なんとか学校の最寄り駅に到着したのだけど、二人とも頭から靴までずぶ濡れだった。
「プールにでも入ったのかってくらいひでえ」
西園はよほど面白かったらしくずっとケラケラと笑っている。僕も楽しんでいたから西園のことは言えないけど、状態としては電車に乗るのがはばかられるくらいにひどい。というか打ち合わせでこんな格好はさすがにまずいんじゃないだろうか。
「……いったん自宅に帰ってからのほうがよさそうですね」
「真穂路の家ってどこ?」
「九美の先ですが、時間的には大丈夫なんですよね?」
「まあね。でも結局電車に乗るわけじゃん? だったら俺ん家行こ」
「えっ?」
「一昨日ぶりだから遠慮することもないだろ?」
西園は判断に迷う俺の手をとって駅から出ると、学校とは反対の方向へ進みだした。ざーっと滝のような雨がまたも身体中に振り注いでくる。
「あの……」
「着替え貸すからさ」
家に行くかどうかを気にしているんじゃない。手を繋がれていることが気になっているんだって。
「すぐだから」
全身が濡れて凍えそうなのに、西園に握られている手は温かい。手の内側だけ二人の体温で水気がはけていく。そんなことばかりを考えていた僕とは裏腹に、西園はまったく気にしていない様子で水を跳ねさせ、あっという間に見覚えのある建物にたどり着いてしまった。
「がちでひどいな。絞れそう」
到着したがいなや西園ははしゃぎながら言い、マンションのエントランスで上着の水を払い始めた。
「あ……僕もやります」
綺麗な家にあがるのに、できるだけ汚さないほうがいい。西園に倣って僕も上着を脱いだ。左手の内側だけ濡れていなかったのに、と少しの名残惜しさを感じたけど、そんなことを考えているなんて知られたら、西園とは顔を合わせられない。
「教科書とかやばそう。タブレットも水没なんてしてないよな?」
「あの、西園会長」
意識していることを悟られたくない。だから、気になっていたことを気にしていない素振りで、敢えて聞いてやろうと思った。
「ん?」
「エンオタってこと、会長ご自身が話されたんですか?」
「……これで変に勘繰られなくて済んだだろ?」
西園は不敵ともいえる笑みをして答えた。本気なのかふざけているのか、これだけじゃわからない。
「僕のためだったんですか?」
「真穂路が喜ぶならなんでもするよ」
力が抜けた。いつものくだらない台詞だ。ということは冗談だったようだ。
「……エンオタってことは隠していたかったんじゃないんですか?」
「正直言うと、そうでもない。真穂路のためって聞いて、かっこいいとか思った?」
「……いいえ」
「素直じゃないな。だからいいんだけど……ま、見栄張ったところで嘘ってバレたら逆にかっこ悪いからな」
「つまり、隠していたわけじゃなかったってことですか?」
「仲間には話していたけど、なるべくバレないようにしていたのは本当。隠すよう強制していたのは姉貴だったから」
西園が言い終えたころでエレベーターが到着してしまい、なぜと聞き返すタイミングを失してしまった。
本気か嘘かわからないのはいつものことだけど、あっさり嘘だと明言するのは珍しい。いつもなら、そのまま僕のためだって言い張って恩を着せそうなものなのに、逆に感心してしまったじゃないか。
西園のお姉さんは僕らと同じくエンオタであると聞いていた。幼い頃から姉弟でお年玉やお小遣いをエン旋に注ぎ込んできたと話していたから、西園と同じ程度のオタクであることは間違いない。
何歳離れているのかはわからないけど、年頃の女性がオタ活していることを知られたくないのだろうか。だとしても同じ学校というわけじゃないのだし、弟に口止めするほどの理由とは思えない。
聞きたくてたまらないが、西園の自宅へと着いてしまっては話を聞ける状況じゃない。お邪魔しますと上がらせてもらって、そのまま脱衣場を兼ねた洗面所へと案内された。
フローリングにもぽたぽたと水が滴っている。タオルを受け取っていたので、申し訳なさに身を縮こませながら頭を拭いていると、すぐに西園が戻ってきた。
「これ、着替え。俺は部屋で着替えるから、終わったらリビングに出てきて」
「……ありがとうございます」
「似合うと思うよ」
似合う?
慎重も十センチ以上違うし、西園の服ならだぶだぶなはずだ。とても似合うとは思えないけど……と首を傾げながら受け取った服を広げると、頭が真っ白になった。
「あの野郎……あっ」
思わぬことに驚いた僕は、着替えを床に落としてしまった。濡れてしまうと焦って拾ったものの、怒りに震える手元ではまた取り落としてしまいそうだ。
まさかこのために無理やり雨の中を連れ出したのか?
自ら噂の種を撒いて僕を庇ってくれたのも、マホロじゃないと言って好意を見せてくれたのも、すべてこの目的のため、僕が気を許すよう誘導しただけだったのか?
そう疑わしく思うくらいの衝撃だった。
「真穂路?」
にやけ面が浮かんできそうな声が聞こえて、毛が逆立つような怒りを覚えた。
「……他のを貸してください」
「なんで? それ真穂路のサイズだから俺のを貸すより着心地がいいと思うよ」
「サイズの問題じゃありません。お貸しいただけないのなら、帰ります」
もう我慢がならない。びちょびちょの服のまま僕は脱衣場のドアを開けた。
「……」
声を失ったのはいつぶりだろう。僕は絶句して、目の前の男を見ながら呆然となった。
「かっこいいって思った?」
表情はいつもどおりの腹立たしいと思えるにやけた笑みだ。だけど怒ることなんてできなかった。
「……ユージーン」
西園だけど、西園じゃない。全身にぴったりと合った詰め襟の白スーツ。襟は帝国のカラーである緑色で縁取られ、胸には勲章もしっかり飾られている。アニメで見たままの推しキャラが、僕の前に立っていた。
「うん。だから、真穂路も着替えて? マホロに」
言われて手に持っていた着替えを見た。ユージーンとは違う漆黒のスーツで、肩に特別部隊の副官である印として金色の飾緒がある。マホロ・アルジュールの軍服だった。
「こんなの……ふざけるにも程が……」
服を叩きつけてやろうとして、でも身体はぴくりとも動かなかった。僕の目は西園に釘付けで、息をするのも忘れるくらい身体の自由を奪われている。
「帰るときには別のを貸すからさ、せめて写真を撮らせて?」
言いながら西園が頭に被ったのは、宇宙軍のベレー帽だ。マークの刺繍までアニメと同じ。さらに帯剣すれば完璧なエンゲルベルト・ユージーンとなる。
「む……無理です」
やばい。めちゃくちゃかっこいい。写真撮りたい。色んな角度から撮りたい。なんて精巧なんだ? コスプレなる文化は当然知っている。推しレイヤーもいてSNSで応援もしているくらいなのだ。だから──
「待ってください。西園会長って……」
ふと思い出すことがあって訊ねようとしたとき、脱衣場の近くにあった玄関がいきなり開いた。
「あれ? 真穂路くん?」
女性が二人ドアから入ってきて、僕らを見て驚いた顔をした。
「うわ、タイミング最悪」
西園は頭を抱えたが、僕は驚きに目を見開いた。
「セレーナと、ミゲル……」
僕を知っているらしい女性は、日本人離れした金色の髪を結い上げ、将校にしか許されない薄紫色の軍服を着ていた。
「初めまして。てか真穂路くん、ずぶ濡れじゃん? 早く着替えたほうがいいよ」
あの軍服を身に纏えるキャラはセレーナ・ユージーンしかいない。彼女はその名もずばりエンゲルベルトの姉であり、どことなく弟──西園に似ている。
「コスしてないのにマホロに見える」
横にいたのはミゲル・カリファに間違いない。水色の髪のおかっぱは彼女しかいないからわかりやすい。ただ、マホロと同じ黒の軍服姿だ。これは後期の衣装であり、最初はユージーンと同じ白のスーツを着ている。反乱軍のスパイとしてエンゲルベルトの元に潜り込む屈指の人気キャラなのだ。
「みあおさんもそう思うでしょ? てかどこで着替えてきたんですか?」
「わたしん家。外で撮影したくて。エン旋のコスは普通に着ていてもあんまりコスっぽくないからいいんだよね」
女性二人は誰かと思いきや、西園のお姉さんと猫舌さんだったらしい。全員がエン旋のコスプレをしているとは圧巻という他ない。しかも全員美形で、アニメから飛び出てきたかのようにそっくりだ。
「……いったい、どういうことですか?」
「俺たちみんなレイヤー仲間なんだ。マホロを見つけたとき絶対にいつかはと思ってて」
「だったら先に説明してくださいよ!」
説明されても全力で拒否していただろうけど、こんな騙し討をされるよりましだ。と、僕は西園から視線を外して窓のほうに怒鳴りつけた。
「……なに? 真穂路くんに話していなかったの?」
西園のお姉さんの表情がさっと険しくなった。西園の独断だったらしい。
「説明したら、真穂路はマンションに来てもくれないよ」
「レイヤーの三箇条は忘れたの? 人に迷惑をかけないってのは、こういうことなんだよ? まさかこの大雨に乗じようとしたんじゃないでしょうね?」
「……他に着替えざるを得ない状況ってなくない? 法律は遵守したいし」
「最っっっ低! 真穂路くんは否応もないじゃん!」
詰め寄っていくお姉さんはめちゃくちゃ怒っていて、僕が言うまでもなく不満をすべてぶつけてくれている。
「あの……僕は帰ります」
「は? なんで?」
西園は信じられないという顔をした。帰るのは当たり前だろ。信じられないのはこっちだと怒鳴りつけようとしたのだけど、目を合わせてしまったせいで話せなくなってしまった。
「帰るなよ」
ユージーンから帰るなよと言われている。くそ。帰りたくない。がちでかっこいい。
「無理に引き留めるのはやめな。真穂路くん、わたしの服を貸してあげるからちゃっと待ってて」
アニメと同様優しげにセレーナ……もとい西園のお姉さんは言うと、急いだ様子でリビングから出ていった。
「ここまで来たんだから、少しだけでも着てくれたらいいのに」
「弓弦がちでクソすぎ。レイヤーはただでさえ世間から厳しい目で見られてるんだから、無理強いなんて絶対にしちゃだめ」
ミゲル……もとい猫舌さんをまじまじと見て、僕はさっき思いついた考えをいっそう強くした。
「すみません、猫舌さんですよね?」
「うん。挨拶はまだだったね。新歓よろしく」
「あ、こちらこそ。ありがとうございます。あの、猫舌さんって、もしかしてキャタン……さんですか?」
「そうだよ」
あっさりと肯定されて、僕はその場にしゃがみ込みそうになった。
「じゃあたまに参加していたユージーンは……」
「俺だよ。さすが真穂路、みあおさんのこと知らなくてもキャタンのほうは知ってたんだ?」
「猫舌さんのことも知ってましたよ……でも同一人物とまでは知りませんでした」
まさかのことだった。キャタンはエンコス界隈では知る人ぞ知るレイヤーで、僕は初期の頃に見つけて以来チェックし続けていた。頻繁ではないもののクオリティの高いユージーンが参加することもあって、ユージーン専門のレイヤーより贔屓にしていたのだが、そのユージーンが西園だったなんて青天の霹靂だ。
写真だけじゃわからなかった。化粧をしていたからか、昨日までは西園とユージーンが結びつかなかったからか。
でもよく見ると確かに西園で、なぜ気づかなかったのだろうと、頭を抱えたくなった。
「どうしたの? もしかしてユージーン推しってのがちなわけ?」
にやついたあんな笑みをユージーンはしない。だけど、そんな見たことのない表情がむしろレアとか思ってしまう自分が嫌だ。
「だったら、なんなんですか?」
うう。ユージーンが僕をまっすぐに見てじりじりと近づいてくる。
「だったら、恋人がいないのは寂しいと思わない?」
壁のほうへ追い詰められて、ユージーン以外に目を向けられなくなってしまう。
「お、思いません」
「本当に?」
息がかかるのではというところでささやかれた。無理だ。本当にかっこいい。目を皿のようにして写真を拡大し、舐めるように見ていたユージーンが目の前にいるのだ。心臓が止まってしまいそう。
「……思いません」
「着てくれたら、好きなだけ俺の写真撮ってもいいって、言ったら?」
なんて最低なやつなんだろう。
エンオタであることを隠していたのはお姉さんのせいだと言っていた。おそらくレイヤーであることを内緒にしたかったからに違いない。
僕に対して他とは違う態度を取っていたことも然りだ。最初は嫌味かいじめの類いだと思っていた。けれどエンオタ仲間だと知り、見たことのない西園の表情なんかを見て、今までのすべては僕に好意があるからかも、なんて考え始めていた。
なのに、そういったすべてはこの目的のための演出でしかなかった。西園が好きなのは僕じゃない。僕のことはマホロとしてしか見ていなかったのだ。
信じかけていた僕がバカだった。だから屈服するわけにはいかない。
いくら推しキャラに似ていようと、長年ファンだったレイヤーであることが判明しようと、西園は最低のクソ野郎なのだ。そんなやつの思いどおりにさせてたまるか!
「プールにでも入ったのかってくらいひでえ」
西園はよほど面白かったらしくずっとケラケラと笑っている。僕も楽しんでいたから西園のことは言えないけど、状態としては電車に乗るのがはばかられるくらいにひどい。というか打ち合わせでこんな格好はさすがにまずいんじゃないだろうか。
「……いったん自宅に帰ってからのほうがよさそうですね」
「真穂路の家ってどこ?」
「九美の先ですが、時間的には大丈夫なんですよね?」
「まあね。でも結局電車に乗るわけじゃん? だったら俺ん家行こ」
「えっ?」
「一昨日ぶりだから遠慮することもないだろ?」
西園は判断に迷う俺の手をとって駅から出ると、学校とは反対の方向へ進みだした。ざーっと滝のような雨がまたも身体中に振り注いでくる。
「あの……」
「着替え貸すからさ」
家に行くかどうかを気にしているんじゃない。手を繋がれていることが気になっているんだって。
「すぐだから」
全身が濡れて凍えそうなのに、西園に握られている手は温かい。手の内側だけ二人の体温で水気がはけていく。そんなことばかりを考えていた僕とは裏腹に、西園はまったく気にしていない様子で水を跳ねさせ、あっという間に見覚えのある建物にたどり着いてしまった。
「がちでひどいな。絞れそう」
到着したがいなや西園ははしゃぎながら言い、マンションのエントランスで上着の水を払い始めた。
「あ……僕もやります」
綺麗な家にあがるのに、できるだけ汚さないほうがいい。西園に倣って僕も上着を脱いだ。左手の内側だけ濡れていなかったのに、と少しの名残惜しさを感じたけど、そんなことを考えているなんて知られたら、西園とは顔を合わせられない。
「教科書とかやばそう。タブレットも水没なんてしてないよな?」
「あの、西園会長」
意識していることを悟られたくない。だから、気になっていたことを気にしていない素振りで、敢えて聞いてやろうと思った。
「ん?」
「エンオタってこと、会長ご自身が話されたんですか?」
「……これで変に勘繰られなくて済んだだろ?」
西園は不敵ともいえる笑みをして答えた。本気なのかふざけているのか、これだけじゃわからない。
「僕のためだったんですか?」
「真穂路が喜ぶならなんでもするよ」
力が抜けた。いつものくだらない台詞だ。ということは冗談だったようだ。
「……エンオタってことは隠していたかったんじゃないんですか?」
「正直言うと、そうでもない。真穂路のためって聞いて、かっこいいとか思った?」
「……いいえ」
「素直じゃないな。だからいいんだけど……ま、見栄張ったところで嘘ってバレたら逆にかっこ悪いからな」
「つまり、隠していたわけじゃなかったってことですか?」
「仲間には話していたけど、なるべくバレないようにしていたのは本当。隠すよう強制していたのは姉貴だったから」
西園が言い終えたころでエレベーターが到着してしまい、なぜと聞き返すタイミングを失してしまった。
本気か嘘かわからないのはいつものことだけど、あっさり嘘だと明言するのは珍しい。いつもなら、そのまま僕のためだって言い張って恩を着せそうなものなのに、逆に感心してしまったじゃないか。
西園のお姉さんは僕らと同じくエンオタであると聞いていた。幼い頃から姉弟でお年玉やお小遣いをエン旋に注ぎ込んできたと話していたから、西園と同じ程度のオタクであることは間違いない。
何歳離れているのかはわからないけど、年頃の女性がオタ活していることを知られたくないのだろうか。だとしても同じ学校というわけじゃないのだし、弟に口止めするほどの理由とは思えない。
聞きたくてたまらないが、西園の自宅へと着いてしまっては話を聞ける状況じゃない。お邪魔しますと上がらせてもらって、そのまま脱衣場を兼ねた洗面所へと案内された。
フローリングにもぽたぽたと水が滴っている。タオルを受け取っていたので、申し訳なさに身を縮こませながら頭を拭いていると、すぐに西園が戻ってきた。
「これ、着替え。俺は部屋で着替えるから、終わったらリビングに出てきて」
「……ありがとうございます」
「似合うと思うよ」
似合う?
慎重も十センチ以上違うし、西園の服ならだぶだぶなはずだ。とても似合うとは思えないけど……と首を傾げながら受け取った服を広げると、頭が真っ白になった。
「あの野郎……あっ」
思わぬことに驚いた僕は、着替えを床に落としてしまった。濡れてしまうと焦って拾ったものの、怒りに震える手元ではまた取り落としてしまいそうだ。
まさかこのために無理やり雨の中を連れ出したのか?
自ら噂の種を撒いて僕を庇ってくれたのも、マホロじゃないと言って好意を見せてくれたのも、すべてこの目的のため、僕が気を許すよう誘導しただけだったのか?
そう疑わしく思うくらいの衝撃だった。
「真穂路?」
にやけ面が浮かんできそうな声が聞こえて、毛が逆立つような怒りを覚えた。
「……他のを貸してください」
「なんで? それ真穂路のサイズだから俺のを貸すより着心地がいいと思うよ」
「サイズの問題じゃありません。お貸しいただけないのなら、帰ります」
もう我慢がならない。びちょびちょの服のまま僕は脱衣場のドアを開けた。
「……」
声を失ったのはいつぶりだろう。僕は絶句して、目の前の男を見ながら呆然となった。
「かっこいいって思った?」
表情はいつもどおりの腹立たしいと思えるにやけた笑みだ。だけど怒ることなんてできなかった。
「……ユージーン」
西園だけど、西園じゃない。全身にぴったりと合った詰め襟の白スーツ。襟は帝国のカラーである緑色で縁取られ、胸には勲章もしっかり飾られている。アニメで見たままの推しキャラが、僕の前に立っていた。
「うん。だから、真穂路も着替えて? マホロに」
言われて手に持っていた着替えを見た。ユージーンとは違う漆黒のスーツで、肩に特別部隊の副官である印として金色の飾緒がある。マホロ・アルジュールの軍服だった。
「こんなの……ふざけるにも程が……」
服を叩きつけてやろうとして、でも身体はぴくりとも動かなかった。僕の目は西園に釘付けで、息をするのも忘れるくらい身体の自由を奪われている。
「帰るときには別のを貸すからさ、せめて写真を撮らせて?」
言いながら西園が頭に被ったのは、宇宙軍のベレー帽だ。マークの刺繍までアニメと同じ。さらに帯剣すれば完璧なエンゲルベルト・ユージーンとなる。
「む……無理です」
やばい。めちゃくちゃかっこいい。写真撮りたい。色んな角度から撮りたい。なんて精巧なんだ? コスプレなる文化は当然知っている。推しレイヤーもいてSNSで応援もしているくらいなのだ。だから──
「待ってください。西園会長って……」
ふと思い出すことがあって訊ねようとしたとき、脱衣場の近くにあった玄関がいきなり開いた。
「あれ? 真穂路くん?」
女性が二人ドアから入ってきて、僕らを見て驚いた顔をした。
「うわ、タイミング最悪」
西園は頭を抱えたが、僕は驚きに目を見開いた。
「セレーナと、ミゲル……」
僕を知っているらしい女性は、日本人離れした金色の髪を結い上げ、将校にしか許されない薄紫色の軍服を着ていた。
「初めまして。てか真穂路くん、ずぶ濡れじゃん? 早く着替えたほうがいいよ」
あの軍服を身に纏えるキャラはセレーナ・ユージーンしかいない。彼女はその名もずばりエンゲルベルトの姉であり、どことなく弟──西園に似ている。
「コスしてないのにマホロに見える」
横にいたのはミゲル・カリファに間違いない。水色の髪のおかっぱは彼女しかいないからわかりやすい。ただ、マホロと同じ黒の軍服姿だ。これは後期の衣装であり、最初はユージーンと同じ白のスーツを着ている。反乱軍のスパイとしてエンゲルベルトの元に潜り込む屈指の人気キャラなのだ。
「みあおさんもそう思うでしょ? てかどこで着替えてきたんですか?」
「わたしん家。外で撮影したくて。エン旋のコスは普通に着ていてもあんまりコスっぽくないからいいんだよね」
女性二人は誰かと思いきや、西園のお姉さんと猫舌さんだったらしい。全員がエン旋のコスプレをしているとは圧巻という他ない。しかも全員美形で、アニメから飛び出てきたかのようにそっくりだ。
「……いったい、どういうことですか?」
「俺たちみんなレイヤー仲間なんだ。マホロを見つけたとき絶対にいつかはと思ってて」
「だったら先に説明してくださいよ!」
説明されても全力で拒否していただろうけど、こんな騙し討をされるよりましだ。と、僕は西園から視線を外して窓のほうに怒鳴りつけた。
「……なに? 真穂路くんに話していなかったの?」
西園のお姉さんの表情がさっと険しくなった。西園の独断だったらしい。
「説明したら、真穂路はマンションに来てもくれないよ」
「レイヤーの三箇条は忘れたの? 人に迷惑をかけないってのは、こういうことなんだよ? まさかこの大雨に乗じようとしたんじゃないでしょうね?」
「……他に着替えざるを得ない状況ってなくない? 法律は遵守したいし」
「最っっっ低! 真穂路くんは否応もないじゃん!」
詰め寄っていくお姉さんはめちゃくちゃ怒っていて、僕が言うまでもなく不満をすべてぶつけてくれている。
「あの……僕は帰ります」
「は? なんで?」
西園は信じられないという顔をした。帰るのは当たり前だろ。信じられないのはこっちだと怒鳴りつけようとしたのだけど、目を合わせてしまったせいで話せなくなってしまった。
「帰るなよ」
ユージーンから帰るなよと言われている。くそ。帰りたくない。がちでかっこいい。
「無理に引き留めるのはやめな。真穂路くん、わたしの服を貸してあげるからちゃっと待ってて」
アニメと同様優しげにセレーナ……もとい西園のお姉さんは言うと、急いだ様子でリビングから出ていった。
「ここまで来たんだから、少しだけでも着てくれたらいいのに」
「弓弦がちでクソすぎ。レイヤーはただでさえ世間から厳しい目で見られてるんだから、無理強いなんて絶対にしちゃだめ」
ミゲル……もとい猫舌さんをまじまじと見て、僕はさっき思いついた考えをいっそう強くした。
「すみません、猫舌さんですよね?」
「うん。挨拶はまだだったね。新歓よろしく」
「あ、こちらこそ。ありがとうございます。あの、猫舌さんって、もしかしてキャタン……さんですか?」
「そうだよ」
あっさりと肯定されて、僕はその場にしゃがみ込みそうになった。
「じゃあたまに参加していたユージーンは……」
「俺だよ。さすが真穂路、みあおさんのこと知らなくてもキャタンのほうは知ってたんだ?」
「猫舌さんのことも知ってましたよ……でも同一人物とまでは知りませんでした」
まさかのことだった。キャタンはエンコス界隈では知る人ぞ知るレイヤーで、僕は初期の頃に見つけて以来チェックし続けていた。頻繁ではないもののクオリティの高いユージーンが参加することもあって、ユージーン専門のレイヤーより贔屓にしていたのだが、そのユージーンが西園だったなんて青天の霹靂だ。
写真だけじゃわからなかった。化粧をしていたからか、昨日までは西園とユージーンが結びつかなかったからか。
でもよく見ると確かに西園で、なぜ気づかなかったのだろうと、頭を抱えたくなった。
「どうしたの? もしかしてユージーン推しってのがちなわけ?」
にやついたあんな笑みをユージーンはしない。だけど、そんな見たことのない表情がむしろレアとか思ってしまう自分が嫌だ。
「だったら、なんなんですか?」
うう。ユージーンが僕をまっすぐに見てじりじりと近づいてくる。
「だったら、恋人がいないのは寂しいと思わない?」
壁のほうへ追い詰められて、ユージーン以外に目を向けられなくなってしまう。
「お、思いません」
「本当に?」
息がかかるのではというところでささやかれた。無理だ。本当にかっこいい。目を皿のようにして写真を拡大し、舐めるように見ていたユージーンが目の前にいるのだ。心臓が止まってしまいそう。
「……思いません」
「着てくれたら、好きなだけ俺の写真撮ってもいいって、言ったら?」
なんて最低なやつなんだろう。
エンオタであることを隠していたのはお姉さんのせいだと言っていた。おそらくレイヤーであることを内緒にしたかったからに違いない。
僕に対して他とは違う態度を取っていたことも然りだ。最初は嫌味かいじめの類いだと思っていた。けれどエンオタ仲間だと知り、見たことのない西園の表情なんかを見て、今までのすべては僕に好意があるからかも、なんて考え始めていた。
なのに、そういったすべてはこの目的のための演出でしかなかった。西園が好きなのは僕じゃない。僕のことはマホロとしてしか見ていなかったのだ。
信じかけていた僕がバカだった。だから屈服するわけにはいかない。
いくら推しキャラに似ていようと、長年ファンだったレイヤーであることが判明しようと、西園は最低のクソ野郎なのだ。そんなやつの思いどおりにさせてたまるか!



