「一。」
家を出る時、母の声が鋭く俺の耳に突き刺さる。思わず、靴紐を結んでいた手を止めた。同時に「ああ、思い出したか。」 と諦めがずっしりと体にのしかかった。
「なに?」
自分でもびっくりするくらい低い声音で、俺は振り返りながら返事をする。俺の後ろには、母親が有無を言わせない様子で俺を見下ろしていた。さっきまで食器を洗っていた手を止めて来たのだろう。タオルで両手を拭いながら冷たく俺を見ていた。
「今日、模試でしょ。予定表見たから、お母さんわかってるんだからね。」
まるで悪い事をした俺を問い詰める様な言い口だ。別に模試の予定をわざと隠していたわけではない。
「そう、だよ。」
「○○大学の医学部を目指すなら、二年生の夏の時点――今の時点で八割取れないとキツいんだって。ちゃんとわかってる?」
「わかってるよ。」
何だか嫌になって来て、俺は靴紐を素早く結ぶ。立ち上がり、玄関の扉を開けようとすると母は咎める様に捲し立てた。
「一だって、○○大学、行きたいんでしょ?それならちゃんと頑張らなきゃ!」
胸がズキリと痛む。母の言っている事には何一つ間違いはない。
俺は○○大学の医学部に進学したい。これは、小学生の時からそうだ。大学には何度も連れて行ってもらったし、医者という職業に強い憧れもある。それなのに、上手く未来に向かって走り出せない自分がいた。
本当に、俺はこの進路を進んでも良いのかな?俺は本当にこの道を進みたいのかな?
少しの気の迷いが足枷となって、母の言葉が鞭のように俺を追い立てる。目標だけが一人歩きして、自分というものがどこかへ消えてしまったみたいだ。
「模試が終わったからって油断しちゃダメよ。今日は自習して帰るのよね?自己採点も先にしておいて……。」
「わかったから!……行って来ます。」
語気が思わず強くなる。引いた扉の隙間から、朝とは思えない程の熱気が飛び込んでくる。瞳孔に飛び込んでくる鋭い光に目が眩んだ。
季節が移ろい、夏が来た。
九十九と初めて出会ったのは高一の三学期。あれから半年が経過して、俺は高校二年生になった。俺の不運は相変わらずだったが、性格はかなり図太くなったと思う。半年も経てば日常生活で遭遇する不運というのは絞られてくる。なので多少の不運であればある程度予測をして回避ができるようになった。
例えば、工事現場の近くは確実に物が落ちてくるので通らないとか、鳥の巣がある場所は必ず糞を落とされるので傘を差して歩くとか。それでも回避できない不運はまだまだ沢山あるが、些細な不運ではもう前の様に驚かなくなったのだ。
逃げるように家を出て傘を差す。ついこの前まで寒さに身を縮こめていた筈なのに、今は梅雨明けの熱気が重い。くらくらと眩暈がした気がしたが、『あいつ』のいる場所まで足を引き摺るように歩く。歩きながら、雲ひとつない晴天の空を見上げてぼんやりと呟く。
「人間が百年生きる時代に、十七年生きただけで将来を決めろなんて難しいよな。」
譫言は宙に消える。待ち合わせ場所の公園まで来ると、朝から草むしりをしているお婆さんが目に入った。暑いのに、大変そうだなと思った。ひとつ、涼しい風が吹きつけて来たと思うと、お婆さんの被っていた帽子がふわりと髪の毛から浮き上がる。帽子はブランコの側まで飛んで行くと優しく地面に落ちた。
「……取りますよ。」
重たい腰を起こそうとするお婆さんを声で制止し、俺は帽子に駆け寄る。そして砂を手で軽く払うとお婆さんの前まで歩み寄り、帽子を差し出した。
「――ありがとうネエ。」
しゃがれた細い声、しかし、語尾に不思議な違和感を覚えた。お婆さんが差し出した帽子を掴む。――そして、瞬き一つの間に、お婆さんの手が蔦の様に俺の腕に纏わりつく。
「うわっ!?」
蔦は腕に張り付く様に伸びていて、振り解こうとしてもびくともしない。
(悪霊だ。)
お婆さんの顔がひび割れているみたいに皺が縦横無尽に走る。やがてそれは木の幹割れの様にヒビが大きくなり、人間とは思えない姿へとお婆さんは変化する。蔦はゆっくりと顔へと近付いてくる。一は一瞬躊躇しつつもお婆さんだった悪霊の胸元を蹴って、どうにか逃れようと身を捩った。
「離せっ!!」
「一くん!!」
俺の名前が呼ばれると同時に、光線が俺に纏わり付いていた蔦を粉砕する。痛そうに、悪霊が千切れた蔦を引っ込めた瞬間を見逃さず、九十九はお札を片手に奇怪な真言らしきものを呟いた。光が段々と九十九の頭上に集まり、塊となってお婆さんの体を貫く。絶叫が朝の住宅街に響き渡った後、お婆さんの体は塵となって風に消えた。
「九十九……ありがとう。」
「ごめんね、遅くなって。」
九十九は何だか申し訳なさそうだった。俺はそんな顔するな、と九十九の背中を叩く。
「助けに来てくれただけで、めっちゃありがたいよ。」
「ううん、これからは三十分前に集合場所に着いておくよ。もっと対策を巡らせておかなくちゃ。」
「あ、いや。普通の時間でいいから。」
九十九は真面目だった。特にこうして悪霊に出会った時は被害に遭った当人よりも動揺している。
「……っと、危ない。」
どこからともなく、サッカーボールが一に向かって飛んでくる。特に大きな反応をすることも無く避ける俺に、九十九は苦笑いを浮かべた。
「強くなったねえ、一くん。」
「このエリアは子供がボールで遊びがち、だからな。」
二人の横を、通学途中の小学生がボールを取りに走って行く。そして、腕元の時計を確認して俺は目を見開いた。
「ヤバい!!遅刻する!!今日模試だから遅刻したら大変だって!」
「ええ?歩けばギリギリ間に合う時間じゃない?」
走り出そうとする一の腕を、九十九が掴む。
「……遅刻したら、悪い意味で目立つだろ。」
「目立ちたくないのは変わらないんだなあ。」
何だかその言い方がムカついて、俺は掴まれた腕を反対に引っ張った。
「行くぞ!模試の予習もするんだからな。」
「はいはい。」
***
今日の模試は午前中だけだった。俺の得意な数学と化学。両親に褒められる程ではなくとも、ある程度の手応えだったと思う。昼食を教室で取る人は殆ど居らず、模試の解答用紙を提出した後にクラスメイトは次々に教室から飛び出して行く。
「一ノ瀬くん。」
筆記用具を仕舞っていた俺に、一人の女子が秘密の話でもする様に話しかけてくる。
「千堂さん。」
あの日、こはるちゃんを一緒に探した千堂さん。偶然同じクラスになってからというもの、ちょっとした繋がりで会話をする事が多くなった。基本的に、千堂さんは所謂二軍と呼ばれるらしい女子のグループに所属している。一軍の女の子達の様に派手な格好や物言いをする事は無く、雰囲気の似たクラスメイトと静かに話している印象が強い。ただ時々、九十九以外と大して関わりのない俺に話しかけてくれていた。
「模試、どうだった?」
何気ない定型文。俺は苦笑する。
「普通、かな。」
「一ノ瀬くんの普通って、怖いなあ。また学年一位取られちゃうね。」
千堂さんは、頭が良い。俺が言うと嫌味みたいになるかもしれないけど、勉強一筋の俺と違って千堂さんは色んな事を器用にやってのけている。友人関係もそうだが、運動も出来るし異性にもモテる。あの日以降に気付いた事だが、模試だって俺に次いで二位を死守している。その器用さが心の底から羨ましいと思っていた。
「九十九くんとも、相変わらず仲良いんだね。」
「まあ……。」
そう言って、クラスの中心で男女問わず話し掛けられている九十九へ二人で視線を向けた。九十九は二年生になってから、前程俺以外との関係を拒まなくなった。無論、遊びに行ったり一緒に帰ったりということはしないものの、友達と言える関係性のクラスメイトは多い。周りも九十九と俺が仲良くしている事に納得していない人が多かったが、半年も経てば「そういうもの」だと割り切られる様になっていた。それでも、俺とではなく、他の友達と楽しそうに話している九十九を見ていると何だか自分のことの様に嬉しいし心が暖かくなる。
感情が顔に出ていたのか、千堂さんが俺の顔を覗き込んでニヤニヤとしている。
「……どうしたの?」
敢えて気にしない様に聞いてみる。
「一ノ瀬くんさあ、この後時間空いてる?」
「この後?」
「うん、放課後。」
今日は朝から母に、自習室に行く様に云々の説教を受けた。けど正直行く気が微塵も湧いてこないのが事実だった。――誰かに予定を提案されたなら良い理由になるだろう。「うん、空いてる。」そう答えようと口を開いた時だった。
「ごめん。今日僕ら、一緒に水族館に行く予定なんだ。」
俺の口元に柔らかいものが触れる。背後から溌剌とした声がして、九十九が俺の背後から顔を出した。口を塞いでくる九十九の手を引き剥がそうともがいてみるがビクともしない。寧ろ、更に力を入れてくる。
無論、そんな話は一度も聞いたことがない。何で勝手に決めてるんだ、こいつは。
九十九の話を真に受けたのか、千堂さんの眉尻が少し下がる。九十九はわざとらしく笑いながら俺を無理矢理、椅子から立ち上がらせる。
「九十九っ!!」
「僕の好きなアニメとコラボしてるんだって言ったでしょ?ほら、早く行かないと整理券配り終えちゃう。」
「お前それ今日行く予定だったのかよ!?」
そう言えばそんな事を言っていた気がする。けど、特段興味のありそうな口振りではなかったからどうでも良いのだと話を流していた。それなのに、そんなに水族館に行きたかっただなんて知らなかった。
「……千堂さん、ごめん。また、時間取るから。」
「あはは。大変だね、一ノ瀬くんも。……私も、バイト行こうかな。」
千堂さん、バイトしてたんだ。
この学校ではバイトは禁止されていないと言えど、進学する生徒が多いため、バイトをしている人はそこまで多くない。
「ほら、行くよ。」
「もう!行くから!首元掴むな!」
今日ばかりは九十九の過度な接触にうんざりする。小さい声で喚いたつもりだったが、クラスメイトが「またか」といった目で俺達を見ている。嫌な話だが、なんだかこれに慣れてきてしまった自分がいる。乱雑に机に置かれた鞄を掴み取り、俺達は教室を出た。
***
「なんで『今日』?朝もそんな事言ってなかったじゃん。」
水族館へ向かう電車の中で、俺は九十九に対して愚痴を溢す。相変わらず電車は遅延して、突然土砂降りの雨が降ってきたけど気にしない。途中で電柱に繋がれていた犬が悪霊に変化して襲いかかってきたけど九十九が追い払ってくれた。俺も傘でちょっとだけ戦った。傘の水滴を払い、他の乗客の迷惑にならない様に体の近くに立てる。九十九は雨で濡れたお札を、車内のクーラーで乾かしながら返事をする。
「忘れてたんだよね、今日チケット予約してた事。」
革のスクールバッグから、長方形のチケットケースを取り出す。魚の可愛いイラストがあしらわれた紙のチケット。その一枚を俺に差し出してくる。日付は今日の日付が印字されていて、確かに別日には使用できないらしい。ちゃっかり俺の分までチケットが用意されている癖に、予定を忘れていたなんて呆けている所がわざとらしい。疑いの目で九十九を見ていると九十九はバツが悪そうに苦笑する。
「いいじゃん。水族館なんてあんまり来ないでしょ。」
「……俺、水族館自体が初めてかも。」
「本当に?」
九十九は目をまん丸にした。そんなに驚くことかと思うが、そんなに驚く事らしい。中学の時も同じ様な話題で、同じ様な顔をされた事があった。水族館だけじゃない。俺はどうやら、世間一般の子供が普通、体験しているであろう事を経験していない事が多かった。動物園も、遊園地も、あまり記憶がない。土日は基本的に塾で勉強していて、父親も仕事で帰ってくる事が少ないから、家族で何処かに出かけた事もそれ程なかった。
「なら、これから楽しみ放題じゃん。いいね。」
あっけらかんと言ってみせる九十九。じんわりと暖かい空気が胸に染み入る様に、九十九の言葉が体中に広がる。
「九十九って、優しい言葉遣いするよな。」
「ええ、急に何?」
九十九は拍子抜けした様に笑った。別に、急に思いついた事じゃない。
「俺、水族館だけじゃなくて、遊園地とか動物園にもあんまり行った事ないし、ゲームで遊んだ事もない。漫画もアニメも禁止されてるし、そのせいで話す話題がなくて、『つまらない奴』のレッテル貼られてたんだ。」
「元々内向的な性格なのも相まって、頑張ってコミュニケーションを取ろうとすればする程空回りしてた。その度に向けられる嫌な視線が嫌いだった。俺の発する言葉、行動一つ一つが呪われてるみたいに思えてきて、全部が怖くなったんだ。中学の時は特にそうだったかな。」
「俺、今もちょっと気まずい空気流れるんじゃないかって思ったけど、九十九の言葉聞いてホッとしたよ。九十九が来て、九十九が俺と話してくれる様になってから、俺の呪いが解けたみたいなんだ。もしも失敗しても、九十九なら俺を受け止めてくれるんじゃないかって思ったら、怖くなくなったんだ。」
俺は付け加えて「千堂さんとも話せる様になってきたんだけど。」と呟いた。別に千堂さんが異性として好きなわけじゃない。でも、異性でありながら話す事に然程抵抗感が湧かない。それも全部、九十九がいてくれるからだと思っている。
「……そんなに、一くんを受け止め切れるくらい優しい言葉遣いをしているつもりはないけど。普通の事だよ。」
「そんな事ないって。」
俺がそう訂正した時、電車が駅に停車する。前のめりになりそうな所を、手すりを掴んで何とか耐える。「あっ。」と九十九が電子掲示板を見て声を上げた。
「もう降りなきゃ。」
同じ水族館に行くと思しき家族連れが、仲良く電車を降りていく。中には若いカップルや老夫婦なども混ざっているものの、男子高校生二人というのはどう見ても浮いている。まだ昼間という事もあり、学生の姿は殆どない。
「あ、雨止んでる。今のうちに水族館入ろう。」
正直、初めての水族館にワクワクしている自分がいた。雲の隙間からは青空が覗き、かなりの速度で電車と屋根の隙間を通り過ぎて行く。
「俺、九十九と会えた事は幸運だったと思ってるよ。」
傘の水滴を再び払いながら、俺は電車を降りる。――九十九の足が、俺の言葉で止まった。
『まもなく、発車いたします。』
機械的なアナウンスが流れて初めて、俺は振り返った。九十九はふいを突かれたように入り口で立ち止まって動かない。色素の薄い褐色の瞳が、差し込んできた鋭い陽の光でキラキラと瞬く。
「ほら、早く行くぞ。……なんだか恥ずかしいだろ。」
「……うん。」
九十九はうわの空で返事をする。そして、大きく肩で息を吐き、電車の外へと足を踏み出す。
『ドアが、閉まります。ご注意ください。』
俺達の後ろで電車の扉が音を立てて閉まる。ゆっくりと動き出した電車は直ぐに速度を上げ、まるで自分達を知らない場所へ置き去るかの様に走り去って行く。耳をつん裂く警笛の音が止み、静寂が訪れる。
「行こうか。」
空はまた翳り始めていた。
どうやら、雨雲と雨雲の隙間だったらしい。駅から水族館までの道を歩いていると、すぐにポツポツと水滴が落ちてくる。少しの猶予を持たせた後、雨は途端に強度を増し、話し声も聞こえないほどに強くなる。碌に会話もできないので、俺達は無言で水族館までの道を進んでいた。バシャバシャと水の溜まった路側帯をスニーカーで歩いて行く。スニーカーの隙間から水が染み入り、気持ちが悪い。足元の水溜まりだけにも考えずにぼんやりと歩く。
先を歩く九十九の表情はわからなかった。一言も喋る事はなかったし、首が下を向いていたので、九十九も水溜まりがうざったいんだと思った。
雷鳴が一瞬、遠くから聞こえた様な気がした。
***
館内は外のジメジメとした陰鬱な空気とは打って変わって、冷房の空気でカラッと乾燥していた。傘のカバーを取り付けて雨粒を取り払うと、雨で濡れた腕を冷たい風が撫でる。
「寒い?」
静かに九十九が尋ねてくる。俺は首を振った。
「大丈夫。」
九十九からチケットを受け取ると、俺はスタッフにチケットを通し、後ろに続く九十九を待つ。思い出した様に財布を取り出し、チケット代を支払おうとすると九十九は「いいよ。」とその手を押し留めた。
「俺が勝手に連れて来たんだし。」
「なんでだよ。……対等な関係でいるには、お金の上下関係を作っちゃだめだろ。ほら、受け取れって。」
俺の言葉にぐうの音もでない九十九に、俺は千円札を数枚握らせる。もしかして、俺を水族館へ無理矢理連れてきたことに少し後ろめたさを感じているのかもしれない。
「……さっきも言ったけど俺、水族館に来たことないからすげえ楽しみだよ。九十九は?来たことあるの?」
「少し前に、一度だけ。」
「そっか。……折角なら、九十九の好きなアニメとコラボしているところから回ろうよ。」
俺は棚の上に置かれた縦長のパンフレットを手に取り、左上から文字を追う。しかし、アニメのコラボと書かれている部分はどこにもない。一通り読み終わった後に九十九へ視線を戻すと、九十九までもが訝しげに首を傾げていた。
「おかしいな。今この時期にやってる筈なんだけど。」
「なんて名前のアニメなんだ?」
九十九はスマホを手に取って文字を打ち込む。そして検索結果を俺へと突き出した。
「『モーニングガッツ隊・トリムスビ』。朝の情報番組でやってるショートアニメなんだ。見たことない?」
「お前……そんな可愛らしいの見てるのか。」
九十九のスマホに映る画像には、三角おむすびの形をした白い鳥のキャラクターが映っていた。なんでも、朝ごはんをしっかりと食べない現代社会の日本人の為に食べ残し朝ごはんのおにぎりが変化した姿……なのだとか。うめぼし、おかか、こんぶと名札の貼り付けられたおむすび達は、よく見てみるとくすっと笑えてくる可愛さがある。それにしても、九十九がこんなに可愛らしいアニメを見ているなんて少し意外で、俺はクスクスと笑う。
「……何。変?」
「いいや、全然?ただ、九十九の新しい側面を知れて嬉しいんだよ。」
尚も肩を震わせて笑う俺を見て、九十九の表情は不服そうに歪む。
「……コラボしてないなら、いいんだよ。ほら、置いて行くからね。迷子になっても知らないよ。」
「ならねーよ!」
一体自分の事を何歳児だと思っているのだろう。憤慨した俺を見て、九十九も笑いを溢す。先程の鬱々とした雰囲気が嘘みたいに、俺達は順路通りに展示を見て回った。
淡水魚や熱帯魚の暮らす暖かい光のエリアを潜り抜け、アザラシの泳ぐ海中トンネルを潜る。ポップな音楽が流れ、子供が魚の素早い泳ぎに併せて走り抜けて行くのを母親が服を掴んで止めている。
「こら!水族館の中は走っちゃだめでしょ!」
「ママ!あっち!でっかい魚いるよ!」
大きな声で騒ぐ子供を見て、母親は更に慌てた様に口元で人差し指を立てた。そして、近くにいた俺たちに向けて申し訳なさそうに会釈をした後、子供が指差した別のエリアへと手を繋いで歩いて行く。俺は水槽へと視線を戻しつつ、ちらりと隣にいる九十九を見た。
九十九は真剣に、水槽と説明表示を交互に眺めていた。マダイに関する表記をじっと読み込んでいたかと思うと、水槽の左端を指差して俺に嬉しそうに笑い掛ける。
「タイだ。美味そう。」
「そういう感想、本当に言う人いるんだ。」
確かに、九十九の指差す水槽の左端には、鱗に赤みを帯びた魚が水の中を右往左往していた。こちらが水槽を覗いている事なんて気にもしない様に自由に泳いでいる。
やがて、明るい音楽は遠くに消え、深海を思わせる落ち着いた音楽が耳を擦り抜ける。照明は一段階明るさを落とされ、手元すらも満足に見えない。洞窟の様なトンネルを潜り抜けると、ぼんやりとした水槽の灯りに出迎えられた。
「クラゲ、だ。」
俺は実際にクラゲを見るのは初めてだった。テレビで映し出されるものなら見た事があるものの、実際に水槽の中で泳いでいる姿を見ると、その現実離れした姿に驚愕する。生き物はその生態に応じた姿に進化を遂げているものが多い。例えば敵の前で丸まって防御をするとか、岩を模した柄をしているとか。それに比べてクラゲはただただ美しい。
長いベールみたいな触手を引きずる様に漂うもの、カラフルな傘を指しているもの、海水に溶け込みそうなくらいに透き通った白を持つもの。
この見た目で、この世界に生まれた事が間違いみたいに異質で不気味だった。
「クラゲって心臓も血管も、脳もないんだって。」
いつかどこかで見た豆知識がふと頭をよぎり、喉から漏れる。九十九は水槽をじっと眺めたままだ。水槽の灯りが九十九の右頬から鼻先までを青白く照らす。頬の赤みは灯りによって打ち消され、その色だけ見ると病的だ。
「生きてるのに、死んでるみたい。」
何気なく放ったその言葉。すると、九十九が前に傾けていた体を起こした。
「一くんさ、さっき、一度も水族館に行った事ないって言ってたじゃん。」
「う、うん。」
「遊園地とかも行った事ないって。」
「そうだね。」
再び暗がりに戻って、九十九の表情はよく見えない。
「僕も――そうなんだ。水族館に行った事だって、実はこれが二回目。遊園地だって乗り物には乗った事ないし、ゲームも漫画も禁止されてた。」
「えっ。」
俺はこの半年間、九十九の個人的な事情については深く触れない様にしてきた。祓い屋という職業自体に疑問もあったけど、何より部外者の自分が口を出してもいい様な雰囲気でないことは悪霊達を見ていればわかる。しかし、俺の考えていた事を見透かした様に九十九は否定する。
「祓い屋だから、じゃないよ。僕実は、高校に入学するまでずっと体が弱かったんだ。」
今のすらっとした体付きからはとてもそうだとは思えない。動きの止まる俺に九十九は静かに続けた。
「中学の終わりに大きな手術を受けて、それがなんとか成功して、今は学校に通えているんだ。それまではずっと入院生活だった。どこにも行けないし、娯楽もテレビくらいしかなかったから、周りの同年代の子達についていけないのは僕も同じなんだよ。だから、他のクラスメイトと話すのも実は得意じゃない。」
「周りについていけない、けどこれでいい。どうせ――一年が経てば僕はここを離れるから。」
声が出なかった。
一年――それは俺の『最凶』の不運が消えるまでの期間の事。それが終われば九十九はいなくなる。ぼんやりとした疑問が今、眼前に突きつけられた。
九十九はここにお友達ごっこをする為に来ているわけじゃない。深く聞くのは憚られてきたけど、ちゃんと九十九には九十九のすべき事がある。
――友達、なんて関係を自称するのは烏滸がましいのかな。
無意識に顔が下を向いた。
「でも!」
九十九が声を荒らげて訂正する。
「ずっと僕はそう思ってた。けど……この半年間、僕は本当に一くんといられて本当に楽しかったんだ。……勿論、今は一くんに言えない事は沢山ある。けど、今日は一くんと一緒に遊びに行きたかったし、登下校を一緒にするのも、僕が楽しいと思ってるからなんだ。……こんな事、思っていいのかわからないけど、友達だと思ってる。だから、駅で一くんに、僕と会えた事は幸運だって言ってくれた時、本当に本当に嬉しかった。」
九十九は両手を重ねて強く握り締める。爪の立てられた部分が白く変色していたので、俺はその手をそっと取った。九十九は俺と目を合わせる。時折他のお客さんが不思議そうに俺達を見ながら通り過ぎて行く。
「言えない事、あるんだ。」
「……うん。」
「それをずっと後ろめたく思ってたの?俺の言葉を聞いて。」
「うん。」
「ああ、だからぼんやりとしてたんだ。」
問い詰めるような口調だった俺は思わず破顔する。
「そっか!!」
自然と腹の奥から笑いが込み上げてきて、困惑した表情の九十九を置いて一人で笑う。女々しく考えていた自分が馬鹿らしくなったのだ。
「いいよ、言いたくない事は言わなくて。それよりも九十九の気持ちを少しでも知れただけ嬉しいよ。友達と思ってるのは俺だけなのかなってずっと思ってたもん。」
九十九は静かに頷く。なんだかその仕草が宥められた子供みたいで更に笑みが溢れる。
「抱え込んで辛くなったらいつでも言ってよ。話したくなったらいつでも言ってよ。――待ってるから。」
「……ありがとう。」
すると突然、九十九が俺の体を突き飛ばすように壁際へと追いやった。俺は体勢を崩してそのまま壁へ倒れ込み、なんとか近くの手すりを掴む。その正面で九十九が俺を庇うように壁に手を付き、背後を確認していた。その表情は真剣そのもので直ぐに緊迫した空気が二人を包んだ。
九十九に庇われた背中をと腕の隙間から、俺は九十九の背後を確認する。
――何もいない。
「九十九?」
「いる。」
九十九は端的にそう、返事した。
――悪霊だ。
直ぐに察しがつく。
半年も一緒に行動していれば九十九の表情でどれくらいの力の悪霊がいるかは想像が付くようになる。しかし、俺に危害を加えてくる悪霊というのは大抵実体を伴っていて、人間に化けている事が多い。この半年間の例で言えば郵便配達員のお兄さん、教育実習の先生、宅配便のおじさんなどに化けていて、その度に九十九が撃退してくれていた。両親や九十九の様に身近な人物に化ける事はない。けれども、絶妙に、ある程度の接点を持つ人間に紛れ込んでいる事が多いのだ。
二人のいるクラゲコーナーに、現時点では二人以外の人間はいない。九十九の睨んでいる方向へじっと耳を澄ませていると、遠くからコツコツと足音が聞こえてくる。二人の通ってきた洞窟の中を足音が共鳴していた。
すると――一定だったその足音は突然、そのリズムを早めた。
コツ、コツ、コツコツコツコツ
間違いなく、こちらを認識して、こちらに向かってきている。
声を上げそうになった瞬間に、九十九は俺の腕を強く引いて駆け出した。
足がもつれて転びそうになる俺を、九十九は黙って腕を引き、館内を走る。他の客が怪訝にこちらを眺めても九十九は足を止めない。
足音は、自分の荒い息と足音で聞こえなかった。同じペースで着いてきているのか、撒けているのかもわからなかった。それでも振り向く勇気はなくて、九十九と一緒に走り抜ける。
クラゲコーナーを抜け、海獣のエリアを潜り抜け、深海魚の展示エリアに辿り着いたところでようやく、九十九が足を止めた。じっとりと汗で濡れた手を放し、九十九は肩で息をする俺を置いて、先程来た方向へ戻ろうとしていた。
「つ、九十九。どこに……。」
「一くんはここに居て。」
こちらに背を向けて歩きながら、質問の答えになっていない返答を残して九十九は奥へと消えて行く。同い年の筈なのに、ぜえぜえと荒い息を吐いている俺と、息を少しも乱さずに再び歩き始める九十九。悪霊を倒してきてくれるつもりなのだろうか。
変に行動すれば九十九に迷惑がかかるのはわかっているので、俺は黙って壁にもたれかかりながら九十九の去っていった方向を警戒する。息が落ち着いてきた頃、単純な疑問が俺の脳裏に湧き上がった。
九十九がピンチになる事って、あるのかな。
この半年間、毎度悲鳴を上げる俺とは対照的に、九十九はゲームでもプレイしているかのように容易く、悪霊を倒してくれていた。九十九はいつもお札や鈴の付いた退魔具らしきものを持ち歩いていて、その姿にはいつも余裕がある。それでも、悪霊に強い弱いがあるという事は途轍もなく強い悪霊も存在するんじゃないだろうか。
そうなれば、九十九の事は一体誰が守ってくれるんだろう。
変に胸の奥がざわつく。挙動不審な俺の周りにはお客さんは殆どいない。深海魚コーナーはクラゲコーナーよりも更に暗く、なんだか不気味だった。暗く、重たい雰囲気が不安を駆り立ててきた。
十分程経っただろうか。九十九が戻ってくる気配はない。
スマホを出来るだけ他の人の迷惑にならない様、体で隠しながら起動する。メッセージアプリにも連絡はなかった。電話をかける気にはなれなくて俺は再び視線を深海魚エリア全体に戻す。すると、九十九の立ち去った方向の反対側から、何やら手押しのワゴンがガラガラと運ばれてくるのが見えた。
「こんにちはー!シーラカンス占い、シーラカンス占いは如何ですか?深海の生き物たちが貴方の運勢を占っちゃいます!」
ワゴンを押す人物の姿を見て思わずギョッとする。どう見ても子供向けとは思えない、リアルなシーラカンスの頭部を被った人間がワゴンの横で宣伝を始める。
暗がりの中、ぼんやりとシーラカンスの頭部が浮かび上がり、高校生の俺が見ても近寄りたいと思えない。その証拠に、通りすがりの小さな子供が泣きながら「ママー!!」と走り去って行った。子供に手を振っていたシーラカンス人間は、子供の泣き声を聞いてあからさまに肩を落とす。どうしてこの水族館は企画でこれをやろうと決めたんだろう。もはやあのシーラカンス人間が可哀想とまで思えてきてしまう。
ついつい、じっと眺めていると、シーラカンス人間がこちらをギョロリと睨んだ気がした。
慌てて首をぐるりと回して視線を逸らす。
頼む、こっちを見ないでくれ。
気付いていない振りが通じるわけもなく、シーラカンスの被り物の奥から、若い女性の声が聞こえる。
「……お兄さん、シーラカンス占いいかがですか。」
「え、えっと……。」
慌てて断る言い訳を探す。
「俺、友達待ってるんです!」
「あら、それなら待ち時間に如何ですか?無料ですよ。」
そんな事を言われて仕舞えば断れるわけがない。恐る恐るシーラカンス人間の方へ視線を戻すと、そこにはやはり、暗がりにぼんやりと不気味なシーラカンスが浮かんでいた。口から情けない声が漏れる。
「ひい。」
「ほらほら、座って座って。お連れ様もそのうち来られますよう。」
明るい口調と裏腹にぴくりとも動かない着ぐるみが対照的だった。促されるままにパイプ椅子に座らされ、シーラカンス人間はいそいそと水晶を一つ、取り出した。どう考えたって、こんなことしている場合じゃない。辺りとシーラカンス人間を交互に見ていると、突然シーラカンス人間が水晶を抱え込むようにして凝視する。ぶつぶつと何かを言いながら水晶をくるくると回す様子に、いよいよカルト宗教らしさを感じて怖くなってくる。僅かに椅子から腰を浮かした瞬間、はっきりとした口調でシーラカンス人間は言った。
「貴方、運勢が最悪ね。」
「おおっ。」
そうです、『最凶』ですよ。変に最高の運勢だとか、煽ててこない辺りで少し興味が湧いた。けど、本当の事だとしても、水族館に遊びに来ている人間にマイナスな事を真っ先に言うのはどうかと思う。シーラカンス人間は続ける。
「特に貴方、交友関係の運勢が最悪。こんな結果見たことない。」
「そうなんですか。」
「しかもこの運勢、どうやら一生続くみたい。」
話半分に九十九を探していた視線が止まる。
「えっ。こういう占いってその……一年とかじゃないんですか。」
「残念ながら、この水晶によると『一生』らしいわ。」
出会って数分の相手に一生悪運だなんてよく言えたものだ。なんだか背中がぞわりとした。シーラカンス人間は全身を覆った長いローブの懐から、ポケットブックのような冊子を取り出してパラパラと捲った。
「でもね、この悪運は取り除く事が可能よ。」
「取り除けるんですか?」
俺がそう言った後、シーラカンスの被り物越しに中の人と目が合ったような気がした。
「取り除ける。」
はっきりと、その人は言い切った。
「この悪運は一生続く。けど、その全ての元凶は自分でも身近過ぎて気付くことが出来ない所にある。身近過ぎてわからない、当たり前過ぎて、それを捨て去る事ができない。それくらい、今の貴方に纏わり付いているもの――ある?」
品定めをする様に、前のめりで俺と目を合わせる。
「人間、なんかがそうよね。友達だと思っていた人間が、本当は自分の悪口を広めて回っていたなんてよく聞く話。大体の災厄は身近にあるものが一番の原因なのよ。知らず知らずのうちに親しい人が貴方にとって最大の敵になってるのかも。」
シーラカンス人間はそっと、俺の眼前に人差し指を突き付ける。
「悪運、に身に覚えがありそうね。なんとなくわかって来たんじゃない?」
「最近この人に会ってから変わったって事、あるでしょ?」
ガタンッ
自分でも信じられない程乱暴に、俺は椅子から立ち上がった。あの日、神社で言われた言葉がダムの水が溢れる様に鮮明に思い起こされた。
――身近な人に油断するな。さもなければ……。
あの時。謎の神主が言いかけていた言葉に、先程の言葉の端くれがパズルのピースみたいに組み合わされる。
「違う。」
吐いた息と混ざりながら声が漏れる。
身近な人って、誰の事?
「違う。」
なんで俺はこんなに慌ててるんだ?なんでこんなに焦ってるんだ?
何も動揺する事はないのに。何も後ろめたい事は考えてないのに。
次の瞬間、大きな声が喉の奥から発されていた。
「違う!!」
何が、違うんだ。
「……深海魚の迷惑になりますので、お静かに。」
俺の眼前に突きつけていた人差し指を、そのまま自身の口元に持ってくる。
「……すみません、俺、行かないと。」
深く頭を下げ、椅子を蹴飛ばすような勢いで俺は走り出す。
最悪だ、最低だ。
一瞬頭をよぎった考えがあまりにも耐え難くて、思考を振り切るように九十九を探す。
「九十九!」
俺の鋭い声に水槽を眺めていた人々の口角が下がった。迷惑そうにこちらを振り返る視線の中に九十九はいない。
どうして、どうして。
「九十九……。」
一瞬でも。
――九十九が『最凶』の原因かもしれないなんて、思ったんだろう。
俯き加減だった俺は案の定、通行人に衝突する。
「すみませんっ!」
よろけた体をがっしりとした腕が掴む。ひんやりとした手に引っ張られた後、荒い息を吐きながら俺は顔を上げた。
「本当にすみませ――ひっ!」
喉から出かけた声が引っ込む。見上げた先にいたのは、九十九でもなければ通行人でもなかった。
頭部、胴体、手と足。
黒い靄のような悪霊が人の体を形成していた。靄は血液の様にぐるぐると全身を循環し、そこから伸ばされた一本の腕はしっかりと俺の左腕を掴んでいた。
腕を払い除けようと胴の部分を殴ると、胴に触れた拳骨がまるで接着剤を塗りたくられた様に胴へ固定される。そのままズブズブと右手が胴の中へと吸収され始めてしまった。
「うわっ!うわわわわ!」
両腕を取られてしまった。情けない声が漏れる。
(まずい。)
体を後ろに傾け、全体重を使って腕を引き離そうとする。
「誰か!!誰か助けてください!!」
俺の声は確実に届いている筈なのに、人が来る気配が微塵もない。ああ、こんな事ならあの場所で大人しく九十九を待っていればよかった。
肩までがズブズブと靄に埋まっていく。顔を埋めてしまうともうダメな気がして、必死で顔を天井へそらす。
「助けて!!九十九!!」
腹の奥からの叫びは、結局九十九を呼ぶ事だった。
数秒の間を置いて、雷鳴に似た音が空気を裂いた。ビリビリと鼓膜が震え、鋭い光に視界が揺らぐ。そのままふっと力が緩み、後ろへと傾いていた俺の体はそのまま大きな角度を付ける。そして、ぐちゃりとゼリーを潰す様な音と共に俺の体は水族館の床へと叩き付けられた。
「った……!!」
「一くん!!」
――横転した視界に真っ先に、苦しそうな九十九の表情が映る。
ズキリ
なんで、お前は毎回そんな表情するんだ。俺はついさっき――お前を一瞬疑ってしまったのに。
問題ない事を示す様に体を起こすと、九十九はサッと目の前に手を差し出した。
九十九の頬が上気している。綺麗な茶髪は乱れ、額に汗が滲んでいる。俺と一緒に走った時は何ともなさそうだったのに。一体どれだけ頑張ってくれていたんだろう。
「ありがとう……九十九。」
「ごめん……遅くなって。」
罪悪感と安心感でどうにかなりそうだった。九十九の顔を見れずにいた俺は、悪霊がプスプスと音を立てて空に消えていく様を眺めていた。最後に残った黒い靄は煙となって立ち昇っていく。
「悪霊って、祓われたらどこに行くんだろう。」
ポツリと口にした言葉に、九十九は俺の手を引く。
「じごく、だよ。」
九十九はびっくりするくらい優しい笑みを浮かべた。言っている言葉に似合わない表情で何だかゾッとする。
「悪霊はみんな、じごくいき。」
顔を逸らした九十九の表情は何だか寂しそうにも見えた。
「九十九、さっきのは……。」
「一くん!イルカの形をしたシャーベットだって!」
突然九十九が目を輝かせながらパンフレットの隅を指差す。
「二頭で一つのカップルイルカアイス……。カップルだと三割引きなんだって。行くしかないよね、一くん!」
「行かないわ!カップルじゃないだろ!!」
「僕と一くんなら大丈夫だって。」
「どこがだよ!!」
相変わらずの言い合いをしながら、俺は腕を掴まれてずりずりと売店のある方向へと引きずられる様に歩いて行く。
その後、特に悪霊と鉢合わせする事はなかった。アイスを床に落としてしまった事以外に不運もなく、只々友人との何気ない遊びが過ぎ去って行く。アイスのなくなった木の棒を噛みながら、俺は静かに覚悟を決める。
今の俺は、どう考えても九十九がいなきゃ生きていけない。
けど、本当に、あと半年間もこのままで良いのだろうか?
答えは否、だ。良いわけがない。九十九と何の隔たりもない関係であるためには、この不運をどうにかするしかない。
――身近すぎて気付く事が出来ない所。
案外、的を得ている様な気がした。身の回りに何かなければ、まず自分にだけ不運が襲いかかるなんて事起こらない。
九十九を一瞬でも疑ってしまった自分、九十九がいなければ生きていけない自分。
どちらも本当はいらない自分なんだ。友達って対等であって依存でも敵でもない。だから、行動するしかない。
――仮に、それが九十九との別れを早めるとしても。
棒を握る手に力が籠る。「そろそろ閉館みたい。」と言いながら、九十九は俺の手から木の棒を抜き取った。
「帰ろう。」
俺がそう言うと九十九は目を細めて頷く。出口に向かって歩いている時、丁度深海魚コーナーの隣を通りかかる。九十九に「待ってて。」とだけ呟き、再び中を覗く。
「いない……。」
時間に制限があったのかもしれない。占いのワゴンも、シーラカンス人間も、跡形もなく消え去っていた。不気味な雰囲気は無くなり、暗闇の中を魚達が時折蠢くだけだった。俺はため息を吐いて九十九の元へと戻る。その間もずっと、あのシーラカンス人間の女性らしい高い声が耳に残っていた。
(あの声……どこかで聞いた様な。)
声、というのは人間の情報の中で最も忘れられやすいと生物の先生が言っていた。どうやらその通りらしい。聞いた声の記憶は別の声の記憶と混ざり合い、溶け込んでいく。
雨はしとしとと降り続いていた。
家を出る時、母の声が鋭く俺の耳に突き刺さる。思わず、靴紐を結んでいた手を止めた。同時に「ああ、思い出したか。」 と諦めがずっしりと体にのしかかった。
「なに?」
自分でもびっくりするくらい低い声音で、俺は振り返りながら返事をする。俺の後ろには、母親が有無を言わせない様子で俺を見下ろしていた。さっきまで食器を洗っていた手を止めて来たのだろう。タオルで両手を拭いながら冷たく俺を見ていた。
「今日、模試でしょ。予定表見たから、お母さんわかってるんだからね。」
まるで悪い事をした俺を問い詰める様な言い口だ。別に模試の予定をわざと隠していたわけではない。
「そう、だよ。」
「○○大学の医学部を目指すなら、二年生の夏の時点――今の時点で八割取れないとキツいんだって。ちゃんとわかってる?」
「わかってるよ。」
何だか嫌になって来て、俺は靴紐を素早く結ぶ。立ち上がり、玄関の扉を開けようとすると母は咎める様に捲し立てた。
「一だって、○○大学、行きたいんでしょ?それならちゃんと頑張らなきゃ!」
胸がズキリと痛む。母の言っている事には何一つ間違いはない。
俺は○○大学の医学部に進学したい。これは、小学生の時からそうだ。大学には何度も連れて行ってもらったし、医者という職業に強い憧れもある。それなのに、上手く未来に向かって走り出せない自分がいた。
本当に、俺はこの進路を進んでも良いのかな?俺は本当にこの道を進みたいのかな?
少しの気の迷いが足枷となって、母の言葉が鞭のように俺を追い立てる。目標だけが一人歩きして、自分というものがどこかへ消えてしまったみたいだ。
「模試が終わったからって油断しちゃダメよ。今日は自習して帰るのよね?自己採点も先にしておいて……。」
「わかったから!……行って来ます。」
語気が思わず強くなる。引いた扉の隙間から、朝とは思えない程の熱気が飛び込んでくる。瞳孔に飛び込んでくる鋭い光に目が眩んだ。
季節が移ろい、夏が来た。
九十九と初めて出会ったのは高一の三学期。あれから半年が経過して、俺は高校二年生になった。俺の不運は相変わらずだったが、性格はかなり図太くなったと思う。半年も経てば日常生活で遭遇する不運というのは絞られてくる。なので多少の不運であればある程度予測をして回避ができるようになった。
例えば、工事現場の近くは確実に物が落ちてくるので通らないとか、鳥の巣がある場所は必ず糞を落とされるので傘を差して歩くとか。それでも回避できない不運はまだまだ沢山あるが、些細な不運ではもう前の様に驚かなくなったのだ。
逃げるように家を出て傘を差す。ついこの前まで寒さに身を縮こめていた筈なのに、今は梅雨明けの熱気が重い。くらくらと眩暈がした気がしたが、『あいつ』のいる場所まで足を引き摺るように歩く。歩きながら、雲ひとつない晴天の空を見上げてぼんやりと呟く。
「人間が百年生きる時代に、十七年生きただけで将来を決めろなんて難しいよな。」
譫言は宙に消える。待ち合わせ場所の公園まで来ると、朝から草むしりをしているお婆さんが目に入った。暑いのに、大変そうだなと思った。ひとつ、涼しい風が吹きつけて来たと思うと、お婆さんの被っていた帽子がふわりと髪の毛から浮き上がる。帽子はブランコの側まで飛んで行くと優しく地面に落ちた。
「……取りますよ。」
重たい腰を起こそうとするお婆さんを声で制止し、俺は帽子に駆け寄る。そして砂を手で軽く払うとお婆さんの前まで歩み寄り、帽子を差し出した。
「――ありがとうネエ。」
しゃがれた細い声、しかし、語尾に不思議な違和感を覚えた。お婆さんが差し出した帽子を掴む。――そして、瞬き一つの間に、お婆さんの手が蔦の様に俺の腕に纏わりつく。
「うわっ!?」
蔦は腕に張り付く様に伸びていて、振り解こうとしてもびくともしない。
(悪霊だ。)
お婆さんの顔がひび割れているみたいに皺が縦横無尽に走る。やがてそれは木の幹割れの様にヒビが大きくなり、人間とは思えない姿へとお婆さんは変化する。蔦はゆっくりと顔へと近付いてくる。一は一瞬躊躇しつつもお婆さんだった悪霊の胸元を蹴って、どうにか逃れようと身を捩った。
「離せっ!!」
「一くん!!」
俺の名前が呼ばれると同時に、光線が俺に纏わり付いていた蔦を粉砕する。痛そうに、悪霊が千切れた蔦を引っ込めた瞬間を見逃さず、九十九はお札を片手に奇怪な真言らしきものを呟いた。光が段々と九十九の頭上に集まり、塊となってお婆さんの体を貫く。絶叫が朝の住宅街に響き渡った後、お婆さんの体は塵となって風に消えた。
「九十九……ありがとう。」
「ごめんね、遅くなって。」
九十九は何だか申し訳なさそうだった。俺はそんな顔するな、と九十九の背中を叩く。
「助けに来てくれただけで、めっちゃありがたいよ。」
「ううん、これからは三十分前に集合場所に着いておくよ。もっと対策を巡らせておかなくちゃ。」
「あ、いや。普通の時間でいいから。」
九十九は真面目だった。特にこうして悪霊に出会った時は被害に遭った当人よりも動揺している。
「……っと、危ない。」
どこからともなく、サッカーボールが一に向かって飛んでくる。特に大きな反応をすることも無く避ける俺に、九十九は苦笑いを浮かべた。
「強くなったねえ、一くん。」
「このエリアは子供がボールで遊びがち、だからな。」
二人の横を、通学途中の小学生がボールを取りに走って行く。そして、腕元の時計を確認して俺は目を見開いた。
「ヤバい!!遅刻する!!今日模試だから遅刻したら大変だって!」
「ええ?歩けばギリギリ間に合う時間じゃない?」
走り出そうとする一の腕を、九十九が掴む。
「……遅刻したら、悪い意味で目立つだろ。」
「目立ちたくないのは変わらないんだなあ。」
何だかその言い方がムカついて、俺は掴まれた腕を反対に引っ張った。
「行くぞ!模試の予習もするんだからな。」
「はいはい。」
***
今日の模試は午前中だけだった。俺の得意な数学と化学。両親に褒められる程ではなくとも、ある程度の手応えだったと思う。昼食を教室で取る人は殆ど居らず、模試の解答用紙を提出した後にクラスメイトは次々に教室から飛び出して行く。
「一ノ瀬くん。」
筆記用具を仕舞っていた俺に、一人の女子が秘密の話でもする様に話しかけてくる。
「千堂さん。」
あの日、こはるちゃんを一緒に探した千堂さん。偶然同じクラスになってからというもの、ちょっとした繋がりで会話をする事が多くなった。基本的に、千堂さんは所謂二軍と呼ばれるらしい女子のグループに所属している。一軍の女の子達の様に派手な格好や物言いをする事は無く、雰囲気の似たクラスメイトと静かに話している印象が強い。ただ時々、九十九以外と大して関わりのない俺に話しかけてくれていた。
「模試、どうだった?」
何気ない定型文。俺は苦笑する。
「普通、かな。」
「一ノ瀬くんの普通って、怖いなあ。また学年一位取られちゃうね。」
千堂さんは、頭が良い。俺が言うと嫌味みたいになるかもしれないけど、勉強一筋の俺と違って千堂さんは色んな事を器用にやってのけている。友人関係もそうだが、運動も出来るし異性にもモテる。あの日以降に気付いた事だが、模試だって俺に次いで二位を死守している。その器用さが心の底から羨ましいと思っていた。
「九十九くんとも、相変わらず仲良いんだね。」
「まあ……。」
そう言って、クラスの中心で男女問わず話し掛けられている九十九へ二人で視線を向けた。九十九は二年生になってから、前程俺以外との関係を拒まなくなった。無論、遊びに行ったり一緒に帰ったりということはしないものの、友達と言える関係性のクラスメイトは多い。周りも九十九と俺が仲良くしている事に納得していない人が多かったが、半年も経てば「そういうもの」だと割り切られる様になっていた。それでも、俺とではなく、他の友達と楽しそうに話している九十九を見ていると何だか自分のことの様に嬉しいし心が暖かくなる。
感情が顔に出ていたのか、千堂さんが俺の顔を覗き込んでニヤニヤとしている。
「……どうしたの?」
敢えて気にしない様に聞いてみる。
「一ノ瀬くんさあ、この後時間空いてる?」
「この後?」
「うん、放課後。」
今日は朝から母に、自習室に行く様に云々の説教を受けた。けど正直行く気が微塵も湧いてこないのが事実だった。――誰かに予定を提案されたなら良い理由になるだろう。「うん、空いてる。」そう答えようと口を開いた時だった。
「ごめん。今日僕ら、一緒に水族館に行く予定なんだ。」
俺の口元に柔らかいものが触れる。背後から溌剌とした声がして、九十九が俺の背後から顔を出した。口を塞いでくる九十九の手を引き剥がそうともがいてみるがビクともしない。寧ろ、更に力を入れてくる。
無論、そんな話は一度も聞いたことがない。何で勝手に決めてるんだ、こいつは。
九十九の話を真に受けたのか、千堂さんの眉尻が少し下がる。九十九はわざとらしく笑いながら俺を無理矢理、椅子から立ち上がらせる。
「九十九っ!!」
「僕の好きなアニメとコラボしてるんだって言ったでしょ?ほら、早く行かないと整理券配り終えちゃう。」
「お前それ今日行く予定だったのかよ!?」
そう言えばそんな事を言っていた気がする。けど、特段興味のありそうな口振りではなかったからどうでも良いのだと話を流していた。それなのに、そんなに水族館に行きたかっただなんて知らなかった。
「……千堂さん、ごめん。また、時間取るから。」
「あはは。大変だね、一ノ瀬くんも。……私も、バイト行こうかな。」
千堂さん、バイトしてたんだ。
この学校ではバイトは禁止されていないと言えど、進学する生徒が多いため、バイトをしている人はそこまで多くない。
「ほら、行くよ。」
「もう!行くから!首元掴むな!」
今日ばかりは九十九の過度な接触にうんざりする。小さい声で喚いたつもりだったが、クラスメイトが「またか」といった目で俺達を見ている。嫌な話だが、なんだかこれに慣れてきてしまった自分がいる。乱雑に机に置かれた鞄を掴み取り、俺達は教室を出た。
***
「なんで『今日』?朝もそんな事言ってなかったじゃん。」
水族館へ向かう電車の中で、俺は九十九に対して愚痴を溢す。相変わらず電車は遅延して、突然土砂降りの雨が降ってきたけど気にしない。途中で電柱に繋がれていた犬が悪霊に変化して襲いかかってきたけど九十九が追い払ってくれた。俺も傘でちょっとだけ戦った。傘の水滴を払い、他の乗客の迷惑にならない様に体の近くに立てる。九十九は雨で濡れたお札を、車内のクーラーで乾かしながら返事をする。
「忘れてたんだよね、今日チケット予約してた事。」
革のスクールバッグから、長方形のチケットケースを取り出す。魚の可愛いイラストがあしらわれた紙のチケット。その一枚を俺に差し出してくる。日付は今日の日付が印字されていて、確かに別日には使用できないらしい。ちゃっかり俺の分までチケットが用意されている癖に、予定を忘れていたなんて呆けている所がわざとらしい。疑いの目で九十九を見ていると九十九はバツが悪そうに苦笑する。
「いいじゃん。水族館なんてあんまり来ないでしょ。」
「……俺、水族館自体が初めてかも。」
「本当に?」
九十九は目をまん丸にした。そんなに驚くことかと思うが、そんなに驚く事らしい。中学の時も同じ様な話題で、同じ様な顔をされた事があった。水族館だけじゃない。俺はどうやら、世間一般の子供が普通、体験しているであろう事を経験していない事が多かった。動物園も、遊園地も、あまり記憶がない。土日は基本的に塾で勉強していて、父親も仕事で帰ってくる事が少ないから、家族で何処かに出かけた事もそれ程なかった。
「なら、これから楽しみ放題じゃん。いいね。」
あっけらかんと言ってみせる九十九。じんわりと暖かい空気が胸に染み入る様に、九十九の言葉が体中に広がる。
「九十九って、優しい言葉遣いするよな。」
「ええ、急に何?」
九十九は拍子抜けした様に笑った。別に、急に思いついた事じゃない。
「俺、水族館だけじゃなくて、遊園地とか動物園にもあんまり行った事ないし、ゲームで遊んだ事もない。漫画もアニメも禁止されてるし、そのせいで話す話題がなくて、『つまらない奴』のレッテル貼られてたんだ。」
「元々内向的な性格なのも相まって、頑張ってコミュニケーションを取ろうとすればする程空回りしてた。その度に向けられる嫌な視線が嫌いだった。俺の発する言葉、行動一つ一つが呪われてるみたいに思えてきて、全部が怖くなったんだ。中学の時は特にそうだったかな。」
「俺、今もちょっと気まずい空気流れるんじゃないかって思ったけど、九十九の言葉聞いてホッとしたよ。九十九が来て、九十九が俺と話してくれる様になってから、俺の呪いが解けたみたいなんだ。もしも失敗しても、九十九なら俺を受け止めてくれるんじゃないかって思ったら、怖くなくなったんだ。」
俺は付け加えて「千堂さんとも話せる様になってきたんだけど。」と呟いた。別に千堂さんが異性として好きなわけじゃない。でも、異性でありながら話す事に然程抵抗感が湧かない。それも全部、九十九がいてくれるからだと思っている。
「……そんなに、一くんを受け止め切れるくらい優しい言葉遣いをしているつもりはないけど。普通の事だよ。」
「そんな事ないって。」
俺がそう訂正した時、電車が駅に停車する。前のめりになりそうな所を、手すりを掴んで何とか耐える。「あっ。」と九十九が電子掲示板を見て声を上げた。
「もう降りなきゃ。」
同じ水族館に行くと思しき家族連れが、仲良く電車を降りていく。中には若いカップルや老夫婦なども混ざっているものの、男子高校生二人というのはどう見ても浮いている。まだ昼間という事もあり、学生の姿は殆どない。
「あ、雨止んでる。今のうちに水族館入ろう。」
正直、初めての水族館にワクワクしている自分がいた。雲の隙間からは青空が覗き、かなりの速度で電車と屋根の隙間を通り過ぎて行く。
「俺、九十九と会えた事は幸運だったと思ってるよ。」
傘の水滴を再び払いながら、俺は電車を降りる。――九十九の足が、俺の言葉で止まった。
『まもなく、発車いたします。』
機械的なアナウンスが流れて初めて、俺は振り返った。九十九はふいを突かれたように入り口で立ち止まって動かない。色素の薄い褐色の瞳が、差し込んできた鋭い陽の光でキラキラと瞬く。
「ほら、早く行くぞ。……なんだか恥ずかしいだろ。」
「……うん。」
九十九はうわの空で返事をする。そして、大きく肩で息を吐き、電車の外へと足を踏み出す。
『ドアが、閉まります。ご注意ください。』
俺達の後ろで電車の扉が音を立てて閉まる。ゆっくりと動き出した電車は直ぐに速度を上げ、まるで自分達を知らない場所へ置き去るかの様に走り去って行く。耳をつん裂く警笛の音が止み、静寂が訪れる。
「行こうか。」
空はまた翳り始めていた。
どうやら、雨雲と雨雲の隙間だったらしい。駅から水族館までの道を歩いていると、すぐにポツポツと水滴が落ちてくる。少しの猶予を持たせた後、雨は途端に強度を増し、話し声も聞こえないほどに強くなる。碌に会話もできないので、俺達は無言で水族館までの道を進んでいた。バシャバシャと水の溜まった路側帯をスニーカーで歩いて行く。スニーカーの隙間から水が染み入り、気持ちが悪い。足元の水溜まりだけにも考えずにぼんやりと歩く。
先を歩く九十九の表情はわからなかった。一言も喋る事はなかったし、首が下を向いていたので、九十九も水溜まりがうざったいんだと思った。
雷鳴が一瞬、遠くから聞こえた様な気がした。
***
館内は外のジメジメとした陰鬱な空気とは打って変わって、冷房の空気でカラッと乾燥していた。傘のカバーを取り付けて雨粒を取り払うと、雨で濡れた腕を冷たい風が撫でる。
「寒い?」
静かに九十九が尋ねてくる。俺は首を振った。
「大丈夫。」
九十九からチケットを受け取ると、俺はスタッフにチケットを通し、後ろに続く九十九を待つ。思い出した様に財布を取り出し、チケット代を支払おうとすると九十九は「いいよ。」とその手を押し留めた。
「俺が勝手に連れて来たんだし。」
「なんでだよ。……対等な関係でいるには、お金の上下関係を作っちゃだめだろ。ほら、受け取れって。」
俺の言葉にぐうの音もでない九十九に、俺は千円札を数枚握らせる。もしかして、俺を水族館へ無理矢理連れてきたことに少し後ろめたさを感じているのかもしれない。
「……さっきも言ったけど俺、水族館に来たことないからすげえ楽しみだよ。九十九は?来たことあるの?」
「少し前に、一度だけ。」
「そっか。……折角なら、九十九の好きなアニメとコラボしているところから回ろうよ。」
俺は棚の上に置かれた縦長のパンフレットを手に取り、左上から文字を追う。しかし、アニメのコラボと書かれている部分はどこにもない。一通り読み終わった後に九十九へ視線を戻すと、九十九までもが訝しげに首を傾げていた。
「おかしいな。今この時期にやってる筈なんだけど。」
「なんて名前のアニメなんだ?」
九十九はスマホを手に取って文字を打ち込む。そして検索結果を俺へと突き出した。
「『モーニングガッツ隊・トリムスビ』。朝の情報番組でやってるショートアニメなんだ。見たことない?」
「お前……そんな可愛らしいの見てるのか。」
九十九のスマホに映る画像には、三角おむすびの形をした白い鳥のキャラクターが映っていた。なんでも、朝ごはんをしっかりと食べない現代社会の日本人の為に食べ残し朝ごはんのおにぎりが変化した姿……なのだとか。うめぼし、おかか、こんぶと名札の貼り付けられたおむすび達は、よく見てみるとくすっと笑えてくる可愛さがある。それにしても、九十九がこんなに可愛らしいアニメを見ているなんて少し意外で、俺はクスクスと笑う。
「……何。変?」
「いいや、全然?ただ、九十九の新しい側面を知れて嬉しいんだよ。」
尚も肩を震わせて笑う俺を見て、九十九の表情は不服そうに歪む。
「……コラボしてないなら、いいんだよ。ほら、置いて行くからね。迷子になっても知らないよ。」
「ならねーよ!」
一体自分の事を何歳児だと思っているのだろう。憤慨した俺を見て、九十九も笑いを溢す。先程の鬱々とした雰囲気が嘘みたいに、俺達は順路通りに展示を見て回った。
淡水魚や熱帯魚の暮らす暖かい光のエリアを潜り抜け、アザラシの泳ぐ海中トンネルを潜る。ポップな音楽が流れ、子供が魚の素早い泳ぎに併せて走り抜けて行くのを母親が服を掴んで止めている。
「こら!水族館の中は走っちゃだめでしょ!」
「ママ!あっち!でっかい魚いるよ!」
大きな声で騒ぐ子供を見て、母親は更に慌てた様に口元で人差し指を立てた。そして、近くにいた俺たちに向けて申し訳なさそうに会釈をした後、子供が指差した別のエリアへと手を繋いで歩いて行く。俺は水槽へと視線を戻しつつ、ちらりと隣にいる九十九を見た。
九十九は真剣に、水槽と説明表示を交互に眺めていた。マダイに関する表記をじっと読み込んでいたかと思うと、水槽の左端を指差して俺に嬉しそうに笑い掛ける。
「タイだ。美味そう。」
「そういう感想、本当に言う人いるんだ。」
確かに、九十九の指差す水槽の左端には、鱗に赤みを帯びた魚が水の中を右往左往していた。こちらが水槽を覗いている事なんて気にもしない様に自由に泳いでいる。
やがて、明るい音楽は遠くに消え、深海を思わせる落ち着いた音楽が耳を擦り抜ける。照明は一段階明るさを落とされ、手元すらも満足に見えない。洞窟の様なトンネルを潜り抜けると、ぼんやりとした水槽の灯りに出迎えられた。
「クラゲ、だ。」
俺は実際にクラゲを見るのは初めてだった。テレビで映し出されるものなら見た事があるものの、実際に水槽の中で泳いでいる姿を見ると、その現実離れした姿に驚愕する。生き物はその生態に応じた姿に進化を遂げているものが多い。例えば敵の前で丸まって防御をするとか、岩を模した柄をしているとか。それに比べてクラゲはただただ美しい。
長いベールみたいな触手を引きずる様に漂うもの、カラフルな傘を指しているもの、海水に溶け込みそうなくらいに透き通った白を持つもの。
この見た目で、この世界に生まれた事が間違いみたいに異質で不気味だった。
「クラゲって心臓も血管も、脳もないんだって。」
いつかどこかで見た豆知識がふと頭をよぎり、喉から漏れる。九十九は水槽をじっと眺めたままだ。水槽の灯りが九十九の右頬から鼻先までを青白く照らす。頬の赤みは灯りによって打ち消され、その色だけ見ると病的だ。
「生きてるのに、死んでるみたい。」
何気なく放ったその言葉。すると、九十九が前に傾けていた体を起こした。
「一くんさ、さっき、一度も水族館に行った事ないって言ってたじゃん。」
「う、うん。」
「遊園地とかも行った事ないって。」
「そうだね。」
再び暗がりに戻って、九十九の表情はよく見えない。
「僕も――そうなんだ。水族館に行った事だって、実はこれが二回目。遊園地だって乗り物には乗った事ないし、ゲームも漫画も禁止されてた。」
「えっ。」
俺はこの半年間、九十九の個人的な事情については深く触れない様にしてきた。祓い屋という職業自体に疑問もあったけど、何より部外者の自分が口を出してもいい様な雰囲気でないことは悪霊達を見ていればわかる。しかし、俺の考えていた事を見透かした様に九十九は否定する。
「祓い屋だから、じゃないよ。僕実は、高校に入学するまでずっと体が弱かったんだ。」
今のすらっとした体付きからはとてもそうだとは思えない。動きの止まる俺に九十九は静かに続けた。
「中学の終わりに大きな手術を受けて、それがなんとか成功して、今は学校に通えているんだ。それまではずっと入院生活だった。どこにも行けないし、娯楽もテレビくらいしかなかったから、周りの同年代の子達についていけないのは僕も同じなんだよ。だから、他のクラスメイトと話すのも実は得意じゃない。」
「周りについていけない、けどこれでいい。どうせ――一年が経てば僕はここを離れるから。」
声が出なかった。
一年――それは俺の『最凶』の不運が消えるまでの期間の事。それが終われば九十九はいなくなる。ぼんやりとした疑問が今、眼前に突きつけられた。
九十九はここにお友達ごっこをする為に来ているわけじゃない。深く聞くのは憚られてきたけど、ちゃんと九十九には九十九のすべき事がある。
――友達、なんて関係を自称するのは烏滸がましいのかな。
無意識に顔が下を向いた。
「でも!」
九十九が声を荒らげて訂正する。
「ずっと僕はそう思ってた。けど……この半年間、僕は本当に一くんといられて本当に楽しかったんだ。……勿論、今は一くんに言えない事は沢山ある。けど、今日は一くんと一緒に遊びに行きたかったし、登下校を一緒にするのも、僕が楽しいと思ってるからなんだ。……こんな事、思っていいのかわからないけど、友達だと思ってる。だから、駅で一くんに、僕と会えた事は幸運だって言ってくれた時、本当に本当に嬉しかった。」
九十九は両手を重ねて強く握り締める。爪の立てられた部分が白く変色していたので、俺はその手をそっと取った。九十九は俺と目を合わせる。時折他のお客さんが不思議そうに俺達を見ながら通り過ぎて行く。
「言えない事、あるんだ。」
「……うん。」
「それをずっと後ろめたく思ってたの?俺の言葉を聞いて。」
「うん。」
「ああ、だからぼんやりとしてたんだ。」
問い詰めるような口調だった俺は思わず破顔する。
「そっか!!」
自然と腹の奥から笑いが込み上げてきて、困惑した表情の九十九を置いて一人で笑う。女々しく考えていた自分が馬鹿らしくなったのだ。
「いいよ、言いたくない事は言わなくて。それよりも九十九の気持ちを少しでも知れただけ嬉しいよ。友達と思ってるのは俺だけなのかなってずっと思ってたもん。」
九十九は静かに頷く。なんだかその仕草が宥められた子供みたいで更に笑みが溢れる。
「抱え込んで辛くなったらいつでも言ってよ。話したくなったらいつでも言ってよ。――待ってるから。」
「……ありがとう。」
すると突然、九十九が俺の体を突き飛ばすように壁際へと追いやった。俺は体勢を崩してそのまま壁へ倒れ込み、なんとか近くの手すりを掴む。その正面で九十九が俺を庇うように壁に手を付き、背後を確認していた。その表情は真剣そのもので直ぐに緊迫した空気が二人を包んだ。
九十九に庇われた背中をと腕の隙間から、俺は九十九の背後を確認する。
――何もいない。
「九十九?」
「いる。」
九十九は端的にそう、返事した。
――悪霊だ。
直ぐに察しがつく。
半年も一緒に行動していれば九十九の表情でどれくらいの力の悪霊がいるかは想像が付くようになる。しかし、俺に危害を加えてくる悪霊というのは大抵実体を伴っていて、人間に化けている事が多い。この半年間の例で言えば郵便配達員のお兄さん、教育実習の先生、宅配便のおじさんなどに化けていて、その度に九十九が撃退してくれていた。両親や九十九の様に身近な人物に化ける事はない。けれども、絶妙に、ある程度の接点を持つ人間に紛れ込んでいる事が多いのだ。
二人のいるクラゲコーナーに、現時点では二人以外の人間はいない。九十九の睨んでいる方向へじっと耳を澄ませていると、遠くからコツコツと足音が聞こえてくる。二人の通ってきた洞窟の中を足音が共鳴していた。
すると――一定だったその足音は突然、そのリズムを早めた。
コツ、コツ、コツコツコツコツ
間違いなく、こちらを認識して、こちらに向かってきている。
声を上げそうになった瞬間に、九十九は俺の腕を強く引いて駆け出した。
足がもつれて転びそうになる俺を、九十九は黙って腕を引き、館内を走る。他の客が怪訝にこちらを眺めても九十九は足を止めない。
足音は、自分の荒い息と足音で聞こえなかった。同じペースで着いてきているのか、撒けているのかもわからなかった。それでも振り向く勇気はなくて、九十九と一緒に走り抜ける。
クラゲコーナーを抜け、海獣のエリアを潜り抜け、深海魚の展示エリアに辿り着いたところでようやく、九十九が足を止めた。じっとりと汗で濡れた手を放し、九十九は肩で息をする俺を置いて、先程来た方向へ戻ろうとしていた。
「つ、九十九。どこに……。」
「一くんはここに居て。」
こちらに背を向けて歩きながら、質問の答えになっていない返答を残して九十九は奥へと消えて行く。同い年の筈なのに、ぜえぜえと荒い息を吐いている俺と、息を少しも乱さずに再び歩き始める九十九。悪霊を倒してきてくれるつもりなのだろうか。
変に行動すれば九十九に迷惑がかかるのはわかっているので、俺は黙って壁にもたれかかりながら九十九の去っていった方向を警戒する。息が落ち着いてきた頃、単純な疑問が俺の脳裏に湧き上がった。
九十九がピンチになる事って、あるのかな。
この半年間、毎度悲鳴を上げる俺とは対照的に、九十九はゲームでもプレイしているかのように容易く、悪霊を倒してくれていた。九十九はいつもお札や鈴の付いた退魔具らしきものを持ち歩いていて、その姿にはいつも余裕がある。それでも、悪霊に強い弱いがあるという事は途轍もなく強い悪霊も存在するんじゃないだろうか。
そうなれば、九十九の事は一体誰が守ってくれるんだろう。
変に胸の奥がざわつく。挙動不審な俺の周りにはお客さんは殆どいない。深海魚コーナーはクラゲコーナーよりも更に暗く、なんだか不気味だった。暗く、重たい雰囲気が不安を駆り立ててきた。
十分程経っただろうか。九十九が戻ってくる気配はない。
スマホを出来るだけ他の人の迷惑にならない様、体で隠しながら起動する。メッセージアプリにも連絡はなかった。電話をかける気にはなれなくて俺は再び視線を深海魚エリア全体に戻す。すると、九十九の立ち去った方向の反対側から、何やら手押しのワゴンがガラガラと運ばれてくるのが見えた。
「こんにちはー!シーラカンス占い、シーラカンス占いは如何ですか?深海の生き物たちが貴方の運勢を占っちゃいます!」
ワゴンを押す人物の姿を見て思わずギョッとする。どう見ても子供向けとは思えない、リアルなシーラカンスの頭部を被った人間がワゴンの横で宣伝を始める。
暗がりの中、ぼんやりとシーラカンスの頭部が浮かび上がり、高校生の俺が見ても近寄りたいと思えない。その証拠に、通りすがりの小さな子供が泣きながら「ママー!!」と走り去って行った。子供に手を振っていたシーラカンス人間は、子供の泣き声を聞いてあからさまに肩を落とす。どうしてこの水族館は企画でこれをやろうと決めたんだろう。もはやあのシーラカンス人間が可哀想とまで思えてきてしまう。
ついつい、じっと眺めていると、シーラカンス人間がこちらをギョロリと睨んだ気がした。
慌てて首をぐるりと回して視線を逸らす。
頼む、こっちを見ないでくれ。
気付いていない振りが通じるわけもなく、シーラカンスの被り物の奥から、若い女性の声が聞こえる。
「……お兄さん、シーラカンス占いいかがですか。」
「え、えっと……。」
慌てて断る言い訳を探す。
「俺、友達待ってるんです!」
「あら、それなら待ち時間に如何ですか?無料ですよ。」
そんな事を言われて仕舞えば断れるわけがない。恐る恐るシーラカンス人間の方へ視線を戻すと、そこにはやはり、暗がりにぼんやりと不気味なシーラカンスが浮かんでいた。口から情けない声が漏れる。
「ひい。」
「ほらほら、座って座って。お連れ様もそのうち来られますよう。」
明るい口調と裏腹にぴくりとも動かない着ぐるみが対照的だった。促されるままにパイプ椅子に座らされ、シーラカンス人間はいそいそと水晶を一つ、取り出した。どう考えたって、こんなことしている場合じゃない。辺りとシーラカンス人間を交互に見ていると、突然シーラカンス人間が水晶を抱え込むようにして凝視する。ぶつぶつと何かを言いながら水晶をくるくると回す様子に、いよいよカルト宗教らしさを感じて怖くなってくる。僅かに椅子から腰を浮かした瞬間、はっきりとした口調でシーラカンス人間は言った。
「貴方、運勢が最悪ね。」
「おおっ。」
そうです、『最凶』ですよ。変に最高の運勢だとか、煽ててこない辺りで少し興味が湧いた。けど、本当の事だとしても、水族館に遊びに来ている人間にマイナスな事を真っ先に言うのはどうかと思う。シーラカンス人間は続ける。
「特に貴方、交友関係の運勢が最悪。こんな結果見たことない。」
「そうなんですか。」
「しかもこの運勢、どうやら一生続くみたい。」
話半分に九十九を探していた視線が止まる。
「えっ。こういう占いってその……一年とかじゃないんですか。」
「残念ながら、この水晶によると『一生』らしいわ。」
出会って数分の相手に一生悪運だなんてよく言えたものだ。なんだか背中がぞわりとした。シーラカンス人間は全身を覆った長いローブの懐から、ポケットブックのような冊子を取り出してパラパラと捲った。
「でもね、この悪運は取り除く事が可能よ。」
「取り除けるんですか?」
俺がそう言った後、シーラカンスの被り物越しに中の人と目が合ったような気がした。
「取り除ける。」
はっきりと、その人は言い切った。
「この悪運は一生続く。けど、その全ての元凶は自分でも身近過ぎて気付くことが出来ない所にある。身近過ぎてわからない、当たり前過ぎて、それを捨て去る事ができない。それくらい、今の貴方に纏わり付いているもの――ある?」
品定めをする様に、前のめりで俺と目を合わせる。
「人間、なんかがそうよね。友達だと思っていた人間が、本当は自分の悪口を広めて回っていたなんてよく聞く話。大体の災厄は身近にあるものが一番の原因なのよ。知らず知らずのうちに親しい人が貴方にとって最大の敵になってるのかも。」
シーラカンス人間はそっと、俺の眼前に人差し指を突き付ける。
「悪運、に身に覚えがありそうね。なんとなくわかって来たんじゃない?」
「最近この人に会ってから変わったって事、あるでしょ?」
ガタンッ
自分でも信じられない程乱暴に、俺は椅子から立ち上がった。あの日、神社で言われた言葉がダムの水が溢れる様に鮮明に思い起こされた。
――身近な人に油断するな。さもなければ……。
あの時。謎の神主が言いかけていた言葉に、先程の言葉の端くれがパズルのピースみたいに組み合わされる。
「違う。」
吐いた息と混ざりながら声が漏れる。
身近な人って、誰の事?
「違う。」
なんで俺はこんなに慌ててるんだ?なんでこんなに焦ってるんだ?
何も動揺する事はないのに。何も後ろめたい事は考えてないのに。
次の瞬間、大きな声が喉の奥から発されていた。
「違う!!」
何が、違うんだ。
「……深海魚の迷惑になりますので、お静かに。」
俺の眼前に突きつけていた人差し指を、そのまま自身の口元に持ってくる。
「……すみません、俺、行かないと。」
深く頭を下げ、椅子を蹴飛ばすような勢いで俺は走り出す。
最悪だ、最低だ。
一瞬頭をよぎった考えがあまりにも耐え難くて、思考を振り切るように九十九を探す。
「九十九!」
俺の鋭い声に水槽を眺めていた人々の口角が下がった。迷惑そうにこちらを振り返る視線の中に九十九はいない。
どうして、どうして。
「九十九……。」
一瞬でも。
――九十九が『最凶』の原因かもしれないなんて、思ったんだろう。
俯き加減だった俺は案の定、通行人に衝突する。
「すみませんっ!」
よろけた体をがっしりとした腕が掴む。ひんやりとした手に引っ張られた後、荒い息を吐きながら俺は顔を上げた。
「本当にすみませ――ひっ!」
喉から出かけた声が引っ込む。見上げた先にいたのは、九十九でもなければ通行人でもなかった。
頭部、胴体、手と足。
黒い靄のような悪霊が人の体を形成していた。靄は血液の様にぐるぐると全身を循環し、そこから伸ばされた一本の腕はしっかりと俺の左腕を掴んでいた。
腕を払い除けようと胴の部分を殴ると、胴に触れた拳骨がまるで接着剤を塗りたくられた様に胴へ固定される。そのままズブズブと右手が胴の中へと吸収され始めてしまった。
「うわっ!うわわわわ!」
両腕を取られてしまった。情けない声が漏れる。
(まずい。)
体を後ろに傾け、全体重を使って腕を引き離そうとする。
「誰か!!誰か助けてください!!」
俺の声は確実に届いている筈なのに、人が来る気配が微塵もない。ああ、こんな事ならあの場所で大人しく九十九を待っていればよかった。
肩までがズブズブと靄に埋まっていく。顔を埋めてしまうともうダメな気がして、必死で顔を天井へそらす。
「助けて!!九十九!!」
腹の奥からの叫びは、結局九十九を呼ぶ事だった。
数秒の間を置いて、雷鳴に似た音が空気を裂いた。ビリビリと鼓膜が震え、鋭い光に視界が揺らぐ。そのままふっと力が緩み、後ろへと傾いていた俺の体はそのまま大きな角度を付ける。そして、ぐちゃりとゼリーを潰す様な音と共に俺の体は水族館の床へと叩き付けられた。
「った……!!」
「一くん!!」
――横転した視界に真っ先に、苦しそうな九十九の表情が映る。
ズキリ
なんで、お前は毎回そんな表情するんだ。俺はついさっき――お前を一瞬疑ってしまったのに。
問題ない事を示す様に体を起こすと、九十九はサッと目の前に手を差し出した。
九十九の頬が上気している。綺麗な茶髪は乱れ、額に汗が滲んでいる。俺と一緒に走った時は何ともなさそうだったのに。一体どれだけ頑張ってくれていたんだろう。
「ありがとう……九十九。」
「ごめん……遅くなって。」
罪悪感と安心感でどうにかなりそうだった。九十九の顔を見れずにいた俺は、悪霊がプスプスと音を立てて空に消えていく様を眺めていた。最後に残った黒い靄は煙となって立ち昇っていく。
「悪霊って、祓われたらどこに行くんだろう。」
ポツリと口にした言葉に、九十九は俺の手を引く。
「じごく、だよ。」
九十九はびっくりするくらい優しい笑みを浮かべた。言っている言葉に似合わない表情で何だかゾッとする。
「悪霊はみんな、じごくいき。」
顔を逸らした九十九の表情は何だか寂しそうにも見えた。
「九十九、さっきのは……。」
「一くん!イルカの形をしたシャーベットだって!」
突然九十九が目を輝かせながらパンフレットの隅を指差す。
「二頭で一つのカップルイルカアイス……。カップルだと三割引きなんだって。行くしかないよね、一くん!」
「行かないわ!カップルじゃないだろ!!」
「僕と一くんなら大丈夫だって。」
「どこがだよ!!」
相変わらずの言い合いをしながら、俺は腕を掴まれてずりずりと売店のある方向へと引きずられる様に歩いて行く。
その後、特に悪霊と鉢合わせする事はなかった。アイスを床に落としてしまった事以外に不運もなく、只々友人との何気ない遊びが過ぎ去って行く。アイスのなくなった木の棒を噛みながら、俺は静かに覚悟を決める。
今の俺は、どう考えても九十九がいなきゃ生きていけない。
けど、本当に、あと半年間もこのままで良いのだろうか?
答えは否、だ。良いわけがない。九十九と何の隔たりもない関係であるためには、この不運をどうにかするしかない。
――身近すぎて気付く事が出来ない所。
案外、的を得ている様な気がした。身の回りに何かなければ、まず自分にだけ不運が襲いかかるなんて事起こらない。
九十九を一瞬でも疑ってしまった自分、九十九がいなければ生きていけない自分。
どちらも本当はいらない自分なんだ。友達って対等であって依存でも敵でもない。だから、行動するしかない。
――仮に、それが九十九との別れを早めるとしても。
棒を握る手に力が籠る。「そろそろ閉館みたい。」と言いながら、九十九は俺の手から木の棒を抜き取った。
「帰ろう。」
俺がそう言うと九十九は目を細めて頷く。出口に向かって歩いている時、丁度深海魚コーナーの隣を通りかかる。九十九に「待ってて。」とだけ呟き、再び中を覗く。
「いない……。」
時間に制限があったのかもしれない。占いのワゴンも、シーラカンス人間も、跡形もなく消え去っていた。不気味な雰囲気は無くなり、暗闇の中を魚達が時折蠢くだけだった。俺はため息を吐いて九十九の元へと戻る。その間もずっと、あのシーラカンス人間の女性らしい高い声が耳に残っていた。
(あの声……どこかで聞いた様な。)
声、というのは人間の情報の中で最も忘れられやすいと生物の先生が言っていた。どうやらその通りらしい。聞いた声の記憶は別の声の記憶と混ざり合い、溶け込んでいく。
雨はしとしとと降り続いていた。

