暴君様の台所役は、毒見役を兼ねている

 その日は、最初から空気が違っていた。

 台所に立った瞬間、分かる。
 静かだが、張り詰めている。

 誰もが、何かを待っている。

 ――来る。

 そう思った。

 理由はない。
 だが、確信だけがあった。

「紺野」

 呼ばれる。

「はい」

「今日は、どうする」

 当主はいつも通りの声音で問う。

 だが、その視線は鋭い。

 試している。

 そして――見ている。

「いつも通りです」

 私は答える。

「変えません」

「そうか」

 それ以上は言わない。

 だが、視線は外れない。

 調理は、静かに進む。

 すべての工程を、自分の目で確認する。
 手を離さない。

 触れさせない。

 ――だが。

 それでも。

 最後の一手前で、違和感が走った。

 ほんの一瞬。

 目を離した隙。

 それだけで。

「……」

 私は、何も言わずに椀を見つめた。

 分かる。

 入っている。

 今度は、はっきりと。

 前回よりも、強い。

 ――来た。

 私は静かに息を吐く。

 逃げることはできない。

 ならば。

 やることは一つだ。

 卓に料理を置く。

 当主は、無言でそれを見る。

「毒見は」

 短く問う。

「いたします」

 私は答える。

 そして、椀を取る。

 その瞬間。

 背後で、誰かの気配が動いた。

 振り返らない。

 意味がない。

 今、やるべきことは――

 確認だ。

 一口、口に含む。

 強い苦みが、舌に広がる。

 前回より、明らかに濃い。

 喉を通る。

 じわりと、体の奥に落ちていく。

「……どうだ」

 当主の声。

 私は、ゆっくりと息を整えた。

「入っています」

 はっきりと言う。

「強いものです」

 ざわ、と空気が揺れる。

「致死量か」

「……分かりません」

 正直に答える。

「ですが、危険です」

 沈黙。

 次の瞬間。

「なら、やめろ」

 当主が言った。

 その一言に、私は目を上げる。

 予想していなかった言葉。

「……やめろ、とは」

「食うなと言っている」

 低く、はっきりと。

 私は一瞬、言葉を失う。

 だが。

「確認が必要です」

 私は静かに言う。

「もう十分だ」

「不十分です」

 言い切る。

 空気が張り詰める。

「原因が分からなければ、終わりません」

「終わらせる必要はない」

「あります」

 私は、箸を握る。

「ここで止めれば、次も同じことが起きます」

「なら」

 当主は一歩、踏み出す。

「お前が死ぬだけだ」

 その言葉に、わずかに怒気が混じる。

 ――初めてだ。

 この人が、感情を見せた。

「それでもです」

 私は、視線を逸らさない。

「私の仕事ですから」

 沈黙。

 誰も、動かない。

 時間だけが、重く落ちる。

 やがて。

「……勝手にしろ」

 低く、吐き捨てるように言った。

 私は、静かに頷く。

 そして。

 もう一口。

 さらに一口。

 飲み込む。

 苦みが、強くなる。

 体の奥が、じわりと熱を持つ。

 だが、止めない。

 止まらない。

 すべて、確かめる。

 やがて、箸を置いた。

「……以上です」

 息を整えながら言う。

「毒は、確実に入っています」

 沈黙。

 そして。

「紺野」

 当主が、低く呼ぶ。

「はい」

「もう一度、作れ」

 一瞬、意味が分からなかった。

「……はい?」

「今すぐだ」

 その声は、迷いがなかった。

「同じものを、作れ」

「ですが」

「いいから作れ」

 強く言い切る。

 私は、数秒だけ迷い。

「……承知いたしました」

 頭を下げる。

 再び台所に戻る。

 急いで、同じ料理を作る。

 手は震えていない。

 頭は、冷静だった。

 ――見ている。

 誰かが。

 だが、構わない。

 今は、それよりも。

 “同じもの”を作る。

 それが、答えになる。

 再び、卓へ。

 新しい椀を置く。

「毒見は」

 私は問う。

 だが。

「いらん」

 即答だった。

 そして。

 当主は、そのまま箸を取る。

「……お待ちください」

 思わず声が出る。

「何だ」

「確認が」

「不要だ」

 短く言う。

「なぜなら」

 そして。

 彼は一口、口に運んだ。

 静かに、飲み込む。

 周囲が凍りつく。

 誰も、動けない。

 そして。

 ゆっくりと、こちらを見る。

「お前が作ったからだ」

 その一言が、落ちる。

 静かに。

 だが、確かに。

「……」

 言葉が出なかった。

 それは、あまりにも。

 単純で。

 あまりにも。

 重かった。

「紺野」

「……はい」

「お前の料理は、信用できる」

 はっきりと、言い切る。

 その瞬間。

 空気が変わった。

 疑いが、消える。

 すべてではない。

 だが、少なくとも――

 ここでは。

 私は、疑われていない。

 その事実が、はっきりと示された。

「……ありがとうございます」

 ようやく、それだけを言う。

 だが。

 胸の奥が、わずかに熱い。

 これは。

 ただの言葉ではない。

 この男が。

 初めて、誰かを“選んだ”瞬間だ。

「礼はいらん」

 いつもの言葉。

 だが、その響きは少し違った。

「だが」

 彼は、わずかに目を細める。

「これで終わりではない」

「はい」

「むしろ、ここからだ」

 私は頷く。

 もう、迷いはない。

 この食卓で。

 この屋敷で。

 すべてを、暴く。

 そのために。

 私は、ここにいる。