風体の割に、轟木は存外に女子に人気がある。
「ねえ、早瀬君、最近轟木君と仲いいって聞いたけど、本当?」
「え、あ、は……いや、その」
昼休み、教室の隅で弁当を食べていた僕は、女子の集団に囲まれて度肝を抜かれた。
梅雨も明け、七月の日差しが燦々と窓から差し込んでいる。僕の席は教室の窓側、後ろから二番目という中々の好位置だった。気もそぞろな午後の授業中に、外を眺めるのに打ってつけの場所でもある。
気怠い五時間目、古文を読み上げる教師の声に眠気を誘われながら見やる窓の外、階下のグラウンドで体育をする生徒を見ることがある。隣のクラス、轟木のクラスだ。
轟木と話すようになってから、学内でその姿を良く目にするようになった。多分これまでにも見かけることはあったのだろうが、意識することはなかった。それが今やどうだ。グラウンドで酷くやる気なくランニングする轟木の、緩やかな茶髪ばかりが目に付くようになってしまった。
轟木は存外に友人が多い。優等生やスポーツ堪能な、所謂一軍と呼ばれる生徒ではなく、どちらかと言えば轟木と同じような、ちょっとすかした――と言ったら失礼かも知れないが、少しアウトローな雰囲気のある生徒数人と、喋っている姿を良く見かけた。
僕の視線に気付く筈もないだろうに、時折その視線が、校舎二階に向けられることがある。その時だけ、鋭い目つきが、少しだけ和らぐのは、僕の気の所為ではない筈だ。
その、クラス後方の目立たない僕の席は、今や縁もゆかりもない女子たちに囲まれている。
「てか轟木君と早瀬君ってどういう繋がり?」
「どんな話してんのか想像もつかないよねー」
「うちら轟木君に興味あってさー。こないだ駅前二人で歩いてるとこ見たから、気になっててー」
姦しい女子たちの声に、僕は落ち着かなく視線を彷徨わせる。僕に話しかけて来たのは、クラスの女子三人だ。前野さん、小清水さん、桃園さん。高校二年になってから三ヶ月が経つが、これまで一度も会話をしたことのない相手だ。というより僕は必要最低限しかクラスの人と話したことはない。名前を覚えられているのが意外なくらいだ。
どうやら彼女らは、轟木に気があるらしい。だからといって、僕に轟木のことを聞きに来るのはどうかと思う。轟木には他に友達もいるだろうし、僕が轟木について知ることなんて、些細なことでしかないのに。
「で、どうなの? 轟木君と早瀬君って、仲良いの?」
僕の前の席に後ろ向きに腰掛けた小清水さんが、綺麗に切りそろえられた前髪の下、冷たい目を向けて来る。勿論そこは小清水さんの席ではない。恐らくトイレか何かで離席しているらしい前の席の生徒に僕は同情した。きっと戻って来ても、この女子たちの迫力に圧されて、再びトイレに戻ることになるだろう。
「仲……は、いい、訳では……」
「えー、仲良くなかったら休みの日に出かけなくね?」
「いや、それは……縁があってというか」
「偶然会ったってこと?」
「いえ、それはその、ちゃんと、待ち合わせして……」
「やっぱ仲良いんじゃーん!」
きゃははは、と顔を見合わせて笑う女子たちの前で、僕は冷や汗を掻きながら固まっていた。椅子に縫いつけられたように体が動かない。
人と会話をすること、相手の意図を読むこと、満足する返事をすること。どれも僕の苦手分野だ。僕の返答はいつも辿々しく、的外れで、いつも呆れられるか空気が凍るか、兎に角まともに話せたことはない。
煮え切らない僕の返答に、僕の机に勝手に腰を下ろしていた桃園さんが、髪の毛の先を捻りながら小首を傾げる。
「そもそも早瀬君って、友達いたん?」
「ちょ、桃、流石にヒドくねー?」
「だって早瀬君が誰かと喋ってるとこ見たことないしー」
で、どうなの、と問いたげな六つの目に、喉がからからになる。
「あ、いや……友達、では……」
「友達じゃないの? じゃ、パシリ?」
矢張り傍目にはそう見えるのだろうか。やばー、早瀬君いじめられてんじゃん、ときゃはきゃは浴びせられる笑い声が、耳に痛い。居たたまれない。居心地が悪い。
助け船は、教室の入り口から寄越された。
「おーい、薫ちゃーん、いるー?」
馴染みのある声に、僕は詰めていた息を吐いた。いつもは仄かに緊張するその声音が、この状況下においては安心材料となるらしい。
三人の女子はぴたりと口を噤んだ。それはそうだろう、今まさに、きゃいのきゃいのと噂していた相手が登場したのだ。少しだけ気まずそうな女子たちに構わず、教室の前の戸にもたれた轟木が、僕に向けてひらひらと手を振っていた。
手招きじみたその動きに誘われるように、僕は席を立った。呼び止められることもなく、すたすたと教室を横切り、入り口へと向かう。
犬みてぇ、くすくすと笑い踵を返す轟木に、まるで忠犬と化した僕は黙って追った。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「いやー、薫ちゃん、蛇に睨まれた蛙みたいな顔してたからよー。廊下から見かけて思わず声かけたけど、お邪魔だった?」
「いや、全然! ……いや、ええと……助かり、ました」
「だから敬語」
くつくつ笑う轟木の、白いワイシャツに包まれた背が揺れる。梅雨明け、衣替えをした僕らは夏服へと移行していた。
半袖になって、改めて見る轟木は、随分と締まった体つきをしている。余りスポーツなどをしている印象はないが、ひょろがりな僕とは大違いだ。
浮き出た肩胛骨を眺める内に、階段を上り、気付けば屋上前の踊り場に着いていた。屋上の扉は鍵が掛けられていて、教師付き添いの元で授業をする時以外は封鎖されていた。人気のない踊り場の壁に寄りかかり、轟木は手にしたビニール袋をぷらぷら揺らす。購買で買ったのだろう、総菜パンの類が透けて見える。
僕の昼食はいつも、母の作ってくれた弁当を持参して、教室の端の席でもそもそと食べている。だから購買を利用したことはないが、どうやら大人気らしく、昼休みに入ると長蛇の列が出来るらしかった。地域のパン屋の届けてくれるコロッケパンやメロンパンは、早々に売り切れるそうだ。
一度も足を運んだことのない場所や、初めてのシステムというものは、僕をいつでも臆させる。きっと卒業まで、僕は購買を利用することはないだろう。
轟木は購買派らしい。壁に背を付け、踊り場に座り込んだ轟木は、僕に向けて袋の口を差し出す。
「薫ちゃん、飯食った? 一個食う?」
「いや……弁当、食べたから」
「別にまだ入んだろ。ほれ」
轟木は袋からパンを取り出し、こちらに放って来る。慌てながらも、潰れないように、何とか柔らかくキャッチする。ハムと卵を挟んだコッペパンだ。
これが購買のパンというものか。しげしげと眺める僕がおかしいのか、轟木はくつと喉を鳴らしながら、自分も取り出したパンの包みを開けた。魚のフライのバーガー、と思しきものに、大口でかぶりつく。
轟木の向かいに腰掛けた僕は、租借する度に上下する轟木の喉仏をじっと見つめていた。
「何、見過ぎ」
「いや、その、違くて……いや見ては、いたけれども」
「正直なんかい。いいから、薫ちゃんも食えって」
促されて、僕はコッペパンに口をつける。ゆで卵とマヨネーズというの何故こんなにも合うのだろうか。
そういえば世間では目玉焼きにマヨネーズをかける人もいると聞く。確かに合うだろうけれど、僕は子供の頃からの習慣でソースをかけることにしている。因みに母は醤油で、父は塩派だ。そう考えると卵というのは大体何の調味料でも合う、実に万能な食べ物だ。宗派はあるだろうが、ケチャップだってラー油だっていけるかも知れない。
「……って、聞いてる、薫ちゃん?」
「え、いや、はい……っ?!」
「聞いてねぇし」
呆れたような轟木は、いつの間にか買ってきたビニール袋の中身をすっかり食べきってしまったらしい。思考の海に潜り轟木の言葉を聞き逃した僕は、焦って、空回りする思考を口から滑らせる。
「た、まご……」
「あ? 卵?」
「轟木、君は……目玉焼きは何派?」
僕の突然の問いかけに、轟木は瞬いた。きょとんとした表情をすると、鋭い目が少し和らいで見える。
「何だよ、またぶっ飛んでた?」
「そ、……そう、かも」
「目玉焼きは、そうだなあ。まあ、無難に、醤油」
戸惑いながらも返答は律儀だ。くっ、と口の端を上げながら、徐に立ち上がった轟木は、どかりと僕の隣に腰掛け直した。急に近くなった距離に、びくりと僕は身を竦ませる。被服室で放課後を過ごす時も、轟木はいつも対面に座り、隣に来ることはなかった。背中に当たるコンクリートの壁の冷たさが落ち着かない。隣から感じる轟木の体温が、落ち着かない。
「さっきさあ、質問したんだよ」
「し、質問?」
「そ。何で、最近被服室来ない訳?」
問われ、返事に窮した僕はまたびくりと肩を揺らした。
六月の誕生日に出かけた日からこの方、僕は部活のある日以外、被服室に寄らなくなっていた。毎日早く帰るようになった息子に、母は心配し、鍵を管理している手芸部の顧問すら驚いていた。
――期末試験が近いから勉強に集中したくて。
用意したいいわけは上っ面なものではあったが、ある意味真実でもある。僕の成績は余り芳しいとは言い難く、勉強に集中しなければならないことは確かだった。
「その……期末に向けて、勉強しなきゃいけなくて……僕はあんまり、その、成績良くないから、特に物理が……」
「嘘だろ」
僕のしどろもどろの言い訳を、轟木はあっさり、嘘と断定した。何の根拠があるんだ。思わなくもないが、途端に押し黙る僕に、図星かよ、と轟木は確信を深めたようだった。
「薫ちゃんいると思って、俺何度も被服室行ったんだけど、空かねぇし」
「あ、そ、ごめ……」
「詫びはいいから。理由が知りてーんだよ。何、俺何かした? 俺のこと、嫌いんなった?」
「っちが! ちが、う……」
違うと断定したかった。それなのに言葉は急速に力を失っていった。
最初は不良じみたその風体は、恐れの対象だった。不意に僕の空間に足を踏み入れてきた、柄の悪い無遠慮な侵入者。
それが、いつしか二人で時間を過ごすのが苦ではなくなっていた。存外に笑い上戸な所だとか、何故かお金には厳しかったりだとか、不意に見せる優しさだとか。家庭で苦労していそうな割に不平不満は漏らさない、そんな轟木を、いつの間にか知っていた。
「違う……んだ」
「じゃあ何だよ」
ぎゅうと壁に背を押しつけ、立てた膝の間で拳を握る。何故か、なんて、上手く言葉に出来る訳がない。自分でも思考が纏まらないというのに、それを他者に伝えるのは僕には余りにも難行だ。
「あ……ひょっとして、リナの奴がよっぽど気に食わなかった、か?」
リナ、の名を聞いて、僕は不自然に言葉を詰まらせた。やっぱりかあ、と勝手に納得し始める轟木に、否定の言葉が上手く出ない。明るく派手なリナの姿を思い浮かべると、あの時と同じで、今すぐこの場から逃げ出したいような気になる。リナから、轟木から――轟木の彼女である、リナから。
「っちが、本当に、違くて……」
「いや、いいって。だよなー、あいつ本当煩いしガサツだし、喧しいしな」
問題なのはリナじゃなかった。リナの話をする轟木でもなかった。リナの話をする轟木を、見たくないと思ってしまう、僕自身が何よりの問題だった。
「っちが、う!」
「……じゃあ、何だよ」
轟木の声が色を失くした。そこに込められた苛立ちに、喉の奥に声が貼り付く。自分の気持ちが分かっているのに、言葉にならないのは初めてだ。
僕と轟木は友達ではない。でも、友達だったら、尚のことおかしい。
友達の彼女に妬くだなんて、きっと、どうかしている。
「…………もう、いいわ」
ぼそりと呟くと、轟木は立ち上がった。手の内で空になったビニール袋をくしゃりと潰す。その顔に浮かぶ色を窺うことが出来ず、僕はぎゅっと目を閉じた。呆れられた。失望された。もう轟木は、被服室には来ないかも知れない。自分から拒絶の態度を取った癖に、何故かそれは酷く嫌だった。
押し黙る僕に、轟木も何も言わず、そのまま乱暴な足取りで階段を下りていく。呼び止めるべきだった。けれど呼び止める言葉を持たず、僕は只、膝の間に顔を埋めてうずくまっていた。
「ねえ、早瀬君、最近轟木君と仲いいって聞いたけど、本当?」
「え、あ、は……いや、その」
昼休み、教室の隅で弁当を食べていた僕は、女子の集団に囲まれて度肝を抜かれた。
梅雨も明け、七月の日差しが燦々と窓から差し込んでいる。僕の席は教室の窓側、後ろから二番目という中々の好位置だった。気もそぞろな午後の授業中に、外を眺めるのに打ってつけの場所でもある。
気怠い五時間目、古文を読み上げる教師の声に眠気を誘われながら見やる窓の外、階下のグラウンドで体育をする生徒を見ることがある。隣のクラス、轟木のクラスだ。
轟木と話すようになってから、学内でその姿を良く目にするようになった。多分これまでにも見かけることはあったのだろうが、意識することはなかった。それが今やどうだ。グラウンドで酷くやる気なくランニングする轟木の、緩やかな茶髪ばかりが目に付くようになってしまった。
轟木は存外に友人が多い。優等生やスポーツ堪能な、所謂一軍と呼ばれる生徒ではなく、どちらかと言えば轟木と同じような、ちょっとすかした――と言ったら失礼かも知れないが、少しアウトローな雰囲気のある生徒数人と、喋っている姿を良く見かけた。
僕の視線に気付く筈もないだろうに、時折その視線が、校舎二階に向けられることがある。その時だけ、鋭い目つきが、少しだけ和らぐのは、僕の気の所為ではない筈だ。
その、クラス後方の目立たない僕の席は、今や縁もゆかりもない女子たちに囲まれている。
「てか轟木君と早瀬君ってどういう繋がり?」
「どんな話してんのか想像もつかないよねー」
「うちら轟木君に興味あってさー。こないだ駅前二人で歩いてるとこ見たから、気になっててー」
姦しい女子たちの声に、僕は落ち着かなく視線を彷徨わせる。僕に話しかけて来たのは、クラスの女子三人だ。前野さん、小清水さん、桃園さん。高校二年になってから三ヶ月が経つが、これまで一度も会話をしたことのない相手だ。というより僕は必要最低限しかクラスの人と話したことはない。名前を覚えられているのが意外なくらいだ。
どうやら彼女らは、轟木に気があるらしい。だからといって、僕に轟木のことを聞きに来るのはどうかと思う。轟木には他に友達もいるだろうし、僕が轟木について知ることなんて、些細なことでしかないのに。
「で、どうなの? 轟木君と早瀬君って、仲良いの?」
僕の前の席に後ろ向きに腰掛けた小清水さんが、綺麗に切りそろえられた前髪の下、冷たい目を向けて来る。勿論そこは小清水さんの席ではない。恐らくトイレか何かで離席しているらしい前の席の生徒に僕は同情した。きっと戻って来ても、この女子たちの迫力に圧されて、再びトイレに戻ることになるだろう。
「仲……は、いい、訳では……」
「えー、仲良くなかったら休みの日に出かけなくね?」
「いや、それは……縁があってというか」
「偶然会ったってこと?」
「いえ、それはその、ちゃんと、待ち合わせして……」
「やっぱ仲良いんじゃーん!」
きゃははは、と顔を見合わせて笑う女子たちの前で、僕は冷や汗を掻きながら固まっていた。椅子に縫いつけられたように体が動かない。
人と会話をすること、相手の意図を読むこと、満足する返事をすること。どれも僕の苦手分野だ。僕の返答はいつも辿々しく、的外れで、いつも呆れられるか空気が凍るか、兎に角まともに話せたことはない。
煮え切らない僕の返答に、僕の机に勝手に腰を下ろしていた桃園さんが、髪の毛の先を捻りながら小首を傾げる。
「そもそも早瀬君って、友達いたん?」
「ちょ、桃、流石にヒドくねー?」
「だって早瀬君が誰かと喋ってるとこ見たことないしー」
で、どうなの、と問いたげな六つの目に、喉がからからになる。
「あ、いや……友達、では……」
「友達じゃないの? じゃ、パシリ?」
矢張り傍目にはそう見えるのだろうか。やばー、早瀬君いじめられてんじゃん、ときゃはきゃは浴びせられる笑い声が、耳に痛い。居たたまれない。居心地が悪い。
助け船は、教室の入り口から寄越された。
「おーい、薫ちゃーん、いるー?」
馴染みのある声に、僕は詰めていた息を吐いた。いつもは仄かに緊張するその声音が、この状況下においては安心材料となるらしい。
三人の女子はぴたりと口を噤んだ。それはそうだろう、今まさに、きゃいのきゃいのと噂していた相手が登場したのだ。少しだけ気まずそうな女子たちに構わず、教室の前の戸にもたれた轟木が、僕に向けてひらひらと手を振っていた。
手招きじみたその動きに誘われるように、僕は席を立った。呼び止められることもなく、すたすたと教室を横切り、入り口へと向かう。
犬みてぇ、くすくすと笑い踵を返す轟木に、まるで忠犬と化した僕は黙って追った。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「いやー、薫ちゃん、蛇に睨まれた蛙みたいな顔してたからよー。廊下から見かけて思わず声かけたけど、お邪魔だった?」
「いや、全然! ……いや、ええと……助かり、ました」
「だから敬語」
くつくつ笑う轟木の、白いワイシャツに包まれた背が揺れる。梅雨明け、衣替えをした僕らは夏服へと移行していた。
半袖になって、改めて見る轟木は、随分と締まった体つきをしている。余りスポーツなどをしている印象はないが、ひょろがりな僕とは大違いだ。
浮き出た肩胛骨を眺める内に、階段を上り、気付けば屋上前の踊り場に着いていた。屋上の扉は鍵が掛けられていて、教師付き添いの元で授業をする時以外は封鎖されていた。人気のない踊り場の壁に寄りかかり、轟木は手にしたビニール袋をぷらぷら揺らす。購買で買ったのだろう、総菜パンの類が透けて見える。
僕の昼食はいつも、母の作ってくれた弁当を持参して、教室の端の席でもそもそと食べている。だから購買を利用したことはないが、どうやら大人気らしく、昼休みに入ると長蛇の列が出来るらしかった。地域のパン屋の届けてくれるコロッケパンやメロンパンは、早々に売り切れるそうだ。
一度も足を運んだことのない場所や、初めてのシステムというものは、僕をいつでも臆させる。きっと卒業まで、僕は購買を利用することはないだろう。
轟木は購買派らしい。壁に背を付け、踊り場に座り込んだ轟木は、僕に向けて袋の口を差し出す。
「薫ちゃん、飯食った? 一個食う?」
「いや……弁当、食べたから」
「別にまだ入んだろ。ほれ」
轟木は袋からパンを取り出し、こちらに放って来る。慌てながらも、潰れないように、何とか柔らかくキャッチする。ハムと卵を挟んだコッペパンだ。
これが購買のパンというものか。しげしげと眺める僕がおかしいのか、轟木はくつと喉を鳴らしながら、自分も取り出したパンの包みを開けた。魚のフライのバーガー、と思しきものに、大口でかぶりつく。
轟木の向かいに腰掛けた僕は、租借する度に上下する轟木の喉仏をじっと見つめていた。
「何、見過ぎ」
「いや、その、違くて……いや見ては、いたけれども」
「正直なんかい。いいから、薫ちゃんも食えって」
促されて、僕はコッペパンに口をつける。ゆで卵とマヨネーズというの何故こんなにも合うのだろうか。
そういえば世間では目玉焼きにマヨネーズをかける人もいると聞く。確かに合うだろうけれど、僕は子供の頃からの習慣でソースをかけることにしている。因みに母は醤油で、父は塩派だ。そう考えると卵というのは大体何の調味料でも合う、実に万能な食べ物だ。宗派はあるだろうが、ケチャップだってラー油だっていけるかも知れない。
「……って、聞いてる、薫ちゃん?」
「え、いや、はい……っ?!」
「聞いてねぇし」
呆れたような轟木は、いつの間にか買ってきたビニール袋の中身をすっかり食べきってしまったらしい。思考の海に潜り轟木の言葉を聞き逃した僕は、焦って、空回りする思考を口から滑らせる。
「た、まご……」
「あ? 卵?」
「轟木、君は……目玉焼きは何派?」
僕の突然の問いかけに、轟木は瞬いた。きょとんとした表情をすると、鋭い目が少し和らいで見える。
「何だよ、またぶっ飛んでた?」
「そ、……そう、かも」
「目玉焼きは、そうだなあ。まあ、無難に、醤油」
戸惑いながらも返答は律儀だ。くっ、と口の端を上げながら、徐に立ち上がった轟木は、どかりと僕の隣に腰掛け直した。急に近くなった距離に、びくりと僕は身を竦ませる。被服室で放課後を過ごす時も、轟木はいつも対面に座り、隣に来ることはなかった。背中に当たるコンクリートの壁の冷たさが落ち着かない。隣から感じる轟木の体温が、落ち着かない。
「さっきさあ、質問したんだよ」
「し、質問?」
「そ。何で、最近被服室来ない訳?」
問われ、返事に窮した僕はまたびくりと肩を揺らした。
六月の誕生日に出かけた日からこの方、僕は部活のある日以外、被服室に寄らなくなっていた。毎日早く帰るようになった息子に、母は心配し、鍵を管理している手芸部の顧問すら驚いていた。
――期末試験が近いから勉強に集中したくて。
用意したいいわけは上っ面なものではあったが、ある意味真実でもある。僕の成績は余り芳しいとは言い難く、勉強に集中しなければならないことは確かだった。
「その……期末に向けて、勉強しなきゃいけなくて……僕はあんまり、その、成績良くないから、特に物理が……」
「嘘だろ」
僕のしどろもどろの言い訳を、轟木はあっさり、嘘と断定した。何の根拠があるんだ。思わなくもないが、途端に押し黙る僕に、図星かよ、と轟木は確信を深めたようだった。
「薫ちゃんいると思って、俺何度も被服室行ったんだけど、空かねぇし」
「あ、そ、ごめ……」
「詫びはいいから。理由が知りてーんだよ。何、俺何かした? 俺のこと、嫌いんなった?」
「っちが! ちが、う……」
違うと断定したかった。それなのに言葉は急速に力を失っていった。
最初は不良じみたその風体は、恐れの対象だった。不意に僕の空間に足を踏み入れてきた、柄の悪い無遠慮な侵入者。
それが、いつしか二人で時間を過ごすのが苦ではなくなっていた。存外に笑い上戸な所だとか、何故かお金には厳しかったりだとか、不意に見せる優しさだとか。家庭で苦労していそうな割に不平不満は漏らさない、そんな轟木を、いつの間にか知っていた。
「違う……んだ」
「じゃあ何だよ」
ぎゅうと壁に背を押しつけ、立てた膝の間で拳を握る。何故か、なんて、上手く言葉に出来る訳がない。自分でも思考が纏まらないというのに、それを他者に伝えるのは僕には余りにも難行だ。
「あ……ひょっとして、リナの奴がよっぽど気に食わなかった、か?」
リナ、の名を聞いて、僕は不自然に言葉を詰まらせた。やっぱりかあ、と勝手に納得し始める轟木に、否定の言葉が上手く出ない。明るく派手なリナの姿を思い浮かべると、あの時と同じで、今すぐこの場から逃げ出したいような気になる。リナから、轟木から――轟木の彼女である、リナから。
「っちが、本当に、違くて……」
「いや、いいって。だよなー、あいつ本当煩いしガサツだし、喧しいしな」
問題なのはリナじゃなかった。リナの話をする轟木でもなかった。リナの話をする轟木を、見たくないと思ってしまう、僕自身が何よりの問題だった。
「っちが、う!」
「……じゃあ、何だよ」
轟木の声が色を失くした。そこに込められた苛立ちに、喉の奥に声が貼り付く。自分の気持ちが分かっているのに、言葉にならないのは初めてだ。
僕と轟木は友達ではない。でも、友達だったら、尚のことおかしい。
友達の彼女に妬くだなんて、きっと、どうかしている。
「…………もう、いいわ」
ぼそりと呟くと、轟木は立ち上がった。手の内で空になったビニール袋をくしゃりと潰す。その顔に浮かぶ色を窺うことが出来ず、僕はぎゅっと目を閉じた。呆れられた。失望された。もう轟木は、被服室には来ないかも知れない。自分から拒絶の態度を取った癖に、何故かそれは酷く嫌だった。
押し黙る僕に、轟木も何も言わず、そのまま乱暴な足取りで階段を下りていく。呼び止めるべきだった。けれど呼び止める言葉を持たず、僕は只、膝の間に顔を埋めてうずくまっていた。
