暴君様の台所役は、毒見役を兼ねている

その日、私は火を使わなかった。

 台所の中央に立ち、ただ食材を並べる。
 包丁も、鍋も、まだ手に取らない。

 ――見るためだ。

 誰が、どこで、何に触れるのか。

 音を殺し、気配を消す。

 いつも通りに動くふりをしながら、すべてを観察する。

「……妙なことをしているな」

 戸口から、当主の声が落ちる。

「少し、試しております」

「何をだ」

「混ざるかどうかを」

 意味の分からない答えに、彼は眉を寄せる。

 だが、それ以上は聞かない。

 ただ、そこに立っている。

 ――見るつもりらしい。

 なら、都合がいい。

 最初に動いたのは、若い下働きの男だった。

 水を替え、器を運び、忙しなく動く。
 だが、その手は料理には触れない。

 次に、古株の女中。

 手際よく食材を整え、必要なものを揃える。
 無駄がない。長年の経験だろう。

 だが。

 ――違う。

 どちらも、“触れていない”。

 私が見ている限りでは。

 時間だけが、静かに過ぎる。

 やがて。

 ふと、風が動いた。

 障子の隙間から、わずかに空気が流れ込む。

 その瞬間。

「……」

 私は、匂いを感じた。

 ほんの、かすかに。

 料理とは関係のない匂い。

 苦みとも、薬とも違う。

 だが。

 確実に、“混ざらないもの”。

 私は顔を上げる。

 台所の奥。

 影の中に、一人の男が立っていた。

 見覚えはある。
 この屋敷の使用人の一人だ。

 だが。

 ――名前を、知らない。

「何をしている」

 私が声をかけると、男はわずかに目を細めた。

「見ていただけです」

 静かな声だった。

 感情が、ほとんどない。

「台所は、立ち入りを制限しております」

「存じております」

 あっさりと答える。

「ですが、用がありましたので」

「用とは」

「確認です」

 その言葉に、空気がわずかに揺れる。

「何の」

「あなたが、本当に気づくのかどうか」

 ――やはり。

 私はゆっくりと息を吐く。

「あなたが、やっているのですか」

 問いかける。

 だが、男は首を振った。

「違います」

「では、なぜ」

「見ているだけです」

 それだけ言って、口を閉じる。

 沈黙。

 背後で、当主がわずかに動く気配がした。

「紺野」

「はい」

「そいつは」

「分かりません」

 私は正直に答える。

「ですが、何かは知っています」

 男は何も言わない。

 ただ、こちらを見ている。

 試すように。

 値踏みするように。

「一つだけ、教えて差し上げましょう」

 やがて、男が口を開いた。

「混ざらないものは、必ず浮きます」

 意味の分からない言葉だった。

 だが。

 どこか、引っかかる。

「浮く……?」

「はい」

 それだけ言って、男は一歩下がる。

「では」

 静かに頭を下げ、そのまま影の中へと消えた。

 追おうとしたが。

「追うな」

 当主の声が、それを止めた。

「……よろしいのですか」

「今はいい」

 短く言う。

「紺野」

「はい」

「どう見る」

 問われる。

 私は少しだけ考え、答えた。

「犯人ではないと思います」

「理由は」

「隠す気がありません」

 あれは、見せに来ている。

 わざと。

「なら」

「ですが」

 私は続ける。

「関係者ではあります」

 確実に。

「“見ている側”です」

 当主は黙る。

 やがて、低く言った。

「面倒だな」

「はい」

「だが」

 わずかに口元が歪む。

「面白い」

 その言葉に、ほんの少しだけ寒気が走る。

 本当に、この人は。

「紺野」

「はい」

「続けろ」

「承知いたしました」

 私は頷く。

 そして、再び食材に向き直る。

 匂いは、もう消えている。

 だが。

 確かに、あった。

 混ざらないもの。

 浮くもの。

 ――つまり。

 見えないわけではない。

 見えていないだけだ。

 私は静かに手を動かす。

 この中に、ある。

 必ず。

 “混ざらない何か”が。