暴君様の台所役は、毒見役を兼ねている

朝は、いつも通りに来た。

 特別なことは何もない。
 空気も、光も、変わらない。

 それでも。

 確かに、何かが違っていた。

 台所に立つ。

 見慣れた場所。

 同じ道具。
 同じ配置。

 だが。

 空気が、柔らかい。

 張り詰めていたものが、ほどけている。

 誰かが笑う。
 小さな声で。

 それだけで、分かる。

 ――終わった。

「紺野」

 呼ばれる。

「はい」

 振り返ると、当主が立っていた。

 いつもと同じ表情。

 だが。

 ほんのわずかに、力が抜けている。

「今日の飯は」

「準備しております」

「そうか」

 短いやり取り。

 それだけで、十分だった。

 調理を始める。

 火を入れる。

 音が立つ。

 香りが広がる。

 すべてが、いつも通り。

 だが。

 違う。

 確実に。

 もう、“試されていない”。

 もう、“疑われていない”。

 ただ。

 作るだけでいい。

 料理を仕上げる。

 無駄はない。

 だが、力みもない。

 自然に。

 ただ、そこにあるものを形にする。

 卓に運ぶ。

 当主が座っている。

 箸を取る。

 一口。

 静かに、飲み込む。

 そして。

「……いい」

 それだけ言う。

 短い言葉。

 だが。

 それで、十分だった。

「紺野」

「はい」

「残ったな」

 その言葉に、少しだけ考える。

 そして。

「はい」

 頷く。

 何が、とは言わない。

 だが。

 分かっている。

 食事が終わる。

 片付けに入る。

 水の音。

 皿の音。

 日常の音が、戻っている。

 ふと。

 手を止める。

 そして。

 鍋に、そっと触れる。

 まだ、温かい。

 火は消えているのに。

 熱だけが、残っている。

「……消えない」

 小さく呟く。

 あの時と同じ。

 あの店と同じ。

 形は消えても。

 温度は、残る。

 足音がする。

 振り返ると、古株の女中が立っていた。

「……紺野様」

 以前とは少し違う呼び方。

「何か」

「いえ」

 彼女は少しだけ迷い。

「ありがとうございました」

 そう言った。

 私は、一瞬だけ考え。

「こちらこそ」

 と答える。

 それ以上は、いらない。

 外を見る。

 光が差している。

 変わらない景色。

 だが。

 もう、同じではない。

 この場所は、戦場だった。

 今も、そうかもしれない。

 だが。

 それだけではない。

 人がいて。

 食べて。

 生きている。

 その一瞬が、ここにある。

 私は、火をつける。

 新しい料理を作るために。

 また、同じように。

 だが。

 少しだけ、違う形で。

「紺野」

 背後から声。

「はい」

「次も任せる」

 短く言う。

 だが。

 それで、十分だった。

「……はい」

 私は頷く。

 火が、静かに揺れる。

 消えない温度。

 残るもの。

 それを。

 私は、また作る。

 何度でも。

 この場所で。