を洗った後は適当な部屋着に着替え、勉強机に向かう。外では蝉が鳴いていて、少し窓を開けるとその数倍にもなる大きな声が飛び込んできたので、直ぐに窓を閉める。
黙って数学の参考書を鞄から取り出した。適当なページを片手で捲り、肘を使ってノドを抑える。そのまま、俺は意識を机上のノートとペンに沈み込ませていった。
シャープペンシルの芯がノートと掠れる音が響き始めて数時間。集中の糸は一瞬を境にして断ち切られる。
ピロンッ
パキッ
二つの音が殆ど同時に、そしてシャープペンシルの芯が粉々に砕ける。ノートに散った黒い欠片を手で払いのけると、細かい数式の上に泥の様に黒が被さる。意識の外から聞こえてきた軽やかな音。その時ようやく俺の首がスッと持ち上がった。
椅子を引いて立ち上がり、枕元のスマホを手に取る。
七月二十五日。午前十一時三十七分。
『調子、どう?』
絵文字付きの好印象な短文。――九十九から送られてきたそれに、俺はできるだけ簡潔に返答する。
『問題なし。悪霊も不運もそれ程ない。』
『それはよかった。』
夏休みに入って良かった事、それは学校に通わなくても良い。即ち――外に出なくても良いという事だった。
『やっぱり家にいると悪霊には会わないし、不運に遭う回数もめっきり減った気がする。何でだろう?』
『最初に一くんが悪霊に出会ったのも学校だったもんね。』
ふと、今はもう遠い記憶を呼び起こす。千堂さんの妹に化けた悪霊。あの日から俺と九十九の関係は変わったんだ。
『家に居るのは良い事だけどさ、もう何日も家から出てないんじゃない?どうせ勉強ばかりしてるんでしょ?』
『一昨日。いや、その前には家を出た気がする。』
『不正解。一くんが最後に外に出たのは五日前です。』
俺は苦笑した。外に出れば悪霊に遭遇する確率が高くなるのだから、俺が家の外に出る時は逐一九十九に報告をしておかなければならない。九十九は相変わらず超がつくほどの仕事真面目で私情を抜きにしても、俺の警護に関しては徹底していた。ただでさえ高校生らしい事に無頓着(俺が言えたことではない)な九十九に少しでも肩の荷を降ろす暇があればと思っていたが、あまり良い配慮では無かったらしい。
なんだかお腹が空いてきた。朝ごはんも昼ごはんも食べていない。在宅勤務をしている筈の母親は今家に居るだろうか?
一度、スマホを机の上に置いて自室の壁を見やる。
小学三年生で塾に通い出した時から、壁には何枚もの紙やボードが貼られる様になっていた。全て俺が貼ったんじゃない、両親が貼ったのだ。
『○○大学医学部合格』
『日進月歩』
『七転び八起き』
その他にも、両親の心に響いた格言や応援の言葉が所狭しと貼られている。俺の承諾を得るまでもなく貼られていることもあり、気が付けば壁の余白が減っている。――その隅に、読むのが億劫なほどに歪な字で書かれた作文用紙が飾られていた。
『ぼくのゆめ 一ノせ一
ぼくのゆめは医者になることです。理ゆうは、びょうきでくるしんでいる人をたくさんたすけたいからです。このまえ、ころんだ友だちにバンソウコーをはってあげたら、ありがとうと言われました。うれしかったです。たくさんたくさん、べんきょうしなきゃいけないとお母さんからききました。がんばります。』
希望に満ち溢れている筈の文章が作文用紙数枚にわたって綴られている。それなのに、目を逸らしたくなる。
俺の夢は医者になる事。小さい頃からずっと、医者に興味があった。それは紛れもない事実だった。
いつからだろう、『夢』『未来』という言葉にまともに向き合えなくなったのは。
そうだ。変わっていく周りのみんなが怖くなって――
「将来やりたい事とかさ、ある?」
いつかの俺は、そんな話題を口にしていた。
「え〜。――ないな。」
記憶の中の誰かが鼻で笑う。
「正直さ昔の文集とか見ると恥ずかしくならねえ?純粋に何も知らずに、『宇宙飛行士になりたいです!』とか『アイドルになりたいです!』とか書いてさ。マジで黒歴史。」
「わかる〜。」と誰かが賛同した。
「お前頭悪いもんな。中学高校卒業したらどうすんの?進学?」
「え〜。適当な大学行って、遊び倒したいよな。そんで、適当な会社行ってさ。夢は――会社員?フツーの人生でいいよ。」
「お前、昔将来の夢医者とか言ってなかった?それどうしたの?」
「やめてやめて。とっくの昔に辞めてるから、そんなの。」
「小学生の夢なんて――見続けるだけ損だよな。」
そう、なんだろうか。
あの時、俺の将来という一本道が崩れた。無理やり千切られ、引き伸ばされた道が一本道にくっ付けられて、俺は元々歩いていた一本道を見失う。
こんな夢ばかり見続けて良いのだろうか?みんなみたいに、適当な大学に行って、適当に就職をして、考え過ぎているのは俺だけなんじゃないか?
小学生の頃から勉強ばかりしてきた。遊ぶ時間を割いて、校庭ではしゃぐみんなを横目に見て、塾の鞄ばかりが古くなった。もっと本当は違う道があって、友達もたくさん出来て、沢山の人の視線も苦手じゃなくなって。もっと好きになれる自分に会えたんじゃないか?
親も、俺も、小学生の頃の責任のない発言に固執して、側から見れば馬鹿みたいなんじゃないか?
そんな今でも、俺の頼りは勉強という一本の綱だ。何かが綱に引っ掛かって俺を正しい道へと導いてくれると信じて綱を編み続けている。
暗闇の中を編んだ綱が伸びていく。何年も昔に編んだ綱は知らないうちに腐り落ちているかもしれない。――それでも。
不安を掻き消したくて、俺は再び勉強に戻ろうと椅子を引く。
ピロン
――俺は再びスマホを手に取る。
『一くんの事だから俺に配慮して家から出てないんじゃない?たまには息抜きも大切だよ。』
九十九の優しさがじんわりと心に染み渡る。
「……ちょっと、出掛けてみるか。」
部屋の扉を開け、廊下に出るとムワリと熱気が侵入してきた。家の中は人の気配がなく、物音一つなく静まり返っていた。母がいる様にはどうにも思えない。
もしかして、と俺はリビングの扉を手前に引いた。
『昼前に出掛けます。夜まで戻りません。お昼は冷蔵庫の中に冷やし中華があるからそれを食べてください。
あと、〇〇大のパンフレットが届いていました。医学部のページに付箋を貼っています。見ておいてください。』
桃色のメモ書き、そして長方形のパンフレットが綺麗に並べて置かれている。
「……ちょうど良いじゃん。」
親が出かけているという事は、昼間に俺が単独で出掛けていても咎められる事がない。暗くなる前に帰ればいい。
そうと決まれば、と俺は九十九にメッセージを送る。
『俺、今からちょっと出掛ける。』
『へえ、どこに?』
『〇〇駅の辺り。』
『〇〇駅?あの辺り何かあったっけ?』
俺の指が止まる。
『知りたい事があるから。』
俺が九十九に伝えた場所は――あの神社がある場所の最寄駅だった。
そうと決まれば、俺はポケットにスマホを仕舞い込んで鞄を取りに行く。数千円の端金とスマホさえあればどうにかなる。護身用に傘も持って行く。
自分の部屋から戻ってきて、リビングを覗いた俺は――長方形のパンフレットを目にした。
「……。」
俺はそのまま、家を飛び出した。
***
「……ここだ。」
差し込む日差しが眩しくて、傘で影を作りながら俺は高く聳える鳥居を見上げた。
神社は相変わらずの荒れ具合だった。寧ろ一月に訪れた時よりも草木が伸び、神社に向かって差し込む光を遮るため、鳥居の奥は別世界の様に暗い。無数の蝉が繁茂する木々の隙間から鳴き声を轟かせていた。
唯一草の生えていない、石畳の参道を俺は傘を差しながら歩く。途端に頭上からぼたぼたと、待ってましたとばかりに鳥のフンが落ちてきて、安物の傘が白く染まる。
辺りを警戒しながら正面に待ち構える境内へと進んでいく。――一瞬視界が草木から開けたところで、俺は眉を顰めた。
「……ない?」
拝殿の隅。草木で立ち入ることのできない場所のすぐ側。あの日ひっそりと置かれていたそれは――どこにも見当たらなかった。
おかしいな。撤去されたのかな。
頭を掻いて、俺は辺りを見える範囲で隈なく探してみる。汗が一筋頬を滴って地面に落ちた。
暑い、早く帰りたい。けど、俺はこの最凶の不運について知りたい。
「せめて……。」
ある言葉を発そうとした瞬間――待ち構えていたようにその人物は現れた。
「あ!!お前!!」
俺は慌てて後ろを振り返る。それは想像よりも近い場所にいた。
農家の小屋みたいな社務所から、獣道に近い小道を一人のお爺さんが駆けてくる。暑苦しいのに、見覚えのある白い装束。蝉に負けないくらいの大きな声。
あの時は怖かったのに、今は寧ろ安堵する。
「お爺さん……!!」
「お前!!来るのが遅い!!」
開口一番に怒られた。ゼエハアと倒れてしまうんじゃないかと思うほど荒い息をして、お爺さんは俺の肩を物凄い握力で掴む。
「すみません……?」
なぜか、俺は謝る。
お爺さんはぶつぶつと何かを呟いて自分を落ち着かせていた。すると途端に穏やかに眉が下がり、慈しむ様な視線を向ける。
「よかった……悪霊に殺されていなくて。わし、心配してたんだからな。神主してる間もずっと、祓い屋がお前の元に来ていなかったらどうしようって。」
なんと、このお爺さんは祓い屋――つまり九十九の事も知っていた。
それならば、何故あの場所でその事を教えてくれなかったんだろう。
「お前が逃げたからじゃろ。」
どうやら口に出ていたらしい。俺は片手で口を覆った。不審者めいた言動をしてきたそちらにも……非はあると思う。
「すみません……。祓い屋の事、ご存知だったんですね。おかげさまで毎度、助けられています。ありがとうございます。」
「いいや、わしが派遣した訳ではないよ。礼を言われるほどの事じゃない。――あいつらは、元から悪霊の類が見える奴らだから。わしはそんなに見えるわけでもなければ退魔ができる訳でもない。」
神主はそっと俺の隣に立ち、社務所の方を指差して言った。
「ここでは暑いじゃろう。中に入りなさい。」
「社務所、ですか?」
表情が引き攣ったのがバレたのか、神主はふっと笑う。
「社務所の横にあるわしの家じゃ。別にわしは悪霊でもないし、安心せい。」
「え、えっとそれじゃ……お言葉に甘えて。」
俺は頭を下げると、そのまま神主の後ろについて歩いた。
***
神主の家は木々に囲まれてはいるものの、神社の古さとは相反する綺麗な日本家屋だった。中に入って、靴を脱ぐと真っ先に壁に掛けられた可愛らしい絵が目に入る。五歳くらいの子供がクレヨンで落書きした様な絵で、その下には『おじいちゃんお誕生日おめでとう』とパソコンの字で印刷されている。俺の視線の行先に気付いたのか、神主はボソリと呟いた。
「……わしの孫だよ。孫が小さい頃に貰ったものだ。今はお前さんと同い年くらいかもしれん。」
「僕は、高校二年生です。」
「同い年じゃないか。……今は、弟が二階にいるはずだ。」
そう言って、神主は家の奥へと進む。俺もまた、神主の姿を見失わない様に慌てて靴を揃える。玄関にはやけに引越し業者の段ボールが多かった。
誰かが家を出るのかもしれない。そう思っただけで何も聞く事はなかった。
「座りな。」
一般的な家庭の洋室。そこに佇む袴姿の神主はどうにも似合わない。促されるままに、俺は神主と反対側の椅子に恐る恐る座った。
「さて、何から話すかのう。……何か聞きたい事があるからこそ、ここに来たんじゃないのか?」
「そう、です。」
神主は「ふうん。」と言い、キッチンへ向かうと冷蔵庫から麦茶を取り出す。
「言ってみな。」
「悪霊って……何者、なんですか?」
「最初の質問がそれか。」
神主は鼻で笑う。
「人、だよ。この世に未練や恨みを持った人間が変化した姿だ。浮気をされて死んだとか、虐められて死んだとか、恨みを持って生きている人間って事もある。強い感情が悪霊となるんだ。人は成仏をして天国に行くのが常。でも、この世の理に違反した悪霊は全て地獄行きだ。この世から悪霊がいなくなる様に祓い屋は仕事をしているんだ。」
「なるほど……。」
うんうん、と神主は頷く。俺も、同様に首を縦に振る。
「ではもう一つ……俺は、あのおみくじを引いたから『最凶』の運勢になったんでしょうか?」
俺は続ける。
「神主さんは悪霊はそんなに見えないと仰ってましたけど、と言う事はあのおみくじ自体が『最凶』原因ではないという事なんですか?」
「まあ、そうだな。」
神主は俺の目の前に麦茶と海苔のついたおかきを差し出す。
「おみくじというのは『いい運勢を引き当てる』ものじゃない、『くじ引き』じゃない。今の自分の運勢を『紙に現す』儀式なんだ。勿論、イカサマの占いにそんな力はない。けど、正しい占い、おみくじを引けば結果は全て同じになる。だから……例えおみくじを引いていなくとも、お前は今の様に悪霊に襲われていただろうよ。」
「それなら……『最凶』の運勢はここでどうにか出来るものでもない、って事ですか?」
「だから祓い屋が来てくれたんだ。運勢はくじ引きではないと言っただろう。自分の人生の中での巡り合わせ。何かに合格するような大きな出来事から、朝ごはんを食べるくらいの小さな出来事まで、一つ一つが積み重なり、組み合わさる事で今があるんだ。わしらにも祓い屋にもどうにか出来るものじゃない。」
そう言って、神主はじっと、俺の瞳を覗き込む。
「変えられるとしたら……お前だけだ。」
「えっ。」
「人生を選択するのはお前だけで、人生を全て知っているのもお前だけ。なら――お前が自分で解決方法を見つけ出すしかない。」
「……変えられた人は、いるんですか?」
「知らん。別に『最凶』の運勢の人間が全員おみくじを引いている訳でもない。それに祓い屋なんて稼業は普通の人間が本来関わるべき人間達じゃない。仕事内容も対象者も全て厳格な守秘義務がある。」
「それじゃあ、あの日神主さんが『身近な人間に注意しろ』と言ったのは?何か心当たりがあるんじゃないですか?」
ガラスのコップを口元に運んでいた手が止まる。言ってしまって、俺は自分自身がカッとなり過ぎていた事に気が付く。
「す、すみません……。」
「いや、いい。……別に心当たりという程でもない。考えてみれば当たり前のことだ。」
「既に定まった未来を変える事は容易ではない。それは何故か?変える事ができない未来の原因はあまりにも密接すぎる場所にあるからだ。特に人間――自分に身近な人間だ。」
ドクンと心臓が跳ねる。踏み込んではいけない場所に踏み込む様な気がして、ぎゅっと膝の上で拳を握った。
「これは例えだが、今から母親と縁をすぐに切れと言っても切れないだろう。学校を辞めろと言っても辞められないだろう。原因が例え分かったとしてもどうしようもない。それくらいのものなんだよ、きっと。」
「それは……。」
「うん?」
「祓い屋が原因、という事はないですよね。」
ズキリ、ズキリ。
罪悪感に目を瞑った。また、俺は疑ってしまった。いや、信じたいからこそ考えてしまうんだ。
深刻な表情の俺に反して、神主は突然大声で笑った。目元にぎゅっと皺が寄り、喉仏が揺れる。
「な、なんですか!?」
「あっははは、これは面白い。――お前……惚れたな?祓い屋に。」
「はあ!?!?」
想像だにしていなかった発言に、俺の顔がみるみる赤くなるのがわかる。
確かに、九十九の事は家族ぐらい大事だと思う。でも――恋愛感情なんて一度も向けた覚えはない。
片手を顔の前で勢いよく横に振る。
「違います!!違いますから!!」
「よいよい。隠さなくても。ん―、まあ、今は祓い屋の一族も自由恋愛を推奨しているみたいだから後は向こうの気持ち次第だな。結婚式には呼んでくれよ。」
「できないわっ!!」
九十九は男だよ!!
いや、もしかしたら今後法律が変わって九十九と俺でも結婚は可能になるかもしれない。けど今はそんな話をしたいんじゃない。
「お前が『最凶』の不運になったから祓い屋が来てくれたんだろう。祓い屋が元凶でどうするんだ。」
今度は、別の意味で顔が熱くなる。
考えてみれば、そうだ。九十九を信じたいとか、友情だとか。そんな事を議論するまでもなく、九十九は俺が『最凶』の運勢だから駆けつけて来てくれたに過ぎない。
疑ってばかりで、空回りして、本当に馬鹿だ。
「まあ〜気持ちもわかるがな。わしも出会った事が数度あるが、みんな綺麗な女の子だった。」
「女しか祓い屋になれない、なんて難儀な職業だななんて最初は思ったけど、案外男には都合が良いのかもな。
「……え?」
今、なんて言った?
「女しか、祓い屋になれない?」
「あーそうだよ。巫女みたいなものだな。男には男の、女には女の特徴がある様に、祓い屋という職は女にだけ与えられたものだ。お前のところに来た子はどんな子だ?」
「……綺麗な、子です。」
「おー!そうか!!」
「少しお手洗いお借りしても大丈夫ですか。」
「いいよ。廊下出て左な。」
神主が廊下の外を指差す。
みんみんみんみん
祓い屋は、女しか、なれない?
そんな馬鹿な。あの人が勘違いしているだけだろう。
みんみんみんみん
俺は女でしたーとか、言ってくれるなよ、九十九。
みんみんみんみん
『今どこにいる?する事ないなら合流しようよ。』
みんみんみんみん
ドサッ
我に帰った。
冷房の効かない暑苦しい廊下。鞄を持って出て来ていたので、鞄から全てのものが床へと滑り落ちる。
暑いのに、寒かった。
半年分の違和感が纏めてのしかかって来る。冷や汗がじわりと滲んで力が抜ける。掴んでいたスマホも、床に落ちた。
みんみんみんみん
蝉が五月蝿い。
「大丈夫ですか?」
爽やかな、少年の声。こちらを気遣う、弱々しい声だった。
俺の顔はいつの間にか下を向いていて、声に答えるよりも先に、青年が俺の足元にしゃがみ込む。
「おじいちゃんの、お客さんですね。」
確認する様な口振りで青年は言った。地毛にしては明るい茶髪が目に映る。
同居しているという、お孫さん。
「そう、です。ありがとうございます……。」
慌てて俺もしゃがみ込み、物を拾おうとする。
ゴツン
急いでいたせいで二人の頭が互いに衝突する。
「痛っ!」
「すみません!」
二人とも、顔を上げる。その時初めて、俺は――青年の顔を見た。
そして――絶句する。
「は、え……九十九?」
青年は、キョトンとして目を丸くさせる。アイドルみたいな明るい茶髪。目はくっきりとした二重で色白。
けど違う。九十九じゃ、ない。
体は俺よりも小さかった。まだ小学校高学年か中学生くらいで顔には幼さが残っている。
それでも、どこからどう見ても――九十九と瓜二つだった。
九十九、という言葉に反応したのか、少年は前のめりに体を動かす。
「……知ってるんですか?――兄の事。」
兄、だと?
少年は、俺の足元に転がる高校の学生証を見て、信じられないと言った風に俺と学生証を交互に見る。
「いや、まさか。そんな……。」
まだ声変わり前の高い声が僅かに震えた。
「貴方――本当に一ノ瀬一さんですか!?」
質問の意味がわからない。それに九十九と瓜二つの少年がここにいる意味もわからない。
「お、俺は……一ノ瀬一、です。」
お互いの動きが止まる。だが、直ぐに体を起こし、俺は荷物を纏める。
「すみません!勝手にお邪魔して、勝手に物落として……。」
自分の思考と目の前の状況が混濁して頭が真っ白だった。
俺はどの部屋から出て来たかなんて深く考えもせず、荷物を奪い取る様にして近くの襖に手をかける。
「お邪魔しました!」
「一ノ瀬さん!!そっちは!!」
甲高い声が俺を引き止める。
スッと、襖が横にずれ、部屋の中が露わとなる。
熱気が押し寄せ、頬を撫でる。
「そっちは……兄の……部屋――だったところです。」
線香の香りが鼻をくすぐった。
脳が戻らなければと警鐘を鳴らすも、直ぐには反応ができなかった。
目の前で、九十九が笑っていた。暖かそうなニットを着て、カメラに向かってピースをしている。楽しそうに、幸せそうに。
――遺影の中で。
周りには沢山のお花やお菓子が飾られていて、簡易的なお仏壇が作られている。右手にある窓からは優しい風が吹いて来て、カーテンが揺れている。畳の独特の香りが線香の匂いと混じって鼻腔をくすぐる。
みんみんみんみん
「兄は……九十九は……。」
少年が、震える声で後ろから言った。
「亡くなったんです。――中学三年生の三月に。」
なあ、九十九。嫌な勘ってよく当たるんだな。
水族館に一緒に行ったあの日から、俺はお前への疑念ばかりで頭がおかしくなりそうだ。
疑えば疑うほど、そうじゃないと否定してくれる証明が欲しくて、また俺はお前を疑う材料を見つける。
お前は――
お前は、誰だ?

