君を編む

 一目、二目。手を動かす毎に、模様が増えて行く。
 三目、四目。かぎ針を繰る度に毛糸が規則正しく並んでいく。
 五目、六目。七段目だから七目は六目と同じ箇所に針を入れる。一度確認すれば後はもう一心に手を動かすだけだ。
 無心に、何も考えず。機械的に、規則的に。
 一目、二目、三目、四目、五目、六目と七目。
 一目、二目、三目、四目、五目、六目と七目。

――キャハハハハ!

 廊下から聞こえる姦しい笑い声に、僕はびくりと身を竦めた。
 アルミ製のかぎ針が手から滑り落ち、木目のフローリングに転がる。僅か響く金属音が聞き咎められやしないかと、有りもしない被害妄想に体が強張った。

――えー、それはないわーてかやばくねー?

 賑やかな会話と忙しない複数の足音は、被服室にひっそりと籠もった僕に気付くこともなく駆け抜けて行く。
 廊下が静まり返ってから数拍おいて、ほう、と僕は重い息を吐いた。西日が差し込み夕方でも明るい被服室は、灯りも点けていない。一番後ろの作業机でひっそりと音も立てずに編み物をしている生徒がいるなど、誰も思いはしないだろう。
 そうと分かっていながら、僕の心臓はバクバクと音を立てていた。自分でもこの小心が嫌になる。

(別に何も、ビビることなんてないんだけどさ……)

 溜め息混じりに胸中呟き、机の下に潜る。かぎ針は毛糸の輪から外れ、木目の床に転がっていた。小さく舌打ちをする。レインボーカラーのもこもこした編み目は、変に踏んでしまったのか幾目か解けてしまったようだった。
 よれた毛糸と編みかけの半端な輪を見て、ぎゅっと眉間に皺を寄せる。別に、この程度何てことはない。編み目を数え直せばこと足りる。
 それなのにどうにも、ふつふつと、胸の奥から湧き出て来る不快感は消せなかった。片っぽだけ見つからない靴下、思い出せない献立、掛け違えたボタン、一本多く線を足してしまった漢字。
 そこはかとない違和感を殺し切ることが出来ず、丸椅子に戻った僕はぐいとカラフルな糸を引っ張った。

 ぷつ、ぷつ、ぷつ、ぷつ。編み目の解ける感触は妙に心地良い。一心に引っ張ると、編みかけの輪は容易く波打った毛糸へと戻った。
 溜め息混じりによれた糸を毛糸玉に巻き付ける。これで元通り、何もなし。放課後の時間は無に帰したが、元々何かを作りたかった訳ではない。指先を動かしていたいだけだったから、問題はなかった。

(ああ、もうこんな時間か……)

 黒板上の時計を見上げると、時刻は四時半を回った所だった。部活の最終下校時刻は六時半だが、もう帰ろうかと僕は机上の道具を片付け始める。
 月曜日の今日は元々活動日でもない。僕の所属する手芸部は部員10名ちょっとの小規模な部活で、活動日は基本水曜。学祭前や部活紹介のある春休み前なんかは、活動日以外も部員で賑わっている。だが新入生の入部も落ち着いたGW前の五月に、態々放課後残る酔狂な部員は僕しかいなかった。
 アルミの両かぎ針は私物だから鞄に。チューリップ型の目数マーカーは備品なのできちんと裁縫箱に収めておく。毛糸はどうしようか、ぐるぐると乱雑に巻いた毛糸玉を見て、僕は少し躊躇する。特段何を作りたいと思うでもなく、100均で適当に買ってきた毛糸だ。分類で言えば私物だが――僕は丸めた毛糸玉と裁縫箱を手に取り、立ち上がった。
 手芸部の備品は後部にある棚の中に片付ける決まりになっている。そこには裁縫用具やミシン、アイロンなどの手芸に必要な道具の他に、手芸部が使う布や糸、フェルトや手芸糸、そして毛糸などの素材が詰め込まれていた。
 100均のアクリル、落ち着いた色合いのウール、かごバッグに良さそうな麻、何に使うか分からない蛍光色の極太毛糸。様々に詰め込まれた毛糸の中に、そっと手のひらからカラフルな毛糸玉を転がす。次来た時に使えば良いし、もし万一誰かが使っても構わない。ここの材料たちは、大半がそうした部員たちの置き土産で成り立っている。

 さっさと施錠して鍵を職員室に返しに行こう。鞄を手に取り作業台に椅子を戻した時、被服室の前の扉が突然、がらりと開けられた。
 ぎょっとして僕は今度こそ固まった。

「……いや遅くねって、ちゃんと連絡したろうが、あーうるせうるせ、まだ学校だから切るぞ……」

 乱暴な口調で話しながら入って来た男子生徒が、固まった僕を見て語尾を尻すぼみにした。学校内で見かけたことのある、僕と同じ二学年の生徒だ。
 学校指定のブレザーを身に付けているが、その着こなしは僕とは大分違う。シャツのボタンも上まで止め、指定の臙脂色のネクタイをかっちりと締めた僕とは違い、その男子生徒はブレザーをはだけ、シャツを第二ボタンまで開けている。ネクタイなんてものは最初から存在しなかったかのように、胸元にはシルバーネックレスが下げられていた。
 何と言えば良いのか、こなれている。おしゃれというよりは(やから)感が強いが、少なくとも僕のように、もさいだとか野暮ったいだとか芋だとか、言われるような格好ではないことは確かだ。髪型も緩くウェーブしている明るめの茶髪で、いかにもこじゃれている。染めたこともない黒髪を伸ばしっ放しの僕とは雲泥の差だ。

 校則では一応、スマホの所持は認められているが、通話の類は禁止されている。しかし入って来た男子生徒は一切気にすることなく、耳元にスマホを押し当て通話をしていた。薄い板の向こうから、くぐもった女性の声が聞こえる。彼女か何かだろうか。苛立ったように矢継ぎ早にスマホの向こうから聞こえる声に、男子生徒はうんざりしたように顔を顰めた。

「あー、いや何でもない。そんなんじゃないって、空き教室入ったら隣のクラスの陰キャがいただけ。……いやいーだろどんな呼び方したって……っせーな、分かったって」

 通話をしながら男子生徒は被服室に入って来ると、ずかずかと作業机の合間を縫って僕の方へ近付いて来る。完全にビビる僕の気持ちなど知る由もなく、男子生徒は無造作に僕の向かいに腰掛けた。

「なあ、……あんた、あー……早坂クン? だっけ?」
「…………早瀬(はやせ)、です」
「あー、そーそー、早瀬。早瀬薫(はやせかおる)ちゃんだ。そらみろ、ちゃんと名前言えただろ」

 何故か勝ち誇ったように電話の向こうの相手に告げるフルネームは正しく僕のものだ。早瀬薫。中性的で清涼感のある名前は、ぼさぼさ頭で俯きがちの僕からは中々に想像出来ないだろう。イメージと違う、とはこれまで幾度となく言われて来たことだ。高校に入ってからの自己紹介の時も、小声でぼそぼそ名乗る僕は、幾度となく失望と嘲笑の視線を受けて来た。
 何で僕の名を、こんな縁のなさそうな人が知っているのだろうか。内心あたふたする僕を後目(しりめ)に、あーはいはいじゃあな、とスマホの向こうの相手に適当な相槌を打ち、男子生徒は通話を切った。 

 乱暴に足を組んでそのままスマホを弄り始める男子生徒に、僕は仰天した。いや、ここに居座るんかい。この空気で。寧ろ相手は僕のことを空気と思っている節がある。
 僕は立ち尽くしたまま、そろそろと男子生徒に視線を向けた。ぽちぽちとスマホを弄る生徒は、隣のクラスとさっき言っていた。同じ学年ということは知っている。何となく見覚えはある。だが、交友関係が狭く人付き合いの苦手な僕には、同じクラスになったことのない生徒の名はとんと検討が付かなかった。

「………………あの」

 無限とも思える沈黙の後、僕は口を開く。

「あ?」

 ギロリと下から睨み上げられて、僕はひゅう、と息を呑んだ。緩めの髪型や着こなし、丸めの相貌は柔らかめなのに、眦がつり上がり目つきばかりが(すこぶ)る悪い。ぱっと見はクラスの一軍風なのに、目つきの所為で何処かやさぐれて見えるのが何だか気の毒だった。
 僕にどうこう思われたくもないだろうけど。どの道、イケメンと呼ばれる類の人間であることには変わりがないし。
 退け腰になりながら、僕は怖じ気付きながらそのマイルドヤンキーじみた同級生に告げる。

「あの…………ええと、被服室に何か……用、ですか?」
「あ? 用な訳ねーだろ」

 にべもなく返され、僕は言葉に詰まる。だって勝手に入って来たのはそっちだろうに、何で僕が気まずい思いをしなければならないんだ。おまけに居座られては、帰れないじゃないか。
 胸の内の文句は当然口には出せない。臆病な僕は鞄を手に立ったまま、パクパクと口を開閉させた。男子生徒はこちらに興味なさそうにまた画面に顔を落とす。

「……な、まえ……」
「ああ?」
「名前、何で、知って……」

 鋭い目が再び僕を見上げる。キョドりな癖に変に固まってしまう癖のある僕は、三白眼を見つめたまま硬直した。

「あー、特徴的じゃん。早瀬薫って名前」
「えあ、はい、そう、……ですか?」
「そーそー、入学式でどんな美女が登場すんのかと思ってたら、さあ?」

 尖った目が、すっと更に眇められる。そこに含まれた揶揄と侮蔑の色に、喉がカラカラになる。自己紹介の度に晒されて来た冷たい視線は、いつまでも慣れない。

「そ、あ、の……すいません」
「何で謝んだよ」
「あ、すいま……いや、違うくて……あの、名前」
「あ? ああ、俺の? 轟木(とどろき)だけど。二年一組の、轟木猛(とどろきたける)

 スマホをぶらぶら揺らしながら、轟木は皮肉げに口の端を上げた。そういえば、こちらも入学式の時に、随分と厳つい名前の生徒がいるものだ、と思った記憶がある。
 皮肉めいた笑みも自身の名も含めてのことだろうか。

「それで、その……轟木くん……用ないなら、被服室、閉めたいんだけど」
「あ? 何、もう出なきゃなんねーの?」

 勝手に入って来た分際で随分なことを言う。僕は手にした鞄をぎゅっと腹の前で握り締めた。

「うん、その……手芸部の活動、終わって……先生に鍵返さないと」
「へー、薫ちゃんって手芸部なんだあ?」

 ちゃん付けは余りにも馴れ馴れしい。そして手芸部、と聞いた轟木の形の良い眉毛が吊り上がる。またきゅっと僕の喉が狭まった。
 令和の時代でも、手芸部と聞くと何となく女性的な印象は拭えない。この高校の手芸部も、一年生が三人、二年生は僕を含め四人、三年生が五人。その内で男子生徒は僕一人だけだ。
 心臓が冷たくなる。揶揄いや嘲笑は、何度受けても慣れることはなく、幾度となく僕の胸を刺して来た。
 轟木はいかにも、そっち側の人間に見えた。自分の価値観に合わないからと、他人を蔑んで見下すタイプの、そうした人間に。
 轟木は僕を見上げ、数度瞬きをする。目つきは悪いのに存外に睫毛が長い。ふうん、と呟くと、しかし轟木は揶揄いも嘲笑いもせず、スマホをポケットに仕舞うと立ち上がった。

「何、手芸部ってそんな人いないの?」
「いや……今日は活動日じゃないから……」
「へー、ちな活動日いつ?」
「…………水曜日、だけど」
「ほーん、それ以外の日にも薫ちゃんは被服室使ってるって訳?」

 嫌な予感がした。その後に続く言葉を想像し、僕は尚更縮こまった。
 放課後、輩じみた生徒たちが被服室を占拠する。轟木を初めとした不良めいた連中は、僕に鍵を開けさせるだけ開けさせて、好き勝手に過ごすことだろう。下手をすれば僕をパシリのように使うかも知れない。そしていずれは手芸部の皆にもそのことが知れ、僕は部にいられなくなる――そんな最悪の未来が、頭を過った。
 悲痛に顔を歪める僕の前で、轟木はまた瞬きをした。戸惑いでもしているのだろうか。まさか。

「そんな警戒すんなよ、悪いようにはしねぇって」
「はあ、……でも」
「じゃ、また明日な、薫ちゃん」

 一方的に言い捨てると、轟木はひらりと無造作に手を振る。そのままずかずかと作業机の合間を縫って、乱暴に開けた後ろの扉から出て行った。
 僕は暫く動けなかった。何だったのだ、あの男は。勝手に入って来て、一方的に喋って、不躾に名を呼んで。
 不快さと不安さと落ち着かなさが全身を渦巻き、鞄を握った指先が忙しなく動く。編み物をしたい。かぎ針を動かしていないと落ち着かない。何なら毛糸だけでも良い、指編みはもう幼少期からの癖みたいなものだ。

 ぎゅっと目を閉じ、その場に佇む。かち、こち、時計の針が進む音。遠く校庭から聞こえる運動部のかけ声。管楽器のくぐもった演奏。
 耳奥に届く日常を拾う内に、漸く気持ちが落ち着いて来た僕は、そろそろと目を開く。いつの間にか西日は沈み、教室を薄暗い夜が包み始めている。
 帰ろう。帰って、課題を終わらせて、夕飯を食べて、風呂に入って、寝る前にまた少しだけ編もう。日々のルーティーンを思い起こすと、見慣れない三白眼はやっと思考の隅に追いやられていった。