その日から、台所の空気が変わった。
目に見える変化はない。
人の数も、動きも、これまでと同じ。
だが。
――視線がある。
包丁を握りながら、私はそれを感じていた。
背中に、わずかな重み。
誰かが見ている。
振り返れば、何もない。
だが、確かに“いる”。
「……」
私は手を止めずに、静かに呼吸を整える。
気づかれているかもしれない。
いや。
むしろ――
気づかせようとしているのか。
それから、やり方を変えた。
席を外さない。
食材から目を離さない。
火加減も、味も、すべて自分で管理する。
――触れさせない。
それだけを徹底する。
だが。
それでも。
「……またか」
小さく呟いた。
ほんの一瞬、目を離した隙。
それだけで。
――違う。
わずかに、だが確実に。
味の輪郭が、ずれている。
前回ほどではない。
毒とも言い切れない。
だが。
“意図的なズレ”。
それだけは、分かる。
「遊んでいるのか」
思わず、そう呟いていた。
殺すつもりなら、もっと確実にやるはずだ。
だが、これは違う。
まるで。
――試している。
私を。
「紺野」
呼ばれて、振り返る。
当主が立っていた。
「進みはどうだ」
「問題ありません」
私は短く答える。
彼はじっと鍋を見つめる。
「……何かあったか」
不意に、そう言った。
私は一瞬、息を止める。
「なぜそう思われますか」
「空気が違う」
それだけだった。
理由としては、あまりに曖昧。
だが、この男は、それで十分らしい。
「……少し、気になることが」
私は、言葉を選ぶ。
「まだ確証はありません」
「言え」
即座に命じられる。
私は観念して、口を開いた。
「味が、ずれます」
「ずれる?」
「はい。ほんのわずかにですが」
彼は眉を寄せる。
「毒か」
「分かりません」
首を振る。
「ですが、自然ではありません」
沈黙。
「同じことが、二度」
「はい」
「……三度目は」
「先ほどです」
その瞬間。
空気が、ぴんと張り詰めた。
「誰が触れた」
「分かりません」
「見ていないのか」
「一瞬の隙です」
私は静かに言う。
「意図的に、狙われています」
彼は黙る。
ゆっくりと、視線を巡らせる。
台所の隅々まで。
だが、そこには何もない。
あるのは、いつも通りの光景だけ。
「……面倒だな」
ぽつりと呟く。
だが、その声にはわずかな熱があった。
「紺野」
「はい」
「そのまま続けろ」
「よろしいのですか」
「やめる理由がない」
即答だった。
「どうせ、狙いは俺だ」
当然のように言う。
私はわずかに目を細める。
「……危険です」
「今さらだな」
あっさりと返される。
確かに、その通りだった。
この男にとって、“命の危険”など日常なのだろう。
「だが」
彼は一歩、こちらに近づく。
「面白い」
低く言う。
「どこまでやるか、見てやろう」
その目は、冷たいままだ。
だが。
どこか楽しんでいるようにも見える。
――本当に、この人は。
私は内心で小さく息を吐く。
「承知いたしました」
答えるしかない。
その日の料理は、最後まで気を抜かなかった。
毒見も、いつも以上に慎重に行う。
問題はない。
だが。
最後に、ひとつだけ。
確信が残った。
――誰かがいる。
確実に。
この台所に。
そして。
それは、ただの悪意ではない。
もっと。
粘つくような、意図。
試されている。
見られている。
選ばれている。
そんな感覚が、離れない。
私は静かに手を止めた。
鍋の中の出汁が、わずかに揺れる。
そこには、何も映らない。
だが。
確かに、“見えない手”が触れている。
目に見える変化はない。
人の数も、動きも、これまでと同じ。
だが。
――視線がある。
包丁を握りながら、私はそれを感じていた。
背中に、わずかな重み。
誰かが見ている。
振り返れば、何もない。
だが、確かに“いる”。
「……」
私は手を止めずに、静かに呼吸を整える。
気づかれているかもしれない。
いや。
むしろ――
気づかせようとしているのか。
それから、やり方を変えた。
席を外さない。
食材から目を離さない。
火加減も、味も、すべて自分で管理する。
――触れさせない。
それだけを徹底する。
だが。
それでも。
「……またか」
小さく呟いた。
ほんの一瞬、目を離した隙。
それだけで。
――違う。
わずかに、だが確実に。
味の輪郭が、ずれている。
前回ほどではない。
毒とも言い切れない。
だが。
“意図的なズレ”。
それだけは、分かる。
「遊んでいるのか」
思わず、そう呟いていた。
殺すつもりなら、もっと確実にやるはずだ。
だが、これは違う。
まるで。
――試している。
私を。
「紺野」
呼ばれて、振り返る。
当主が立っていた。
「進みはどうだ」
「問題ありません」
私は短く答える。
彼はじっと鍋を見つめる。
「……何かあったか」
不意に、そう言った。
私は一瞬、息を止める。
「なぜそう思われますか」
「空気が違う」
それだけだった。
理由としては、あまりに曖昧。
だが、この男は、それで十分らしい。
「……少し、気になることが」
私は、言葉を選ぶ。
「まだ確証はありません」
「言え」
即座に命じられる。
私は観念して、口を開いた。
「味が、ずれます」
「ずれる?」
「はい。ほんのわずかにですが」
彼は眉を寄せる。
「毒か」
「分かりません」
首を振る。
「ですが、自然ではありません」
沈黙。
「同じことが、二度」
「はい」
「……三度目は」
「先ほどです」
その瞬間。
空気が、ぴんと張り詰めた。
「誰が触れた」
「分かりません」
「見ていないのか」
「一瞬の隙です」
私は静かに言う。
「意図的に、狙われています」
彼は黙る。
ゆっくりと、視線を巡らせる。
台所の隅々まで。
だが、そこには何もない。
あるのは、いつも通りの光景だけ。
「……面倒だな」
ぽつりと呟く。
だが、その声にはわずかな熱があった。
「紺野」
「はい」
「そのまま続けろ」
「よろしいのですか」
「やめる理由がない」
即答だった。
「どうせ、狙いは俺だ」
当然のように言う。
私はわずかに目を細める。
「……危険です」
「今さらだな」
あっさりと返される。
確かに、その通りだった。
この男にとって、“命の危険”など日常なのだろう。
「だが」
彼は一歩、こちらに近づく。
「面白い」
低く言う。
「どこまでやるか、見てやろう」
その目は、冷たいままだ。
だが。
どこか楽しんでいるようにも見える。
――本当に、この人は。
私は内心で小さく息を吐く。
「承知いたしました」
答えるしかない。
その日の料理は、最後まで気を抜かなかった。
毒見も、いつも以上に慎重に行う。
問題はない。
だが。
最後に、ひとつだけ。
確信が残った。
――誰かがいる。
確実に。
この台所に。
そして。
それは、ただの悪意ではない。
もっと。
粘つくような、意図。
試されている。
見られている。
選ばれている。
そんな感覚が、離れない。
私は静かに手を止めた。
鍋の中の出汁が、わずかに揺れる。
そこには、何も映らない。
だが。
確かに、“見えない手”が触れている。



