暴君様の台所役は、毒見役を兼ねている

 その違和感は、最初からあった。

 ほんのわずか。
 だが、確実に。

 ――静かすぎる。

 台所はいつも通りに動いている。
 誰も不自然な行動はしていない。

 それでも。

 何かが、違う。

「……来るな」

 小さく呟く。

 理由はない。
 だが、分かる。

 これは、今までとは違う。

「紺野」

 当主の声。

「はい」

「どうだ」

 私は一瞬だけ迷い。

「……分かりません」

 正直に答える。

「だが」

 顔を上げる。

「危険です」

 はっきりと。

 当主は、わずかに目を細めた。

「いつもと同じだろう」

「いいえ」

 首を振る。

「違います」

 言葉にしづらい。

 だが。

「“終わらせに来ています”」

 その一言で、空気が変わる。

 調理を進める。

 すべてを確認する。

 触れさせない。

 隙を作らない。

 ――それでも。

 最後の一瞬。

 ほんの、刹那。

「……!」

 私は、手を止めた。

 気づく。

 今。

 “何かが入った”。

 だが、見ていない。

 触れていないはずなのに。

 それでも。

 ――確実に、変わった。

「どうした」

 当主の声。

「……入っています」

 低く言う。

「今までで、一番強い」

 空気が凍る。

 私は椀を取る。

 毒見をするしかない。

 だが。

「やめろ」

 即座に、当主の声。

 強い。

 今までで一番。

「今回は違う」

 彼が言う。

「分かる」

「……」

「やめろ」

 もう一度。

 はっきりと。

 私は、一瞬だけ目を閉じる。

 だが。

「……確認が必要です」

 静かに言う。

「不要だ」

「必要です」

 視線を合わせる。

「ここで逃げれば、終わりません」

 沈黙。

 そして。

「……勝手にしろ」

 低く落ちる。

 私は、椀を持ち上げる。

 匂いは、ほとんどない。

 だが。

 分かる。

 これは――

 今までと違う。

 一口。

 舌に触れた瞬間。

「……っ」

 思わず、息が止まる。

 強い。

 苦みではない。

 もっと、鋭い。

 体に直接、落ちてくるような感覚。

 飲み込む。

 瞬間。

 熱が走る。

 喉から、胸へ。

 そして。

 全身へ。

「……紺野」

 遠くで、声がする。

 だが、うまく聞き取れない。

 視界が、わずかに揺れる。

「……っ、まだ」

 私は、もう一口、口にする。

 止めない。

 止められない。

 確かめる。

 どこまでか。

 何なのか。

 そのために。

 だが。

 二口目を飲み込んだ瞬間。

 足元が、崩れた。

 気づけば、床が近い。

 冷たい。

 音が遠い。

「……馬鹿が」

 当主の声。

 近い。

 だが、どこか遠い。

「紺野!」

 強く呼ばれる。

 だが。

 返せない。

 体が、動かない。

 意識が、沈む。

 その中で。

 ひとつだけ、分かる。

 ――これは、本物だ。

 今までとは違う。

 試しではない。

 選別でもない。

 “排除”。

 完全に。

 終わらせに来ている。

 遠くで、音がする。

 人が動く気配。

 声。

 怒号。

 何かが、起きている。

 だが。

 もう、分からない。

 最後に。

 ふと。

 あの店の光景が浮かぶ。

 湯気。

 声。

「うまい」

 あの言葉。

 ――消えない。

 まだ。

 消えていない。

 だから。

 終われない。

 意識が、落ちる。

 暗闇の中。

 ほんの一瞬。

 誰かの声が、聞こえた気がした。

「……やりすぎだ」

 低く。

 静かな声。

 怒りとも、呆れとも違う。

 だが。

 確かに。

 “止める意思”のある声だった。