暴君様の台所役は、毒見役を兼ねている

その違和感に気づいたのは、火を入れる前だった。

 いつも通りに出汁を引き、味を整え、最後の確認をする。
 それだけのはずだった。

 だが。

 ――わずかに、ずれている。

 私は鍋の前で手を止めた。

 舌に残る、ほんのわずかな引っかかり。
 言葉にするには曖昧すぎる差異。

 だが、確かに違う。

「……おかしい」

 小さく呟く。

 塩は入れすぎていない。
 出汁も狂っていない。

 それでも。

 “いつもの味”ではない。

 私はもう一度、すくって口に含む。

 静かに広がる旨味の奥に――

 ほんの、微かな苦み。

 それは、春の苦みとは違う。
 もっと不自然で、後に残る感覚。

 私はゆっくりと息を吐いた。

 鍋から目を離し、台所を見渡す。

 誰もいない。

 だが。

 ――さっきまでは、違った。

 ほんの少し席を外した。
 その間に、誰かがここにいた。

 その確証はない。

 ただ。

 この味が、それを示している。

「……」

 私は鍋の中身をすべて捨てた。

 迷いはなかった。

 新しく、最初から作り直す。

 時間はかかる。
 だが、それでいい。

 “分からないもの”を出すわけにはいかない。

 料理を運ぶ頃には、すでに日が傾きかけていた。

 卓の前に当主が座っている。

「遅いな」

 第一声はそれだった。

「申し訳ありません」

 私は頭を下げる。

「やり直しておりました」

「やり直し?」

「はい」

 それ以上は言わない。

 言うべきではない。

 まだ、確証がない。

 だが。

「……毒見は」

 彼が言う。

 私は一瞬だけ、視線を上げた。

「いたします」

 はっきりと答える。

 いつも通りの動作で、椀を取り、一口。

 味を確かめる。

 ――問題ない。

 今度は、確実に。

「問題ありません」

 箸を置く。

 彼は無言でそれを見ていた。

「珍しいな」

 低く言う。

「何がでしょうか」

「お前が、確認を強めるのは」

 気づいている。

 細かいところまで、見ている。

 私はわずかに目を伏せる。

「念のためです」

「そうか」

 それ以上は問わない。

 ただ、椀に手を伸ばす。

 一口。

 いつも通りの流れ。

 だが。

 私は、ほんのわずかに指先に力を込めていた。

 何かが起きるかもしれない。

 そう思っている自分がいる。

 しかし。

 何も起こらない。

 彼は普通に食べ、普通に飲み込む。

 静かな時間が流れる。

「……」

 私は内心で息を吐いた。

 考えすぎかもしれない。

 ただの勘違い。

 そう思いかけた、その時。

「紺野」

「はい」

「味が、違うな」

 ぴたりと、心臓が止まる。

「どのように」

 平静を装って問う。

「昨日より、整っている」

 それは、正しい。

 作り直したのだから。

「ですが、それだけではない」

 彼はゆっくりと続ける。

「何かを、避けた味だ」

 ――そこまで分かるのか。

 私は一瞬、言葉を失う。

「……お気づきでしたか」

「何があった」

 問いは短い。

 だが、逃げ場はない。

 私は、ほんの少しだけ迷い。

 それでも、答えた。

「調理の途中で、席を外しました」

「それで」

「戻った時、味がわずかに変わっておりました」

 沈黙。

「誰かが触れた可能性があります」

 その言葉が、静かに落ちる。

 空気が変わる。

 目に見えない何かが、確かに張り詰めた。

「……証拠は」

「ありません」

「なら」

「ですが」

 私は言葉を重ねる。

「出すわけにはいきませんでした」

 はっきりと。

「“分からないもの”は」

 当主は黙る。

 しばらくして、ゆっくりと箸を置いた。

「捨てたのか」

「はい」

「すべて」

「はい」

 再び、沈黙。

 やがて彼は、小さく息を吐いた。

「……そうか」

 それだけだった。

 だが。

 その一言には、確かな重みがあった。

「紺野」

「はい」

「次からは」

 低く言う。

「席を外すな」

「承知いたしました」

「それと」

 わずかに間を置く。

「何かあれば、隠すな」

 私は顔を上げる。

 その言葉は。

 ただの命令ではなかった。

「……はい」

 静かに答える。

 彼は再び椀に手を伸ばし、何事もなかったかのように食べ始める。

 だが。

 もう分かっている。

 この屋敷は。

 決して、安全ではない。

 そして――

 この食卓は、常に狙われている。

 私はそっと、空になった器を見つめた。

 さっきまでそこにあったはずの味が、消えている。

 何も残らない。

 だが。

 確かに、そこに“触れられた跡”があった。