暴君様の台所役は、毒見役を兼ねている

火を見ていると、思い出す。

 理由は分からない。
 だが、炎の揺れは、記憶を引き寄せる。

 あの場所も、こんなふうに暖かかった。

 小さな店だった。

 決して広くはない。
 だが、いつも人がいた。

 笑い声があって。
 湯気があって。

 そして。

「うまい」

 当たり前のように、誰かがそう言った。

 ――あれが、すべてだった。

「紺野」

 声に引き戻される。

「……はい」

 振り返ると、当主が立っていた。

「手が止まっている」

「申し訳ありません」

 私はすぐに動きを再開する。

 だが。

「珍しいな」

 低く言われる。

「何がでしょうか」

「お前が、迷うのは」

 その言葉に、わずかに息が詰まる。

「……迷ってはおりません」

「そうか」

 それ以上は追及しない。

 だが。

 見抜かれている。

「紺野」

「はい」

「なぜ、そこまでやる」

 不意に、問われた。

 火を見つめたまま、私は少しだけ考える。

 そして。

「なくしたくないからです」

 静かに答えた。

「何をだ」

「……あの感覚を」

 言葉にするのは難しい。

 だが、それでも。

「人が、“生きている”と感じる瞬間を」

 沈黙。

 私は、火を弱めながら続ける。

「料理は、すぐに消えます」

「……」

「残りません」

 皿も、味も、時間とともに消える。

 だが。

「その一瞬だけは」

 少しだけ、声が低くなる。

「確かに、そこにある」

 生きているという実感。

 それを、私は知っている。

「昔、店をやっていました」

 ぽつりと、口にする。

 自分から話すつもりはなかった。

 だが。

 今なら、いいと思った。

「……ほう」

 当主が短く反応する。

「小さな店です」

 包丁を動かしながら、続ける。

「特別な料理は出していませんでした」

「なら、なぜ潰れた」

 遠慮のない問い。

 私は、一瞬だけ手を止め。

「火事です」

 短く答えた。

 それ以上は、言わない。

 だが。

 それで十分だった。

 沈黙が落ちる。

「全部、なくなりました」

 私は静かに言う。

「場所も、道具も」

 そして。

「人も」

 ほんのわずかに、手元が揺れる。

 だが、すぐに戻す。

「……」

 当主は何も言わない。

 ただ、聞いている。

「だから」

 私は息を整え、続ける。

「せめて、残したいと思いました」

「何をだ」

「感覚です」

 はっきりと答える。

「あの一瞬を」

 あの、温かさを。

 あの、“うまい”という言葉を。

 ――消したくなかった。

 しばらくの沈黙。

 やがて。

「……くだらんな」

 当主が言った。

 いつもの言葉。

 だが。

 その声音は、少しだけ柔らかい。

「そうかもしれません」

 私は小さく頷く。

「だが」

 彼は続ける。

「嫌いではない」

 一瞬、手が止まる。

 だが、何も言わない。

 言う必要はない。

「紺野」

「はい」

「今回の相手は」

 低く言う。

「これまでとは違う」

「はい」

「分かっているな」

「はい」

 もう、迷いはない。

「なら」

 彼は短く言う。

「守れ」

 その一言は、命令ではなかった。

 託すような響きだった。

「……はい」

 私は静かに答える。

 火を止める。

 鍋の中の湯気が、ゆっくりと消えていく。

 だが。

 温度は、まだ残っている。

 触れれば分かる程度に。

 ――消えない。

 完全には。

 だから。

 私は、また作る。

 何度でも。

 この場所で。

 この食卓で。

 “消えない温度”を。