暴君様の台所役は、毒見役を兼ねている

 音が、遠くから戻ってくる。

 最初は、ぼやけていた。
 水の音。人の気配。低い声。

 やがて、それが形を持つ。

「……まだだ」

 誰かが言っている。

「息はある」

 別の声。

 重いまぶたを、わずかに持ち上げる。

 光が、差し込む。

 滲んで見える。

「……紺野」

 近くで、低い声。

 当主だ。

 私は、ゆっくりと息を吸う。

 喉が焼けるように痛む。

 だが。

 ――生きている。

「起きるな」

 当主が言う。

「まだ無理だ」

「……いえ」

 かすれた声で答える。

「大丈夫です」

 大丈夫ではない。

 それでも。

 起きなければならない。

 理由は、ひとつ。

 ――終わっていない。

 体を起こす。

 視界が揺れる。

 だが、意識ははっきりしている。

「……どこまで分かった」

 当主が問う。

 私は、少しだけ息を整え。

「……二種類です」

 言った。

「何だと」

「今までのものと、今回のもの」

 ゆっくりと、言葉を繋ぐ。

「別です」

 沈黙。

「どう違う」

「前のものは、“触れていた”」

 微量で、持続的。

「ですが今回は」

 視線を上げる。

「“混ぜている”」

 直接的で、強い。

 そして。

「目的も違います」

「……排除か」

「はい」

 短く頷く。

「つまり」

 当主が低く言う。

「もう一人いる」

「はい」

「それも」

 私は続ける。

「より上に」

 沈黙。

 重い沈黙。

 その時だった。

 扉が、静かに開いた。

 音は、ほとんどない。

 だが。

 誰もが、気づいた。

 ――来た。

 足音は、ゆっくりとしている。

 焦りも、迷いもない。

 ただ、まっすぐに近づいてくる。

 そして。

「起きたか」

 静かな声。

 聞き覚えはない。

 だが。

 分かる。

 ――この声だ。

 男は、室内に入ってきた。

 見た目は、特別ではない。

 どこにでもいるような、使用人の一人。

 だが。

 空気が違う。

 周囲の温度が、わずかに下がる。

「お前か」

 当主が言う。

 男は軽く頭を下げた。

「申し訳ございません」

 言葉だけの謝罪。

 そこに、後悔はない。

「やりすぎだ」

 当主の声が低くなる。

「そうですね」

 あっさりと認める。

「ですが」

 男は、こちらを見る。

「必要でした」

 その目は、静かだった。

 冷たくもない。

 熱くもない。

 ただ。

 “見ている”。

「なぜだ」

 私は問う。

 声はまだ弱い。

 だが、言葉ははっきりしている。

 男は、少しだけ首を傾げた。

「分からないか」

「……確認ではない」

「その通り」

 頷く。

「選別でもない」

「その通りです」

 では。

「……何のためですか」

 私は、まっすぐに見る。

 男は、わずかに目を細めた。

 そして。

「排除です」

 迷いなく、言い切った。

「不要なものを、取り除く」

 その言葉は、静かだった。

 だが。

 決定的だった。

「誰をだ」

 当主が問う。

 男は、わずかに笑う。

「決まっているでしょう」

 そして。

「揺らぐものです」

 その一言が、落ちる。

 沈黙。

 私は、その言葉を反芻する。

 揺らぐもの。

 つまり。

「……人、ですか」

「ええ」

 頷く。

「極限で変わる者は、いずれ裏切る」

 だから。

「先に、落とす」

 冷静な理屈。

 狂ってはいない。

 だが。

 許されるものではない。

「あなたは」

 私はゆっくりと問う。

「何を守っているのですか」

 男は、一瞬だけ考え。

「均衡です」

 答えた。

 第15話で出た言葉。

 それが、ここで繋がる。

「この場所は、崩れやすい」

「……」

「だからこそ」

 男は言う。

「不安定なものは、排除する」

 私は、静かに息を吐く。

 体はまだ重い。

 だが。

 頭は、はっきりしている。

「……違います」

 私は言った。

 男の目が、わずかに動く。

「何がだ」

「それでは、残りません」

 はっきりと。

「何も」

 沈黙。

「削るだけでは」

 続ける。

「最後には、空になります」

 男は、じっとこちらを見ている。

「残すには」

 私は言う。

「守る必要があります」

「守る?」

「はい」

 頷く。

「揺らぐものも含めて」

 人は、変わる。

 だが。

 それでも。

「残せるものがある」

 私は、火の記憶を思い出す。

 あの温度。

 あの瞬間。

「それを、作るのが料理です」

 沈黙。

 長い沈黙。

 やがて。

 男は、小さく息を吐いた。

「……なるほど」

 ぽつりと呟く。

「だから、残したのか」

 誰に向けた言葉かは分からない。

 だが。

 次の言葉は、はっきりしていた。

「もう一度、見る必要がある」

 視線が、こちらに向く。

「次で、決める」

 その一言は、宣告だった。

 男は、静かに踵を返す。

 止める者はいない。

 止められない。

 そして。

 そのまま、部屋を出ていった。

 残された静寂。

「……紺野」

 当主の声。

「はい」

「立てるか」

「問題ありません」

 ゆっくりと立ち上がる。

 まだ、ふらつく。

 だが。

 倒れない。

「次で決める、と言ったな」

「はい」

「なら」

 当主は低く言う。

「終わらせろ」

 その一言に、すべてが込められている。

「……はい」

 私は頷く。

 次が、最後。

 そう分かっている。

 この食卓で。

 この場所で。

 すべてを。

 決める。