その朝、庭に出た瞬間、空気が変わっていることに気づいた。
冷たさの中に、わずかな緩みがある。
冬の終わり。春の気配。
視線を落とせば、足元に小さな緑が顔を出していた。
――もう、そんな時期か。
「何をしている」
背後から声がかかる。
振り返ると、当主が立っていた。
「食材を見ておりました」
「庭をか」
「はい」
私は頷く。
「ここにも、料理になるものがありますので」
彼は眉を寄せた。
「雑草だろう」
「そうとも言います」
私はしゃがみ込み、小さな葉を指で摘む。
「ですが、これは“春”です」
それを軽く掲げて見せる。
「……意味が分からん」
「食べれば分かります」
そう言って、私は立ち上がった。
その日の台所には、いつもと違う香りが満ちていた。
ほろ苦く、青い匂い。
冬にはなかったものだ。
摘んできた若芽を下処理し、余分なえぐみを抜く。
出汁は、少しだけ軽くする。
重さは、いらない。
必要なのは、“抜ける感覚”だ。
「また妙なことをしているな」
いつの間にか、当主が戸口にもたれていた。
「春ですので」
私は手を止めずに答える。
「だから?」
「味を、変えます」
彼は何も言わない。
ただ、こちらを見ている。
――本当に、よく来る。
暇なのか、それとも。
そこまで考えて、やめた。
考える必要はない。
やるべきことは一つだ。
料理を、作る。
やがて、一膳が整う。
白い器の中に、淡い緑。
湯気の向こうに、ほのかな色が揺れる。
「できました」
卓に置く。
当主は無言でそれを見下ろした。
「色が薄いな」
「春ですから」
「関係あるのか」
「あります」
私は静かに答える。
「春は、強くありません」
彼はわずかに目を細める。
「だが、確かに変わる」
箸を取る。
「……毒見は」
「必要でしたら」
「いらん」
また、即答だった。
私は何も言わず、一口だけ口にする。
問題はない。
「どうぞ」
彼はゆっくりと、口に運ぶ。
一口。
その瞬間。
――また、止まる。
だが、昨日とも違う。
今度は、わずかに視線が揺れた。
「……なんだ、これは」
低く呟く。
「苦いな」
「はい」
「だが」
言葉が続かない。
もう一口、食べる。
ゆっくりと、確かめるように。
「……消えない」
ぽつりと、言った。
「残りますから」
「違う」
首をわずかに振る。
「そういう意味ではない」
沈黙。
彼は器を見つめたまま、言う。
「冬とは違う」
それは、初めての言葉だった。
“味”ではなく、“変化”を捉えた言葉。
私はわずかに目を見開く。
「はい」
「軽い」
「はい」
「……妙だ」
そう言いながら、箸は止まらない。
最後まで、食べきる。
そして、静かに置いた。
「これが、春か」
小さく呟く。
その声音は、どこか遠くを見ているようだった。
「そうです」
私は答える。
「季節は、味になります」
彼は何も言わない。
だが、否定もしなかった。
しばらくして、立ち上がる。
そして、背を向けたまま言う。
「次は、何だ」
私は少しだけ考える。
「まだ決めておりません」
「なら、決めておけ」
短く言う。
「次も、変えるのだろう」
「はい」
「なら」
そこで一瞬、言葉が止まる。
「……分かるようにしろ」
振り返らないまま、そう言った。
私は、わずかに息を呑む。
それは。
この男が初めて、“理解しようとしている”証だった。
「承知いたしました」
静かに答える。
足音が遠ざかる。
やがて、完全な静寂が戻る。
私は一人、器を見つめた。
――春を、出した。
ほんの少しだけ。
この男の中に。
冷たさの中に、わずかな緩みがある。
冬の終わり。春の気配。
視線を落とせば、足元に小さな緑が顔を出していた。
――もう、そんな時期か。
「何をしている」
背後から声がかかる。
振り返ると、当主が立っていた。
「食材を見ておりました」
「庭をか」
「はい」
私は頷く。
「ここにも、料理になるものがありますので」
彼は眉を寄せた。
「雑草だろう」
「そうとも言います」
私はしゃがみ込み、小さな葉を指で摘む。
「ですが、これは“春”です」
それを軽く掲げて見せる。
「……意味が分からん」
「食べれば分かります」
そう言って、私は立ち上がった。
その日の台所には、いつもと違う香りが満ちていた。
ほろ苦く、青い匂い。
冬にはなかったものだ。
摘んできた若芽を下処理し、余分なえぐみを抜く。
出汁は、少しだけ軽くする。
重さは、いらない。
必要なのは、“抜ける感覚”だ。
「また妙なことをしているな」
いつの間にか、当主が戸口にもたれていた。
「春ですので」
私は手を止めずに答える。
「だから?」
「味を、変えます」
彼は何も言わない。
ただ、こちらを見ている。
――本当に、よく来る。
暇なのか、それとも。
そこまで考えて、やめた。
考える必要はない。
やるべきことは一つだ。
料理を、作る。
やがて、一膳が整う。
白い器の中に、淡い緑。
湯気の向こうに、ほのかな色が揺れる。
「できました」
卓に置く。
当主は無言でそれを見下ろした。
「色が薄いな」
「春ですから」
「関係あるのか」
「あります」
私は静かに答える。
「春は、強くありません」
彼はわずかに目を細める。
「だが、確かに変わる」
箸を取る。
「……毒見は」
「必要でしたら」
「いらん」
また、即答だった。
私は何も言わず、一口だけ口にする。
問題はない。
「どうぞ」
彼はゆっくりと、口に運ぶ。
一口。
その瞬間。
――また、止まる。
だが、昨日とも違う。
今度は、わずかに視線が揺れた。
「……なんだ、これは」
低く呟く。
「苦いな」
「はい」
「だが」
言葉が続かない。
もう一口、食べる。
ゆっくりと、確かめるように。
「……消えない」
ぽつりと、言った。
「残りますから」
「違う」
首をわずかに振る。
「そういう意味ではない」
沈黙。
彼は器を見つめたまま、言う。
「冬とは違う」
それは、初めての言葉だった。
“味”ではなく、“変化”を捉えた言葉。
私はわずかに目を見開く。
「はい」
「軽い」
「はい」
「……妙だ」
そう言いながら、箸は止まらない。
最後まで、食べきる。
そして、静かに置いた。
「これが、春か」
小さく呟く。
その声音は、どこか遠くを見ているようだった。
「そうです」
私は答える。
「季節は、味になります」
彼は何も言わない。
だが、否定もしなかった。
しばらくして、立ち上がる。
そして、背を向けたまま言う。
「次は、何だ」
私は少しだけ考える。
「まだ決めておりません」
「なら、決めておけ」
短く言う。
「次も、変えるのだろう」
「はい」
「なら」
そこで一瞬、言葉が止まる。
「……分かるようにしろ」
振り返らないまま、そう言った。
私は、わずかに息を呑む。
それは。
この男が初めて、“理解しようとしている”証だった。
「承知いたしました」
静かに答える。
足音が遠ざかる。
やがて、完全な静寂が戻る。
私は一人、器を見つめた。
――春を、出した。
ほんの少しだけ。
この男の中に。



