春。暖かな陽射しの下、草木が芽吹き小鳥が囀る、始まりの季節。
俺――有里綺羅は、高校三年生になった。三浦半島の先の海の見える高校で、ごくごく普通で平凡な、高校生らしい毎日を送っていた。
だが、もう三年生になったというのに卒業後の進路は実はまだ決まっていない。
少し前までは就職する気でいた。早く家を出て独りになって、有里家に関わらずに生きていきたかったから。
でも今は、そういうわけでも無くなって。
改めて考えてみると、一年後自分が仕事をしている姿は全く想像できないし、かといって大学や専門学校で学びたいことも見当たらない。
一応、昨年の十月に学校に提出した進路希望調査表では就職希望になっていたから、学校側は俺を就職希望として扱っていて、俺はそれを敢えて訂正せずにいた。
だって、饗庭が就職希望だから。
三年生のクラスは全部で六組。難関大学に行く人は一組、就職する人は六組……というように、進路ごとにクラスが分かれるのが恒例だ。これで俺が(受かるかどうかは別として)難関大学なんて志望してしまったら、確実に饗庭とクラスが分かれてしまう。
就職希望同士なら、基本的には同じクラスになれるはず。そう思って、俺はしれっと何も言わずにいた。
とはいえ、都合よく同じ進路の人が綺麗に一クラスにまとまる人数になるはずもなく、クラス分けはグラデーション。もしかしたら隣のクラスに分かれてしまうかもしれない危険性があった。
だから俺は神川先生に念入りに
「来年も饗庭がいてくれないと不安」
「饗庭と一緒のクラスじゃないと行事に出られない」
と、日々“相談”しておいた。その甲斐があって、目論見通り俺は饗庭と同じクラスになれた。
学校側としても、唯一俺の事情を把握し、かつ積極的に面倒を見てくれる饗庭をわざわざ別クラスに引き離す理由は無かっただろう。
全てが上手くいっている。毎日が楽しい。半年ほど前まで考えられなかったことだ。
俺は今の生活に幸せを感じる度に過去を思い出してヒヤリとし、二度とあの頃には戻りたくないと強く思う。
勿論、これまでのことが無かったことにはならないし、過去があったからこそ今の生活があるというのも分かっている。
――でも、どうもう出てこないで。
俺は過去の自分に、これからの自分を決して邪魔されたくなかった。
どうか、ずっと穏やかに。これまでの分も幸せに。何事も無い当たり前で普通な毎日を、饗庭と楽しく過ごしていきたい……
「不審者?」
俺は目の前のケーキから顔を上げて母を見た。
日曜日の麗らかな午後、おやつの時間。
俺は紗綾と二人、ダイニングのテーブルで母が作ったケーキを食べていた。
リビングのソファには父と母が座っていて、母のスマートフォンの画面を眺め、二人で深刻そうに話しをしていた。
俺は両親の会話に耳を止め、二人の方を見た。
「何? 変な奴出たの?」
「そうみたい。まだ詳細は分からないんだけど……」
と、母が俺を見て不安げに頷く。
新学期を迎えてまだ数日だというのに、既に妹、紗絢の保護者たちで作られるメッセージグループに不審者情報が入ってきているらしい。
有里家のある地域というのはとても治安が良い。所謂高級住宅街と言われている場所で、家々は大きく道路の区画も広い。経営者や有名人も多く――端的に言ってお金持ちの住む土地柄だったから、セキュリティのしっかりした家ばかりで、そんなところに不審者が出るのは珍しかった。
そういう場所だから余計に、保護者たちも突然の不審者情報に少々狼狽えているらしい。先ほどから保護者たちのメッセージグループは活発に動いているようだ。
どういう理屈か知らないが、春になると不審な人物が増えると聞いたことがある。何か、暖かくなると草木の芽吹きや動物たちの目覚めと共に、そういう人たちも活動的になるんだとかなんとか……?
俺には変質者の気持ちはさっぱり分からないが、そういうものなんだって。
可愛い妹を持つお兄ちゃんとして俺もとても心配になったし、その不審者に対して怒りも沸いた。紗綾に怖い思いをさせるようなことがあったら、絶対にただでは置かない。
「次の金曜がうちの番だって。――大丈夫か?」
と、スマートフォンから顔を上げた父が母を見て言う。
しばらく保護者たちのグループで、持ち回りで子供たちを送って帰ろうということになったらしい。
だが勿論その時間父は仕事で、必然的に専業主婦の母が迎えの担当になる。
「俺、行こうか? 金曜帰って来るの早いよ」
良いことを思いついたと思って俺が言うと、紗綾が目を輝かせて俺を見た。
「お兄ちゃん、お迎えに来てくれるの?」
ああ、なんて可愛い。こんな風に言ってくれたら、不審者情報関係無く毎週迎えに行きたくなってしまう。しかし、
「あら、そんなの綺羅が心配で結局お母さんも行かなきゃいけないじゃない」
と母が真顔で言った。
「いや、俺は別に……」
俺もう高校生だし。っていうか、男だし。
「何言ってるの。綺羅、可愛いもの。ね、綺羅もちゃんと気を付けるのよ。――そうだ。防犯ブザー、紗絢の予備のやつがあったでしょう。あれ持って行く?」
母はそう言うや否や立ち上がり、棚の引き出しを開けた。
「ええっ、いいよ、そんな、小学生用でしょ?」
「安全には変えられないのよ」
真剣に心配している様子の母の言葉に、愛情を感じてくすぐったい。
――ていうか俺、ちょっと前まで独りで夜出歩いてたのに、そんな心配してもらえるんだ……
心配してもらっている嬉しさと申し訳無さとで、心がソワソワした。
すぐに防犯ブザーを見つけた母は、俺に手渡してくれる。薄い水色の防犯ブザーは、コロリとしていていかにも小学生向けの可愛いヤツ。
正直なところこれを付けて登下校するのはかなり勇気がいる気がする。
しかしここはまあ、母の気持ちを優先したい。
俺が素直に
「ありがとう」
と微笑んで受け取ると、母は安堵の表情を浮かべた。
広義の反抗期を乗り越えて、俺は今、家族との仲が頗る良い。母が心配してくれる、その気持ちがなにより嬉しかった。
「本当に気を付けた方がいいかもしれないぞ」
とスマートフォンから顔を上げた父が言って、俺はぽかんとした。
まさか父まで「綺羅は可愛いんだから」なんて言うんだろうか。
同性の父さんに言われるのはなんか、母さんに言われるより小っ恥ずかしいんだけど……。
俺は思わずドギマギした。しかしそんなことには気が付かない様子で、父は真面目な顔をしている。
「今、ヒマリちゃんパパから連絡が来たよ。昨日声を掛けられたのは、学校帰りの中学生の男の子だって」
「うぇ」
俺は思わず声が出た。
実在するんだな、そんな奴。
「あなたそれ――声を掛けられた子は大丈夫だったの? 犯人は捕まったの?」
母が不安そうに言う。
「被害者に怪我は無し。犯人は逃走して捕まってないそうだ」
父はスマートフォンに目を落とし、文面を読む。
「犯人は四十代くらいの細身の男。――男の子の手を掴んで『アリサちゃん』と呼んだらしい」
いつもの昼休み、いつもの史学準備室。俺と饗庭はいつも通り昼食を食べていた。
いや、いつも通りでは無いかもしれない。饗庭は元々あまり自分からバンバン話しをしてくる人間では無く、話題を振る側である俺は、気に掛かることがあって雑談する気持ちになれない。
俺達は黙々と食事をしていた。饗庭は特に沈黙を気にしていないようだった。
しばらくして俺は口を開いた。
「饗庭……知ってる? うちの近くに不審者が出たの」
「いや? 知らない」
饗庭は弁当を食べる手を止めて俺を見た。
「捕まったの?」
「ううん、まだ」
「そっか。紗綾ちゃんもいるし心配だな」
「そう」
俺は頷く。
「あのね、勿論、紗綾のことが一番心配なんだけど。でも……」
「うん?」
「俺、自分のことも心配で……」
俺は饗庭に不安そうな顔をして見せる。饗庭は不思議そうに俺を見て
「大丈夫だろ、男は」
と言った。俺は饗庭をじぃっと見つめる。
「でも俺、そこら辺の野郎と違って可愛いじゃん? か弱くて儚げだし……」
「ああ、はい」
饗庭は「またいつものやつか」と言いたそうな反応をして弁当に視線を戻した。
どうやら俺の普段の言動が禍しているようだ。全然心配してくれてない。
弁当を食べている饗庭をしばらく眺めてから
「中年の男が、男子中学生の腕を掴んで『アリサちゃん』って言ったんだって」
と俺が言うと、饗庭は目を見開いてバッと俺の顔を見た。
「お前んちの近くで?」
「うん」
「中年の男が?」
「うん」
「アリサちゃんって?」
「うん」
「……え?」
「これってやっぱりそういうことだと思う?」
「……」
饗庭は俺の顔を見たまましばし絶句し、はぁぁと大きな溜め息を吐いて手で額を抑えた。
「なにそれお前、有里、そんなの確実に店の客がお前探してんじゃん」
「やっぱり?」
「そうだろ。――なんで客に家の場所教えるんだよ」
「教えてねーよ! 店では家は藤沢ってことにしてた。だから、なんで近所にいるのか分からない」
「つけられてたんじゃねーの? そういう危ない奴いたの?」
「うーん……」
店を辞めて四ヶ月以上経っていた。正直なところ俺はもう、店で会った客のことなんてほとんど忘れている。
確かに俺は店の中でも人気があったし、本気で狙われていると感じることもしばしばあった(それを利用して上手いこと金を出させるのが仕事だったわけだが……)。
しかし辞めた後もまだ追い掛けてくるくらい、本気で俺に執着しているような奴はいなかったように思う。
「なんかヤバそうな人いたじゃん、俺が店に行ったとき。あの人とかは?」
「ああー」
饗庭に言われて、俺は嫌な客を思い出して顔を顰める。
「でも、ああいう人って意外と大丈夫だよ」
「そうなのか?」
「社長だもん。社会的な地位があって、危険を冒さないからね。従業員抱えて、妻と子どもがいて、男子高校生にストーカーも無いでしょ」
「そういうもん?」
「うん」
俺は頷く。
「それにああいう人って、別に俺じゃなきゃいけないなんてことないんだよ。俺がいないならそれはそれで、絶対今頃新しい子見つけてる」
「うーん」
饗庭は目を閉じて唸る。
「でも……、客だとしか思えないだろ。他に心当たりは?」
「心当たり、かぁ……」
俺は頭の中に、今まで関わって来た客たちをうっすらと思い浮かべた。元々一人一人に思い入れなんて何にも無かったし、意識して思い出さないと名前も顔も出てこない。
それくらいどうでもいい人ばかりで、特にこれといった思い出も無く、「こいつだ!」って奴、別にいないんだよな……。
「もしかしたら、俺は本当に関係なくて別のアリサちゃんなのかも」
俺が言うと、饗庭は顔を顰めた。
「そんな偶然あるかぁ? 腕掴まれたのが男子中学生なら、少なくとも探されてるのは中高生くらいの男なんじゃない?」
「俺以外にアリサちゃんって男の子がいる可能性も……」
「お前んちの近所に? ストーカーされる男のアリサちゃんが?」
「いないかぁ……」
「……」
しばし沈黙が下りて、饗庭が「分かった」と言った。
「とりあえず、しばらくは送って行くよ」
「えっ」
思ってもみない提案だった。確かに相談したのは自分だけど、別に、送ってもらおうと思って言ったわけじゃない。ただ不安を共有したかっただけだ。
ついでに言うと、ちょっと心配もしてほしかったのは本当だけど。
「いや大丈夫だよ。遠いのに、悪い」
「一人で帰るの危ないだろ。もしそいつが探してるのがお前じゃなかったとしても、男子中学生の腕掴む奴が出てる時点で普通に危ないし」
「でも俺送ったら帰りお前が一人じゃん」
「俺は別にいいだろ。誰かさんと違ってか弱くて儚げじゃないんだから」
「駄目!」
俺は叫んだ。
「そういうとこだぞ! 饗庭君、十分魅力的なんだから、ちゃんと自覚してくれる?」
「あぁ、うん……」
饗庭は俺に気圧されて頷く。
――全く、危なっかしいったらありゃしない。
俺は心の中で憤慨した。
「ボク、道案内をしてくれる?」なんて言われて、イマドキ小学生だってついて行かないけど、こいつは相手にちょっと弱いところの一つでも見せられたらホイホイ親切にしてあげてしまう、そういう危なっかしい奴だ。
なまじ、自分は襲われないと思っているところがまた危ない。そんな奴を不審者情報があるうちの近所でひとりにできるもんか。
「送ってもらったら、心配で駅まで送って行っちゃうよ、俺」
「意味無いじゃん」
「そうなんだよ」
「でも、じゃあどうすんの?」
と饗庭が言う。
俺はうーんと考えて、
「うちに泊まってもらってもいいんだけど……」
と呟く。突然この事件が楽しいイベントに変わりそうになって、不謹慎にも少しワクワクした。しかし、饗庭は冷静だ。
「でもさ、今日だけじゃ済まないでしょ。犯人が捕まるまでずっととかはご迷惑でしょ、さすがに」
「ダメとは言われないと思うんだけど……」
「俺が泊まる理由、お父さんお母さんになんて説明すんの」
俺はハッと顔を上げる。
「俺、親には話せないよ」
「分かってるよ」
饗庭は頷く。
「不審者が探してるアリサちゃんは俺かもしれない」なんて、去年やってたアルバイトの話なんて、両親には絶対に知られたくない。もう辞めたんだ、反省しているし、二度とやらないのだから。
決して無かったことにはならない、でも忘れてしまいたい俺の過去。知っているのは饗庭だけでいい。
「いいよ、やっぱり一人で帰る。ありがとうな」
俺は饗庭に微笑んで見せた。饗庭が心配してくれたことで、俺は十分満足していた。
「もしそいつに会ったとしても、なんの用か聞いて、ちゃんと話しして帰ってもらったらいいんだし」
「いや、とにかく今日は送っていくよ。そんなん聞いて一人で帰せないよ」
饗庭が真剣な眼差しで俺を見つめてきて、俺の心は揺らいだ。
「でも饗庭が帰り一人になるのはダメ。そんな、危ないからって自分が送ってもらっておいて、一人で帰すなんて絶対ダメだから」
俺が真剣な顔で言うと、饗庭は腕を組んで唸る。
「……分かった。ちょっと考える」
放課後。ホームルームが終わってすぐに俺の席まで来た饗庭は、
「史学準備室で待ってて」
と言い置くとどこかに行ってしまった。
俺は少々浮かれた気分でひとり史学準備室に向かった。
そんな場合では無いと分かっている。めちゃめちゃ迷惑を掛けている自覚もあるのだけど、饗庭が俺を心配して俺のために動いてくれているというのが嬉しくて、なんだかニコニコしてしまうのだ。
両親に心配してもらうのとはどこか違う。家族以上に俺のことを分かってくれていて、頼れる人がいる安心感。それが饗庭だという嬉しさ。
俺は幸せな気持ちで、正直なところかなりワクワクしながらソファに背中を預けた。
――本当に頼りになる、饗庭は。そんなところがとっても好きだ。
――饗庭は俺のために、一体どんな作戦を立ててくれたんだろう。
しばらくするとノックも無く急にドアが開いて、俺は饗庭が来たと思い、機嫌良くパッと身を起こしてドアの方を見た。
「――うわっ」
そこに立っていた人物を見て、俺は笑顔から一転嫌な顔になった。隠すつもりもない。
「おう、お疲れ」
通学鞄を肩に背負って、入口の前に立っていたのは艮野だった。
三年になって艮野は隣のクラスになった(艮野も就職組だけど、俺の神川先生への“相談”が効いたものと思われる)。久しぶりに見た艮野は、いつの間にか髪を黒く戻しピアスも外して、以前よりも真面目な印象になっていた。が、艮野は艮野である。
俺達は確かに和解した。和解はしたが、別に仲良くするつもりは無いのだ。
艮野は俺の嫌な顔を意に介さず、当然のように史学準備室の中に入ってきて
「へぇ、こんなんなってんだな」
中を見回しながらこちらに歩いてきた。
「饗庭は」
俺は艮野を睨みながら聞く。
「城井と話してた。後で来るって」
「あ、そう……」
そういえば、城井は艮野と同じクラスになったんだっけ。可哀想に……
「そこ、座っていいの?」
と言ってソファを見下ろす艮野に、俺はわざとらしくソファの左隅に座り直し、反対の端を顎と視線で差した。
「どうぞ」
俺はドカリとソファに座った艮野を苦々しく見る。
「なんでお前が来んだよ」
嫌そうな声を隠しもせず俺が聞くと、艮野は事も無げに言った。
「お前んちの近くに不審者が出たんだって? それで、一緒に送って行ってくれって、饗庭が」
「は⁉」
俺は思わず叫んだ。艮野がやれやれと溜め息を吐く。
「饗庭も過保護だよなぁ。誰がこんな面倒くさい奴襲うんだよ」
「それがいるんだよなぁ。俺、修学旅行の時ヤバい男に無理矢理服脱がされたことあるんだよ」
俺が言い返すと、艮野は何か言い返したそうに口をパクパクさせ、忌々しげに顔をそらして舌打ちして自分の膝を殴った。いい気味である。
「……で、真面目な話なんなの? お前、ヤバい奴に狙われる覚えあんの?」
俺が気分良くなっていると、気を取り直したように真面目な顔で艮野が俺を見た。今度は俺が言葉に詰まる番だった。
「なんか危ないことしてんの?」
「……」
「饗庭は知ってんの?」
「……うん」
艮野は溜め息を吐く。
「饗庭が把握してんならまあ、俺は無理に聞かないけど。――お前あんま、あいつに心配掛けないでやってくれよ」
「……一応言っとくと、『してた』であって、今してるわけじゃないから。饗庭が止めろって言ってくれたから、もうしてない。今回のは過去の産物。負の遺産というか……。もう、絶対やらない」
「……」
艮野はやれやれと首を振る。
「饗庭もなんでお前なんか目に掛けるのかねぇ……」
俺がカチンときて
「お前だって幼馴染でなきゃ相手にされてねぇだろうが」
と言うと、艮野もカチンときた顔をした。
「あ?」
「は? 何?」
二人睨み合ったところで扉が開いた。入り口に饗庭が立っていた。
「饗庭っ!」
俺達は同時に叫ぶ。
「お前なんでこんな奴と幼馴染なわけ⁉」
「お前なんでこんな奴と仲良くしてんだよ!」
俺達は息ぴったりに饗庭に言い立てて、饗庭がげんなりした顔をした。
「お前らいちいちモメんなよ」
饗庭はそう言ってこちらに近付いてくると、俺と艮野の間に座った。
「どういうこと? なんで艮野呼ぶの」
俺は饗庭に迫った。饗庭は事も無げに言う。
「有里が言ったんだろ? 俺一人で帰ったら駄目だって」
「言ったけど」
「だから艮野に一緒に来てくれって頼んだんだよ」
俺は唖然とする。
「そんなの……別に……他の人でもいいじゃん」
「他? 誰かいるか?」
饗庭に言われ、俺は咄嗟に数少ない友人を思い浮かべた。
「み、御門とか……」
初めに頭に浮かんだのは、小柄で小動物のように可愛らしい元クラスメイト。
饗庭は呆れ顔をした。
「お前、御門が護衛になると思うか?」
ならない。なんならいざというときにはこっちが守ってやらないといけない、多分。
俺と饗庭の共通の友人である残りの三人――近江・城井・洲鎌にしたって、俺程とは言わないまでもひょろひょろ側だ。誰一人、護衛になるとは思えない。
「それに、御門もわりと家別方向だぞ。俺の友達で、お前も知ってて、帰る方向一緒なのなんて艮野だけだ」
そうだった。こいつらは三歳からの幼馴染で家も近所なのである。
「その上腕っ節は最強だぞ? こんないい護衛が他にいるか?」
おっしゃる通り。今の艮野は多少真面目な見た目になってはいるが、そもそもこの辺一番のヤンキーで、タイマンで他所の街のリーダーを倒してきた筋肉ゴリラである。
俺がチラリと視線を向けると、艮野はなんだかドヤ顔をしてこちらを見ていた。
「でも……」
その顔にムカついて、俺は艮野を断る口実を探す。
「お前ら和解したんだろ」
「したよ、したけど――」
俺はふと気が付いて言葉を止めた。
「……そうか」
俺は別に艮野と友達じゃない。艮野がどうなろうと構わない。いざとなったら艮野を囮にして、饗庭の手を引いて逃げてしまえばいいのだ。
これが他の奴らなら放っていくのはさすがに気が引ける。でも、艮野であればなんの問題も……
「てめぇなんかつまんねーこと考えてるだろ」
俺の表情で何かを察したらしい艮野が言って、
「べっつにい」
俺はふんっとそっぽを向く。
「有里」
饗庭が、まるで幼児のワガママを窘める父親のように怖い顔で俺の目を見つめた。
「お前はお願いする側だ。艮野は頼まれてくれてるの、分かるな?」
その饗庭の肩越しに、艮野が得意げな表情で試すように俺を見ている。
俺は内心でぐぬぬと唸り、考え、ガクリと肩を落とした。
「よろしくお願いします……」
俺達は三人で学校を出た。
電車に乗って俺の最寄り駅まで行き、そこから俺の家までは徒歩で十分程度。
下校の間ずっと「もしかして声を掛けられるのではないか」「誰か飛び出してくるんじゃないか」と緊張していたが、家に帰るまで特に何事も無く。俺達はあっという間に有里家の玄関先に着いた。
「お前、いいとこ住んでるな」
別れる直前、艮野は俺の家を見上げてハァーと息を吐いた。
「聞いちゃいたけど、改めて。マジでお坊ちゃんなんだな、お前」
そう言って、艮野は何か思いついたというようにニヤリと笑った。
「いや、お坊ちゃんっつーより姫だな、姫。気位たけーし、弱っちいし、ぴったりだわ、お前に」
――思い出した。
艮野のこういう揶揄が鬱陶しくて、一年前俺はこいつを無視した。そうして関係が拗れ始めたのである。
「おい」
雲行きの怪しさをいち早く察し、饗庭が艮野の脇腹を小突いた。
「お姫様かぁ」
俺はそれには気付かないふりをして、わざとらしく大きな声で言う。そして、瞳をキラキラさせて饗庭を見つめてみた。
「じゃあ、饗庭は俺を守ってくれる騎士だね」
饗庭が「はぁ?」という顔をした。
「なんだよそれ」
「カッコいいし、似合うじゃん。騎士って感じする。――一体どこで差が付いたのやら、どこかの山猿とは大違いだわ」
俺はふんっと艮野から顔を背ける。視界の端で艮野がカチンときた顔をしているのが見えたけど、そもそもこいつが売った喧嘩である。
饗庭がげんなりした顔をした。
「ああもう、分かったから。俺もうお前らに仲良くしろとは言わないから。――せめてモメんな、めんどくさい」
こうして、素敵な騎士と粗暴な山猿、二人に送ってもらう生活が始まった。
金曜日。送ってもらうのも五日目を迎えていた。
今日まで四日、拍子抜けするくらい何にも無かった。新しい不審者情報も無いし、俺も誰も見ていない。
俺はホッとすると同時に「俺を探してる奴なんて本当にいるのかな」と、少々疑い始めていたし、これをいつまで続けてもらって良いのだろうかと悩み始めてもいた。
勿論何も無い方がいいのだけど、でも、これからどうする?
俺を一回送る度に、二人は電車代が八百円くらい掛かっていて、俺は店で貰った給料から二人に毎日電車代を渡していた。
饗庭は漁港で働いているし、艮野も家の手伝いで少々稼ぎはあるらしい。そんな二人だからいいって言ってくれたけど、まさか二人に出してもらうわけにはいかない。卒業まで毎日送ってもらっても尽きないくらいに俺の店での稼ぎも残っている。こういうときに使うお金だと思ったので、それはいい。
でも、電車代を出してるからいいって話では勿論無い。二人は一時間掛けて俺を葉山まで送った後、また一時間掛けて三浦に帰らないといけないのだ。何も起こらないままこのまま来週も……となると、あまりに先が見えなくて申し訳なかった。
それに――と、俺はいつの間にか二人で俺の前を歩き始めた饗庭と艮野の背中を見つめた。
一緒に帰り始めて改めて分かったことがある。饗庭と艮野は本当に仲が良いのだ。
それも、なんていうのかな。ベタベタした仲の良さじゃなくて、すっごく自然な感じ。
二人は二年生のとき、学校ではほとんど話しをしていなかった。それぞれのコミュニティーがあって、二人組になるときだとか班を作るときだとか、一緒になっているのを見たことがない。
それは仲良く無いからでは無くて、確実な信頼関係があるから。だから毎日つるむ必要が無い。そういうことなのだと、俺は一緒に帰るようになって気が付いていた。
俺は以前、俺達三人の関係を三角関係に例えたことがある。
幼馴染二人に俺が取り合われる三角関係。でも、それは大きな勘違いだったようだ。
――これ、取り合われてるの饗庭だわ。
俺と艮野は、饗庭を巡ってどちらの方が饗庭と親しいかのマウント合戦をしている。いや、合戦にもなってないかも。
俺は艮野に見せつけるように饗庭に絡むことがあったけど、艮野の方は饗庭といつの間にか自然に話していて、気が付いたら俺は蚊帳の外。こういうことがこの五日間に何度もあった。
艮野は多分、俺のことをライバルとも思ってない。――いや、俺だって別に思ってないけど⁉
一人で勝手に艮野の背中を睨んだが、艮野は気付く様子も無く「そうだ」と声を上げて饗庭を見た。
「明日ってチャブリ?」
「いや、長沢さんの代わり」
「あー、そっか。俺、昼過ぎだからさ」
「おー、了解」
二人は俺のことなんてほったらかしで、全てを言葉にしない会話をしている。
チャブリがなんなのか、長沢さんの代わりがどうしたのか、艮野の何が昼前で、饗庭は何を了解したのか、俺には全然分からない。
口を挟めなくて、俺は黙って二人の背中を見つめた。
俺がこれからどれだけ饗庭と時間を重ねたって、三歳の饗庭には出会えない。艮野が饗庭と一緒に過ごしてきた時間が、羨ましく、悔しい気持ちになった。
――っていうか、二人とももう、何のために俺と帰ってるのか忘れかけてないか?
おーい、もしもし。なに二人で俺の前歩いてるんだよ。俺のこと放ったらかしで、なに二人で喋ってるんだよ。今後ろから不審者が来て俺の口を塞いで抱えて行ったら、お前ら気が付かないんじゃありませんか?
恨めしく二人の背中を見ていると、後ろからタッタッタッと軽い足音が聞こえた。
えっ――と思う間も無く手を掴まれて、俺は驚いて振り返った。
「――お兄ちゃん!」
俺の手を掴んだのは紗絢だった。その後ろから、母がゆっくり歩いて来ていた。
そういえば今日は金曜日。うちが子どもの下校を見守る担当の日だ。母は近所の子どもたちを何人か送って、今帰って来たのだろう。
饗庭が艮野に小さめの声で「有里んちのお母さんと妹」と言うのが後ろから聞こえた。
「お兄ちゃん、おかえりなさい」
「おかえりなさい」
紗絢と母が言って、母は饗庭たちを見る。
「ただいま」
と俺が言い、饗庭が
「お久しぶりです」
と挨拶した。俺が艮野を紹介するべきか迷っている間に、艮野は自分で
「こんにちは。綺羅君の友達の艮野です」
と名乗った。
誰が友達だよ、と思ったが
「まあ、そうなの!」
初めて見た饗庭以外の友達に母が感激しているので、つまらないことを言うのは止めた。
「お世話になってます」
艮野が母に折り目正しく頭を下げて、俺は「こいつ意外とまともだな」と感心した。
てっきり礼儀も何も無いヤンキーかと思っていたが。なんというか、爽やかさすらある。
「綺羅の母です。綺羅と仲良くしてくれてありがとうね。こっちは妹の紗絢です。――紗絢、ご挨拶は?」
艮野は、人見知りして俺の体に半分隠れていた紗絢にニコリと笑った。
「紗絢ちゃん、こんにちは」
「こ、こんにちは……!」
すると、艮野を見る紗絢の瞳が、なんだかキラキラ輝き始めて……って待って待って! お兄ちゃんそんなのぜっっったいに認めませんよ⁉
「じゃ、じゃあまたな。今日はありがとう」
俺は慌てて艮野と紗綾の間に割って入る。
母があら、と声を上げた。
「せっかく来てもらったのに。どうぞ、上がっていって」
「うえ⁉」
俺が声を上げると、母はきょとんとする。
「遊びに来てもらったんじゃないの?」
「ああー、うん、えーと……」
俺はおずおず二人を見る。できれば話を合わせてほしい。
「いい? 良かったら上がってって」
二人がチラリと顔を見合わせてから頷いてくれて、俺は二人を家に招待することになった。
「適当に座ってよ」
俺はそう言いながら鞄を机に置く。
艮野が当たり前みたいに人のベッドにドカリと腰掛けて、「こいつは本当にデリカシーが無いな」と思った。初めてうちに来た時、カーペットの上で正座をしていた饗庭とは大違いである。
そんな饗庭ももう慣れたもので、今日はカーペットの上でベッドを背もたれに胡坐をかいた。
「つっても、別にすることも無いんだけど……」
俺がどうしようかと考えながら口を開いたとき、外からパタパタ足音が聞こえた。部屋のドアが開いて、紗絢がひょこりと顔を出した。
「なぁに?」
と俺が聞くと、紗絢は頭を振る。
「お兄ちゃんじゃなくて……」
そうして紗絢は丸い目をパチパチさせて饗庭を見つめた。
「俺?」
饗庭が優しい声で言うと、紗絢はコクリと頷く。
「饗庭君、来て」
「うん、いいよ」
饗庭はさっと立ち上がって、紗綾と共に部屋を出て行った。
「……」
「……」
急に艮野と二人になって、部屋にしんと沈黙が降りた。
――き、気まずい。
ただでさえどうしようかと思っていたのに、艮野と二人では話すこともやることも何も無い。
俺の人生に於いて、艮野と自室で二人きりになる機会があるとは思わなかった。
「……なんだろうな」
と艮野が言った。
「さあ……」
紗絢が饗庭に会うのは、昨年の十二月に饗庭が家に泊まった時以来だった。
その後の交流といえば、バレンタインに紗絢が作ったチョコクッキーを俺が饗庭に渡して、ホワイトデーに今度は饗庭からのお返しのキャンディーを俺が紗絢に渡したくらい。
「饗庭、妹さん知ってるんだ」
「知ってるよ。父さんも母さんも知ってるし、うちに泊まったこともあるし!」
艮野に言われて、俺はここぞとばかりに自慢した。
「あ、そう」
しかし、艮野の反応は素っ気ないものだった。もっと悔しがるかと思ったのに。――でも、それもそうか。
「……お前らって仲いいよな」
俺がぽつりと言うと、艮野は「何言ってんだコイツ」という顔をした。
「なんだよ、急に」
「俺には分からない世界があるなと思って」
「はぁ?」
「さっき言ってたの、俺全然意味分かんなかった」
「さっき?」
「チャブリ? とか。明日なんか、昼前がどうしたとか言ってたじゃん」
「あー、なるほどな」
艮野は俺の気持ちを察したらしく、勝ち誇った顔をした。
「そりゃあそうだ。昨日今日饗庭と仲良くなったような奴に分かるわけねーわ。こちとら三歳から幼馴染やってんだよ」
「……うん」
その通りだ。俺はしゅんと俯く。
「……」
言い返して来ない俺を見て、艮野は目をパチパチさせ、ハァと溜め息を吐いた。
「……明日、饗庭が漁港でなんの仕事すんのか聞いたの。そしたらいつもやってる荷物の積み下ろしの仕事じゃなくて、休み取ってる長沢さんっておばちゃんの代わりに食堂で働くんだって。つまり、朝市のときのお客さん向けの食事と、昼のまかない作る仕事な。そんで俺は朝から配達で、昼過ぎに漁港に荷物持って行くんだけど、そういうときはいつもそのまま食堂で昼メシ食わせてもらうんだよ。だから、饗庭も食堂いんなら一緒に食おうぜって、そういう話」
「……なるほど」
あの短い会話で、二人は明日のお昼の約束をしてたわけだ。
――そっか、こいつら明日も会うんだ。
それは別に全然特別じゃない当たり前のことで、俺には関係の無い話。
饗庭がうちの家族と面識あることくらい、一回や二回うちに泊まったことあるくらい、艮野にとっちゃなんでもない。
黙っている俺をしばし見つめて、艮野は
「お前、本当に饗庭にべったりなのな」
と呆れた顔をした。
「お前さー、マジであんまり饗庭に迷惑掛けんじゃねーぞ」
「掛けてねーよ!」
咄嗟に言い返してから、俺は「いや……」と言い淀む。
「掛けてる……迷惑はいっぱい。でも、違うんだ」
艮野が胡乱な顔で俺を見る。
「確かに迷惑は掛けてる。でも一方的に頼り切ったりしてない。俺達は相手に迷惑掛けないようにするんじゃなくて、困ったときは助け合うの。ちゃんと頼るし、頼ってもらう。そういう関係だから」
「ふぅん?」
艮野は納得したようなしてないような、曖昧な相槌を打った。
「まあ、いいんじゃね? 饗庭、楽しそうだし」
「……そう?」
「うん、なんか前よりも明るくなったし、いいと思う」
「そっか」
その言葉はなんだか嬉しかった。
「……来るか? お前も」
と艮野が言った。
「えっ」
俺は驚いて艮野を見つめた。
「言っとくけど朝早ぇぞ。配達付き合ってもらわないといけないし。それでいいなら、明日迎えに来てやるよ」
「い、行きたい!」
俺が勢い込んで言うと、艮野はニヤリと笑った。
「こき使ってやるから覚悟しとけよ」
土曜日。珍しく早起きな俺に母が目を丸くした。
「饗庭がアルバイトしてる漁港に行く」と言うと、母は嬉しそうに「まあ」と言った。
「一人で行くの?」
「あ、ううん――」
俺が言い掛けたとき、インターフォンが鳴った。
「あ、多分艮野だ」
「まあ、艮野君? 迎えに来てくれたの⁉」
母が嬉しそうにカメラ付きのインターフォンを取ると、向こうから艮野の声が聞こえる。
「おはようございます、艮野です」
相変わらずの爽やかさである。
俺に見せる顔との落差が腑に落ちないが、まあ親を心配させずに済むという点ではありがたい。
「ありがとうね、わざわざ来てもらって……」
母は玄関まで送りに出てきて、艮野に申し訳なさそうに声を掛けた。しかしそれ以上に、息子に友達ができたことへの嬉しさが隠し切れずニコニコしている。
饗庭にならいいんだけど、艮野相手だと過保護な親だと思われそうで少々恥ずかしいなぁ……
俺はチラリと艮野の様子を伺ったが、艮野は相変わらず爽やかな微笑を浮かべている。後でからかわれるのかもしれないと思うと、ちょっとげんなりした。
「お前って外面いいんだな」
家を出てすぐ、母のことをからかわれる前に、と俺は艮野に先制攻撃を仕掛けた。
艮野は目をぱちくりさせた。
「なんだよ。普通だろ、別に」
「いやいや、普段のお前見てたら、親の前でももっと失礼な態度取ると思うじゃん」
「お前俺のことなんだと思ってんの」
艮野が呆れ顔で俺を見る。
「何って」
俺は真顔で艮野を見返した。
「自分のこと強くて偉いって勘違いしてる、お山の大将だと思ってるけど」
「おい」
「クラスメイトあんなにビビらせて、大人にはちゃんといい顔できんだな」
俺の嫌味に、艮野は意外そうな顔をした。
「俺ってそんな怖い?」
「怖えよ、タッパ考えろ。――ま、俺は別にお前なんて怖くねーけど」
俺は全然怖くないけど、でも同級生がビビる気持ちは分かる。
「こんなにフレンドリーなのに……」
艮野が不思議そうに言って、俺は愕然とした。
あの誰にでも馴れ馴れしく図々しい態度。こいつ、フレンドリーなつもりなのか。
――でも、確かに。
フラットな目線で艮野を見ると、誰にでも分け隔てなく声を掛け、仲間を引っ張っていくタイプで、悪い奴じゃないんだよな。
俺以外の奴に嫌味言ってるところも見たことないし。ただ、周りが勝手にビビってたり、変に取り巻きみたいになって持ち上げてるだけ。本人は多分そんなつもりじゃないんだろう。つまり見た目で損してるんだな。
――なんだ、こいつって悲しいモンスターなんだ。
俺が哀れみの視線を送ると、艮野は何か察したらしくムッとした顔をして凄んでみせた。
「んだよ、あぁ? 何か文句あんのか?」
前言撤回。十分本人の言動のせいだ。
「つーか、てめぇに外面云々言われたくねぇわ」
艮野が苦々しげに言う。
「お前を狙ってる男がいるってんなら、騙されてんだろうなぁ、見てくれに」
「ああ、自分がそうだったからそう思うんだ」
「ちげーわ!」
艮野が大声で叫ぶ。
面白くなって俺がくくくと笑うと、艮野は砂を噛むような顔で俺を見た。
「……お前がこんなに太いタマだと思ってなかったんだよ、俺は」
「なるほどー、艮野は俺のこと繊細で純粋な美少年だと思ってたんだもんね」
「んなこた言ってねーだろ!」
俺は堪らなくなって思い切り笑った。
――艮野をからかうのは面白い。もしかしたら、饗庭をからかう次くらいに面白いかも。
二人で電車に乗って、漁港に向かった。電車の中で、三歳からの二人のこと、昔の饗庭の話を艮野にたくさん聞いた。
「いいなー、俺もちっちゃい饗庭見てみたかった」
俺が拗ねてそう言うと、艮野が少し考えて言った。
「写真ならあるけど。うちで撮ったやつとか、小中の卒業アルバムとか」
「アルバム⁉ 見たい!」
俺が目を輝かせて艮野を見つめると、艮野は拘り無さそうに
「じゃあ今度俺んち見に来る?」
と言った。
「うん! 行く行く――」
言い掛けて、俺はハッと口を閉じる。艮野が瞬いた。
「なんだよ」
「いや、お前の部屋に一人で行くわけなくない? 何されるか分かったもんじゃない」
俺はそう言って、わざとらしく身震いして見せた。艮野がうっと息を詰まらせたのを見て、俺は心の中で笑った。
ちなみに本当はもう別に、艮野を警戒も何もしていないけどね。そうじゃなきゃ、送ってもらってるのもこうして迎えに来てもらってるのもおかしな話だし。
ただ、この“ネタ”を持ち出すと途端になんにも言えなくなる艮野を見るのが面白いのだ。
艮野は俺から視線を外し、ハァと溜め息を吐くと
「じゃあ今度饗庭と来いよ」
と言った。
俺はハタと気が付いた。
「待てよ? じゃあそもそも饗庭に見せてもらえばいいじゃん」
保育所も小学校も中学校も同じだった二人は、同じアルバムを持ってるはずだ。饗庭に見せてもらえば艮野の家になんかわざわざ行く必要がない。
「危ない危ない、危うく連れ込まれるところだった」
俺は言ってやったが、艮野は深刻な顔をしていた。
「……饗庭はアルバム持ってないんじゃねーかな」
俺はぽかんとした。
「え? なんで?」
やっぱりこいつ、なんだかんだと理由を付けて俺を家に来させるつもりでは――
「かーちゃんが捨てたんじゃないかな……と思って」
艮野の言っていることに気が付いて、俺はカァッと心臓の辺りが熱くなるのを感じた。
「分からんけど、饗庭の母さんて家で饗庭が楽しそうにアルバム見てて喜ぶ人じゃないだろうし。あったとして、持ち出したと知れても事だと思うぞ」
お腹の底が燃えるように、饗庭の母に怒りが沸く。
「ムカつく……饗庭の母さんって、そんなのばっかり」
「しゃーねーよ、おばさんも好きでそんなになったわけじゃねーだろうし」
「……昔からなのかな」
「うーん……」
艮野は腕を組んで唸る。
「俺の記憶の範囲でだけど、初めて見たとき……少なくとも保育園くらいのときは普通だったと思うんだよな。小学校に上がったときも……別に……」
艮野は逡巡するように目を細めて顎を撫でる。
「うち、昔は饗庭のことよく預かってたんだ。饗庭のかーちゃん、夜働いてるっぽくてよくいなかったから。本当にもう『うちの子か?』ってくらい。当たり前にうちで飯食ってたし、泊まってたし。一緒に店番したり、配達にも二人で付いて行って。学校からうちに帰ってくるのが当然って感じでさ」
それが……と、艮野は暗い声になった。
「小三? 小四の時かな? いきなり饗庭のかーちゃんが怒鳴り込んで来て。『うちの子をどうするつもりだ! 誘拐だ!』って」
「え……」
「ポカンとしたよ、あの時は。ただまあ、確かに親権者は母親だし、うちに出来ることは何も無かった。実際に警察呼ばれたら、うちは誘拐犯なんだろうし。下手なことして、それで饗庭になんか危害が加わるのも心配で。饗庭の方も、うちに迷惑掛けたくないと思ったんだろうな。それで来なくなって」
「ええー……」
「かといって、饗庭のかーちゃんは夜出掛けるの止めるわけでも男連れ込むの止めるわけでも無かったからさ。心配はしてたよ、うちも」
小学生だった饗庭の心情を思って胸が痛んだ。
「饗庭が一人で生活できなかったり、せめてもう少し小さい内に問題が起きたなら児童相談所とか? そういうとこが間に入ったかもしれないんだけど、あいつ、一人でどうにかできちゃったもんだからさ。そういう支援にも繋がらなくて」
「そっか……」
なんかそれは想像できる。饗庭って料理も上手いし、しっかりしてるし、きっと、小学生の頃から生活全般のことを一人でちゃんとやれたんだろう。
「まあ学校行けば元気でいるのは俺が確認できるし、父ちゃん母ちゃんも道で見かけたら声掛けるくらいはしてて。メシとかもたまには差し入れて、休みの日は漁港で二人でお昼食べさせてもらったりとか。――それで今日に至るって感じかな」
「そっか……」
饗庭の傍に艮野家があってくれて、艮野がいてくれて良かったと思った。
以前、艮野一家を三浦半島から消そうとしていたことを思い出して、俺は心がヒヤリとした。あのときの饗庭の気持ちが、これまで以上に理解できた気がした。
俺はふと思いついて、気になっていたことを聞いてみた。
「ね、ねぇ、艮野は饗庭のお父さんのことは知らないの?」
「知らねーなぁ。多分だけど、今のとこに住み始めた時点ではもう饗庭とかーちゃんと二人だったと思う。うちのとーちゃんかーちゃんもなんも知らなそうだし……」
「そっか……」
「饗庭、なんか言ってた?」
「ううん。……でも、多分いつか会ってみたいんじゃないかなとは、思う」
「そっかぁ……」
なんとなく沈黙が降りた。
俺は饗庭のことで頭がいっぱいで、多分、艮野も饗庭のことを考えているのだろうと思った。
電車を降りると、駅の傍に「艮野商店」と書かれたワンボックスカーが止まっていた。俺を乗せて配達に行くために、わざわざ駅まで来てくれたのだ。
運転席に乗っていたのは髪を染めていて色黒な、少々ヤンキー感のある四十絡みのおじさんで、なるほど血は争えない、艮野のお父さんだ。
艮野のお父さんは見た目こそ少々オラオラ系だったが、明るくて親しみやすい人だった。
「凌にこんな利口そうな友達がいるとはなぁ」
そう言われて俺はなんだかくすぐったかったし、艮野が釈然としない顔をしているのが面白かった。
俺達はワンボックスカーでいくつかの個人宅や店を周り、荷物を下ろして御用聞きをした。全て終わると一度艮野の自宅である艮野商店まで帰って、新たに段ボールを六つ車に積み込んだ。
「これが漁港向け。これ持ってったら今日の俺の仕事は終わり」
艮野商店から漁港まではすぐ近所で、車で五分も掛からなかった。艮野のお父さんが段ボールが四つ乗った荷台を押して、俺と艮野は一つずつ段ボールを抱え、漁港の倉庫に納品した。
お父さんはこのまま帰るということだったので、俺は艮野と二人で漁港の食堂に向かった。
「おー、お疲れ」
食堂の扉を開けると、厨房の中で饗庭が振り返った。
午後二時前。他の人たちの昼食はとっくに終わっているらしく、食堂には饗庭しかいなかった。
「悪いな、思ったより遅くなって」
「いいよいいよ、お疲れさん。――有里も」
饗庭は俺を見てニッと笑う。
「働いて来たんだろ? 偉いじゃん」
「う、うん」
思えば今日の配達は、俺がやった初めての“まともな仕事”だ。
饗庭に褒められて、なんというか、初めてのおつかいを親に褒めてもらった子どものような気持ちになって、なんだか照れた。
「昼メシ、何?」
「魚の余りで海鮮丼かな。赤出汁もご飯も結構残ってる。もう最後だから全部食べていいよ」
「やり!」
饗庭が鍋を見ながら言って、艮野は厨房前のカウンター席に勝手に座る。
俺も艮野に倣って彼の左隣に座った。カウンター席は調理台の向かいで、包丁を取る饗庭とちょうど向かい合う形だ。
饗庭は余り物らしい魚の切れ端を綺麗に切り分けていく。慣れた手つきで魚に包丁を入れるのを見て、俺は思わず声を上げた。
「饗庭って魚も捌けるの?」
「え? うん、まあ。ここで働いてたらこれくらいは」
「すごい、カッコいい」
俺はキラキラした視線を饗庭に向ける。
饗庭は少し照れた顔をして俺から目をそらし、
「艮野もたまに食堂手伝ってるし、別にこれくらいできるよな」
と言った。艮野が得意げな顔をした。
「おうよ」
「それは別にいい」
「おい」
あっと言う間に五種類くらいの魚が乗った海鮮丼が三つできあがった。
饗庭は折りたたみの椅子を引っ張ってきて、調理台をテーブルに俺たちと向かい合って座った。
「どうだった? 艮野んちの仕事は」
饗庭が俺を見て言う。
「楽しかったよ。肉体労働だし、毎日は大変だろうなと思うけど……でも、楽しかった。――あと、結構びっくりした。商店の仕事って、お店で待ってて人に物を売る仕事だと思ってたんだけど、配達する物も多いんだな」
艮野は頷く。
「そういうもんなんだよ。なんで潰れないんだろうって思うような、客のいない商店街の電気屋とかあるだろ? ああいう店って、実は店頭販売は売上の数パーセントで、別で大口の顧客持っててそっちが本業だったりするんだけど」
「ふぅん?」
「うちもそう。こことかとの大口の取引がメインで、店自体はもう、本当は無くてもいいくらいなんだ。でも、無くなると近所のじいちゃんばあちゃんたちが溜まる場所が無くなるからさ。ご近所さんのコミュニケーションの場になればって、続けてる感じ」
「じゃあ、いつかは艮野がお店継ぐの?」
俺が聞くと、艮野は頷いた。
「一応そのつもり。妹と弟には好きなことさせてやりたいし。それに俺自身がもう、ここに住んでる人たち捨てられんわ。皆どんどん歳取っていって、今元気な人もいずれ病気したり、歩くのも大変になるだろうし。店は続けなきゃな。日々の生活もだけど、なんかあった時に頼れる場所が無いと」
「……偉いんだな、お前って」
「へぇ⁉」
艮野は目を丸くした。
「なんだよ、怖えな。何企んでんだ」
「企んでねーよ!」
思わず叫んでから、グッと感情を抑える。だってせっかく褒めてるんだから。
「ちゃんと本心だって。尊敬する」
「ふぅん」
「乱暴でデリカシー無くて図々しくてお山の大将なとこを除けば、本当に偉いよ、お前」
「喧嘩売ってんのかてめぇは」
俺は思わず声を上げて笑い、艮野は納得いかなそうな表情で俺を眺めた。
ふと気が付いた。
――饗庭と艮野って、一見全然違うけど似てるんだ。
この街の環境の中で、一緒に育ち、同じ価値観を育んで。
もし俺がもう少しだけ素直で、四月に艮野から声を掛けられたときに普通に対応していたら。もしかしたら今頃、俺は艮野と仲良くなっていたのかもしれないな――なんて思った。
――まあでも、どう転んでも恋愛関係には絶対ならないけど。
それはやっぱり、饗庭だから。饗庭でなければあり得ない。
饗庭と同じくらいいい奴なのは認めよう。しかしこんなガサツで喧嘩っ早い山猿、全く俺の好みでは無い。
俺がそーゆー意味で艮野を好きになることは、天地がひっくり返っても無い。
俺がひとりでそんなことを考えていると、艮野が胡乱な目で俺を見た。
「お前またなんかすんげぇ失礼なこと考えてない?」
「いやー、全然?」
俺はひとりでクククと笑い、饗庭と艮野はどうしたことかと顔を見合わせた。
夕方。俺は二人にまた家まで送ってもらって、ベッドにダイブした。
――楽しかった。すごく充実した土曜日だった。
半年ほど前まで考えられなかった生活だ。同い年の子たちと等身大の休日を過ごすのが、こんなに楽しいなんて。
今までずっと独りでいて、高校二年生になって相手をするようになったのは店に来る大人たちばかりだった。その人たちとのお金を介在させた付き合いと、饗庭とか艮野とか、その他の友人たちとの付き合いは全く違うものだと感じる。
饗庭に出会わず、これまでの生活がまだ続いていたらとゾッとするし、本当に「こちら側」に来られて良かったと心から思う。
俺はごろりと寝返りを打って、大の字になり天井を見る。
――いろんな奴がいたよなぁ……。
これまでの四ヶ月、敢えて思い出すことをしなかった店での出来事を改めて思い出してみた。
勝手に貢いできて、俺が靡かなかったら途端に見切りを付けて冷たくなり、目の前で他のお姉さんに高い酒下ろして嫌がらせしてるつもりになってた奴。
とにかく下世話で嫌らしい話ばっかりしてきて、隙さえあればベタベタと触ってこようとする奴。
下心なんてなーんも無いように見えていた奴に酔わされてホテルに連れ込まれたこともあったし、月三十万円で愛人契約のお誘いもあった――
「……」
頭の中で、何かが引っ掛かった。
俺のことを月三十万で愛人にしたいっておじさんがいたんだ。会うのは月に二回。それで三十万。
本気で言っているなら正直かなりの高条件だけど、高条件過ぎて逆に怖い。それに、それを言われた頃ってもう、饗庭と一緒に修学旅行に行くことが決まっていた時期だった。
もしかしたら、もう少し前の俺なら話を受けてしまっていたかもしれない。でも、呆れ果てた饗庭の顔が頭に浮かんで、俺はその話を受けようとは思えなかった。
それで何度も丁重にお断りしてたんだけど……。ある日見送りをして店に戻ると、席に置いてあったハンカチの下に十万円が入ったポチ袋が置いてあったんだ。
「手付金」と書かれていて、俺は慌ててその金を店長に渡した。
「あの人NGで。これは返しておいてください」
って伝えて。
俺はその人に断りのメッセージを送った後、彼の連絡先をブロックした。どうせまたすぐに次の子を見つける。だからこの話はこれで終わり。そう思っていた。
――でももし、あの十万円がその人に返っていなくて、俺が金だけ持って消えたと思われていたら……?
それはもしかしたら、探す理由になるかもしれない。
多分十万なんてあの客には端金だとは思うけど。でも、だからこそ十万以上の金を使ってでも俺を探し出して、償わせようとすることはあるかも……
――まさか店長、着服したりはしてないよな?
いや、店長はそういう人では無いとは思う。人柄的にもそうだけど、店に雇われて毎月それなりの金を貰っているいい大人が、十万円程度でトラブル起こすようなことはしないと思うし。
――でも、今はもうそれしか考えつかない。
俺は店に関わる全てのデータをスマートフォンから消して、貰った名刺など物理的な物も全て捨ててしまっていた。
その客に纏わる情報も、店長の個人的な連絡先も分からない。俺はいても立ってもいられなくて、インターネットで店の電話番号を調べて電話を掛けてみることにした。
「――はい、クラブ一夜草です」
ワンコールで、聞き覚えのある店長の声がした。
「あ、あの……すみません。昨年お世話になってた、アリサです」
「アリサちゃん⁉」
電話の向こうから、驚いた声が聞こえた。
「お久しぶりです。急に辞めちゃって、すみません……」
「びっくりしたよ。本当は高校生なんだって?」
「そうなんです。あのー、すみません、ご迷惑お掛けしました……」
指名客への対応も出勤の予定も全てすっぽかして飛んだのだ。俺は恐縮するしかない。
「アリサちゃん真面目だったから、急に来なくなって皆びっくりしてたよ。アサヒさんとか、セヤさんもがっかりしてたし。それに、イズミ君が一番落ち込んでた」
店長の苦笑する声に、俺は内心ハテナを浮かべる。
えーっと、全員誰だったっけ。どの名前も聞き覚えはあるけど……どんな客だったかまでは覚えてない。
「ええと、あの、皆さんによろしくお伝えください。急に辞めてすみませんって」
俺が恐縮しながら言うと、店長は拘りなく笑う。
「いやー、男が出来て飛んじゃう子なんて珍しくないからね。気にしない気にしない」
「は、はぁ」
俺は別に男が出来て飛んだわけでは……いや、そういうことになるのかな?
店長は何故か楽しそうだった。
「あの時の同級生の子でしょ? 正直、見た瞬間に『あー、これはアリサちゃん近々辞めるな』と思ったよ」
「す、すごい」
さすが店長。長年ああいう店で人を見てきただけのことがある。思わず感心してしまった。
「あ、それで、僕、店長に聞きたいことがあって。それで電話したんです」
このまま店長のペースに呑まれそうな自分に気が付いて、俺は慌てて本題に入った。
「え、何?」
「なんか……、僕が辞めた後、僕のこと探してるような、そんなお客さんいないですよね?」
店長は怪訝そうに言った。
「何? ストーカーにでも遭ってるの?」
「あ、やぁ、まだそこまででは無いんですけど……」
そこまでなのかな? でも姿を見たわけじゃなく、実害も無いし。
「あ、あの、ほら、十万円置いていったお客さんいたじゃないですか? 店長にNGにしてもらった……」
「ああ、いたねぇ」
「あの人とか――」
俺が言い掛けると店長は笑った。
「あの人なら今はサクラちゃんに貢ぎまくってるよ。サクラちゃんも上手いから。もう全然、アリサちゃんに未練があるとは思えないな」
「そ、そうですか……」
「他の人も別に……。来なくなった人もいるけど、来てる人は新しい子見つけてるし、アリサちゃんの話題が出ることもないよ」
分かっていた。店の客なんて皆、別に真剣に俺のことを見てたわけじゃない。いなくなれば一瞬で次の人を見つける。
分かってはいたけど、はっきりそう言われるとなんだが俺が自意識過剰みたいで、ちょっと恥ずかしい気持ちになった。
「分かりました。すみません、もう少しこちらで確認してみます」
俺が言うと、店長は軽い口調で笑った。
「まあ何かあったら店に相談してよ。――アリサちゃんの復帰も、いつでも大歓迎だからね」
不審者の話は意外にもすぐに決着が付いた。
日曜の晩の、夕飯の後の家族団欒の時間。父のスマートフォンに一通のメッセージが届いた。
「つ……、捕まった……?」
俺が呆然と呟くと、父はメッセージを見て頷く。
「巡回中の警察官が、女の子の跡を付けてる男を捕まえたって。九時のニュースに出るんじゃないか」
俺は急いで饗庭にメッセージを送る。すぐに饗庭から電話が掛かって来て、俺は部屋に戻って電話に出た。
「捕まったって⁉」
開口一番、饗庭は言う。
「うん、多分、今夜ローカルニュースくらいにはなるんじゃないかな」
「そっかぁ……」
「うん……」
沈黙が下りて、しばらくすると饗庭が息を吐いた。
「とにかく、良かったよ」
「うん」
頷きながら、急な幕切れに俺はなんだかしんみりしていた。
「終わっちゃったから思うけど、饗庭に送ってもらうの、楽しかったな……」
いつまでも続いたら困るとは思っていたけど、こんなにいきなり終わるなんて。
「明日からも送ろうか?」
饗庭が言って、俺は慌てた。
「いやいや! いいよ、それはいい」
そんな、これ以上迷惑は掛けられない。
「ま、とにかく一件落着だ。――迷惑掛けたな、ありがとう」
「いや、良かったよ。艮野にも言っとく」
「うん、ありがとう。よろしく」
通話を終えて、俺はベッドの上で呆然とした。
――終わってしまった。
なんだか呆気無くて、実感が無かった。
その夜九時のローカルニュース番組では、三十代の無職の男が小学生の女の子の跡を付けているところを巡回中の警察官が捕まえたと、確かにニュースになっていた。
翌月曜日。俺は久々に一人で家に帰った。今日は授業が一時間短くて、いつもよりも少し帰りが早かった。
うちがあるのは閑静な高級住宅街。住宅街の中の路地は基本的に住んでいる人しか通らないので、日中のこの時間近所には人通りがほとんど無い。しかし家と家の間の道が広く見通しが良くて、本来不審者が出るような場所では無いから、一人で歩いていて怖いことは何も無かった。
当たり前の日々が戻ってきただけだったが、とはいえひとりの帰り道は久々で、なんだかちょっと淋しかった。
――別にそういうんじゃなくても、また三人で帰ることがあってもいいよな。
ひとり歩きながら、俺はふと考える。
そうだ、今度は二人を家に招待しよう。今回のことのお礼もしたいし、お母さんに頼んで、夕食に招待してみるとかどうかな。
艮野にアルバム持って来させて、二人の昔の写真を俺の部屋で一緒に見るのなんて楽しいかも。
想像するだけでワクワクして、俺は一人で笑った。――ちょうどその時。
家の角から、男が一人飛び出してきた。
「アリサちゃん」
俺は驚いて立ち止まる。目の前に、見覚えのある顔が立っていた。
「あ……、え――?」
誰だっけ。俺は瞬時に頭の中の記憶を辿る。そうしてすぐに思い出した。
一夜草のイズミ君――あの店でボーイをしていた、四十後半の、細身の男。
俺は驚いて頭の中が白くなり、なんだか急に現実感が無くなるような感覚がした。頭の中で父さんと店長の声がした。
――四十代くらいの細身の男。男子中学生の腕を掴んで「アリサちゃん」と呼んだらしい。
――イズミ君が一番落ち込んでた。
俺は今更気が付いた。
俺は店ではもう高校を出ている十八歳の設定でやっていた。学校帰りの、恐らく制服姿の中学生に声を掛けている時点で、そのことを知らないはずの客がストーカーではありえないのだ。
そうだ。それに、店の人たちだけが俺の本当の住所を知っていた。はっきりどの家とは知らなくても、遅くなった日に店の送りの車で近くまで帰ったことが何度もあったし、日々の雑談の中でも家の場所を別に隠していなかった。
頭の中で、点と点が繋がっていく。
「アリサちゃん、やっと会えた」
と男は嬉しそうに言った。
「あ、あの、え? なんでここにいるんですか……?」
なんと言ったらいいか分からなくて、とりあえず口から出たのは当たり前の疑問。
「君が急にいなくなったからだよ。当たり前だろう、探しに来たに決まってる」
「な、なんの用ですか……?」
「なんの用って」
男は半分ワクワクしたような、半分呆れたような、微妙な顔で笑った。
「約束だったでしょ? お店を辞めたら付き合おうって。僕と付き合うために辞めてくれたんだよね? だから会いに来たんだよ」
「は――」
一瞬のうちにいろんなことが頭を巡って、何も言葉が出てこず、動くこともできなかった。
――そうだ、俺、この人ちょっと苦手だったんだよな。
このボーイはあまり人とコミュニケーションを取らない寡黙な人だった。
キャストに対しても律儀で慇懃なところがあって、こういう店で働くにしては真面目で堅すぎるんじゃないかなぁなんて思っていた。
それが、店を辞める三ヶ月くらい前からかな。それまで「アリサさん」と呼んでいたのが「アリサちゃん」になり、俺にだけなんだか妙に馴れ馴れしくなって、なんとなく嫌だった覚えがある。
店のキッチンに自分だけ呼ばれて、こっそりお菓子を貰ったりして。「餌付けか?」と思いながらまあ、貰うものは貰っていたけど。
その内店のお姉さんたちにも「アリサちゃんあのボーイさんと付き合ってるの?」なんて聞かれるようになって、否定するのにうんざりした覚えがある。
そういう人達が集まる店とはいえ、俺自身は男と恋仲と思われるのはゾワッとするので、その勘違いは全く迷惑な話だ。――あ、勿論饗庭は別だけどね。
「なんのことですか……?」
俺が言うと、男の顔色がさっと変わった。
「覚えて無いって言うの……?」
覚えているわけがない。俺が一介のボーイに「店を辞めたら付き合おう」なんて、そんなことを言うわけがない。
ただ、そういうようなことを客には言っていた。その席にこの人が同席していることもあった。
「素敵だなと思う人がいても、このお仕事をしてる内は……」
って。まるで相手のことを素敵だと思っているかのように匂わせて話す。
俺からしたら、その場を盛り上げてお客さんにいい気持ちになってもらうための営業トーク。給料分の仕事をしただけだ。
それを何、この人は。「お店を辞めたら付き合いたい」って、自分へのメッセージだと思ってたってこと?
――客みたいな勘違いしてんじゃねーよ!
と心の中で叫んで、実際声には出なかった。
「この間の男の子は彼氏……?」
「えっ」
俺はドキリとした。
饗庭と一緒にいるところを見られたのだろうか。
「土曜日、朝一緒にいたでしょ。背が高い……ガッシリした感じの……」
――艮野かい!
「違います!」
俺はムキになって叫んだ。とんでもない勘違いだ。
「でもなんだかお似合いだったし」
――んなわけあるか! と、俺は心の中で絶叫した。
あんな奴と似合いで堪るか。つーかこいつ、朝から見張ってたのかよ。
なんで艮野といるとこ見てんだよ。どうせなら饗庭といるところを目撃しろ。そうしたら正真正銘にお似合いで、お前なんて入る隙が無いことが分かっただろうに。
「隠さなくていいよ、本当のことを言って。あの子と付き合い始めたから、僕はいらなくなったんだ」
「いや本当に! ぜっっったいに無いです! 違います!」
「じゃあどうして僕の前から姿を消したの」
「いや、ええと、貴方の前からとかじゃなくて、単純に自分の都合でお店を辞めただけで……」
「お店を辞めたら付き合おうって! そういう約束だったじゃない!」
「いやいやいやいや……!」
「ねぇ、僕のどこが駄目なの。お金ならあるよ。仕事もある。その辺の男と違って優しいし、見た目だってほら、若く見えるって皆に驚かれるし!」
あんまり覚えてないけど、この人確か四十歳過ぎて仕事転々としてなかったっけ? 今のボーイの身分だってアルバイト。お店で「優しい」って言われるのは他に褒めるところが無いからで、実年齢より若く見えるのは、苦労したことの無さそうな妙に幼い顔のせいだ。
「ね、僕のことカッコいいと思うでしょ? アリサちゃんがそう言ってくれたんじゃない!」
そうだっけ? それはごめん、マジで覚えて無い。なんか、流れでそんなことを言ったことはあったかも……。ただ、店員なら客と違って、その場の流れと空気で言っただけだと、当然分かってくれていると思っていた。
「なにか……勘違いがあるみたいですね」
俺は敢えて冷静に、冷たい声を出した。諦めさせるにはその方がいいと思ったからだ。
脈無しであることを徹底的に分かってもらって、二度と来ないように帰らせないと。
「僕――俺、付き合うなんて言ってません。そんなつもりありません。諦めてください」
「アリサちゃん……」
男は絶望したような声を出す。
「俺、もうアリサちゃんじゃないんで。別の子探してください。俺は本当にそんな気無いから」
「……か」
「は?」
「騙したのか!」
いきなり大声で叫ばれて、俺は思わず身を縮めた。
不覚にも「怖い」と思った。
「来いよ!」
男が俺の腕を掴んで引っ張った。
「ひっ!」
喉から出たのは細い声だった。
本当は大声で叫びたいのに、恐怖で声が出なかった。
母に貰った防犯ブザーは、通学鞄の外でジンベエザメのぬいぐるみと一緒に揺れていた。
そこにあるのに、左腕を掴まれて、左肩から掛けていた鞄に付けている防犯ブザーを、上手く手に取ることができない。
俺は力いっぱい踏ん張って、なんとかその場に留まろうとした。力負けして少しずつ引っ張られていたけれど、これ、こいつは俺をどこに連れて行こうとしてるんだろう?
多分だけど、この人も自分がどうしようとしているのか分かっていない気がした。
ただただ興奮して、闇雲に連れて行こうとしている。その理性の無い様子がより怖かった。
「や……やめて……」
小さな声しか出なくて、そんな自分が情けない。涙が出そうになった。
――ああ、今日も二人がいてくれたら……
パシッ――突然、男と自分の間に広い背中が割り込んで、男の腕を掴んで捻り上げた。
男は痛みに叫んで思わず俺の腕を離す。同時に、別の手に後ろからグイと引き寄せられて、俺はそのまま誰かの胸に庇われた。
――饗庭だ。
すぐに分かった。パッと顔を離して確認すると、至近距離に緊張した表情をした饗庭の横顔があった。
「おい――なんだお前、どういうつもりだ。こいつになんの用事だよ」
そしてその視線の先に、男の腕を捻じり上げている艮野の背中。
饗庭は俺を背中に庇って艮野と男の方を向いた。
――な、なんで二人が?
俺は怒涛の展開に付いていけず、パニックを起こして固まった。
艮野は男の手を捻り上げ、睨み付けたままで言う。
「警察呼ぶか?」
「待って!」
俺はハッとして慌てて叫んだ。
「待って……いい……警察は、困る」
艮野が不審そうに俺を振り返る。
「親に知られたくないんだ。警察はいい……もう来ないでくれるなら……それで……」
艮野は饗庭を見た。饗庭が少し迷いながらも頷いて、艮野は忌々し気に男の腕を離す。よろめいて後ろに倒れそうになった男の胸倉を掴み、グイと引き寄せて凄んだ。
「おい、お前次あいつに近付いたら承知しねーからな。二度とこの辺りに来んな。分かったか」
「は……はい……」
男は青くなって、情けなく目を白黒させている。
「いいか? 俺が許さん。こいつに用あんなら俺に話通せ」
「わ、分かりました……」
「行けや」
艮野は突き放すように男の胸倉を離した。よろけながら背を向けた男の背中を艮野がドカリと蹴って、男はつんのめるように二、三歩進み、そのまま這々の体で道の角に消えた。
後に残された俺たちは、少しの間、男の消えた角を見てそのまま黙って止まっていた。
男が完全にいなくなったのを確認してから、艮野が振り返った。先に饗庭と目を合わせて、それから二人でこちらを見た。
「有里、大丈夫か? 手は?」
饗庭が俺の左腕を取って手首の辺りを見る。
「あ、うん。大丈夫大丈夫。ちょっと引っ張られただけ」
「赤くなってる」
「全然大丈夫。そんなヤワじゃないよ。すぐ治るって、痛くない」
「そう?」
「饗庭、ありがとう。なんで? なんでここにいるの?」
ドキドキしている。
こんなピンチに駆けつけてくれるなんて、まるで本当に、物語に出てくる騎士のようだ。
「艮野と話したんだ。捕まった人、本当に目撃されてた不審者と同一人物なのかって。だって、目撃証言と歳も体形も違うだろ? それに女の子の跡を付けてたって……。それで、今日も一応有里の後ろ、付いて行ってみようと思って」
「そんな……」
「言ってなかったのは、ごめん。お前も気ぃ遣うと思ったし、俺達が勝手にやるだけだからって」
饗庭はそう言って、眉を困らせた。
「ごめんな、もっと早く出ていけばよかったんだけど、声聞こえないし、最初は普通に知り合いの人と話してるのかどうか、判断付かなかったから……」
「ううん。ありがとう……饗庭、嬉しい……。来てくれて嬉しい!」
俺は本当に感動してしまった。なんてちゃんと考えてくれているのだろう。饗庭は正真正銘、俺を守ってくれる騎士だ。
――なんだもう、ホント、大好き!
今すぐ抱き着きたい気持ちになった――が。
数歩離れた先で黙ってこちらを見ている艮野の存在を、このまま無視するわけにもいかないだろう。どう考えても、奴を追い払えたのは艮野のおかげだ。
俺は艮野を見ずに言った。
「いやー、艮野の輩顔がこんなとこで役に立つとは思わなかったな」
「誰が輩顔だよ」
艮野が応戦して、
「有里」
饗庭が父親のように窘める声を出す。俺は渋々艮野の顔を見た。
「……ありがとう」
「おう」
艮野は何でも無さそうに返事をする。その頬に少し、照れが見えた。
まあこいつもそういう可愛いところはあるよな。今回ばかりは、ちょっと認めてやらなきゃ仕方ないか。
……そんな強がりを言っている場合でも無い。人として。
俺は二人に向き合って、深々と頭を下げた。
「ご迷惑お掛けしました。二人ともありがとう。本当に助かった」
俺はこの幼馴染コンビの相性の良さを改めて思い知った。
二人で話し合い俺の跡を付けて、艮野が犯人の動きを封じ、饗庭が俺を庇って引き離す。ちょっと妬いてしまうくらいの、素晴らしいコンビネーションだ。
――二人の関係に焼きもちを焼いても、きっと仕方ないんだろうな。
饗庭のことは大好きだけど、饗庭の傍に艮野がいてくれて良かったって、今は本当に思う。
俺を守ってくれた二人の騎士に、俺は心から感謝した。
俺――有里綺羅は、高校三年生になった。三浦半島の先の海の見える高校で、ごくごく普通で平凡な、高校生らしい毎日を送っていた。
だが、もう三年生になったというのに卒業後の進路は実はまだ決まっていない。
少し前までは就職する気でいた。早く家を出て独りになって、有里家に関わらずに生きていきたかったから。
でも今は、そういうわけでも無くなって。
改めて考えてみると、一年後自分が仕事をしている姿は全く想像できないし、かといって大学や専門学校で学びたいことも見当たらない。
一応、昨年の十月に学校に提出した進路希望調査表では就職希望になっていたから、学校側は俺を就職希望として扱っていて、俺はそれを敢えて訂正せずにいた。
だって、饗庭が就職希望だから。
三年生のクラスは全部で六組。難関大学に行く人は一組、就職する人は六組……というように、進路ごとにクラスが分かれるのが恒例だ。これで俺が(受かるかどうかは別として)難関大学なんて志望してしまったら、確実に饗庭とクラスが分かれてしまう。
就職希望同士なら、基本的には同じクラスになれるはず。そう思って、俺はしれっと何も言わずにいた。
とはいえ、都合よく同じ進路の人が綺麗に一クラスにまとまる人数になるはずもなく、クラス分けはグラデーション。もしかしたら隣のクラスに分かれてしまうかもしれない危険性があった。
だから俺は神川先生に念入りに
「来年も饗庭がいてくれないと不安」
「饗庭と一緒のクラスじゃないと行事に出られない」
と、日々“相談”しておいた。その甲斐があって、目論見通り俺は饗庭と同じクラスになれた。
学校側としても、唯一俺の事情を把握し、かつ積極的に面倒を見てくれる饗庭をわざわざ別クラスに引き離す理由は無かっただろう。
全てが上手くいっている。毎日が楽しい。半年ほど前まで考えられなかったことだ。
俺は今の生活に幸せを感じる度に過去を思い出してヒヤリとし、二度とあの頃には戻りたくないと強く思う。
勿論、これまでのことが無かったことにはならないし、過去があったからこそ今の生活があるというのも分かっている。
――でも、どうもう出てこないで。
俺は過去の自分に、これからの自分を決して邪魔されたくなかった。
どうか、ずっと穏やかに。これまでの分も幸せに。何事も無い当たり前で普通な毎日を、饗庭と楽しく過ごしていきたい……
「不審者?」
俺は目の前のケーキから顔を上げて母を見た。
日曜日の麗らかな午後、おやつの時間。
俺は紗綾と二人、ダイニングのテーブルで母が作ったケーキを食べていた。
リビングのソファには父と母が座っていて、母のスマートフォンの画面を眺め、二人で深刻そうに話しをしていた。
俺は両親の会話に耳を止め、二人の方を見た。
「何? 変な奴出たの?」
「そうみたい。まだ詳細は分からないんだけど……」
と、母が俺を見て不安げに頷く。
新学期を迎えてまだ数日だというのに、既に妹、紗絢の保護者たちで作られるメッセージグループに不審者情報が入ってきているらしい。
有里家のある地域というのはとても治安が良い。所謂高級住宅街と言われている場所で、家々は大きく道路の区画も広い。経営者や有名人も多く――端的に言ってお金持ちの住む土地柄だったから、セキュリティのしっかりした家ばかりで、そんなところに不審者が出るのは珍しかった。
そういう場所だから余計に、保護者たちも突然の不審者情報に少々狼狽えているらしい。先ほどから保護者たちのメッセージグループは活発に動いているようだ。
どういう理屈か知らないが、春になると不審な人物が増えると聞いたことがある。何か、暖かくなると草木の芽吹きや動物たちの目覚めと共に、そういう人たちも活動的になるんだとかなんとか……?
俺には変質者の気持ちはさっぱり分からないが、そういうものなんだって。
可愛い妹を持つお兄ちゃんとして俺もとても心配になったし、その不審者に対して怒りも沸いた。紗綾に怖い思いをさせるようなことがあったら、絶対にただでは置かない。
「次の金曜がうちの番だって。――大丈夫か?」
と、スマートフォンから顔を上げた父が母を見て言う。
しばらく保護者たちのグループで、持ち回りで子供たちを送って帰ろうということになったらしい。
だが勿論その時間父は仕事で、必然的に専業主婦の母が迎えの担当になる。
「俺、行こうか? 金曜帰って来るの早いよ」
良いことを思いついたと思って俺が言うと、紗綾が目を輝かせて俺を見た。
「お兄ちゃん、お迎えに来てくれるの?」
ああ、なんて可愛い。こんな風に言ってくれたら、不審者情報関係無く毎週迎えに行きたくなってしまう。しかし、
「あら、そんなの綺羅が心配で結局お母さんも行かなきゃいけないじゃない」
と母が真顔で言った。
「いや、俺は別に……」
俺もう高校生だし。っていうか、男だし。
「何言ってるの。綺羅、可愛いもの。ね、綺羅もちゃんと気を付けるのよ。――そうだ。防犯ブザー、紗絢の予備のやつがあったでしょう。あれ持って行く?」
母はそう言うや否や立ち上がり、棚の引き出しを開けた。
「ええっ、いいよ、そんな、小学生用でしょ?」
「安全には変えられないのよ」
真剣に心配している様子の母の言葉に、愛情を感じてくすぐったい。
――ていうか俺、ちょっと前まで独りで夜出歩いてたのに、そんな心配してもらえるんだ……
心配してもらっている嬉しさと申し訳無さとで、心がソワソワした。
すぐに防犯ブザーを見つけた母は、俺に手渡してくれる。薄い水色の防犯ブザーは、コロリとしていていかにも小学生向けの可愛いヤツ。
正直なところこれを付けて登下校するのはかなり勇気がいる気がする。
しかしここはまあ、母の気持ちを優先したい。
俺が素直に
「ありがとう」
と微笑んで受け取ると、母は安堵の表情を浮かべた。
広義の反抗期を乗り越えて、俺は今、家族との仲が頗る良い。母が心配してくれる、その気持ちがなにより嬉しかった。
「本当に気を付けた方がいいかもしれないぞ」
とスマートフォンから顔を上げた父が言って、俺はぽかんとした。
まさか父まで「綺羅は可愛いんだから」なんて言うんだろうか。
同性の父さんに言われるのはなんか、母さんに言われるより小っ恥ずかしいんだけど……。
俺は思わずドギマギした。しかしそんなことには気が付かない様子で、父は真面目な顔をしている。
「今、ヒマリちゃんパパから連絡が来たよ。昨日声を掛けられたのは、学校帰りの中学生の男の子だって」
「うぇ」
俺は思わず声が出た。
実在するんだな、そんな奴。
「あなたそれ――声を掛けられた子は大丈夫だったの? 犯人は捕まったの?」
母が不安そうに言う。
「被害者に怪我は無し。犯人は逃走して捕まってないそうだ」
父はスマートフォンに目を落とし、文面を読む。
「犯人は四十代くらいの細身の男。――男の子の手を掴んで『アリサちゃん』と呼んだらしい」
いつもの昼休み、いつもの史学準備室。俺と饗庭はいつも通り昼食を食べていた。
いや、いつも通りでは無いかもしれない。饗庭は元々あまり自分からバンバン話しをしてくる人間では無く、話題を振る側である俺は、気に掛かることがあって雑談する気持ちになれない。
俺達は黙々と食事をしていた。饗庭は特に沈黙を気にしていないようだった。
しばらくして俺は口を開いた。
「饗庭……知ってる? うちの近くに不審者が出たの」
「いや? 知らない」
饗庭は弁当を食べる手を止めて俺を見た。
「捕まったの?」
「ううん、まだ」
「そっか。紗綾ちゃんもいるし心配だな」
「そう」
俺は頷く。
「あのね、勿論、紗綾のことが一番心配なんだけど。でも……」
「うん?」
「俺、自分のことも心配で……」
俺は饗庭に不安そうな顔をして見せる。饗庭は不思議そうに俺を見て
「大丈夫だろ、男は」
と言った。俺は饗庭をじぃっと見つめる。
「でも俺、そこら辺の野郎と違って可愛いじゃん? か弱くて儚げだし……」
「ああ、はい」
饗庭は「またいつものやつか」と言いたそうな反応をして弁当に視線を戻した。
どうやら俺の普段の言動が禍しているようだ。全然心配してくれてない。
弁当を食べている饗庭をしばらく眺めてから
「中年の男が、男子中学生の腕を掴んで『アリサちゃん』って言ったんだって」
と俺が言うと、饗庭は目を見開いてバッと俺の顔を見た。
「お前んちの近くで?」
「うん」
「中年の男が?」
「うん」
「アリサちゃんって?」
「うん」
「……え?」
「これってやっぱりそういうことだと思う?」
「……」
饗庭は俺の顔を見たまましばし絶句し、はぁぁと大きな溜め息を吐いて手で額を抑えた。
「なにそれお前、有里、そんなの確実に店の客がお前探してんじゃん」
「やっぱり?」
「そうだろ。――なんで客に家の場所教えるんだよ」
「教えてねーよ! 店では家は藤沢ってことにしてた。だから、なんで近所にいるのか分からない」
「つけられてたんじゃねーの? そういう危ない奴いたの?」
「うーん……」
店を辞めて四ヶ月以上経っていた。正直なところ俺はもう、店で会った客のことなんてほとんど忘れている。
確かに俺は店の中でも人気があったし、本気で狙われていると感じることもしばしばあった(それを利用して上手いこと金を出させるのが仕事だったわけだが……)。
しかし辞めた後もまだ追い掛けてくるくらい、本気で俺に執着しているような奴はいなかったように思う。
「なんかヤバそうな人いたじゃん、俺が店に行ったとき。あの人とかは?」
「ああー」
饗庭に言われて、俺は嫌な客を思い出して顔を顰める。
「でも、ああいう人って意外と大丈夫だよ」
「そうなのか?」
「社長だもん。社会的な地位があって、危険を冒さないからね。従業員抱えて、妻と子どもがいて、男子高校生にストーカーも無いでしょ」
「そういうもん?」
「うん」
俺は頷く。
「それにああいう人って、別に俺じゃなきゃいけないなんてことないんだよ。俺がいないならそれはそれで、絶対今頃新しい子見つけてる」
「うーん」
饗庭は目を閉じて唸る。
「でも……、客だとしか思えないだろ。他に心当たりは?」
「心当たり、かぁ……」
俺は頭の中に、今まで関わって来た客たちをうっすらと思い浮かべた。元々一人一人に思い入れなんて何にも無かったし、意識して思い出さないと名前も顔も出てこない。
それくらいどうでもいい人ばかりで、特にこれといった思い出も無く、「こいつだ!」って奴、別にいないんだよな……。
「もしかしたら、俺は本当に関係なくて別のアリサちゃんなのかも」
俺が言うと、饗庭は顔を顰めた。
「そんな偶然あるかぁ? 腕掴まれたのが男子中学生なら、少なくとも探されてるのは中高生くらいの男なんじゃない?」
「俺以外にアリサちゃんって男の子がいる可能性も……」
「お前んちの近所に? ストーカーされる男のアリサちゃんが?」
「いないかぁ……」
「……」
しばし沈黙が下りて、饗庭が「分かった」と言った。
「とりあえず、しばらくは送って行くよ」
「えっ」
思ってもみない提案だった。確かに相談したのは自分だけど、別に、送ってもらおうと思って言ったわけじゃない。ただ不安を共有したかっただけだ。
ついでに言うと、ちょっと心配もしてほしかったのは本当だけど。
「いや大丈夫だよ。遠いのに、悪い」
「一人で帰るの危ないだろ。もしそいつが探してるのがお前じゃなかったとしても、男子中学生の腕掴む奴が出てる時点で普通に危ないし」
「でも俺送ったら帰りお前が一人じゃん」
「俺は別にいいだろ。誰かさんと違ってか弱くて儚げじゃないんだから」
「駄目!」
俺は叫んだ。
「そういうとこだぞ! 饗庭君、十分魅力的なんだから、ちゃんと自覚してくれる?」
「あぁ、うん……」
饗庭は俺に気圧されて頷く。
――全く、危なっかしいったらありゃしない。
俺は心の中で憤慨した。
「ボク、道案内をしてくれる?」なんて言われて、イマドキ小学生だってついて行かないけど、こいつは相手にちょっと弱いところの一つでも見せられたらホイホイ親切にしてあげてしまう、そういう危なっかしい奴だ。
なまじ、自分は襲われないと思っているところがまた危ない。そんな奴を不審者情報があるうちの近所でひとりにできるもんか。
「送ってもらったら、心配で駅まで送って行っちゃうよ、俺」
「意味無いじゃん」
「そうなんだよ」
「でも、じゃあどうすんの?」
と饗庭が言う。
俺はうーんと考えて、
「うちに泊まってもらってもいいんだけど……」
と呟く。突然この事件が楽しいイベントに変わりそうになって、不謹慎にも少しワクワクした。しかし、饗庭は冷静だ。
「でもさ、今日だけじゃ済まないでしょ。犯人が捕まるまでずっととかはご迷惑でしょ、さすがに」
「ダメとは言われないと思うんだけど……」
「俺が泊まる理由、お父さんお母さんになんて説明すんの」
俺はハッと顔を上げる。
「俺、親には話せないよ」
「分かってるよ」
饗庭は頷く。
「不審者が探してるアリサちゃんは俺かもしれない」なんて、去年やってたアルバイトの話なんて、両親には絶対に知られたくない。もう辞めたんだ、反省しているし、二度とやらないのだから。
決して無かったことにはならない、でも忘れてしまいたい俺の過去。知っているのは饗庭だけでいい。
「いいよ、やっぱり一人で帰る。ありがとうな」
俺は饗庭に微笑んで見せた。饗庭が心配してくれたことで、俺は十分満足していた。
「もしそいつに会ったとしても、なんの用か聞いて、ちゃんと話しして帰ってもらったらいいんだし」
「いや、とにかく今日は送っていくよ。そんなん聞いて一人で帰せないよ」
饗庭が真剣な眼差しで俺を見つめてきて、俺の心は揺らいだ。
「でも饗庭が帰り一人になるのはダメ。そんな、危ないからって自分が送ってもらっておいて、一人で帰すなんて絶対ダメだから」
俺が真剣な顔で言うと、饗庭は腕を組んで唸る。
「……分かった。ちょっと考える」
放課後。ホームルームが終わってすぐに俺の席まで来た饗庭は、
「史学準備室で待ってて」
と言い置くとどこかに行ってしまった。
俺は少々浮かれた気分でひとり史学準備室に向かった。
そんな場合では無いと分かっている。めちゃめちゃ迷惑を掛けている自覚もあるのだけど、饗庭が俺を心配して俺のために動いてくれているというのが嬉しくて、なんだかニコニコしてしまうのだ。
両親に心配してもらうのとはどこか違う。家族以上に俺のことを分かってくれていて、頼れる人がいる安心感。それが饗庭だという嬉しさ。
俺は幸せな気持ちで、正直なところかなりワクワクしながらソファに背中を預けた。
――本当に頼りになる、饗庭は。そんなところがとっても好きだ。
――饗庭は俺のために、一体どんな作戦を立ててくれたんだろう。
しばらくするとノックも無く急にドアが開いて、俺は饗庭が来たと思い、機嫌良くパッと身を起こしてドアの方を見た。
「――うわっ」
そこに立っていた人物を見て、俺は笑顔から一転嫌な顔になった。隠すつもりもない。
「おう、お疲れ」
通学鞄を肩に背負って、入口の前に立っていたのは艮野だった。
三年になって艮野は隣のクラスになった(艮野も就職組だけど、俺の神川先生への“相談”が効いたものと思われる)。久しぶりに見た艮野は、いつの間にか髪を黒く戻しピアスも外して、以前よりも真面目な印象になっていた。が、艮野は艮野である。
俺達は確かに和解した。和解はしたが、別に仲良くするつもりは無いのだ。
艮野は俺の嫌な顔を意に介さず、当然のように史学準備室の中に入ってきて
「へぇ、こんなんなってんだな」
中を見回しながらこちらに歩いてきた。
「饗庭は」
俺は艮野を睨みながら聞く。
「城井と話してた。後で来るって」
「あ、そう……」
そういえば、城井は艮野と同じクラスになったんだっけ。可哀想に……
「そこ、座っていいの?」
と言ってソファを見下ろす艮野に、俺はわざとらしくソファの左隅に座り直し、反対の端を顎と視線で差した。
「どうぞ」
俺はドカリとソファに座った艮野を苦々しく見る。
「なんでお前が来んだよ」
嫌そうな声を隠しもせず俺が聞くと、艮野は事も無げに言った。
「お前んちの近くに不審者が出たんだって? それで、一緒に送って行ってくれって、饗庭が」
「は⁉」
俺は思わず叫んだ。艮野がやれやれと溜め息を吐く。
「饗庭も過保護だよなぁ。誰がこんな面倒くさい奴襲うんだよ」
「それがいるんだよなぁ。俺、修学旅行の時ヤバい男に無理矢理服脱がされたことあるんだよ」
俺が言い返すと、艮野は何か言い返したそうに口をパクパクさせ、忌々しげに顔をそらして舌打ちして自分の膝を殴った。いい気味である。
「……で、真面目な話なんなの? お前、ヤバい奴に狙われる覚えあんの?」
俺が気分良くなっていると、気を取り直したように真面目な顔で艮野が俺を見た。今度は俺が言葉に詰まる番だった。
「なんか危ないことしてんの?」
「……」
「饗庭は知ってんの?」
「……うん」
艮野は溜め息を吐く。
「饗庭が把握してんならまあ、俺は無理に聞かないけど。――お前あんま、あいつに心配掛けないでやってくれよ」
「……一応言っとくと、『してた』であって、今してるわけじゃないから。饗庭が止めろって言ってくれたから、もうしてない。今回のは過去の産物。負の遺産というか……。もう、絶対やらない」
「……」
艮野はやれやれと首を振る。
「饗庭もなんでお前なんか目に掛けるのかねぇ……」
俺がカチンときて
「お前だって幼馴染でなきゃ相手にされてねぇだろうが」
と言うと、艮野もカチンときた顔をした。
「あ?」
「は? 何?」
二人睨み合ったところで扉が開いた。入り口に饗庭が立っていた。
「饗庭っ!」
俺達は同時に叫ぶ。
「お前なんでこんな奴と幼馴染なわけ⁉」
「お前なんでこんな奴と仲良くしてんだよ!」
俺達は息ぴったりに饗庭に言い立てて、饗庭がげんなりした顔をした。
「お前らいちいちモメんなよ」
饗庭はそう言ってこちらに近付いてくると、俺と艮野の間に座った。
「どういうこと? なんで艮野呼ぶの」
俺は饗庭に迫った。饗庭は事も無げに言う。
「有里が言ったんだろ? 俺一人で帰ったら駄目だって」
「言ったけど」
「だから艮野に一緒に来てくれって頼んだんだよ」
俺は唖然とする。
「そんなの……別に……他の人でもいいじゃん」
「他? 誰かいるか?」
饗庭に言われ、俺は咄嗟に数少ない友人を思い浮かべた。
「み、御門とか……」
初めに頭に浮かんだのは、小柄で小動物のように可愛らしい元クラスメイト。
饗庭は呆れ顔をした。
「お前、御門が護衛になると思うか?」
ならない。なんならいざというときにはこっちが守ってやらないといけない、多分。
俺と饗庭の共通の友人である残りの三人――近江・城井・洲鎌にしたって、俺程とは言わないまでもひょろひょろ側だ。誰一人、護衛になるとは思えない。
「それに、御門もわりと家別方向だぞ。俺の友達で、お前も知ってて、帰る方向一緒なのなんて艮野だけだ」
そうだった。こいつらは三歳からの幼馴染で家も近所なのである。
「その上腕っ節は最強だぞ? こんないい護衛が他にいるか?」
おっしゃる通り。今の艮野は多少真面目な見た目になってはいるが、そもそもこの辺一番のヤンキーで、タイマンで他所の街のリーダーを倒してきた筋肉ゴリラである。
俺がチラリと視線を向けると、艮野はなんだかドヤ顔をしてこちらを見ていた。
「でも……」
その顔にムカついて、俺は艮野を断る口実を探す。
「お前ら和解したんだろ」
「したよ、したけど――」
俺はふと気が付いて言葉を止めた。
「……そうか」
俺は別に艮野と友達じゃない。艮野がどうなろうと構わない。いざとなったら艮野を囮にして、饗庭の手を引いて逃げてしまえばいいのだ。
これが他の奴らなら放っていくのはさすがに気が引ける。でも、艮野であればなんの問題も……
「てめぇなんかつまんねーこと考えてるだろ」
俺の表情で何かを察したらしい艮野が言って、
「べっつにい」
俺はふんっとそっぽを向く。
「有里」
饗庭が、まるで幼児のワガママを窘める父親のように怖い顔で俺の目を見つめた。
「お前はお願いする側だ。艮野は頼まれてくれてるの、分かるな?」
その饗庭の肩越しに、艮野が得意げな表情で試すように俺を見ている。
俺は内心でぐぬぬと唸り、考え、ガクリと肩を落とした。
「よろしくお願いします……」
俺達は三人で学校を出た。
電車に乗って俺の最寄り駅まで行き、そこから俺の家までは徒歩で十分程度。
下校の間ずっと「もしかして声を掛けられるのではないか」「誰か飛び出してくるんじゃないか」と緊張していたが、家に帰るまで特に何事も無く。俺達はあっという間に有里家の玄関先に着いた。
「お前、いいとこ住んでるな」
別れる直前、艮野は俺の家を見上げてハァーと息を吐いた。
「聞いちゃいたけど、改めて。マジでお坊ちゃんなんだな、お前」
そう言って、艮野は何か思いついたというようにニヤリと笑った。
「いや、お坊ちゃんっつーより姫だな、姫。気位たけーし、弱っちいし、ぴったりだわ、お前に」
――思い出した。
艮野のこういう揶揄が鬱陶しくて、一年前俺はこいつを無視した。そうして関係が拗れ始めたのである。
「おい」
雲行きの怪しさをいち早く察し、饗庭が艮野の脇腹を小突いた。
「お姫様かぁ」
俺はそれには気付かないふりをして、わざとらしく大きな声で言う。そして、瞳をキラキラさせて饗庭を見つめてみた。
「じゃあ、饗庭は俺を守ってくれる騎士だね」
饗庭が「はぁ?」という顔をした。
「なんだよそれ」
「カッコいいし、似合うじゃん。騎士って感じする。――一体どこで差が付いたのやら、どこかの山猿とは大違いだわ」
俺はふんっと艮野から顔を背ける。視界の端で艮野がカチンときた顔をしているのが見えたけど、そもそもこいつが売った喧嘩である。
饗庭がげんなりした顔をした。
「ああもう、分かったから。俺もうお前らに仲良くしろとは言わないから。――せめてモメんな、めんどくさい」
こうして、素敵な騎士と粗暴な山猿、二人に送ってもらう生活が始まった。
金曜日。送ってもらうのも五日目を迎えていた。
今日まで四日、拍子抜けするくらい何にも無かった。新しい不審者情報も無いし、俺も誰も見ていない。
俺はホッとすると同時に「俺を探してる奴なんて本当にいるのかな」と、少々疑い始めていたし、これをいつまで続けてもらって良いのだろうかと悩み始めてもいた。
勿論何も無い方がいいのだけど、でも、これからどうする?
俺を一回送る度に、二人は電車代が八百円くらい掛かっていて、俺は店で貰った給料から二人に毎日電車代を渡していた。
饗庭は漁港で働いているし、艮野も家の手伝いで少々稼ぎはあるらしい。そんな二人だからいいって言ってくれたけど、まさか二人に出してもらうわけにはいかない。卒業まで毎日送ってもらっても尽きないくらいに俺の店での稼ぎも残っている。こういうときに使うお金だと思ったので、それはいい。
でも、電車代を出してるからいいって話では勿論無い。二人は一時間掛けて俺を葉山まで送った後、また一時間掛けて三浦に帰らないといけないのだ。何も起こらないままこのまま来週も……となると、あまりに先が見えなくて申し訳なかった。
それに――と、俺はいつの間にか二人で俺の前を歩き始めた饗庭と艮野の背中を見つめた。
一緒に帰り始めて改めて分かったことがある。饗庭と艮野は本当に仲が良いのだ。
それも、なんていうのかな。ベタベタした仲の良さじゃなくて、すっごく自然な感じ。
二人は二年生のとき、学校ではほとんど話しをしていなかった。それぞれのコミュニティーがあって、二人組になるときだとか班を作るときだとか、一緒になっているのを見たことがない。
それは仲良く無いからでは無くて、確実な信頼関係があるから。だから毎日つるむ必要が無い。そういうことなのだと、俺は一緒に帰るようになって気が付いていた。
俺は以前、俺達三人の関係を三角関係に例えたことがある。
幼馴染二人に俺が取り合われる三角関係。でも、それは大きな勘違いだったようだ。
――これ、取り合われてるの饗庭だわ。
俺と艮野は、饗庭を巡ってどちらの方が饗庭と親しいかのマウント合戦をしている。いや、合戦にもなってないかも。
俺は艮野に見せつけるように饗庭に絡むことがあったけど、艮野の方は饗庭といつの間にか自然に話していて、気が付いたら俺は蚊帳の外。こういうことがこの五日間に何度もあった。
艮野は多分、俺のことをライバルとも思ってない。――いや、俺だって別に思ってないけど⁉
一人で勝手に艮野の背中を睨んだが、艮野は気付く様子も無く「そうだ」と声を上げて饗庭を見た。
「明日ってチャブリ?」
「いや、長沢さんの代わり」
「あー、そっか。俺、昼過ぎだからさ」
「おー、了解」
二人は俺のことなんてほったらかしで、全てを言葉にしない会話をしている。
チャブリがなんなのか、長沢さんの代わりがどうしたのか、艮野の何が昼前で、饗庭は何を了解したのか、俺には全然分からない。
口を挟めなくて、俺は黙って二人の背中を見つめた。
俺がこれからどれだけ饗庭と時間を重ねたって、三歳の饗庭には出会えない。艮野が饗庭と一緒に過ごしてきた時間が、羨ましく、悔しい気持ちになった。
――っていうか、二人とももう、何のために俺と帰ってるのか忘れかけてないか?
おーい、もしもし。なに二人で俺の前歩いてるんだよ。俺のこと放ったらかしで、なに二人で喋ってるんだよ。今後ろから不審者が来て俺の口を塞いで抱えて行ったら、お前ら気が付かないんじゃありませんか?
恨めしく二人の背中を見ていると、後ろからタッタッタッと軽い足音が聞こえた。
えっ――と思う間も無く手を掴まれて、俺は驚いて振り返った。
「――お兄ちゃん!」
俺の手を掴んだのは紗絢だった。その後ろから、母がゆっくり歩いて来ていた。
そういえば今日は金曜日。うちが子どもの下校を見守る担当の日だ。母は近所の子どもたちを何人か送って、今帰って来たのだろう。
饗庭が艮野に小さめの声で「有里んちのお母さんと妹」と言うのが後ろから聞こえた。
「お兄ちゃん、おかえりなさい」
「おかえりなさい」
紗絢と母が言って、母は饗庭たちを見る。
「ただいま」
と俺が言い、饗庭が
「お久しぶりです」
と挨拶した。俺が艮野を紹介するべきか迷っている間に、艮野は自分で
「こんにちは。綺羅君の友達の艮野です」
と名乗った。
誰が友達だよ、と思ったが
「まあ、そうなの!」
初めて見た饗庭以外の友達に母が感激しているので、つまらないことを言うのは止めた。
「お世話になってます」
艮野が母に折り目正しく頭を下げて、俺は「こいつ意外とまともだな」と感心した。
てっきり礼儀も何も無いヤンキーかと思っていたが。なんというか、爽やかさすらある。
「綺羅の母です。綺羅と仲良くしてくれてありがとうね。こっちは妹の紗絢です。――紗絢、ご挨拶は?」
艮野は、人見知りして俺の体に半分隠れていた紗絢にニコリと笑った。
「紗絢ちゃん、こんにちは」
「こ、こんにちは……!」
すると、艮野を見る紗絢の瞳が、なんだかキラキラ輝き始めて……って待って待って! お兄ちゃんそんなのぜっっったいに認めませんよ⁉
「じゃ、じゃあまたな。今日はありがとう」
俺は慌てて艮野と紗綾の間に割って入る。
母があら、と声を上げた。
「せっかく来てもらったのに。どうぞ、上がっていって」
「うえ⁉」
俺が声を上げると、母はきょとんとする。
「遊びに来てもらったんじゃないの?」
「ああー、うん、えーと……」
俺はおずおず二人を見る。できれば話を合わせてほしい。
「いい? 良かったら上がってって」
二人がチラリと顔を見合わせてから頷いてくれて、俺は二人を家に招待することになった。
「適当に座ってよ」
俺はそう言いながら鞄を机に置く。
艮野が当たり前みたいに人のベッドにドカリと腰掛けて、「こいつは本当にデリカシーが無いな」と思った。初めてうちに来た時、カーペットの上で正座をしていた饗庭とは大違いである。
そんな饗庭ももう慣れたもので、今日はカーペットの上でベッドを背もたれに胡坐をかいた。
「つっても、別にすることも無いんだけど……」
俺がどうしようかと考えながら口を開いたとき、外からパタパタ足音が聞こえた。部屋のドアが開いて、紗絢がひょこりと顔を出した。
「なぁに?」
と俺が聞くと、紗絢は頭を振る。
「お兄ちゃんじゃなくて……」
そうして紗絢は丸い目をパチパチさせて饗庭を見つめた。
「俺?」
饗庭が優しい声で言うと、紗絢はコクリと頷く。
「饗庭君、来て」
「うん、いいよ」
饗庭はさっと立ち上がって、紗綾と共に部屋を出て行った。
「……」
「……」
急に艮野と二人になって、部屋にしんと沈黙が降りた。
――き、気まずい。
ただでさえどうしようかと思っていたのに、艮野と二人では話すこともやることも何も無い。
俺の人生に於いて、艮野と自室で二人きりになる機会があるとは思わなかった。
「……なんだろうな」
と艮野が言った。
「さあ……」
紗絢が饗庭に会うのは、昨年の十二月に饗庭が家に泊まった時以来だった。
その後の交流といえば、バレンタインに紗絢が作ったチョコクッキーを俺が饗庭に渡して、ホワイトデーに今度は饗庭からのお返しのキャンディーを俺が紗絢に渡したくらい。
「饗庭、妹さん知ってるんだ」
「知ってるよ。父さんも母さんも知ってるし、うちに泊まったこともあるし!」
艮野に言われて、俺はここぞとばかりに自慢した。
「あ、そう」
しかし、艮野の反応は素っ気ないものだった。もっと悔しがるかと思ったのに。――でも、それもそうか。
「……お前らって仲いいよな」
俺がぽつりと言うと、艮野は「何言ってんだコイツ」という顔をした。
「なんだよ、急に」
「俺には分からない世界があるなと思って」
「はぁ?」
「さっき言ってたの、俺全然意味分かんなかった」
「さっき?」
「チャブリ? とか。明日なんか、昼前がどうしたとか言ってたじゃん」
「あー、なるほどな」
艮野は俺の気持ちを察したらしく、勝ち誇った顔をした。
「そりゃあそうだ。昨日今日饗庭と仲良くなったような奴に分かるわけねーわ。こちとら三歳から幼馴染やってんだよ」
「……うん」
その通りだ。俺はしゅんと俯く。
「……」
言い返して来ない俺を見て、艮野は目をパチパチさせ、ハァと溜め息を吐いた。
「……明日、饗庭が漁港でなんの仕事すんのか聞いたの。そしたらいつもやってる荷物の積み下ろしの仕事じゃなくて、休み取ってる長沢さんっておばちゃんの代わりに食堂で働くんだって。つまり、朝市のときのお客さん向けの食事と、昼のまかない作る仕事な。そんで俺は朝から配達で、昼過ぎに漁港に荷物持って行くんだけど、そういうときはいつもそのまま食堂で昼メシ食わせてもらうんだよ。だから、饗庭も食堂いんなら一緒に食おうぜって、そういう話」
「……なるほど」
あの短い会話で、二人は明日のお昼の約束をしてたわけだ。
――そっか、こいつら明日も会うんだ。
それは別に全然特別じゃない当たり前のことで、俺には関係の無い話。
饗庭がうちの家族と面識あることくらい、一回や二回うちに泊まったことあるくらい、艮野にとっちゃなんでもない。
黙っている俺をしばし見つめて、艮野は
「お前、本当に饗庭にべったりなのな」
と呆れた顔をした。
「お前さー、マジであんまり饗庭に迷惑掛けんじゃねーぞ」
「掛けてねーよ!」
咄嗟に言い返してから、俺は「いや……」と言い淀む。
「掛けてる……迷惑はいっぱい。でも、違うんだ」
艮野が胡乱な顔で俺を見る。
「確かに迷惑は掛けてる。でも一方的に頼り切ったりしてない。俺達は相手に迷惑掛けないようにするんじゃなくて、困ったときは助け合うの。ちゃんと頼るし、頼ってもらう。そういう関係だから」
「ふぅん?」
艮野は納得したようなしてないような、曖昧な相槌を打った。
「まあ、いいんじゃね? 饗庭、楽しそうだし」
「……そう?」
「うん、なんか前よりも明るくなったし、いいと思う」
「そっか」
その言葉はなんだか嬉しかった。
「……来るか? お前も」
と艮野が言った。
「えっ」
俺は驚いて艮野を見つめた。
「言っとくけど朝早ぇぞ。配達付き合ってもらわないといけないし。それでいいなら、明日迎えに来てやるよ」
「い、行きたい!」
俺が勢い込んで言うと、艮野はニヤリと笑った。
「こき使ってやるから覚悟しとけよ」
土曜日。珍しく早起きな俺に母が目を丸くした。
「饗庭がアルバイトしてる漁港に行く」と言うと、母は嬉しそうに「まあ」と言った。
「一人で行くの?」
「あ、ううん――」
俺が言い掛けたとき、インターフォンが鳴った。
「あ、多分艮野だ」
「まあ、艮野君? 迎えに来てくれたの⁉」
母が嬉しそうにカメラ付きのインターフォンを取ると、向こうから艮野の声が聞こえる。
「おはようございます、艮野です」
相変わらずの爽やかさである。
俺に見せる顔との落差が腑に落ちないが、まあ親を心配させずに済むという点ではありがたい。
「ありがとうね、わざわざ来てもらって……」
母は玄関まで送りに出てきて、艮野に申し訳なさそうに声を掛けた。しかしそれ以上に、息子に友達ができたことへの嬉しさが隠し切れずニコニコしている。
饗庭にならいいんだけど、艮野相手だと過保護な親だと思われそうで少々恥ずかしいなぁ……
俺はチラリと艮野の様子を伺ったが、艮野は相変わらず爽やかな微笑を浮かべている。後でからかわれるのかもしれないと思うと、ちょっとげんなりした。
「お前って外面いいんだな」
家を出てすぐ、母のことをからかわれる前に、と俺は艮野に先制攻撃を仕掛けた。
艮野は目をぱちくりさせた。
「なんだよ。普通だろ、別に」
「いやいや、普段のお前見てたら、親の前でももっと失礼な態度取ると思うじゃん」
「お前俺のことなんだと思ってんの」
艮野が呆れ顔で俺を見る。
「何って」
俺は真顔で艮野を見返した。
「自分のこと強くて偉いって勘違いしてる、お山の大将だと思ってるけど」
「おい」
「クラスメイトあんなにビビらせて、大人にはちゃんといい顔できんだな」
俺の嫌味に、艮野は意外そうな顔をした。
「俺ってそんな怖い?」
「怖えよ、タッパ考えろ。――ま、俺は別にお前なんて怖くねーけど」
俺は全然怖くないけど、でも同級生がビビる気持ちは分かる。
「こんなにフレンドリーなのに……」
艮野が不思議そうに言って、俺は愕然とした。
あの誰にでも馴れ馴れしく図々しい態度。こいつ、フレンドリーなつもりなのか。
――でも、確かに。
フラットな目線で艮野を見ると、誰にでも分け隔てなく声を掛け、仲間を引っ張っていくタイプで、悪い奴じゃないんだよな。
俺以外の奴に嫌味言ってるところも見たことないし。ただ、周りが勝手にビビってたり、変に取り巻きみたいになって持ち上げてるだけ。本人は多分そんなつもりじゃないんだろう。つまり見た目で損してるんだな。
――なんだ、こいつって悲しいモンスターなんだ。
俺が哀れみの視線を送ると、艮野は何か察したらしくムッとした顔をして凄んでみせた。
「んだよ、あぁ? 何か文句あんのか?」
前言撤回。十分本人の言動のせいだ。
「つーか、てめぇに外面云々言われたくねぇわ」
艮野が苦々しげに言う。
「お前を狙ってる男がいるってんなら、騙されてんだろうなぁ、見てくれに」
「ああ、自分がそうだったからそう思うんだ」
「ちげーわ!」
艮野が大声で叫ぶ。
面白くなって俺がくくくと笑うと、艮野は砂を噛むような顔で俺を見た。
「……お前がこんなに太いタマだと思ってなかったんだよ、俺は」
「なるほどー、艮野は俺のこと繊細で純粋な美少年だと思ってたんだもんね」
「んなこた言ってねーだろ!」
俺は堪らなくなって思い切り笑った。
――艮野をからかうのは面白い。もしかしたら、饗庭をからかう次くらいに面白いかも。
二人で電車に乗って、漁港に向かった。電車の中で、三歳からの二人のこと、昔の饗庭の話を艮野にたくさん聞いた。
「いいなー、俺もちっちゃい饗庭見てみたかった」
俺が拗ねてそう言うと、艮野が少し考えて言った。
「写真ならあるけど。うちで撮ったやつとか、小中の卒業アルバムとか」
「アルバム⁉ 見たい!」
俺が目を輝かせて艮野を見つめると、艮野は拘り無さそうに
「じゃあ今度俺んち見に来る?」
と言った。
「うん! 行く行く――」
言い掛けて、俺はハッと口を閉じる。艮野が瞬いた。
「なんだよ」
「いや、お前の部屋に一人で行くわけなくない? 何されるか分かったもんじゃない」
俺はそう言って、わざとらしく身震いして見せた。艮野がうっと息を詰まらせたのを見て、俺は心の中で笑った。
ちなみに本当はもう別に、艮野を警戒も何もしていないけどね。そうじゃなきゃ、送ってもらってるのもこうして迎えに来てもらってるのもおかしな話だし。
ただ、この“ネタ”を持ち出すと途端になんにも言えなくなる艮野を見るのが面白いのだ。
艮野は俺から視線を外し、ハァと溜め息を吐くと
「じゃあ今度饗庭と来いよ」
と言った。
俺はハタと気が付いた。
「待てよ? じゃあそもそも饗庭に見せてもらえばいいじゃん」
保育所も小学校も中学校も同じだった二人は、同じアルバムを持ってるはずだ。饗庭に見せてもらえば艮野の家になんかわざわざ行く必要がない。
「危ない危ない、危うく連れ込まれるところだった」
俺は言ってやったが、艮野は深刻な顔をしていた。
「……饗庭はアルバム持ってないんじゃねーかな」
俺はぽかんとした。
「え? なんで?」
やっぱりこいつ、なんだかんだと理由を付けて俺を家に来させるつもりでは――
「かーちゃんが捨てたんじゃないかな……と思って」
艮野の言っていることに気が付いて、俺はカァッと心臓の辺りが熱くなるのを感じた。
「分からんけど、饗庭の母さんて家で饗庭が楽しそうにアルバム見てて喜ぶ人じゃないだろうし。あったとして、持ち出したと知れても事だと思うぞ」
お腹の底が燃えるように、饗庭の母に怒りが沸く。
「ムカつく……饗庭の母さんって、そんなのばっかり」
「しゃーねーよ、おばさんも好きでそんなになったわけじゃねーだろうし」
「……昔からなのかな」
「うーん……」
艮野は腕を組んで唸る。
「俺の記憶の範囲でだけど、初めて見たとき……少なくとも保育園くらいのときは普通だったと思うんだよな。小学校に上がったときも……別に……」
艮野は逡巡するように目を細めて顎を撫でる。
「うち、昔は饗庭のことよく預かってたんだ。饗庭のかーちゃん、夜働いてるっぽくてよくいなかったから。本当にもう『うちの子か?』ってくらい。当たり前にうちで飯食ってたし、泊まってたし。一緒に店番したり、配達にも二人で付いて行って。学校からうちに帰ってくるのが当然って感じでさ」
それが……と、艮野は暗い声になった。
「小三? 小四の時かな? いきなり饗庭のかーちゃんが怒鳴り込んで来て。『うちの子をどうするつもりだ! 誘拐だ!』って」
「え……」
「ポカンとしたよ、あの時は。ただまあ、確かに親権者は母親だし、うちに出来ることは何も無かった。実際に警察呼ばれたら、うちは誘拐犯なんだろうし。下手なことして、それで饗庭になんか危害が加わるのも心配で。饗庭の方も、うちに迷惑掛けたくないと思ったんだろうな。それで来なくなって」
「ええー……」
「かといって、饗庭のかーちゃんは夜出掛けるの止めるわけでも男連れ込むの止めるわけでも無かったからさ。心配はしてたよ、うちも」
小学生だった饗庭の心情を思って胸が痛んだ。
「饗庭が一人で生活できなかったり、せめてもう少し小さい内に問題が起きたなら児童相談所とか? そういうとこが間に入ったかもしれないんだけど、あいつ、一人でどうにかできちゃったもんだからさ。そういう支援にも繋がらなくて」
「そっか……」
なんかそれは想像できる。饗庭って料理も上手いし、しっかりしてるし、きっと、小学生の頃から生活全般のことを一人でちゃんとやれたんだろう。
「まあ学校行けば元気でいるのは俺が確認できるし、父ちゃん母ちゃんも道で見かけたら声掛けるくらいはしてて。メシとかもたまには差し入れて、休みの日は漁港で二人でお昼食べさせてもらったりとか。――それで今日に至るって感じかな」
「そっか……」
饗庭の傍に艮野家があってくれて、艮野がいてくれて良かったと思った。
以前、艮野一家を三浦半島から消そうとしていたことを思い出して、俺は心がヒヤリとした。あのときの饗庭の気持ちが、これまで以上に理解できた気がした。
俺はふと思いついて、気になっていたことを聞いてみた。
「ね、ねぇ、艮野は饗庭のお父さんのことは知らないの?」
「知らねーなぁ。多分だけど、今のとこに住み始めた時点ではもう饗庭とかーちゃんと二人だったと思う。うちのとーちゃんかーちゃんもなんも知らなそうだし……」
「そっか……」
「饗庭、なんか言ってた?」
「ううん。……でも、多分いつか会ってみたいんじゃないかなとは、思う」
「そっかぁ……」
なんとなく沈黙が降りた。
俺は饗庭のことで頭がいっぱいで、多分、艮野も饗庭のことを考えているのだろうと思った。
電車を降りると、駅の傍に「艮野商店」と書かれたワンボックスカーが止まっていた。俺を乗せて配達に行くために、わざわざ駅まで来てくれたのだ。
運転席に乗っていたのは髪を染めていて色黒な、少々ヤンキー感のある四十絡みのおじさんで、なるほど血は争えない、艮野のお父さんだ。
艮野のお父さんは見た目こそ少々オラオラ系だったが、明るくて親しみやすい人だった。
「凌にこんな利口そうな友達がいるとはなぁ」
そう言われて俺はなんだかくすぐったかったし、艮野が釈然としない顔をしているのが面白かった。
俺達はワンボックスカーでいくつかの個人宅や店を周り、荷物を下ろして御用聞きをした。全て終わると一度艮野の自宅である艮野商店まで帰って、新たに段ボールを六つ車に積み込んだ。
「これが漁港向け。これ持ってったら今日の俺の仕事は終わり」
艮野商店から漁港まではすぐ近所で、車で五分も掛からなかった。艮野のお父さんが段ボールが四つ乗った荷台を押して、俺と艮野は一つずつ段ボールを抱え、漁港の倉庫に納品した。
お父さんはこのまま帰るということだったので、俺は艮野と二人で漁港の食堂に向かった。
「おー、お疲れ」
食堂の扉を開けると、厨房の中で饗庭が振り返った。
午後二時前。他の人たちの昼食はとっくに終わっているらしく、食堂には饗庭しかいなかった。
「悪いな、思ったより遅くなって」
「いいよいいよ、お疲れさん。――有里も」
饗庭は俺を見てニッと笑う。
「働いて来たんだろ? 偉いじゃん」
「う、うん」
思えば今日の配達は、俺がやった初めての“まともな仕事”だ。
饗庭に褒められて、なんというか、初めてのおつかいを親に褒めてもらった子どものような気持ちになって、なんだか照れた。
「昼メシ、何?」
「魚の余りで海鮮丼かな。赤出汁もご飯も結構残ってる。もう最後だから全部食べていいよ」
「やり!」
饗庭が鍋を見ながら言って、艮野は厨房前のカウンター席に勝手に座る。
俺も艮野に倣って彼の左隣に座った。カウンター席は調理台の向かいで、包丁を取る饗庭とちょうど向かい合う形だ。
饗庭は余り物らしい魚の切れ端を綺麗に切り分けていく。慣れた手つきで魚に包丁を入れるのを見て、俺は思わず声を上げた。
「饗庭って魚も捌けるの?」
「え? うん、まあ。ここで働いてたらこれくらいは」
「すごい、カッコいい」
俺はキラキラした視線を饗庭に向ける。
饗庭は少し照れた顔をして俺から目をそらし、
「艮野もたまに食堂手伝ってるし、別にこれくらいできるよな」
と言った。艮野が得意げな顔をした。
「おうよ」
「それは別にいい」
「おい」
あっと言う間に五種類くらいの魚が乗った海鮮丼が三つできあがった。
饗庭は折りたたみの椅子を引っ張ってきて、調理台をテーブルに俺たちと向かい合って座った。
「どうだった? 艮野んちの仕事は」
饗庭が俺を見て言う。
「楽しかったよ。肉体労働だし、毎日は大変だろうなと思うけど……でも、楽しかった。――あと、結構びっくりした。商店の仕事って、お店で待ってて人に物を売る仕事だと思ってたんだけど、配達する物も多いんだな」
艮野は頷く。
「そういうもんなんだよ。なんで潰れないんだろうって思うような、客のいない商店街の電気屋とかあるだろ? ああいう店って、実は店頭販売は売上の数パーセントで、別で大口の顧客持っててそっちが本業だったりするんだけど」
「ふぅん?」
「うちもそう。こことかとの大口の取引がメインで、店自体はもう、本当は無くてもいいくらいなんだ。でも、無くなると近所のじいちゃんばあちゃんたちが溜まる場所が無くなるからさ。ご近所さんのコミュニケーションの場になればって、続けてる感じ」
「じゃあ、いつかは艮野がお店継ぐの?」
俺が聞くと、艮野は頷いた。
「一応そのつもり。妹と弟には好きなことさせてやりたいし。それに俺自身がもう、ここに住んでる人たち捨てられんわ。皆どんどん歳取っていって、今元気な人もいずれ病気したり、歩くのも大変になるだろうし。店は続けなきゃな。日々の生活もだけど、なんかあった時に頼れる場所が無いと」
「……偉いんだな、お前って」
「へぇ⁉」
艮野は目を丸くした。
「なんだよ、怖えな。何企んでんだ」
「企んでねーよ!」
思わず叫んでから、グッと感情を抑える。だってせっかく褒めてるんだから。
「ちゃんと本心だって。尊敬する」
「ふぅん」
「乱暴でデリカシー無くて図々しくてお山の大将なとこを除けば、本当に偉いよ、お前」
「喧嘩売ってんのかてめぇは」
俺は思わず声を上げて笑い、艮野は納得いかなそうな表情で俺を眺めた。
ふと気が付いた。
――饗庭と艮野って、一見全然違うけど似てるんだ。
この街の環境の中で、一緒に育ち、同じ価値観を育んで。
もし俺がもう少しだけ素直で、四月に艮野から声を掛けられたときに普通に対応していたら。もしかしたら今頃、俺は艮野と仲良くなっていたのかもしれないな――なんて思った。
――まあでも、どう転んでも恋愛関係には絶対ならないけど。
それはやっぱり、饗庭だから。饗庭でなければあり得ない。
饗庭と同じくらいいい奴なのは認めよう。しかしこんなガサツで喧嘩っ早い山猿、全く俺の好みでは無い。
俺がそーゆー意味で艮野を好きになることは、天地がひっくり返っても無い。
俺がひとりでそんなことを考えていると、艮野が胡乱な目で俺を見た。
「お前またなんかすんげぇ失礼なこと考えてない?」
「いやー、全然?」
俺はひとりでクククと笑い、饗庭と艮野はどうしたことかと顔を見合わせた。
夕方。俺は二人にまた家まで送ってもらって、ベッドにダイブした。
――楽しかった。すごく充実した土曜日だった。
半年ほど前まで考えられなかった生活だ。同い年の子たちと等身大の休日を過ごすのが、こんなに楽しいなんて。
今までずっと独りでいて、高校二年生になって相手をするようになったのは店に来る大人たちばかりだった。その人たちとのお金を介在させた付き合いと、饗庭とか艮野とか、その他の友人たちとの付き合いは全く違うものだと感じる。
饗庭に出会わず、これまでの生活がまだ続いていたらとゾッとするし、本当に「こちら側」に来られて良かったと心から思う。
俺はごろりと寝返りを打って、大の字になり天井を見る。
――いろんな奴がいたよなぁ……。
これまでの四ヶ月、敢えて思い出すことをしなかった店での出来事を改めて思い出してみた。
勝手に貢いできて、俺が靡かなかったら途端に見切りを付けて冷たくなり、目の前で他のお姉さんに高い酒下ろして嫌がらせしてるつもりになってた奴。
とにかく下世話で嫌らしい話ばっかりしてきて、隙さえあればベタベタと触ってこようとする奴。
下心なんてなーんも無いように見えていた奴に酔わされてホテルに連れ込まれたこともあったし、月三十万円で愛人契約のお誘いもあった――
「……」
頭の中で、何かが引っ掛かった。
俺のことを月三十万で愛人にしたいっておじさんがいたんだ。会うのは月に二回。それで三十万。
本気で言っているなら正直かなりの高条件だけど、高条件過ぎて逆に怖い。それに、それを言われた頃ってもう、饗庭と一緒に修学旅行に行くことが決まっていた時期だった。
もしかしたら、もう少し前の俺なら話を受けてしまっていたかもしれない。でも、呆れ果てた饗庭の顔が頭に浮かんで、俺はその話を受けようとは思えなかった。
それで何度も丁重にお断りしてたんだけど……。ある日見送りをして店に戻ると、席に置いてあったハンカチの下に十万円が入ったポチ袋が置いてあったんだ。
「手付金」と書かれていて、俺は慌ててその金を店長に渡した。
「あの人NGで。これは返しておいてください」
って伝えて。
俺はその人に断りのメッセージを送った後、彼の連絡先をブロックした。どうせまたすぐに次の子を見つける。だからこの話はこれで終わり。そう思っていた。
――でももし、あの十万円がその人に返っていなくて、俺が金だけ持って消えたと思われていたら……?
それはもしかしたら、探す理由になるかもしれない。
多分十万なんてあの客には端金だとは思うけど。でも、だからこそ十万以上の金を使ってでも俺を探し出して、償わせようとすることはあるかも……
――まさか店長、着服したりはしてないよな?
いや、店長はそういう人では無いとは思う。人柄的にもそうだけど、店に雇われて毎月それなりの金を貰っているいい大人が、十万円程度でトラブル起こすようなことはしないと思うし。
――でも、今はもうそれしか考えつかない。
俺は店に関わる全てのデータをスマートフォンから消して、貰った名刺など物理的な物も全て捨ててしまっていた。
その客に纏わる情報も、店長の個人的な連絡先も分からない。俺はいても立ってもいられなくて、インターネットで店の電話番号を調べて電話を掛けてみることにした。
「――はい、クラブ一夜草です」
ワンコールで、聞き覚えのある店長の声がした。
「あ、あの……すみません。昨年お世話になってた、アリサです」
「アリサちゃん⁉」
電話の向こうから、驚いた声が聞こえた。
「お久しぶりです。急に辞めちゃって、すみません……」
「びっくりしたよ。本当は高校生なんだって?」
「そうなんです。あのー、すみません、ご迷惑お掛けしました……」
指名客への対応も出勤の予定も全てすっぽかして飛んだのだ。俺は恐縮するしかない。
「アリサちゃん真面目だったから、急に来なくなって皆びっくりしてたよ。アサヒさんとか、セヤさんもがっかりしてたし。それに、イズミ君が一番落ち込んでた」
店長の苦笑する声に、俺は内心ハテナを浮かべる。
えーっと、全員誰だったっけ。どの名前も聞き覚えはあるけど……どんな客だったかまでは覚えてない。
「ええと、あの、皆さんによろしくお伝えください。急に辞めてすみませんって」
俺が恐縮しながら言うと、店長は拘りなく笑う。
「いやー、男が出来て飛んじゃう子なんて珍しくないからね。気にしない気にしない」
「は、はぁ」
俺は別に男が出来て飛んだわけでは……いや、そういうことになるのかな?
店長は何故か楽しそうだった。
「あの時の同級生の子でしょ? 正直、見た瞬間に『あー、これはアリサちゃん近々辞めるな』と思ったよ」
「す、すごい」
さすが店長。長年ああいう店で人を見てきただけのことがある。思わず感心してしまった。
「あ、それで、僕、店長に聞きたいことがあって。それで電話したんです」
このまま店長のペースに呑まれそうな自分に気が付いて、俺は慌てて本題に入った。
「え、何?」
「なんか……、僕が辞めた後、僕のこと探してるような、そんなお客さんいないですよね?」
店長は怪訝そうに言った。
「何? ストーカーにでも遭ってるの?」
「あ、やぁ、まだそこまででは無いんですけど……」
そこまでなのかな? でも姿を見たわけじゃなく、実害も無いし。
「あ、あの、ほら、十万円置いていったお客さんいたじゃないですか? 店長にNGにしてもらった……」
「ああ、いたねぇ」
「あの人とか――」
俺が言い掛けると店長は笑った。
「あの人なら今はサクラちゃんに貢ぎまくってるよ。サクラちゃんも上手いから。もう全然、アリサちゃんに未練があるとは思えないな」
「そ、そうですか……」
「他の人も別に……。来なくなった人もいるけど、来てる人は新しい子見つけてるし、アリサちゃんの話題が出ることもないよ」
分かっていた。店の客なんて皆、別に真剣に俺のことを見てたわけじゃない。いなくなれば一瞬で次の人を見つける。
分かってはいたけど、はっきりそう言われるとなんだが俺が自意識過剰みたいで、ちょっと恥ずかしい気持ちになった。
「分かりました。すみません、もう少しこちらで確認してみます」
俺が言うと、店長は軽い口調で笑った。
「まあ何かあったら店に相談してよ。――アリサちゃんの復帰も、いつでも大歓迎だからね」
不審者の話は意外にもすぐに決着が付いた。
日曜の晩の、夕飯の後の家族団欒の時間。父のスマートフォンに一通のメッセージが届いた。
「つ……、捕まった……?」
俺が呆然と呟くと、父はメッセージを見て頷く。
「巡回中の警察官が、女の子の跡を付けてる男を捕まえたって。九時のニュースに出るんじゃないか」
俺は急いで饗庭にメッセージを送る。すぐに饗庭から電話が掛かって来て、俺は部屋に戻って電話に出た。
「捕まったって⁉」
開口一番、饗庭は言う。
「うん、多分、今夜ローカルニュースくらいにはなるんじゃないかな」
「そっかぁ……」
「うん……」
沈黙が下りて、しばらくすると饗庭が息を吐いた。
「とにかく、良かったよ」
「うん」
頷きながら、急な幕切れに俺はなんだかしんみりしていた。
「終わっちゃったから思うけど、饗庭に送ってもらうの、楽しかったな……」
いつまでも続いたら困るとは思っていたけど、こんなにいきなり終わるなんて。
「明日からも送ろうか?」
饗庭が言って、俺は慌てた。
「いやいや! いいよ、それはいい」
そんな、これ以上迷惑は掛けられない。
「ま、とにかく一件落着だ。――迷惑掛けたな、ありがとう」
「いや、良かったよ。艮野にも言っとく」
「うん、ありがとう。よろしく」
通話を終えて、俺はベッドの上で呆然とした。
――終わってしまった。
なんだか呆気無くて、実感が無かった。
その夜九時のローカルニュース番組では、三十代の無職の男が小学生の女の子の跡を付けているところを巡回中の警察官が捕まえたと、確かにニュースになっていた。
翌月曜日。俺は久々に一人で家に帰った。今日は授業が一時間短くて、いつもよりも少し帰りが早かった。
うちがあるのは閑静な高級住宅街。住宅街の中の路地は基本的に住んでいる人しか通らないので、日中のこの時間近所には人通りがほとんど無い。しかし家と家の間の道が広く見通しが良くて、本来不審者が出るような場所では無いから、一人で歩いていて怖いことは何も無かった。
当たり前の日々が戻ってきただけだったが、とはいえひとりの帰り道は久々で、なんだかちょっと淋しかった。
――別にそういうんじゃなくても、また三人で帰ることがあってもいいよな。
ひとり歩きながら、俺はふと考える。
そうだ、今度は二人を家に招待しよう。今回のことのお礼もしたいし、お母さんに頼んで、夕食に招待してみるとかどうかな。
艮野にアルバム持って来させて、二人の昔の写真を俺の部屋で一緒に見るのなんて楽しいかも。
想像するだけでワクワクして、俺は一人で笑った。――ちょうどその時。
家の角から、男が一人飛び出してきた。
「アリサちゃん」
俺は驚いて立ち止まる。目の前に、見覚えのある顔が立っていた。
「あ……、え――?」
誰だっけ。俺は瞬時に頭の中の記憶を辿る。そうしてすぐに思い出した。
一夜草のイズミ君――あの店でボーイをしていた、四十後半の、細身の男。
俺は驚いて頭の中が白くなり、なんだか急に現実感が無くなるような感覚がした。頭の中で父さんと店長の声がした。
――四十代くらいの細身の男。男子中学生の腕を掴んで「アリサちゃん」と呼んだらしい。
――イズミ君が一番落ち込んでた。
俺は今更気が付いた。
俺は店ではもう高校を出ている十八歳の設定でやっていた。学校帰りの、恐らく制服姿の中学生に声を掛けている時点で、そのことを知らないはずの客がストーカーではありえないのだ。
そうだ。それに、店の人たちだけが俺の本当の住所を知っていた。はっきりどの家とは知らなくても、遅くなった日に店の送りの車で近くまで帰ったことが何度もあったし、日々の雑談の中でも家の場所を別に隠していなかった。
頭の中で、点と点が繋がっていく。
「アリサちゃん、やっと会えた」
と男は嬉しそうに言った。
「あ、あの、え? なんでここにいるんですか……?」
なんと言ったらいいか分からなくて、とりあえず口から出たのは当たり前の疑問。
「君が急にいなくなったからだよ。当たり前だろう、探しに来たに決まってる」
「な、なんの用ですか……?」
「なんの用って」
男は半分ワクワクしたような、半分呆れたような、微妙な顔で笑った。
「約束だったでしょ? お店を辞めたら付き合おうって。僕と付き合うために辞めてくれたんだよね? だから会いに来たんだよ」
「は――」
一瞬のうちにいろんなことが頭を巡って、何も言葉が出てこず、動くこともできなかった。
――そうだ、俺、この人ちょっと苦手だったんだよな。
このボーイはあまり人とコミュニケーションを取らない寡黙な人だった。
キャストに対しても律儀で慇懃なところがあって、こういう店で働くにしては真面目で堅すぎるんじゃないかなぁなんて思っていた。
それが、店を辞める三ヶ月くらい前からかな。それまで「アリサさん」と呼んでいたのが「アリサちゃん」になり、俺にだけなんだか妙に馴れ馴れしくなって、なんとなく嫌だった覚えがある。
店のキッチンに自分だけ呼ばれて、こっそりお菓子を貰ったりして。「餌付けか?」と思いながらまあ、貰うものは貰っていたけど。
その内店のお姉さんたちにも「アリサちゃんあのボーイさんと付き合ってるの?」なんて聞かれるようになって、否定するのにうんざりした覚えがある。
そういう人達が集まる店とはいえ、俺自身は男と恋仲と思われるのはゾワッとするので、その勘違いは全く迷惑な話だ。――あ、勿論饗庭は別だけどね。
「なんのことですか……?」
俺が言うと、男の顔色がさっと変わった。
「覚えて無いって言うの……?」
覚えているわけがない。俺が一介のボーイに「店を辞めたら付き合おう」なんて、そんなことを言うわけがない。
ただ、そういうようなことを客には言っていた。その席にこの人が同席していることもあった。
「素敵だなと思う人がいても、このお仕事をしてる内は……」
って。まるで相手のことを素敵だと思っているかのように匂わせて話す。
俺からしたら、その場を盛り上げてお客さんにいい気持ちになってもらうための営業トーク。給料分の仕事をしただけだ。
それを何、この人は。「お店を辞めたら付き合いたい」って、自分へのメッセージだと思ってたってこと?
――客みたいな勘違いしてんじゃねーよ!
と心の中で叫んで、実際声には出なかった。
「この間の男の子は彼氏……?」
「えっ」
俺はドキリとした。
饗庭と一緒にいるところを見られたのだろうか。
「土曜日、朝一緒にいたでしょ。背が高い……ガッシリした感じの……」
――艮野かい!
「違います!」
俺はムキになって叫んだ。とんでもない勘違いだ。
「でもなんだかお似合いだったし」
――んなわけあるか! と、俺は心の中で絶叫した。
あんな奴と似合いで堪るか。つーかこいつ、朝から見張ってたのかよ。
なんで艮野といるとこ見てんだよ。どうせなら饗庭といるところを目撃しろ。そうしたら正真正銘にお似合いで、お前なんて入る隙が無いことが分かっただろうに。
「隠さなくていいよ、本当のことを言って。あの子と付き合い始めたから、僕はいらなくなったんだ」
「いや本当に! ぜっっったいに無いです! 違います!」
「じゃあどうして僕の前から姿を消したの」
「いや、ええと、貴方の前からとかじゃなくて、単純に自分の都合でお店を辞めただけで……」
「お店を辞めたら付き合おうって! そういう約束だったじゃない!」
「いやいやいやいや……!」
「ねぇ、僕のどこが駄目なの。お金ならあるよ。仕事もある。その辺の男と違って優しいし、見た目だってほら、若く見えるって皆に驚かれるし!」
あんまり覚えてないけど、この人確か四十歳過ぎて仕事転々としてなかったっけ? 今のボーイの身分だってアルバイト。お店で「優しい」って言われるのは他に褒めるところが無いからで、実年齢より若く見えるのは、苦労したことの無さそうな妙に幼い顔のせいだ。
「ね、僕のことカッコいいと思うでしょ? アリサちゃんがそう言ってくれたんじゃない!」
そうだっけ? それはごめん、マジで覚えて無い。なんか、流れでそんなことを言ったことはあったかも……。ただ、店員なら客と違って、その場の流れと空気で言っただけだと、当然分かってくれていると思っていた。
「なにか……勘違いがあるみたいですね」
俺は敢えて冷静に、冷たい声を出した。諦めさせるにはその方がいいと思ったからだ。
脈無しであることを徹底的に分かってもらって、二度と来ないように帰らせないと。
「僕――俺、付き合うなんて言ってません。そんなつもりありません。諦めてください」
「アリサちゃん……」
男は絶望したような声を出す。
「俺、もうアリサちゃんじゃないんで。別の子探してください。俺は本当にそんな気無いから」
「……か」
「は?」
「騙したのか!」
いきなり大声で叫ばれて、俺は思わず身を縮めた。
不覚にも「怖い」と思った。
「来いよ!」
男が俺の腕を掴んで引っ張った。
「ひっ!」
喉から出たのは細い声だった。
本当は大声で叫びたいのに、恐怖で声が出なかった。
母に貰った防犯ブザーは、通学鞄の外でジンベエザメのぬいぐるみと一緒に揺れていた。
そこにあるのに、左腕を掴まれて、左肩から掛けていた鞄に付けている防犯ブザーを、上手く手に取ることができない。
俺は力いっぱい踏ん張って、なんとかその場に留まろうとした。力負けして少しずつ引っ張られていたけれど、これ、こいつは俺をどこに連れて行こうとしてるんだろう?
多分だけど、この人も自分がどうしようとしているのか分かっていない気がした。
ただただ興奮して、闇雲に連れて行こうとしている。その理性の無い様子がより怖かった。
「や……やめて……」
小さな声しか出なくて、そんな自分が情けない。涙が出そうになった。
――ああ、今日も二人がいてくれたら……
パシッ――突然、男と自分の間に広い背中が割り込んで、男の腕を掴んで捻り上げた。
男は痛みに叫んで思わず俺の腕を離す。同時に、別の手に後ろからグイと引き寄せられて、俺はそのまま誰かの胸に庇われた。
――饗庭だ。
すぐに分かった。パッと顔を離して確認すると、至近距離に緊張した表情をした饗庭の横顔があった。
「おい――なんだお前、どういうつもりだ。こいつになんの用事だよ」
そしてその視線の先に、男の腕を捻じり上げている艮野の背中。
饗庭は俺を背中に庇って艮野と男の方を向いた。
――な、なんで二人が?
俺は怒涛の展開に付いていけず、パニックを起こして固まった。
艮野は男の手を捻り上げ、睨み付けたままで言う。
「警察呼ぶか?」
「待って!」
俺はハッとして慌てて叫んだ。
「待って……いい……警察は、困る」
艮野が不審そうに俺を振り返る。
「親に知られたくないんだ。警察はいい……もう来ないでくれるなら……それで……」
艮野は饗庭を見た。饗庭が少し迷いながらも頷いて、艮野は忌々し気に男の腕を離す。よろめいて後ろに倒れそうになった男の胸倉を掴み、グイと引き寄せて凄んだ。
「おい、お前次あいつに近付いたら承知しねーからな。二度とこの辺りに来んな。分かったか」
「は……はい……」
男は青くなって、情けなく目を白黒させている。
「いいか? 俺が許さん。こいつに用あんなら俺に話通せ」
「わ、分かりました……」
「行けや」
艮野は突き放すように男の胸倉を離した。よろけながら背を向けた男の背中を艮野がドカリと蹴って、男はつんのめるように二、三歩進み、そのまま這々の体で道の角に消えた。
後に残された俺たちは、少しの間、男の消えた角を見てそのまま黙って止まっていた。
男が完全にいなくなったのを確認してから、艮野が振り返った。先に饗庭と目を合わせて、それから二人でこちらを見た。
「有里、大丈夫か? 手は?」
饗庭が俺の左腕を取って手首の辺りを見る。
「あ、うん。大丈夫大丈夫。ちょっと引っ張られただけ」
「赤くなってる」
「全然大丈夫。そんなヤワじゃないよ。すぐ治るって、痛くない」
「そう?」
「饗庭、ありがとう。なんで? なんでここにいるの?」
ドキドキしている。
こんなピンチに駆けつけてくれるなんて、まるで本当に、物語に出てくる騎士のようだ。
「艮野と話したんだ。捕まった人、本当に目撃されてた不審者と同一人物なのかって。だって、目撃証言と歳も体形も違うだろ? それに女の子の跡を付けてたって……。それで、今日も一応有里の後ろ、付いて行ってみようと思って」
「そんな……」
「言ってなかったのは、ごめん。お前も気ぃ遣うと思ったし、俺達が勝手にやるだけだからって」
饗庭はそう言って、眉を困らせた。
「ごめんな、もっと早く出ていけばよかったんだけど、声聞こえないし、最初は普通に知り合いの人と話してるのかどうか、判断付かなかったから……」
「ううん。ありがとう……饗庭、嬉しい……。来てくれて嬉しい!」
俺は本当に感動してしまった。なんてちゃんと考えてくれているのだろう。饗庭は正真正銘、俺を守ってくれる騎士だ。
――なんだもう、ホント、大好き!
今すぐ抱き着きたい気持ちになった――が。
数歩離れた先で黙ってこちらを見ている艮野の存在を、このまま無視するわけにもいかないだろう。どう考えても、奴を追い払えたのは艮野のおかげだ。
俺は艮野を見ずに言った。
「いやー、艮野の輩顔がこんなとこで役に立つとは思わなかったな」
「誰が輩顔だよ」
艮野が応戦して、
「有里」
饗庭が父親のように窘める声を出す。俺は渋々艮野の顔を見た。
「……ありがとう」
「おう」
艮野は何でも無さそうに返事をする。その頬に少し、照れが見えた。
まあこいつもそういう可愛いところはあるよな。今回ばかりは、ちょっと認めてやらなきゃ仕方ないか。
……そんな強がりを言っている場合でも無い。人として。
俺は二人に向き合って、深々と頭を下げた。
「ご迷惑お掛けしました。二人ともありがとう。本当に助かった」
俺はこの幼馴染コンビの相性の良さを改めて思い知った。
二人で話し合い俺の跡を付けて、艮野が犯人の動きを封じ、饗庭が俺を庇って引き離す。ちょっと妬いてしまうくらいの、素晴らしいコンビネーションだ。
――二人の関係に焼きもちを焼いても、きっと仕方ないんだろうな。
饗庭のことは大好きだけど、饗庭の傍に艮野がいてくれて良かったって、今は本当に思う。
俺を守ってくれた二人の騎士に、俺は心から感謝した。



