君を編む

 “まりん”は“舞凛”と書くらしい。
 轟木舞凛(とどろきまりん)。中々に力強い字面だ。
 現在小学一年生。火曜と金曜はまだ授業が四時間なので、極力轟木が早めに家に帰るようにしていると言う。
 だからか。先日、轟木が火曜に被服室に現れなかったのは。

「ま、夏休み過ぎたら学童預かり始まるらしいから、俺もお役御免だけどよ」

 苦笑する轟木が、僕の前に麦茶の入ったグラスを差し出す。ちゃぶ台に置かれたグラスの中で、溶けかけた氷がからりと音を立てた。
 轟木の部屋は二階にあった。玄関から直ぐの所にある急勾配の階段は、再び祖父母の家を思い起こさせる。
 階段を上がった先の右手、廊下の突き当たりの日当たりの良い部屋が轟木の自室のようだった。六畳程の畳の一室で、僕はちゃぶ台の前で正座をしていた。
 友達の家に招かれたことなど未だかつてない。轟木が友達かというとまたそれは別問題だが、ともあれ人様の家に招かれるなど終ぞないことなので、僕は畳の上で体を強張らせていた。

「何で正座よ」

 僕の向かいに腰を下ろした轟木が、胡座を掻きながら笑う。

「いや……はい、その、すみません」
「また敬語だし」
「……はあ」

 僕の曖昧な返事に、轟木はからからと笑った。

「悪かったな、さっきの」
「……え?」
「何かうちのやり方押しつけたみたいになってよ」
「ああ、ええと……」

 多分、労力と材料費に対して幼子から金銭を徴収したことに対してのことなのだろうが。僕にしてみれば、大して難しくもない余り素材で作ったものに金を貰うのが些か心苦しいだけで、くれるというものを誇示する程のものでもない。
 轟木は何故だか気まずげに、ちゃぶ台のグラスを取ると、麦茶を喉に勢い良く流し込んだ。喉仏が大きく上下する。麦茶を飲み干し、ついでに氷を口に含むと、がりと奥歯で噛む音がした。

「身内がそういう、店みたいのやってるからさ。保育園のママ友とかに、無償で色々やってくれとか、そういう……ヤリガイサクシュ? 的な。頼まれてうんざりしてたの知ってるから」
「……はあ」

 轟木の独白に、僕は生返事をする。轟木の事情は分かったが、それが僕に何か関係しているとは思えない。謝罪をする必要性も感じられない。
 戸惑う僕に、呆れたように轟木は僕を見た。

「何か、本当薫ちゃんって独特」
「……はあ、そうですか」
「怒ったりしねーの?」
「怒ることがあれば……怒りますけど」
「あ、そういや薫ちゃんって呼んでんのも怒んねーのな」
「まあ、それは……嫌ですけど」
「嫌なんか」

 ぎゃはぎゃはと轟木が爆笑する。だんだんと足の裏で畳を叩くと、階下からたけるくんうるさいーと叫ぶ舞凛の声がした。
 轟木はちゃぶ台に肘を突き、しゃちこ張る僕の顔を覗き込んだ。

「いいね、薫ちゃん。そういうの、もっと正直に言えばいいのに」
「それは……難しい、と思う」

 僕は俯いた。からりと氷が揺れる。手を着けていない茶色の水面には、酷く冴えない顔が浮かんでいた。
 僕の頭の中はいつも忙しくて、色々思うのに、それをそのまま話すとどうも妙な空気になってしまう。ずれているのか、空気が読めないのか、デリカシーがないのか。
 思ったことをそのまま言うのではない、ということを学習し、頭の中で適切な言葉を整理し、纏めようとしている内に、言葉の奔流は僕を飲み込んだ。溢れるままの言葉の渦は、きっと皆を困惑させてしまうことだろう。
 抑制し、喉元のダムにせき止められた言葉は途切れ途切れで、曖昧な残滓でしかない。どちらに転んでも、僕は人とまともにコミュニケーションを取れないのだ。

「言ってみろよ、別に、怒りゃしねぇから」

 そんなことを言われても。ちゃぶ台に肘を突き、僕を覗き込むつり目がちの瞳を困惑して見返す。

「とりあえず今思ってること言ってみ」
「いや、でも……」
「何でもいいから、今考えてることだよ」

 何でもいいからと言われても、困る。目つきの悪い相貌を見ながら、僕は困惑しながら口を開いた。

「……目つきが……悪いなって」
「あ?」
「あ、いやこれは変な意味じゃなくて。寧ろ目つきの鋭さが、轟木猛って名前と雰囲気合ってるって言うか。それにしても凄いよね轟木猛って字面が強いし、強いと言えば舞凛ちゃんも凄いよね、轟木舞凛。いや、今言った凄いって言うのはマイナスな意味はないから、本当に純粋に凄いいい名前だと思って……」

 轟木がぽかんと口を開ける。僕のこめかみを嫌な汗が伝った。いつもの生返事からは想像もつかないだろう。言葉の奔流は留まることなく僕の口から放たれ続ける。

「名前、名前なんだけど、僕のこと、名前で呼ぶの、別に嫌じゃない、嫌ではないんだけど……いや滅多に名前なんて呼ばれないし、親でさえ『あんた』とか『ちょっと』とか、薫なんて久々に呼ばれたって言うか、いや本当に嫌とかじゃ……嫌とかじゃないんだけど……」

 きょとんとしている轟木に、きっとこれは言わない方が良いのだろう。分かってはいる。分かってはいるのに、僕の中の抑止力はちっとも仕事をしてくれない。決壊したダムは止めることなく言葉の奔流を放った。

「ちょっと、いきなり、馴れ馴れしいな、とは思った…………けど」

 口からこぼれた声が急速に力を失っていく。沈黙が部屋に満ちた。何も悪いことを言った訳ではない。そう思うのに、気まずさに汗が滲み出る。
 ぽかんと口を開けた轟木の目元が、くしゃりと歪む。怒っただろうか。だが、一拍後、轟木はけたたましく笑い声を上げた。

「っぎゃははは、本当おもろ! 面白れーの薫ちゃん!!」

 おにいちゃんマジうるさいんだけどいい加減にしてよ、ぶち切れた舞凛が怒りながら乗り込んで来るまで、轟木の馬鹿笑いは続いた。

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 人の家に寄ることなどこれまでになかったので、完全に辞するタイミングを逃してしまった。轟木にうるさいと文句を言いに来た舞凛が部屋に居着いてしまった所為もある。

『たけるくんお腹空いたー』
『冷蔵庫にバナナ入ってんだろ。それでも食ってろ』
『えーやだバナナじゃつまんない』
『ワガママ言ってんじゃねーよ、黙って食え』
『やだやだやだ、じゃあせめて焼いてよ!』

 ごねる舞凛にうんざりしながらも、轟木は渋々台所に下り、コンロの前に立った。碌に炊事場に立ったことのない僕とは違い、轟木は一通りの火事はこなせるとのことだった。

「これがうぜーから、あんま早く家帰りたくねーんだよ」

 ぶつくさ言いながら、轟木は温めた砂糖とバターにバナナを絡め、こんがりとした焼き菓子を作り上げる。香ばしくて美味しそうな匂いがする。キャラメリゼだあ、と舞凛がきゃらきゃらと歓声を上げた。
 ふんいきだいじ、と態々フォークとナイフを人数分用意した舞凛に促され、轟木が皿にぞんざいに乗せたバナナに恐る恐る手をつける。

「……あ、美味しい」
「でしょー? たけるくんのキャラメリゼはてんかいっぴんなんだから!」
「いやお前が威張るな」

 突っ込みながらも轟木の頬は何処か満足げに綻んでいた。

「……だから、放課後、部屋探してた、ってこと?」
「おん?」
「この間、被服室来たの……時間潰す場所探してるのかなって思ったから、今の話聞くと」
「ああ、そうそ。舞凛の面倒見んの、それこそ面倒臭えからな。でも舞凛の母親にしてみれば、もっと家いて欲しいんだろうけど」

 そうした兄弟間の煩わしさというのは、一人っ子の僕にも想像はつくことだ。殊に年の離れた弟妹というのは、上の子に世話を押しつけられがちと聞く。
 おやつを食べ終え、轟木の自室に戻り、僕らはだらだらと時間を潰していた。畳に寝そべりやる気なさそうにスマホを眺める轟木の横で、僕はちゃぶ台に広げたノートに筆記具を走らせた。隣のクラスだから範囲は違えども、轟木とて課題は出ているだろうに。取りかかる気配すら見せずだらけている轟木の余裕さが、どうにも釈然としない。

「何、迷惑?」

 スマホの画面から顔を上げることなく、ちらとこちらへ横目をやった轟木が問う。英語の教科書を書き写しながら、僕はふむ、と小首を傾げる。
 放課後の被服室、一応手芸部の部員である僕は、活動日以外も顧問に鍵を借りて被服室を開けている。だが別にそれは僕の専売特許という訳ではなく、正当な理由があれば誰でも使えるものだ。だから僕に許可を取るのも変な話で、とはいえ僕も僕で轟木という不意の来訪者に自らのテリトリーを侵害されたような気がしていたのは事実だ。

「……人数、多くなければ」
「人数? ああ、別にたむろしたりしねーっての」
「轟木君だけなら、別に、いいよ。……部活ない日なら」
「やりぃ、ま、あの部長さん煩そうだしな」

 勝手なことを言いながら、轟木は寝そべったまま、満足げに、からからと笑った。

「あ、そういや、」

 ふと轟木がスマホ卓に投げ出し、身を起こす。ノートに書くべき和訳文を纏めるのに頭を使っていた僕は、反応が遅れた。
 だから諸に、食らってしまう。

「そういやシュシュ、貰うの忘れてたわ。それで態々来たんだろ、薫ちゃん」
「え、あ……はあ」
「紫の……そうそう、それ。買うわ。ちょっと待ってな」

 轟木が選んだのは、細い白の毛糸で編んで、縁取りに紫のグラデーションのフリルがあしらわれた、僕が持って来たものの中でも繊細な印象のものだった。ピンクだとか何だとか言っていたから、てっきりもっとふりふりしたものが欲しいのかと思っていたのに。
 そしてやっぱり、舞凛にあげる為のものではなかったのか。ならば、相手は。
 僕は少なからず動揺し、そして何に動揺しているかを自分で見出だせないまま、がさごそと鞄を探る轟木を呼び止める。

「えっと、お金は、いらない……です」
「……あ? 俺さっき説明した筈だよな?」
「あ、いや、聞いたけど……その、と、ととと……友達、だから」

 余りにも言い慣れない単語過ぎて、口から零れる際に酷くどもってしまう。金を貰うことの違和感を、くるめる為だけの言葉だから、僕も、轟木も、聞き慣れない“友達”の響きにぽかんとした。

「何だそれ……こっぱずかしいの」
「え、あ……う、その、だから……」
「何で薫ちゃんの方が照れてんだよ」

 照れている訳ではない。ノートの上で溶ける英字を追うともなしに目で追いながら、僕は言い慣れない言葉を紡ぐ。

「ともだ、ち……だから、お金は取らない。これは、あげる奴だから」

 きっぱりと言い切って轟木の顔を見上げると、轟木は何とも言えない顔をしていた。
 多分、轟木も分かっている。僕が轟木を友達なんかと思っていないことを。そして轟木も、僕のことを友達とも思ってはいないだろう。
 皮肉げな口元が歪められる。つり目がちの瞳が、困惑したように少しだけ揺れていた。

「ああ、じゃあまあ、貰っとくけど。薫ちゃんとの、友情の証、ってね」 

 軽薄な口調で言いながら、轟木は僕の手からシュシュを受け取った。
 ああ、動揺の正体はこれか。思い当たったところでどうにもならない事実が、僕を更に困惑させる。
 友達のいない僕とは違って、轟木はシュシュをあげたいと思う相手がいる。無駄にものを作り出すばかりの僕とは違う。
 その事実が胸に苦くて、曖昧に笑う僕に、轟木はどうしようもなさそうに、肩を竦めた。

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

「じゃーねー、かおるくん、またねー! また来てねー!!」

 帰り際、随分と惜しんでくれたえ舞凛の声を背に、きこきこと自転車を漕ぐ。夕暮れに染まる道を走りながら、見送りにも来なかった轟木の、冷たくつり上がった瞳を、いつまでも考えていた。