暴君様の台所役は、毒見役を兼ねている

 その日の昼、台所には珍しく人の気配があった。

 古くから仕えているらしい使用人たちが、少し距離を置いてこちらを見ている。
 露骨ではないが、視線に含まれるものは隠しきれていない。

 ――余所者を見る目だ。

 私は気にせず、包丁を動かす。

「ずいぶんと、勝手なことをなさる方ですね」

 背後から、声がした。

 振り返ると、年配の女が立っていた。
 きっちりとした所作。おそらく、この台所を取り仕切ってきた人物だろう。

「昨日も当主様に口答えをされたとか」

「事実を申し上げただけです」

「それを“口答え”と言うのです」

 ぴたりと返される。

 私は小さく息を吐いた。

「問題がありましたか」

「ありますとも」

 女は一歩、近づく。

「ここでは、当主様の言葉がすべてです。料理も例外ではありません」

「そうでしょうね」

 私は手を止めずに答える。

「ですが、料理には料理の理があります」

 女の眉がわずかに動いた。

「理、ですか」

「はい。食べる人間のために作る。それだけです」

「当主様のために、ではなく?」

「同じことです」

 私は包丁を置き、振り返る。

「その人が何を求めているかを考える。それが料理人の仕事です」

「では、当主様は何を求めておられると?」

 試すような問い。

 私は少しだけ考える。

「……何も」

 静かに答えた。

「何も、求めていない」

 女は黙る。

「だからこそ、難しい」

 私は続ける。

「何もいらないと言う人間に、何を出すか」

 それが、この仕事だ。

 その時。

「面白いことを言うな」

 聞き慣れた声が、空気を切った。

 振り向くと、当主が立っていた。

 いつから聞いていたのかは分からない。
 だが、少なくとも最後の言葉は届いている。

「何も求めていない、か」

 ゆっくりと近づいてくる。

「そう見えるか」

「はい」

 私は正面から答える。

「食事に限って言えば」

 彼は目を細める。

「なら、お前は何を出す」

 問いが来る。

 試すような、確かめるような視線。

 私は少しだけ迷い、そして言った。

「“必要になるもの”を」

「必要?」

「はい。今は必要なくても、いずれ必要になるものです」

「例えば?」

 短く促される。

 私はほんの少しだけ、過去を思い出す。

 湯気の立つ台所。
 賑やかな声。
 誰かの「うまい」という、当たり前の言葉。

 ――あの場所は、もうない。

「……温かさです」

 静かに答えた。

「人は、冷えたままでは生きていけませんから」

 一瞬の沈黙。

 周囲の空気が、わずかに揺れる。

 当主は、じっとこちらを見ていた。

「お前は」

 低く、言う。

「誰のために料理を作る」

 その問いは、まっすぐだった。

 逃げ場のない、問い。

 私は、ほんの一瞬だけ目を伏せる。

 そして、答える。

「食べる人のために」

「綺麗事だな」

「そうかもしれません」

 私は頷く。

「ですが、それ以外に理由はありません」

 彼は黙る。

 しばらくして、ふっと息を吐いた。

「つまらん答えだ」

 そう言いながらも、どこか納得していない様子だった。

「では、聞き方を変えよう」

 視線が、鋭くなる。

「お前は、何のために料理を作る」

 胸の奥に、わずかな痛みが走る。

 その問いは。

 昔、何度も自分に向けたものだった。

「……なくしたくないからです」

 気づけば、口にしていた。

「何をだ」

「人が、生きている実感を」

 言葉にすると、あまりにも曖昧だった。

 だが、それでも。

「料理は、すぐに消えます」

 私は静かに続ける。

「ですが、その一瞬で、人は確かに“生きている”と感じることができます」

 当主は何も言わない。

「それを、なくしたくない」

 それだけだった。

 しばらくの沈黙。

 やがて彼は、興味を失ったように視線を外した。

「……くだらんな」

 いつもの言葉。

 だが、その声音はわずかに違う。

「昼はどうする」

「すでに用意しております」

「持ってこい」

 短く命じる。

 私は頷き、料理を整える。

 今日の一椀は、少しだけ温度を上げた。

 ほんのわずかだが、昨日までとは違う。

 それを卓に置く。

 当主は無言で口に運ぶ。

 一口。

 そして。

 ほんのわずかに、動きが止まる。

「……」

 何も言わない。

 だが、分かる。

 “気づいている”。

 昨日とも、今朝とも違うことに。

「どうですか」

 私は問う。

 彼はしばらく黙ったまま、やがて低く言った。

「……余計なことをしたな」

「そうかもしれません」

「だが」

 そこで言葉が切れる。

 珍しく、続きを探すように。

「……悪くない」

 小さな一言だった。

 だが、それは確かに。

 この男の中で、何かが変わり始めている証だった。