その一椀に、毒が入っている可能性はあった。
静まり返った座敷の中央、黒塗りの卓に置かれた白磁の器から、かすかに湯気が立ちのぼっている。
澄んだ出汁の中に、薄く引かれた鯛の身。添えられた木の芽が、わずかに揺れた。
――美しい。
思わずそう感じてしまうほど、整った料理だった。
だが。
「どうした」
低く落ちてくる声に、思考が断ち切られる。
顔を上げると、男がこちらを見ていた。
この屋敷の主。若き当主。
そして――“鬼”。
そう呼ばれている男だった。
「食え」
短い命令。
そこに、迷いも感情もない。
私は小さく息を吐き、箸に手をかける。
「……申し上げます、当主様」
「許可していない」
間髪入れずに遮られた。
言葉を重ねる隙すら与えない声音。
だが、ここで引くわけにはいかなかった。
「本来、この料理はあなたが最初に口にするものです」
「――だから?」
「毒見は、その後です。順序が逆です」
空気が、凍りつく。
周囲に控えていた使用人たちが、一斉に息を呑んだのがわかった。
この屋敷で、当主に口答えをする者などいない。
――普通なら。
男はしばらく黙っていたが、やがてわずかに口元を歪めた。
「面白い」
その一言に、背筋が粟立つ。
「逆らうのか」
「逆らってはおりません。ただ、料理の作法を申し上げただけです」
「作法?」
鼻で笑う。
「ここでは、俺が作法だ」
それで終わりだった。
理屈も、常識も、通じない。
この男の前では、すべてが無意味になる。
「もう一度言う。食え」
逃げ場はない。
私は椀を持ち上げ、ゆっくりと香りを吸い込む。
昆布のやわらかな旨味。
鰹の、芯のある香り。
雑味はない。澄みきっている。
――もし毒があるとすれば、後からくる。
私は鯛を一切れすくい、口に運んだ。
舌の上で、ほろりとほどける。
出汁が、静かに広がる。
――旨い。
一瞬だけ、そんな感想が浮かんだ。
だがすぐに意識を研ぎ澄ます。
舌の痺れ。喉の違和感。呼吸の乱れ。
何も、ない。
数拍の沈黙のあと、私は箸を置いた。
「……毒は入っておりません」
「遅いな」
男は即座に言った。
「毒なら、お前はもう死んでいる」
淡々とした声音だった。
まるで、どうでもいい事実を述べるように。
「そうですね」
私は静かに答える。
「その場合、新しい料理人を探す手間が増えるだけでしょう」
ぴたり、と空気が止まる。
――今度こそ、終わったかもしれない。
そう思った瞬間。
「はは」
男は、低く笑った。
初めてだった。
この男が笑うのを見るのは。
「いいな」
楽しげに言う。
「気に入った」
ぞくり、と背中が冷える。
褒められているはずなのに、安心できない。
「名は?」
「……紺野と申します」
「紺野」
男はその名をゆっくりと繰り返した。
「今日から、お前が俺の料理を作れ」
一瞬、意味が理解できなかった。
「……私は、毒見役として雇われたはずですが」
「そうだな」
あっさりと頷く。
「だから、両方やれ」
「両方……?」
「自分で作ったものを、自分で食え」
当然のように言う。
「その方が合理的だ」
――この男は、本気だ。
狂っている。
だが、それを口にした瞬間に終わるのはこちらだ。
「……承知いたしました」
私は頭を下げるしかなかった。
「それでいい」
満足げに頷き、男はようやく椀に手を伸ばす。
私が口にしたのと同じ料理を、一口。
そして、動きが止まる。
わずかに、眉が寄った。
「……なんだ、これは」
低く呟く。
その声音は、先ほどまでとは違っていた。
「お気に召しませんでしたか」
「違う」
男は、もう一口、すする。
そして、静かに言った。
「――なぜ、こんな味にした」
私は一瞬だけ迷い、それでも答える。
「最初に口にする料理ですので」
「だから?」
「“死なない味”にしました」
沈黙。
やがて、男は小さく笑った。
「面白いな、紺野」
まっすぐにこちらを見る。
「しばらく、お前の料理を見てやる」
逃げ場は、もうない。
この屋敷で。
この男のために。
料理を作り、そして自分で食べる。
命を懸けて。
私は静かに息を吐いた。
――最悪だ。
だが同時に、どこかで思っている。
この男に、料理を食べさせることは――
きっと、ただの仕事では終わらない。
この一口が、いつか。
あの男の何かを、変えるかもしれない。
静まり返った座敷の中央、黒塗りの卓に置かれた白磁の器から、かすかに湯気が立ちのぼっている。
澄んだ出汁の中に、薄く引かれた鯛の身。添えられた木の芽が、わずかに揺れた。
――美しい。
思わずそう感じてしまうほど、整った料理だった。
だが。
「どうした」
低く落ちてくる声に、思考が断ち切られる。
顔を上げると、男がこちらを見ていた。
この屋敷の主。若き当主。
そして――“鬼”。
そう呼ばれている男だった。
「食え」
短い命令。
そこに、迷いも感情もない。
私は小さく息を吐き、箸に手をかける。
「……申し上げます、当主様」
「許可していない」
間髪入れずに遮られた。
言葉を重ねる隙すら与えない声音。
だが、ここで引くわけにはいかなかった。
「本来、この料理はあなたが最初に口にするものです」
「――だから?」
「毒見は、その後です。順序が逆です」
空気が、凍りつく。
周囲に控えていた使用人たちが、一斉に息を呑んだのがわかった。
この屋敷で、当主に口答えをする者などいない。
――普通なら。
男はしばらく黙っていたが、やがてわずかに口元を歪めた。
「面白い」
その一言に、背筋が粟立つ。
「逆らうのか」
「逆らってはおりません。ただ、料理の作法を申し上げただけです」
「作法?」
鼻で笑う。
「ここでは、俺が作法だ」
それで終わりだった。
理屈も、常識も、通じない。
この男の前では、すべてが無意味になる。
「もう一度言う。食え」
逃げ場はない。
私は椀を持ち上げ、ゆっくりと香りを吸い込む。
昆布のやわらかな旨味。
鰹の、芯のある香り。
雑味はない。澄みきっている。
――もし毒があるとすれば、後からくる。
私は鯛を一切れすくい、口に運んだ。
舌の上で、ほろりとほどける。
出汁が、静かに広がる。
――旨い。
一瞬だけ、そんな感想が浮かんだ。
だがすぐに意識を研ぎ澄ます。
舌の痺れ。喉の違和感。呼吸の乱れ。
何も、ない。
数拍の沈黙のあと、私は箸を置いた。
「……毒は入っておりません」
「遅いな」
男は即座に言った。
「毒なら、お前はもう死んでいる」
淡々とした声音だった。
まるで、どうでもいい事実を述べるように。
「そうですね」
私は静かに答える。
「その場合、新しい料理人を探す手間が増えるだけでしょう」
ぴたり、と空気が止まる。
――今度こそ、終わったかもしれない。
そう思った瞬間。
「はは」
男は、低く笑った。
初めてだった。
この男が笑うのを見るのは。
「いいな」
楽しげに言う。
「気に入った」
ぞくり、と背中が冷える。
褒められているはずなのに、安心できない。
「名は?」
「……紺野と申します」
「紺野」
男はその名をゆっくりと繰り返した。
「今日から、お前が俺の料理を作れ」
一瞬、意味が理解できなかった。
「……私は、毒見役として雇われたはずですが」
「そうだな」
あっさりと頷く。
「だから、両方やれ」
「両方……?」
「自分で作ったものを、自分で食え」
当然のように言う。
「その方が合理的だ」
――この男は、本気だ。
狂っている。
だが、それを口にした瞬間に終わるのはこちらだ。
「……承知いたしました」
私は頭を下げるしかなかった。
「それでいい」
満足げに頷き、男はようやく椀に手を伸ばす。
私が口にしたのと同じ料理を、一口。
そして、動きが止まる。
わずかに、眉が寄った。
「……なんだ、これは」
低く呟く。
その声音は、先ほどまでとは違っていた。
「お気に召しませんでしたか」
「違う」
男は、もう一口、すする。
そして、静かに言った。
「――なぜ、こんな味にした」
私は一瞬だけ迷い、それでも答える。
「最初に口にする料理ですので」
「だから?」
「“死なない味”にしました」
沈黙。
やがて、男は小さく笑った。
「面白いな、紺野」
まっすぐにこちらを見る。
「しばらく、お前の料理を見てやる」
逃げ場は、もうない。
この屋敷で。
この男のために。
料理を作り、そして自分で食べる。
命を懸けて。
私は静かに息を吐いた。
――最悪だ。
だが同時に、どこかで思っている。
この男に、料理を食べさせることは――
きっと、ただの仕事では終わらない。
この一口が、いつか。
あの男の何かを、変えるかもしれない。



