それは…祈りみたいな恋だった。
手を伸ばせば届きそうなのに、決して触れてはいけないと分かっていた距離。
そばにいるほど苦しくなるのに、それでも離れたくないと願ってしまうような。
どうかこの人が、生きてくれますように。
どうかこの人が、苦しまずにいられますように。
何度も、何度も。
声人出せない祈りを、胸の奥で繰り返していた。
出会いは、あまりにも静かだった。
祖母の入院、それが全ての始まりだった。
白く塗られた壁は冷たくて、蛍光灯の光はやけに無機質で、どこを歩いていても同じ景色がつづく。
消毒液の匂いが鼻に残って、息をするたびに現実をつきつけられる。
私は、この場所が嫌いだった。
病院という場所は、どこか「終わり」に近い気がしてしまうからだ。
祖母の病室に向かう途中、何度も道に迷った。
同じような廊下、同じような扉に自分がどこにいるか分からなくなる。
そんな時だった。
「もしかして…迷ってる?」
柔らかい声が聞こえた。
振り向いた先にいたのが、彼だった。
痩せているのに、不思議と弱々しさを感じない。
むしろ静かに立っているだけで安心するような、そんな空気を持っていた。
「あ…はい」
情けない声で返事が出てしまった。
「ここ、分かりにくいよね」
そう言って、彼は少しだけ笑った。
無理に笑っているわけじゃない。
自然に、そこにある笑顔だった。
「どこに行くの?」
「えっと…305号室です」
「あぁ、それならこっち」
歩き出す背中を、少しだけ距離を取って追いかける。
彼の腕に繋がっている、点滴の管が揺れる。
その光景が、胸の奥に小さな違和感を残した。
目的の部屋の前で、彼は立ち止まった。
「ここだよ」
「ありがとうございます」
そう言うと、彼は少し照れたように視線を逸らした。
「いいよ。俺、暇だったから」
その言葉が、妙に引っかかった。
“暇だから”それだけのはずなのに、なぜか胸に残った。
それから、何度も顔を合わせるようになった。
祖母の病室に向かう途中。
売店の前。
窓側のベンチ。
まるで、この広い病院の中で、彼とだけは必ず会えるように出来ているみたいだった。
「また、会ったね」
彼はいつも、そう言って笑った。
「ですね」
最初はそれだけだった会話が、少しずつ増えていく。
「今日は元気そう」
「昨日は元気じゃなかったみたいに言って~」
「顔に出てた」
そんなやり取りが、いつの間にか当たり前になっていた。
彼の名前は、佐藤悠真(さとう ゆうま)。
高校は同じで、一つ上の先輩だった。
「休学中なんだ」
軽く言ったその一言の裏に、どんな理由があるのか…聞けなかった。
聞いてはいけない気がした。
祖母の病室で過ごす時間よりも、廊下で彼と話す時間の方が長くなっていった。
それに気づいた時、少しだけ罪悪感を覚えた。
でもそれ以上に、彼と話す時間が、どうしようもなく大切になっていった。
「なんで、そんなに人に優しいの」
ある日、ふと聞いた。
彼は少し考えるようにしてから笑った。
「別に、優しくしてるつもりないよ」
「でも、優しい」
「そう?」
首をかしげる仕草が、子供みたいだった。
「俺さ…」
少しだけ間を置いて。
「時間、余ってるから」
ぽつりと言った。
その言葉の意味を、私は理解しないフリをした。
秋が深まるにつれて、彼の体調は少しずつ悪くなっていった。
会えない日が増えた。
会えても、どこか疲れているようで。
それでも彼は、いつも通り笑った。
「顔色悪いよ?」
「そっちも…」
「私は元気だよ?」
「嘘つけ」
そんな軽口が、逆に苦しかった。
好きになっていると気づいたのは、そこ頃だった。
会えない日が、不安になる。
声を聞くだけで、安心する。
笑ってくれるだけで、嬉しくなる。
全部、もう遅かった。
でも、言えなかった。
言った瞬間に、何かが壊れてしまう気がして。
この時間が終わってしまう気がして。
だから私は、何も言わなかった。
冬が近づいた頃。
彼の姿が、ぱたりと消えた。
一日。
二日。
三日。
嫌な予感が、胸の奥で膨らんでいく。
ナースステーションで名前を出した時、あの一瞬の沈黙。
それだけで、すべてを悟った気がした。
「別棟に移られました」
その言葉の意味を、私は知っていた。
それでも…。
「会えますか?」
そう聞かずには、いられなかった。
答えは分かっていたのに…。
「ご家族以外は…」
それ以上は、聞こえなかった。
彼の病室の前に立った。
空っぽの部屋。
ベッドも何もかも、綺麗に片付けられていた。
何も残っていない。
その現実が、どうしようもなく苦しかった。
その時、声をかけられた。
「あなた、よく来てた子でしょ?」
彼の担当の看護師さんだった。
「これ…預かってたの」
差し出されたのは、小さな封筒だった。
震える手で封筒を受け取った。
中には、一枚の手紙。
開くのが怖くて、でも、開かないともっと怖くて。
ゆっくりと、指で紙を広げた。
『来ると思ってた』
その一行で、涙が溢れた。
『ごめん、ちゃんと話せなくて』
文字が滲む。
『俺さ、もう長くないんだ』
呼吸が止まった。
『最初に会ったとき、すぐわかった。この人、優しい人だって。だから、話したくなった。本当は、もっと一緒にいたかった。でも、それはダメだって思った。好きになったら、きっと離れられなくなるから』
手が震えて、文字が揺れる。
『それでも、楽しかった。君と話す時間が、全部』
涙が止まらない。
『ありがとう』
そして…。
『好きだった』
その一言で、世界が崩れた。
どうして、今。
どうして、そんなこと言うの。
遅いよ。
言いたかったのは、こっちなのに。
『だから、お願いがある。俺のこと、忘れて』
無理だ。
『ちゃんと、誰かを好きになって』
無理だよ。
『幸せになって』
そんなの、できるわけない。
『それが、俺の願いだから』
手紙は、そこで終わっていた。
声にならない声で、何度も泣いた。
その場に崩れて。
何度も、何度も。
「…好きだった」
遅すぎる言葉を、ようやく口にした。
誰にも届かない場所で。
それから…彼に会うことは、二度となかった。
春が来て。
私は、また普通の生活に戻った。
笑って。
勉強して。
誰かと話して。
ちゃんと、生きている。
でも…ふとした瞬間に、思い出す。
病院の匂い。
静かな廊下。
そして、あの人の笑顔。
忘れろなんて、無理だよ。
でも、それでいいと思っている。
だって、この恋は叶わなかったけど。
届かなかったけど。
確かに、ここに残っているから。
胸の奥に。
静かに、あたたかく。
消えないまま。
それは、祈りみたいな恋だった。
あなたが望んだ通り。
私は、ちゃんと生きてる。
あなたのことだけは、一生忘れない。
END
