伝説の転校初日以降、九十九はいつの間にか――クラスの一軍達のグループへと吸収される。当たり前の様にそう思っていた俺の考えは甘かった様だった。初日のだる絡みに拍車をかける様に、その後も九十九は俺に纏わり付いていた。俺の何を気に入ったのかわからない。俺の不運に巻き込まれる度に、九十九が端正な顔立ちを崩して面白そうに笑うもんだから、三学期早々俺の不運キャラはクラス全員に根付いてしまった。目立ちたくないと言っているのに、迷惑極まれり、である。
「一くん、すご!?課題テスト、学年一位!?」
冬季休暇課題テストの成績表をマッチャンから手渡された俺の元には、いつの間にか九十九がやって来ていた。遠慮もなく俺の成績表を覗き込み、何か言いたそうに見つめる他のクラスメイトの視線を躱し続けている。人と関わることに慣れていない俺は、初日から感じる嫉妬の視線から逃れたくて、ぶっきらぼうに返事をした。
「別に……。」
「マジですごいって!!……そうだ、今日の放課後勉強教えてよ。それで、一緒に帰ろう。」
「教えないし、帰らない!!」
九十九は何故か、俺と一緒に帰るということに固執しているようだった。理由はわからないが、何故だか九十九を喜ばせたくなくて、俺は意固地になって断り続ける。
周りからはいつだったか、「一緒に帰ろうと言ってくれているのに、断るなんて酷い。」みたいな事をやんわりと言われた。が、俺としては九十九に徒歩圏にある家がバレるのはどうしても避けたかった。休日とか、家の前で待ち伏せしてそうで怖いもん。
九十九の様子も相変わらずだったが、俺の不運も相変わらずだった。歩いていれば、突然どこからともなくボールが飛んでくる事は日常茶飯事。本棚の本が倒れてくる、登っていた脚立が突然崩れる、など最近は生傷が増えるものが何となく多くなっている気がする。
もう一度、あの神社を訪ねてみるべきだろうかとも考えた。だがあの気味が悪い住職にもう一度会わなければいけない事を考えると憂鬱で、どうにも足は動かない。
「まあ……気が向いたら行ってみるか。」
ぼんやりと呟いた俺の言葉を、九十九は直様拾い上げる。
「どこ!?どこに行くの!?」
「だあっ!!うるさい!!耳元で叫ぶな!!」
肩を掴んできた九十九を引き離し、俺は鞄を手に取る。もう成績表を受け取れば、個人個人で放課になっていた。既に廊下からは他クラスの生徒の談笑の声や足音が響いている。まだ成績表を受け取っていない九十九を放って、俺は教室を逃げる様に飛び出した。
「一、なんか明るくなったな。ずっと一人でいるから心配だったんだ。先生は嬉しい、九十九のお陰だな。」
成績表を手渡していたマッチャンが、感慨深そうに目で俺の背中を追う。
「……九十九くんを嫌っているだけでは?」
近くにいた女子生徒が、不満気な態度を顕にしながら嫌味っぽく言う。その隣にいた九十九は、愛想笑いを浮かべると成績表を受け取った。
「僕は、仲良くなりたいんだよね。」
「ねえ、なんでそんなに一ノ瀬くんに執着するの?私達だって、九十九くんと仲良くなりたいんだよ?」
女子生徒は九十九に詰め寄る。女子生徒はクラスの中でも特に男子に人気のある生徒だった。普段は落ち着いた雰囲気で人気のある彼女が、こんな風に感情を顕にしているのは珍しかった。
「勿論、僕もみんなと仲良くしたいと思ってるよ。」
「この前のカラオケだって、放課後ご飯行くのだって、九十九くん、一度も誘いに乗ってくれた事ないじゃん。……一ノ瀬くん、一人が好きなんだよ。構ってくれない人なんて放っといて一緒に遊ぼうよ。」
女子生徒の言葉を聞いていた周りの生徒が縦に頷く。その時、冷たい視線が一瞬――女子生徒を突き刺した気がした。
「構ってくれない人は放っておく、か。」
「君も、そうしてくれて良いんだよ。」
女子生徒は狼狽えて一歩後ろに下がる。いつもの王子様の様な笑みの奥、そこには凍りつく様に冷たい感情が滲んでいた。
***
流石に、追ってこないか。
下駄箱で靴を履き替える。まだ校内で部活や委員会の仕事をしている人が多く、俺の様に下駄箱に吸い寄せられていく人は少ない。部活にも入っていなければ委員会にも属していない俺は、この時間に一人で家に帰ることはごく当たり前のことだった。
マフラーを巻き直し、扉の隙間から吹き込んでくる寒風に耐える。そして、歩き出すなりポケットから単語帳を取り出して捲っていく。
――一くん、すご!?課題テスト、学年一位!?
目をまん丸にする九十九の姿はちょっとだけ面白かった。それにしても、勉強のことを誰かから褒められるなんて久しぶりだったので、俺の気分はかなり高揚していた。
俺の未来は、最初から決まっている。名門国立大学の医学部に現役で合格すること。
一年前のこの頃、俺は高校受験で失敗してしまった。だからこそ、第一志望よりもランクの低い学校で学年一位を取り続けることなんて当たり前の事だと思っていた。両親もそれを当たり前と思っているから、順位が下がらない限りは特にテストに言及してくる事はない。勿論褒めることもないから、九十九の言葉は純粋に――嬉しかったのだ。
「まあ、悪い奴ではないんだろうな。」
現金かもしれない。俺の独り言は宙に消える。早く家に帰ろうと足を早めたその時、校門付近で明らかに訳ありな様子で辺りを見回している女子がいた。同じ制服で、寒いだろうにコートも何も羽織っていない。動物でも探すかの様に低い姿勢で、校門の後ろや銅像の影、木の裏側を念入りに確認している。
……関わりたくない。けれども、俺のお人好し精神が本能的に働く。何かを探している女子生徒は見覚えがあった。肩より少し上で切り揃えた髪。真面目なのだろう、他の生徒の様にスカートを短くしたりだとか、メイクをしたりだとかはしていない、素朴な女の子。恐らく隣のクラスだった筈だが、話した事は勿論ない。
「……どうしたの?」
話しかけてしまった。
女子はハッと顔を上げ、突然縋る様に俺に質問する。
「ねえ!君、隣のクラスの一瀬くんだよね!?……小学生くらいの女の子、見なかった?」
名前を覚えられていた事にハッとする。しかし、女子の質問には直様首を振った。
「流石にいたら覚えてると思う。」
その途端、女子は泣きそうな顔になる。思わず変な意味ではなく、どきっとしてしまう。
「妹が……いなくて。」
「妹?」
女子はボソボソと俯きがちに話していく。
「千堂こはるって言うの。小学二年生なんだけど、今日はお母さんの誕生日だから一緒にプレゼントを買いに行こうって。妹の方が学校が早く終わるから校門で待ってるって、言ってくれたのに……。」
なるほど、と納得する。俺の通っている高校はすぐ隣に小学校が建っている。だからこそ、数は多くなくとも時折妹や弟達と一緒に帰っている高校生を見かける事がある。千堂さんも恐らくそうなのだろう。
「……小学校の方に行ってみた?」
「行ったよ。けどもうこはるは下校したって。……最悪のことは考えたくないから、もう一度探してみるって言ったんだけど。」
最悪の事態とは即ち『誘拐』。自分のことではないのに背筋が凍る思いがした。千堂さんの両手はガタガタと震えていた。
「……俺も今から探しにいくよ。もしかしたら高校に興味を持って中に入っているのかも。妹さんの特徴だけ教えてくれない?」
「本当!?」
千堂さんは希望が見えた様に顔を上げ、色素の薄い唇を震わせる。
「こはるは……濃いピンクのランドセルと、紺色のワンピースを着ていたはず。帽子は学校のもので黄色。身長は百二十センチくらい。見た目はすごく目立ちやすいと思うんだけど。」
そう言うと、千堂さんはポケットからスマホを取り出し、慌てて操作をする。そして、SNSのQRコードを俺に向かって突き出した。
「これ私の連絡先。見つかったり、何かあったら連絡して欲しいの。」
俺は慣れない手つきで千堂さんの連絡先を受け取る。するとすぐに千堂さんと、妹さんらしき女の子が写ったアイコンが表示された。
「それじゃあ。私は校門の周りをもう一度探すから……一ノ瀬くん、本当にありがとう!」
千堂さんはそう言うと再び、学校の植木が植わっている辺りを探し始めた。傍には千堂さんが脱いだと思われるコートと鞄が置かれていた。妹さんを探して走り回っていたのかもしれない。何事もなく、見つかります様に。俺は校門に背を向け、元来た道を足早に歩き始めた。
失念していたんだ、こいつの事を。
下駄箱で靴を履き替えていると、今一番面倒臭い奴に遭遇してしまった。――そう、九十九だ。
俺が帰ったとばかり思っていたのか、初めて出会った時の様に目をまん丸にして近寄ってくる。
「一くん!僕を待っててくれたの?」
「違う!違うから!」
特に説明する事なく、俺は九十九の隣をすり抜ける。
「何か忘れ物でもしたの?」
再び上履きを履こうとする俺を不思議に思ったのか、九十九までもが靴を履こうとした手を止める。
お前まで上履きを履かなくていいんだよ。また不運が襲ってきたらどうするんだよ。そう心の中で悪態を吐いた時、嫌な予感が胸を渦巻いた。
まさか、千堂さんの妹さんがいなくなったのって――俺の不運じゃないよな?
考えてみてゾッとした。だとしたらどうだろう。何事もなく、安全に見つかるシナリオなんて存在するのだろうか。
俺のせいで、妹さんが誘拐される『不運』に巻き込まれたとしたら。
「一くん、どうしたの?顔色悪いよ。
九十九が心配そうに顔を覗き込む。俺はハッと顔を上げた。
そうだ、こいつだ。こいつなら、手伝ってくれるかもしれない。俺は九十九に向き直る。
「九十九くん、お願いがあるんだ。」
「えっ!?何!?」
九十九は戸惑いと嬉しさの両方を浮かべた表情をした。初めて見る表情だ。
「今、学校の中で小学生の女の子を探してるんだ。隣のクラスの千堂さんって人の妹さんなんだけど、どうやらどこかに行ってしまったみたいなんだ。」
そう言って、千堂さんのSNSアイコンを突きつける。
「……いつも冷たい態度して悪かったけど、手伝って欲しいんだ。……手遅れになる前に。」
茶化されないよう、出来る限り真剣な口調で言った。不運は今、探す事を諦める理由にしてはいけない。もしかしたら俺の杞憂かもしれない。
少しの間、二人の間を沈黙が流れる。ポカンとしていた九十九は、何やら神妙な面持ちになった。じっと俺の目を見つめた後、ふにゃりと優しく破顔した。
「一くんって、お人好しなんだね。」
「誘拐されてるかもしれないんだぞ!当たり前だ。」
真剣に言ったつもりなのに、九十九は笑い声を溢す。
「わかった。……僕は一度、女の子を見た人がいないか聞きに回ってみる。」
「ありがとう。見つかったら、叫ぶか何かして。」
「原始的だなあ。」
そう言うと、俺は九十九に背を向けて、土足で入ることのできる中庭の方へ駆け出した。その姿を見送った後、九十九の表情は蝋燭の火のようにフッと消える。
「良からぬ、『気』だな。」
誰にも聞こえないよう、ボソリと呟いた。
***
「えーっと、こはるちゃーん?こはるちゃん……。」
中庭で一人、俺は千堂こはるちゃんの名前を呼ぶ。ただ、根暗な男子高校生が一人中庭で女の子の名前を呼んでいるというのは控えめに言って通報したいくらい気持ちが悪い。四方から突き刺さる視線をできるだけ無視しながら、俺は木々を掻き分けて女の子を探す。時折スマホを確認してみるが、千堂さんからの連絡はない。軽いため息を吐いて体を一度起こし、背中を反らせる。
そのすぐ近くを、鞄を持った二人組がコソコソと何やら話しながら通り過ぎて行った。
「わあ、何してるの?あれ。」
「知ってる子?」
「知らな〜い。」
俺の体は再びしおしおと木々に隠れるように小さくなる。その時、俺の事が話題から逸れたのか、何気ない一言が俺の耳に飛び込んでくる。
「そういえばさ、さっき校舎裏にいた小さい女の子、小学生かな?」
「そうじゃない?お兄ちゃんかお姉ちゃん待ってるのかもよ。」
俺の動きがぴたりと止まる。校舎裏、という単語を聞き逃さない。
「まさか……。」
まさか、盗み聞きで見つける事になるとは思っても見なかった。最初から中庭で不審者をしているよりも、九十九の様に尋ねてみるほうが早かったのかもしれない。
慌ててスマホを取り出し、誤字もそこそこに千堂さんへ盗み聞きの旨を送信する。そして、真っ先に校舎裏へと駆け出した。
「こはるちゃん!こはるちゃん!」
誰もいない校舎裏。車の陰などを一つ一つしゃがみ込みながら確認し、こはるちゃんの名前を呼ぶ。すると、その声に呼応する様にガサガサっと木々を掻き分ける音がした。
「……こはるちゃん?」
紺のワンピースに濃いピンクのランドセル。頭には黄色い帽子。木の影から、恐る恐ると言った風に小さな女の子が顔を出した。
間違いない、こはるちゃんだ。
不安そうに俺を見ていたので、駆け寄ろうとした俺は思わず足を止める。安堵のため息を吐きながら、俺はその場にしゃがみ込み、視線を合わせた。
「……。」
「千堂こはるちゃん、だね?」
こはるちゃんは返事をしない。木の幹をしっかりと掴んだまま、不安そうに俺を見つめてくる。まるで野良猫みたいだ。
「こはるちゃん、お姉ちゃんが待ってるよ。俺はこはるちゃんを迎えに来たんだ。一緒に行こう。」
手をそっと差し伸べる。そこへ、ポケットに入れていたスマホがブルブルと震えた。
「……千堂さん!」
慌てて電話を手に取る。こはるちゃんは警戒しながらこちらを見ていた。
――こはるちゃんの後ろで、何かが揺れている。
「もしもし、千堂さん!?」
「ああ!一ノ瀬くん!ありがとう!本当にありがとう!」
感極まった声に俺の表情は緩む。
「よかった……。今俺の目の前にいるから、すぐに。」
「こはる、無事に見つかったよ!本当にありがとう!!」
何を言っているのか分からなくて、困惑する。そこへ追い打ちをかける様に、小さな子供の声が飛び込んでくる。
「お兄ちゃんありがと――!」
「やっぱり校舎の中をウロウロしてたみたい!迷惑かけてごめんね。また何かお礼するから!」
「こはる、お腹すいたー!」
呆然としている間に電話は切れる。冷たい風が打ちつけてきて、ついさっきまで走った事で紅潮していた頬は急激に冷たくなる。
この子が、こはるちゃんじゃないなら。
この、紺色のワンピースで、濃いピンクのランドセルを背負って、黄色の帽子を被った、この女の子は誰だ?
こはるちゃんの後ろで揺れていたもの――木の葉だと思っていたそれが、更に大きく揺れる。
それは、猫のしっぽの様なものだった。それも、一本ではなく、二本。こはるちゃんの背中から伸びている様にも見えた。
それに、心なしかこはるちゃんの体が大きくなっている気がする。しかし、すぐにそれは勘違いでない事に気が付いた。目線が合っていたのも束の間、直ぐに俺の視線は上へと向き、ついには見上げるまでになる。
「こはる……ちゃん?」
こはるちゃんが大きく、裂けてしまいそうな程に口を開ける。口の中は喉まで真っ赤で、真っ白な牙が上顎から覗く。長い舌からぼたぼたと涎が滴り落ち、地面に水溜りを作っていく。
――俺は思わず、後ろ側へと腰を抜かす。足が震えて動かない。直ぐにでも後ろを向いて走り出したかったのに立ち上がってくれない。喉が絞められた様に声が出なくて、絞る様にか細い声と荒い息が漏れた。
なんだ、これ。なんだ、この怪物。
すぐに『最凶』のおみくじが脳裏をよぎる。まさか、これも『不運』なのだろうか?一体なんなんだこの怪物は。
「ひっ。」
黄色の帽子を突き破る様に尖った耳が二つ生え、眼球が大きく見開かれ、瞳孔が黄色く染まる。こはるちゃんの面影は消え去り、猫を模した様な怪物が出来上がった。元いた木の陰から抜け出し、怪物は前傾姿勢の二足歩行でゆっくりと近づいて来る。
「だ、誰か。」
辛うじて発された単語は情けないものだった。ずりずりと下半身を引きずって後ろへ下がるが、その距離は微々たるもので、怪物との距離はみるみるうちに近付いていく。
――食われる。
本能的に身を縮こめたその瞬間だった。
稲妻の様な閃光が、ぴかりと耳の横を走る。俺が目を開けるとほぼ同時に、鋭い斬撃がバチバチッと音を立てて怪物に突き刺さるのが見えた。耳を塞ぎたくなる様な絶叫が、校舎裏に響く。発情期の猫の様な嫌な鳴き声。それは紛れもなく目の前の怪物から発されたものだった。ズドンズドンと、瞬き一つの間に複数の光線が怪物に向かって休む事なく撃ち込まれる。
「な、に。」
砂埃が辺りに立ちこめる。一際大きな音と共に最後の一撃をもろに食らった怪物は、大きな音を立てて地面に仰向けに倒れた。
全身が心臓になったみたいだった。耳が熱くなり、腰を抜かしていた俺は体を捩らせ、後ろに立つその人物を凝視する。――ゴミの様な目で怪物を見ていた癖に、その人物は俺と目が合うや否や、王子様みたいに綺麗に口角を上げた。
「なんだ、あれ。お前、何者なんだよ。……九十九くん。」
真後ろに、さも当たり前の様に立つ九十九。手にはお札の様なものが握られており、自分が腰を抜かす様な状況にも微塵も動じる様子はなかった。今の光線は九十九がやったんだろうか?俺の質問には答えず、九十九は上体を傾け、そっと俺に向かって手を差し伸べた。
「大丈夫?流石『最凶』の不運だね、一くん。」
なんで、お前がそれを知っているんだ。何者なんだ、お前。
背筋に冷たいものが走る。それでも助けてもらった事による安堵から、俺は無意識に九十九に向かって手を伸ばすのだった。
***
「誤解しないで、僕は一くんを守るために来たんだよ。」
気が付けば、俺は九十九と一緒に帰路に着いていた。コンビニエンスストアで買った肉まんを九十九から手渡され、俺はちびちびと口にする。お金を返そうとしたら、何故か満面の笑みで断られた。本当に、本当に、何を考えているのかわからない。学校を出てからここに来るまでの時間に話された事を頭の中で復唱する。肉まんは味がしなかった。怪物に相対した時の事を思い出すと、まだ生きた心地がしない。防寒具はきちんと羽織っている筈なのに身震いした。
「つまり……九十九くんは『祓い屋』って事?」
「九十九、って呼んで。……そういうこと。転校してきたのも、一くんを不運から守るためなんだ。」
何やらかっこいい事をキラキラとしたオーラを纏いながら言ってのける。
どうやら、俺は単なる不運体質に成り下がっただけではない様だった。
今までの不運の原因、それは『悪霊』だという。
日本では古代から病気や災厄は全て悪霊の仕業とされていて、夜の闇が薄くなった今でもあながち間違いではないらしい。特に人によってその程度には差が生まれ、悪霊に祟られやすい人とそうでない人がこの世には存在する、との事だった。
「大抵の悪霊は一くんには見えない。力が弱いからね。弱い悪霊は見えないところから小さな災厄を起こす事が精一杯だけど、さっき出会った『猫又』みたいな奴はそうじゃない。人に化ける事もあるし、直接人を襲って食う事もある。遭遇する頻度は高くないけど、かなり厄介なんだ。僕がこうしてお札で撃退するくらいしか対処法がない。」
その言葉を聞いて俺は震え上がる。
「そ、それは俺が今後怪物に遭う可能性がまだあって、自分ではどうしようもないって事だろ?それに、この『最凶』がいつまで続くのかもわからないし。もしかしたら一生続く可能性も……。」
そうだったらどうしよう。どうやら自分は不運を甘く見過ぎていたようだ。俺は愕然とする。
「もしかして俺、死ぬ?」
「そんな事させないって。だから一くんを守りに来たって、言ってるでしょ。」
九十九は狼狽える俺の両頬を掴み、まっすぐ自分の方へ向かせる。
「それに、効果は今年の十二月三十一日で消える。それまで僕が一くんに纏わりつく悪霊を祓うんだ。登下校を一緒にして、休日も極力一くんの近くにいる様にする。そうすれば何も不都合はないでしょ?臨時のボディーガードだとでも思ってよ。」
「でも、九十九にもプライベートとかあるだろ。ほら、人気者なんだから他の子と遊びに行ったりとか……。」
ああ、と九十九は興味がなさそうに返事する。
「別にどうだっていい。元から遊びたいとか話したいとか思った事ないかな。これは仕事だし、報酬も貰っているから不真面目にはできないよ。」
「じゃあ……まさか、俺に転校初日から纏わり付いてたのは悪霊を祓ってくれる為だったとか?」
「纏わりつく、なんて酷いなあ。けどその通りだよ。黒板を倒そうとしている悪霊がいたから、これはまずいと思って。」
「それならそう言ってくれればいいのに。ちょっと怖いんだよお前。何考えてるかわかんないし、キラキラしてる癖に俺みたいな人間に話しかけてくるし。」
その時、両頬を掴んでいた九十九がむぎゅりとその手に力を入れる。顔の中心に頬の肉が寄り、鏡で確認せずとも変な顔になる。
「ひょっと!はひひへんは!(ちょっと!何してんだ!)」
俺が慌てて抗議をすると、九十九の体が小刻みに動き、花が咲いた様な笑いが飛び出た。
「あはははは!」
初めて出会った日の様に、九十九は、笑う。大人っぽい見た目なのに子供みたいで、そのギャップに俺はまだ慣れない。出会ってまだ数週間しか経っていないけど、きっとこれが九十九の本当なんだろうと思った。ちょっと不思議で、無邪気で、悪戯好きな青年。みんなが想像している中身とは大分違う。
「一くんだって、俺の事避けてたでしょ。不運の事誰かに言えば良かったのに。」
「嫌だよ、スピリチュアルにハマってる危ない人だって思われるだろ。でも不運には巻き込みたくなかったから、九十九含めて誰とも関わりたくなかったんだよ。」
「でも人助けはする、って事ね。やっぱりお人好しだ。」
「違うっ!」
二人で言い合いをしながら、大分薄暗くなった道を歩いて行く。
「その、祓い屋って誰かから雇われてるのか?」
「そうだね。僕含めた特殊な人間は悪霊達の放つ特殊な邪気を読み取る事ができるんだけど、その邪気で誰が不運な体質を持っているかがわかるんだ。それを、上の人間が報告をして僕に教えてくれる。そこから今回は一くんに担当が振られたというわけ。」
なるほど、と頷く。九十九の話によれば、不運体質を持つ人間はこの世にまだまだいるような口振りだ。なんだか少しホッとした。
「あっ。」
自分の家に近づいて来た頃、俺は肝心な事を思い出して立ち止まる。
「どうしたの?」
「……俺さ、今まで同級生と関わって来た事そんなになかったから忘れてたんだけど。」
自分で言ってて悲しくなる。
「うち、親が結構厳しめでさ。というのも、俺が高校受験に失敗したからなんだけど。……勉強の妨げになる様だったら友達も遊びもいらないでしょっていう人間なんだよね。だから、九十九と頻繁に会ってたら多分かなり怒られると思う。基本は家にいるつもりではあるんだけど。」
恐る恐る九十九を覗き込む。守ってもらう分際で要求を言い過ぎたかもしれない。しかし、九十九は大分けろっとした表情でなんて事ない様に言った。
「ああ、それなら問題ないよ。家の前か庭で勝手に張り込んでるからさ。もしどこかに出かける様なら後ろから着いて行くよ。」
「お前それストーカー!!」
腹の底からの笑い声が、数年振りに湧き上がる。九十九と目があって、お互い不思議な表情で見つめあった後、また笑った。
キラキラした人間って、怖い。自分とは明らかに違う人種な気がして、彼らを目の前にすると体が強張る。けど、九十九みたいな人間でも、話していたら自然と笑いが込み上げてきて、一緒にいたら心地良い。碌に話したことのないクラスメイトの顔色を窺って、勝手に想像を膨らませていた自分が少し馬鹿らしくなった。――なんて、簡単に絆されている自分にも驚いたが、不安でいっぱいだったはずの俺はその日、よく眠れた。
「一くん、すご!?課題テスト、学年一位!?」
冬季休暇課題テストの成績表をマッチャンから手渡された俺の元には、いつの間にか九十九がやって来ていた。遠慮もなく俺の成績表を覗き込み、何か言いたそうに見つめる他のクラスメイトの視線を躱し続けている。人と関わることに慣れていない俺は、初日から感じる嫉妬の視線から逃れたくて、ぶっきらぼうに返事をした。
「別に……。」
「マジですごいって!!……そうだ、今日の放課後勉強教えてよ。それで、一緒に帰ろう。」
「教えないし、帰らない!!」
九十九は何故か、俺と一緒に帰るということに固執しているようだった。理由はわからないが、何故だか九十九を喜ばせたくなくて、俺は意固地になって断り続ける。
周りからはいつだったか、「一緒に帰ろうと言ってくれているのに、断るなんて酷い。」みたいな事をやんわりと言われた。が、俺としては九十九に徒歩圏にある家がバレるのはどうしても避けたかった。休日とか、家の前で待ち伏せしてそうで怖いもん。
九十九の様子も相変わらずだったが、俺の不運も相変わらずだった。歩いていれば、突然どこからともなくボールが飛んでくる事は日常茶飯事。本棚の本が倒れてくる、登っていた脚立が突然崩れる、など最近は生傷が増えるものが何となく多くなっている気がする。
もう一度、あの神社を訪ねてみるべきだろうかとも考えた。だがあの気味が悪い住職にもう一度会わなければいけない事を考えると憂鬱で、どうにも足は動かない。
「まあ……気が向いたら行ってみるか。」
ぼんやりと呟いた俺の言葉を、九十九は直様拾い上げる。
「どこ!?どこに行くの!?」
「だあっ!!うるさい!!耳元で叫ぶな!!」
肩を掴んできた九十九を引き離し、俺は鞄を手に取る。もう成績表を受け取れば、個人個人で放課になっていた。既に廊下からは他クラスの生徒の談笑の声や足音が響いている。まだ成績表を受け取っていない九十九を放って、俺は教室を逃げる様に飛び出した。
「一、なんか明るくなったな。ずっと一人でいるから心配だったんだ。先生は嬉しい、九十九のお陰だな。」
成績表を手渡していたマッチャンが、感慨深そうに目で俺の背中を追う。
「……九十九くんを嫌っているだけでは?」
近くにいた女子生徒が、不満気な態度を顕にしながら嫌味っぽく言う。その隣にいた九十九は、愛想笑いを浮かべると成績表を受け取った。
「僕は、仲良くなりたいんだよね。」
「ねえ、なんでそんなに一ノ瀬くんに執着するの?私達だって、九十九くんと仲良くなりたいんだよ?」
女子生徒は九十九に詰め寄る。女子生徒はクラスの中でも特に男子に人気のある生徒だった。普段は落ち着いた雰囲気で人気のある彼女が、こんな風に感情を顕にしているのは珍しかった。
「勿論、僕もみんなと仲良くしたいと思ってるよ。」
「この前のカラオケだって、放課後ご飯行くのだって、九十九くん、一度も誘いに乗ってくれた事ないじゃん。……一ノ瀬くん、一人が好きなんだよ。構ってくれない人なんて放っといて一緒に遊ぼうよ。」
女子生徒の言葉を聞いていた周りの生徒が縦に頷く。その時、冷たい視線が一瞬――女子生徒を突き刺した気がした。
「構ってくれない人は放っておく、か。」
「君も、そうしてくれて良いんだよ。」
女子生徒は狼狽えて一歩後ろに下がる。いつもの王子様の様な笑みの奥、そこには凍りつく様に冷たい感情が滲んでいた。
***
流石に、追ってこないか。
下駄箱で靴を履き替える。まだ校内で部活や委員会の仕事をしている人が多く、俺の様に下駄箱に吸い寄せられていく人は少ない。部活にも入っていなければ委員会にも属していない俺は、この時間に一人で家に帰ることはごく当たり前のことだった。
マフラーを巻き直し、扉の隙間から吹き込んでくる寒風に耐える。そして、歩き出すなりポケットから単語帳を取り出して捲っていく。
――一くん、すご!?課題テスト、学年一位!?
目をまん丸にする九十九の姿はちょっとだけ面白かった。それにしても、勉強のことを誰かから褒められるなんて久しぶりだったので、俺の気分はかなり高揚していた。
俺の未来は、最初から決まっている。名門国立大学の医学部に現役で合格すること。
一年前のこの頃、俺は高校受験で失敗してしまった。だからこそ、第一志望よりもランクの低い学校で学年一位を取り続けることなんて当たり前の事だと思っていた。両親もそれを当たり前と思っているから、順位が下がらない限りは特にテストに言及してくる事はない。勿論褒めることもないから、九十九の言葉は純粋に――嬉しかったのだ。
「まあ、悪い奴ではないんだろうな。」
現金かもしれない。俺の独り言は宙に消える。早く家に帰ろうと足を早めたその時、校門付近で明らかに訳ありな様子で辺りを見回している女子がいた。同じ制服で、寒いだろうにコートも何も羽織っていない。動物でも探すかの様に低い姿勢で、校門の後ろや銅像の影、木の裏側を念入りに確認している。
……関わりたくない。けれども、俺のお人好し精神が本能的に働く。何かを探している女子生徒は見覚えがあった。肩より少し上で切り揃えた髪。真面目なのだろう、他の生徒の様にスカートを短くしたりだとか、メイクをしたりだとかはしていない、素朴な女の子。恐らく隣のクラスだった筈だが、話した事は勿論ない。
「……どうしたの?」
話しかけてしまった。
女子はハッと顔を上げ、突然縋る様に俺に質問する。
「ねえ!君、隣のクラスの一瀬くんだよね!?……小学生くらいの女の子、見なかった?」
名前を覚えられていた事にハッとする。しかし、女子の質問には直様首を振った。
「流石にいたら覚えてると思う。」
その途端、女子は泣きそうな顔になる。思わず変な意味ではなく、どきっとしてしまう。
「妹が……いなくて。」
「妹?」
女子はボソボソと俯きがちに話していく。
「千堂こはるって言うの。小学二年生なんだけど、今日はお母さんの誕生日だから一緒にプレゼントを買いに行こうって。妹の方が学校が早く終わるから校門で待ってるって、言ってくれたのに……。」
なるほど、と納得する。俺の通っている高校はすぐ隣に小学校が建っている。だからこそ、数は多くなくとも時折妹や弟達と一緒に帰っている高校生を見かける事がある。千堂さんも恐らくそうなのだろう。
「……小学校の方に行ってみた?」
「行ったよ。けどもうこはるは下校したって。……最悪のことは考えたくないから、もう一度探してみるって言ったんだけど。」
最悪の事態とは即ち『誘拐』。自分のことではないのに背筋が凍る思いがした。千堂さんの両手はガタガタと震えていた。
「……俺も今から探しにいくよ。もしかしたら高校に興味を持って中に入っているのかも。妹さんの特徴だけ教えてくれない?」
「本当!?」
千堂さんは希望が見えた様に顔を上げ、色素の薄い唇を震わせる。
「こはるは……濃いピンクのランドセルと、紺色のワンピースを着ていたはず。帽子は学校のもので黄色。身長は百二十センチくらい。見た目はすごく目立ちやすいと思うんだけど。」
そう言うと、千堂さんはポケットからスマホを取り出し、慌てて操作をする。そして、SNSのQRコードを俺に向かって突き出した。
「これ私の連絡先。見つかったり、何かあったら連絡して欲しいの。」
俺は慣れない手つきで千堂さんの連絡先を受け取る。するとすぐに千堂さんと、妹さんらしき女の子が写ったアイコンが表示された。
「それじゃあ。私は校門の周りをもう一度探すから……一ノ瀬くん、本当にありがとう!」
千堂さんはそう言うと再び、学校の植木が植わっている辺りを探し始めた。傍には千堂さんが脱いだと思われるコートと鞄が置かれていた。妹さんを探して走り回っていたのかもしれない。何事もなく、見つかります様に。俺は校門に背を向け、元来た道を足早に歩き始めた。
失念していたんだ、こいつの事を。
下駄箱で靴を履き替えていると、今一番面倒臭い奴に遭遇してしまった。――そう、九十九だ。
俺が帰ったとばかり思っていたのか、初めて出会った時の様に目をまん丸にして近寄ってくる。
「一くん!僕を待っててくれたの?」
「違う!違うから!」
特に説明する事なく、俺は九十九の隣をすり抜ける。
「何か忘れ物でもしたの?」
再び上履きを履こうとする俺を不思議に思ったのか、九十九までもが靴を履こうとした手を止める。
お前まで上履きを履かなくていいんだよ。また不運が襲ってきたらどうするんだよ。そう心の中で悪態を吐いた時、嫌な予感が胸を渦巻いた。
まさか、千堂さんの妹さんがいなくなったのって――俺の不運じゃないよな?
考えてみてゾッとした。だとしたらどうだろう。何事もなく、安全に見つかるシナリオなんて存在するのだろうか。
俺のせいで、妹さんが誘拐される『不運』に巻き込まれたとしたら。
「一くん、どうしたの?顔色悪いよ。
九十九が心配そうに顔を覗き込む。俺はハッと顔を上げた。
そうだ、こいつだ。こいつなら、手伝ってくれるかもしれない。俺は九十九に向き直る。
「九十九くん、お願いがあるんだ。」
「えっ!?何!?」
九十九は戸惑いと嬉しさの両方を浮かべた表情をした。初めて見る表情だ。
「今、学校の中で小学生の女の子を探してるんだ。隣のクラスの千堂さんって人の妹さんなんだけど、どうやらどこかに行ってしまったみたいなんだ。」
そう言って、千堂さんのSNSアイコンを突きつける。
「……いつも冷たい態度して悪かったけど、手伝って欲しいんだ。……手遅れになる前に。」
茶化されないよう、出来る限り真剣な口調で言った。不運は今、探す事を諦める理由にしてはいけない。もしかしたら俺の杞憂かもしれない。
少しの間、二人の間を沈黙が流れる。ポカンとしていた九十九は、何やら神妙な面持ちになった。じっと俺の目を見つめた後、ふにゃりと優しく破顔した。
「一くんって、お人好しなんだね。」
「誘拐されてるかもしれないんだぞ!当たり前だ。」
真剣に言ったつもりなのに、九十九は笑い声を溢す。
「わかった。……僕は一度、女の子を見た人がいないか聞きに回ってみる。」
「ありがとう。見つかったら、叫ぶか何かして。」
「原始的だなあ。」
そう言うと、俺は九十九に背を向けて、土足で入ることのできる中庭の方へ駆け出した。その姿を見送った後、九十九の表情は蝋燭の火のようにフッと消える。
「良からぬ、『気』だな。」
誰にも聞こえないよう、ボソリと呟いた。
***
「えーっと、こはるちゃーん?こはるちゃん……。」
中庭で一人、俺は千堂こはるちゃんの名前を呼ぶ。ただ、根暗な男子高校生が一人中庭で女の子の名前を呼んでいるというのは控えめに言って通報したいくらい気持ちが悪い。四方から突き刺さる視線をできるだけ無視しながら、俺は木々を掻き分けて女の子を探す。時折スマホを確認してみるが、千堂さんからの連絡はない。軽いため息を吐いて体を一度起こし、背中を反らせる。
そのすぐ近くを、鞄を持った二人組がコソコソと何やら話しながら通り過ぎて行った。
「わあ、何してるの?あれ。」
「知ってる子?」
「知らな〜い。」
俺の体は再びしおしおと木々に隠れるように小さくなる。その時、俺の事が話題から逸れたのか、何気ない一言が俺の耳に飛び込んでくる。
「そういえばさ、さっき校舎裏にいた小さい女の子、小学生かな?」
「そうじゃない?お兄ちゃんかお姉ちゃん待ってるのかもよ。」
俺の動きがぴたりと止まる。校舎裏、という単語を聞き逃さない。
「まさか……。」
まさか、盗み聞きで見つける事になるとは思っても見なかった。最初から中庭で不審者をしているよりも、九十九の様に尋ねてみるほうが早かったのかもしれない。
慌ててスマホを取り出し、誤字もそこそこに千堂さんへ盗み聞きの旨を送信する。そして、真っ先に校舎裏へと駆け出した。
「こはるちゃん!こはるちゃん!」
誰もいない校舎裏。車の陰などを一つ一つしゃがみ込みながら確認し、こはるちゃんの名前を呼ぶ。すると、その声に呼応する様にガサガサっと木々を掻き分ける音がした。
「……こはるちゃん?」
紺のワンピースに濃いピンクのランドセル。頭には黄色い帽子。木の影から、恐る恐ると言った風に小さな女の子が顔を出した。
間違いない、こはるちゃんだ。
不安そうに俺を見ていたので、駆け寄ろうとした俺は思わず足を止める。安堵のため息を吐きながら、俺はその場にしゃがみ込み、視線を合わせた。
「……。」
「千堂こはるちゃん、だね?」
こはるちゃんは返事をしない。木の幹をしっかりと掴んだまま、不安そうに俺を見つめてくる。まるで野良猫みたいだ。
「こはるちゃん、お姉ちゃんが待ってるよ。俺はこはるちゃんを迎えに来たんだ。一緒に行こう。」
手をそっと差し伸べる。そこへ、ポケットに入れていたスマホがブルブルと震えた。
「……千堂さん!」
慌てて電話を手に取る。こはるちゃんは警戒しながらこちらを見ていた。
――こはるちゃんの後ろで、何かが揺れている。
「もしもし、千堂さん!?」
「ああ!一ノ瀬くん!ありがとう!本当にありがとう!」
感極まった声に俺の表情は緩む。
「よかった……。今俺の目の前にいるから、すぐに。」
「こはる、無事に見つかったよ!本当にありがとう!!」
何を言っているのか分からなくて、困惑する。そこへ追い打ちをかける様に、小さな子供の声が飛び込んでくる。
「お兄ちゃんありがと――!」
「やっぱり校舎の中をウロウロしてたみたい!迷惑かけてごめんね。また何かお礼するから!」
「こはる、お腹すいたー!」
呆然としている間に電話は切れる。冷たい風が打ちつけてきて、ついさっきまで走った事で紅潮していた頬は急激に冷たくなる。
この子が、こはるちゃんじゃないなら。
この、紺色のワンピースで、濃いピンクのランドセルを背負って、黄色の帽子を被った、この女の子は誰だ?
こはるちゃんの後ろで揺れていたもの――木の葉だと思っていたそれが、更に大きく揺れる。
それは、猫のしっぽの様なものだった。それも、一本ではなく、二本。こはるちゃんの背中から伸びている様にも見えた。
それに、心なしかこはるちゃんの体が大きくなっている気がする。しかし、すぐにそれは勘違いでない事に気が付いた。目線が合っていたのも束の間、直ぐに俺の視線は上へと向き、ついには見上げるまでになる。
「こはる……ちゃん?」
こはるちゃんが大きく、裂けてしまいそうな程に口を開ける。口の中は喉まで真っ赤で、真っ白な牙が上顎から覗く。長い舌からぼたぼたと涎が滴り落ち、地面に水溜りを作っていく。
――俺は思わず、後ろ側へと腰を抜かす。足が震えて動かない。直ぐにでも後ろを向いて走り出したかったのに立ち上がってくれない。喉が絞められた様に声が出なくて、絞る様にか細い声と荒い息が漏れた。
なんだ、これ。なんだ、この怪物。
すぐに『最凶』のおみくじが脳裏をよぎる。まさか、これも『不運』なのだろうか?一体なんなんだこの怪物は。
「ひっ。」
黄色の帽子を突き破る様に尖った耳が二つ生え、眼球が大きく見開かれ、瞳孔が黄色く染まる。こはるちゃんの面影は消え去り、猫を模した様な怪物が出来上がった。元いた木の陰から抜け出し、怪物は前傾姿勢の二足歩行でゆっくりと近づいて来る。
「だ、誰か。」
辛うじて発された単語は情けないものだった。ずりずりと下半身を引きずって後ろへ下がるが、その距離は微々たるもので、怪物との距離はみるみるうちに近付いていく。
――食われる。
本能的に身を縮こめたその瞬間だった。
稲妻の様な閃光が、ぴかりと耳の横を走る。俺が目を開けるとほぼ同時に、鋭い斬撃がバチバチッと音を立てて怪物に突き刺さるのが見えた。耳を塞ぎたくなる様な絶叫が、校舎裏に響く。発情期の猫の様な嫌な鳴き声。それは紛れもなく目の前の怪物から発されたものだった。ズドンズドンと、瞬き一つの間に複数の光線が怪物に向かって休む事なく撃ち込まれる。
「な、に。」
砂埃が辺りに立ちこめる。一際大きな音と共に最後の一撃をもろに食らった怪物は、大きな音を立てて地面に仰向けに倒れた。
全身が心臓になったみたいだった。耳が熱くなり、腰を抜かしていた俺は体を捩らせ、後ろに立つその人物を凝視する。――ゴミの様な目で怪物を見ていた癖に、その人物は俺と目が合うや否や、王子様みたいに綺麗に口角を上げた。
「なんだ、あれ。お前、何者なんだよ。……九十九くん。」
真後ろに、さも当たり前の様に立つ九十九。手にはお札の様なものが握られており、自分が腰を抜かす様な状況にも微塵も動じる様子はなかった。今の光線は九十九がやったんだろうか?俺の質問には答えず、九十九は上体を傾け、そっと俺に向かって手を差し伸べた。
「大丈夫?流石『最凶』の不運だね、一くん。」
なんで、お前がそれを知っているんだ。何者なんだ、お前。
背筋に冷たいものが走る。それでも助けてもらった事による安堵から、俺は無意識に九十九に向かって手を伸ばすのだった。
***
「誤解しないで、僕は一くんを守るために来たんだよ。」
気が付けば、俺は九十九と一緒に帰路に着いていた。コンビニエンスストアで買った肉まんを九十九から手渡され、俺はちびちびと口にする。お金を返そうとしたら、何故か満面の笑みで断られた。本当に、本当に、何を考えているのかわからない。学校を出てからここに来るまでの時間に話された事を頭の中で復唱する。肉まんは味がしなかった。怪物に相対した時の事を思い出すと、まだ生きた心地がしない。防寒具はきちんと羽織っている筈なのに身震いした。
「つまり……九十九くんは『祓い屋』って事?」
「九十九、って呼んで。……そういうこと。転校してきたのも、一くんを不運から守るためなんだ。」
何やらかっこいい事をキラキラとしたオーラを纏いながら言ってのける。
どうやら、俺は単なる不運体質に成り下がっただけではない様だった。
今までの不運の原因、それは『悪霊』だという。
日本では古代から病気や災厄は全て悪霊の仕業とされていて、夜の闇が薄くなった今でもあながち間違いではないらしい。特に人によってその程度には差が生まれ、悪霊に祟られやすい人とそうでない人がこの世には存在する、との事だった。
「大抵の悪霊は一くんには見えない。力が弱いからね。弱い悪霊は見えないところから小さな災厄を起こす事が精一杯だけど、さっき出会った『猫又』みたいな奴はそうじゃない。人に化ける事もあるし、直接人を襲って食う事もある。遭遇する頻度は高くないけど、かなり厄介なんだ。僕がこうしてお札で撃退するくらいしか対処法がない。」
その言葉を聞いて俺は震え上がる。
「そ、それは俺が今後怪物に遭う可能性がまだあって、自分ではどうしようもないって事だろ?それに、この『最凶』がいつまで続くのかもわからないし。もしかしたら一生続く可能性も……。」
そうだったらどうしよう。どうやら自分は不運を甘く見過ぎていたようだ。俺は愕然とする。
「もしかして俺、死ぬ?」
「そんな事させないって。だから一くんを守りに来たって、言ってるでしょ。」
九十九は狼狽える俺の両頬を掴み、まっすぐ自分の方へ向かせる。
「それに、効果は今年の十二月三十一日で消える。それまで僕が一くんに纏わりつく悪霊を祓うんだ。登下校を一緒にして、休日も極力一くんの近くにいる様にする。そうすれば何も不都合はないでしょ?臨時のボディーガードだとでも思ってよ。」
「でも、九十九にもプライベートとかあるだろ。ほら、人気者なんだから他の子と遊びに行ったりとか……。」
ああ、と九十九は興味がなさそうに返事する。
「別にどうだっていい。元から遊びたいとか話したいとか思った事ないかな。これは仕事だし、報酬も貰っているから不真面目にはできないよ。」
「じゃあ……まさか、俺に転校初日から纏わり付いてたのは悪霊を祓ってくれる為だったとか?」
「纏わりつく、なんて酷いなあ。けどその通りだよ。黒板を倒そうとしている悪霊がいたから、これはまずいと思って。」
「それならそう言ってくれればいいのに。ちょっと怖いんだよお前。何考えてるかわかんないし、キラキラしてる癖に俺みたいな人間に話しかけてくるし。」
その時、両頬を掴んでいた九十九がむぎゅりとその手に力を入れる。顔の中心に頬の肉が寄り、鏡で確認せずとも変な顔になる。
「ひょっと!はひひへんは!(ちょっと!何してんだ!)」
俺が慌てて抗議をすると、九十九の体が小刻みに動き、花が咲いた様な笑いが飛び出た。
「あはははは!」
初めて出会った日の様に、九十九は、笑う。大人っぽい見た目なのに子供みたいで、そのギャップに俺はまだ慣れない。出会ってまだ数週間しか経っていないけど、きっとこれが九十九の本当なんだろうと思った。ちょっと不思議で、無邪気で、悪戯好きな青年。みんなが想像している中身とは大分違う。
「一くんだって、俺の事避けてたでしょ。不運の事誰かに言えば良かったのに。」
「嫌だよ、スピリチュアルにハマってる危ない人だって思われるだろ。でも不運には巻き込みたくなかったから、九十九含めて誰とも関わりたくなかったんだよ。」
「でも人助けはする、って事ね。やっぱりお人好しだ。」
「違うっ!」
二人で言い合いをしながら、大分薄暗くなった道を歩いて行く。
「その、祓い屋って誰かから雇われてるのか?」
「そうだね。僕含めた特殊な人間は悪霊達の放つ特殊な邪気を読み取る事ができるんだけど、その邪気で誰が不運な体質を持っているかがわかるんだ。それを、上の人間が報告をして僕に教えてくれる。そこから今回は一くんに担当が振られたというわけ。」
なるほど、と頷く。九十九の話によれば、不運体質を持つ人間はこの世にまだまだいるような口振りだ。なんだか少しホッとした。
「あっ。」
自分の家に近づいて来た頃、俺は肝心な事を思い出して立ち止まる。
「どうしたの?」
「……俺さ、今まで同級生と関わって来た事そんなになかったから忘れてたんだけど。」
自分で言ってて悲しくなる。
「うち、親が結構厳しめでさ。というのも、俺が高校受験に失敗したからなんだけど。……勉強の妨げになる様だったら友達も遊びもいらないでしょっていう人間なんだよね。だから、九十九と頻繁に会ってたら多分かなり怒られると思う。基本は家にいるつもりではあるんだけど。」
恐る恐る九十九を覗き込む。守ってもらう分際で要求を言い過ぎたかもしれない。しかし、九十九は大分けろっとした表情でなんて事ない様に言った。
「ああ、それなら問題ないよ。家の前か庭で勝手に張り込んでるからさ。もしどこかに出かける様なら後ろから着いて行くよ。」
「お前それストーカー!!」
腹の底からの笑い声が、数年振りに湧き上がる。九十九と目があって、お互い不思議な表情で見つめあった後、また笑った。
キラキラした人間って、怖い。自分とは明らかに違う人種な気がして、彼らを目の前にすると体が強張る。けど、九十九みたいな人間でも、話していたら自然と笑いが込み上げてきて、一緒にいたら心地良い。碌に話したことのないクラスメイトの顔色を窺って、勝手に想像を膨らませていた自分が少し馬鹿らしくなった。――なんて、簡単に絆されている自分にも驚いたが、不安でいっぱいだったはずの俺はその日、よく眠れた。

