暴君様の台所役は、毒見役を兼ねている

その日の台所は、異様な静けさに包まれていた。

 誰もが口数を減らし、必要最低限の動きしかしない。
 音が、やけに大きく響く。

 ――分かっている。

 何かが、起きると。

 そして。

 誰かが、“見られている”と。

「紺野」

 当主の声。

「はい」

「今日はどう動く」

 短い問い。

 だが、その意味は明確だ。

 ――終わらせろ。

「仕掛けます」

 私は答える。

「どうやってだ」

「同じ状況を、作ります」

 彼はわずかに目を細める。

「同じ?」

「はい」

 私は頷く。

「触れられる隙を、あえて作る」

 沈黙。

 やがて。

「……いいだろう」

 短く許可が出る。

 私は調理を始める。

 いつも通りの手順。
 いつも通りの味。

 だが。

 途中で、手を止めた。

「少し席を外します」

 わざと、はっきりと告げる。

 誰にでも聞こえるように。

 そして、そのまま台所を出る。

 だが。

 完全には離れない。

 戸の影に立ち、気配を消す。

 ――来る。

 来るはずだ。

 数秒。

 あるいは、十数秒。

 時間が、やけに長く感じる。

 そして。

 かすかな、衣擦れの音。

 誰かが、動いた。

 私は、静かに息を止める。

 ――今だ。

 戸を開ける。

 音もなく、一歩踏み込む。

 そこにいたのは。

「……あなたですか」

 古株の女中だった。

 彼女の手が、鍋の縁に触れている。

 ほんのわずかに。

 だが、確実に。

 彼女は、ゆっくりと手を引いた。

 逃げない。

 隠さない。

 ただ、こちらを見る。

「見ていたのですね」

 落ち着いた声だった。

 驚きは、ない。

「はい」

 私は答える。

「やはり、あなたでしたか」

 沈黙。

 背後で、足音がする。

 当主だ。

「そいつか」

 低く問う。

「はい」

 私は頷く。

「間違いありません」

 女中は、軽く頭を下げた。

「申し訳ございません」

 形式的な謝罪。

 だが。

 そこに恐れはない。

「理由は」

 当主が問う。

 短く、鋭く。

 女中は、少しだけ目を伏せた。

「確認しておりました」

「何をだ」

「この方が、本当に“気づく”のかどうか」

 静かな声。

 だが、その内容は異様だった。

「なぜだ」

「必要だからです」

「誰にとってだ」

 沈黙。

 ほんの一瞬。

 そして。

「……この家にとってです」

 女中は答えた。

 その言葉に、わずかに違和感が走る。

「どういう意味だ」

 私が問う。

 女中は、ゆっくりと顔を上げた。

「この屋敷では、これまでも何度も“料理”が狙われてきました」

「……」

「毒を盛る者。味を変える者。様々です」

 私は黙って聞く。

「そのたびに、料理人は入れ替わりました」

 静かな事実。

 だが、重い。

「気づけない者は、不要です」

 はっきりと言う。

「そして」

 わずかに、視線がこちらに向く。

「気づける者が、どこまでやれるのか」

 試していた。

 ただ、それだけのように。

「……あなたがやったのは」

 私はゆっくりと問う。

「毒を入れるためではないのですね」

「はい」

 女中は頷く。

「私は、量を調整しております」

「調整?」

「致死量には至らないように」

 その言葉に、背筋が冷える。

 ――最初から。

 “管理されていた”。

「なぜ、そこまでする」

 当主の声が、低くなる。

 怒りではない。

 だが、冷たい圧がある。

「必要だからです」

 女中は繰り返す。

「この家では、“気づける者”だけが残るべきです」

 静かな狂気だった。

 理屈は通っている。

 だが。

 どこかが、歪んでいる。

「……あなたは」

 私は言う。

「誰のために、それをしているのですか」

 女中は、少しだけ目を細めた。

「決まっております」

 迷いなく答える。

「当主様のためです」

 沈黙。

 その言葉は、まっすぐだった。

 だが。

 どこか、ズレている。

 私はゆっくりと息を吐く。

 ――なるほど。

 これは。

 単純な悪意ではない。

 むしろ。

 歪んだ“忠義”だ。

 台所の空気が、重く沈む。

 誰も、すぐには言葉を発せない。

 その中で。

 私は静かに考えていた。

 この人は、敵ではない。

 だが。

 このままでは、終わらない。

 ――どうする。

 次の一手が、問われている。